論考 『足利義満』
▲▼▲▼足利義満と金▼▲▼ NO-1
現在の高校歴史教科書で採用されている『詳説日本史』には「足利義満は尊氏の孫であって、細川、斯波、畠山氏らによって守護領国制も確立し、六十年の長きに及んだ南北朝の対立も合体させ、幕府の全国統一を成した。
従一位太政大臣となって勢威をふるい、応永十一年には勘合符をもって官船の日明貿易を始めたが、中国の伝統的外交方針である属国の朝貢という形式がとられたゆえ<日本国王臣源>と義満は臣下の礼をとり、
その代わり多くの貿易上の利益を収めた。
勘合船は中国南支沿岸の寧波で査証を受け、首都北京で交易に当たったが、朝貢形式のため関税も掛らず滞在費、運搬費、帰国費まで明側で負担したので、その貿易の利潤は大きかった」とあり、
その後に続いて「1392年の明徳三年ついに李成桂が、明の援助によつて高麗にとって代わって、<李氏朝鮮>が建国された。
足利義満は倭寇の禁止を求められ、それに応じて国交を開きその貿易も、中国との勘合貿易と同様の形式で続けられた」の記述である。
これでは李氏朝鮮に対しても義満はやはり<臣日本国王>として朝貢の形式をとって貿易していたのだろうか?という疑問がどうしてもわいてくる。
李氏朝鮮建国から二七年目の応永二六年には、朝鮮海軍は対馬へ攻めてきて無血上陸し、乱暴や略奪をしたあげく住民を奴隷に連れ去るというとんでもない暴挙をあえてしている。
(こうした歴史上の事実を現韓国政府も国民も知らないで「日本悪者論」の大合唱である。)
だが足利氏は何もせずただ傍観。そしてこの年も勘合符を持った官船が恭しく貿易にいっている。対等の国交ならいくら平和的人間でも抗議ぐらいはするか、その年だけでも貿易停止はすべきなのに、この弱腰は何だろう。
なにしろ、義満は国内では、山名氏清を倒し(明徳の乱)長洲の大内義弘をも堺で攻め滅ぼして(応永の乱)いる。これも学校歴史に出ている。
となると対外的にはペコペコしていても、実際には平和愛好家とは言えぬ。相手が中国でも朝鮮でも金儲けにさえなれば、ヘラヘラして臣従していたのが足利義満ということになる。だがはたしてこの真相は如何に。
明国貿易の真実
足利義満が左大臣になった明徳三年に高麗王朝が李王朝に代わってしまったのは初めに述べた。この知らせに義満は驚いた。「これは大変である。早く国内を統一せねば」あわてて義満は吉野の後亀山帝に戻って頂き、
神器を北朝の立てていた御小松帝に授けて貰い、南北両統を合一し己は太政大臣になった。
この時に何故義満が国内を急ぎ纏めをして警戒しなければならなかったかと言えば、それなりの訳が在るらしい。
かつて大陸で元が建国した後直ぐ文永、弘安の来寇があった。
その後も押し寄せては来なくても朝鮮に大軍集結の情報が次々ともたらされた。
つまり北条時代というのは、時宗以降は、又何時襲ってくるかと防備に身をやつし、兵力も銀や銭も防備に廻してしまい、九州へ全力投球していた。
だから肝心な鎌倉が手薄になってしまい、新田義貞に稲村ガ崎から攻め込まれた時も、兵が足りず、北条高時は時の執権北条守時らと共に火中へ身を投じて滅んでしまったのである。
今の歴史屋は、何故に元が北条時代に、無謀とも言える無益きわまりない来寇を繰り返したかの理由を明らかにしない。
しかし<元史>とも呼ばれる『南宋実録』には、その条にはっきりと「復仇」の二文字が読みとれる。(なにも北条氏が元の国を攻めたわけでもない。それなのに復讐に来寇される訳など無いのである)と歴史屋は全く問題にもしていない。
しかし日本の四民四姓(源平籐橘)の内で
われらミナモトの民なり、と白山神を仰ぎ尊ぶ白旗を立て「蘇民将来子孫也」の柳幹を腰にぶら下げ、馬に乗って山野を駆けめぐった源氏は、沿海州から北鮮にかけて発祥した元と同じ種族の騎馬民族である。
つまり「チンギスカンは源の義経」説がでるくらいに、言語習慣も同じであるし、源氏の象徴である笹りんどうの紋は、沿海州ハバロフスク民族館の入口には民族章として、今でも堂々とレリーフとして飾られている。
今日の学校歴史の如く、北条政子が頼朝の妻だったからの理由づけで、北条氏を源氏と見てしまう史観では判らないが、北条は拝火教で源ではなく旧平家だった事さえ判れば、この差異は呑み込める。
元寇とは、源が北条(平氏)に滅ぼされたのを知り、日本列島も元と同種族の源の国に戻さんとしてのくり返しの来襲であったという明白な事実が判って来るのである。
これを今の日本人は全く知らないが、昔の十四世紀の日本人はよく判っていたらしい。
「また北条時代のように来寇されては堪らない」と。だから義満は狼狽したのである。
親明政権の李世桂によって統一されたから、明国と共に攻め込んで来るかと恐れてである。
現在韓国は秀吉の征韓の役や、朝鮮を併合したことを根に持って、日本を悪しざまに謂うが、元の手先となって何度も日本に攻め込んだことをここに指摘しておきたい。
そこで政争を南朝方としていては大変と急遽和解をした。そして、(前、北条政権は平姓で源を滅ぼした敵姓だったが自分は違う)と、ことさらに対外的には保身のため源を名乗ったのだろう。
つまり勘合符を使って明や新興朝鮮にも朝貢と呼ぶ恰好で臣従の礼を示したのも、足利体制を守るため、割り切って頭を下げていたのである。
だから大陸人によって無謀にも壱岐対馬を荒らされても、
(局地的被害は仕方がない)と目をつむり、平静に振る舞って貿易を続行していただけの話しである。
だが、義満の外交手腕で明や朝鮮をまんまと騙したが、国内では上手の手から水が漏るの譬通り、案外と抜けたことをしている。というのは、
火は清浄なものであると崇拝する拝火教徒は死後は火屋(ほや)に入れて焼く。
しかし騎馬民族の元や北鮮からの源氏は、死者の顔に白布を被せ、頭を北枕にして土葬する風習があり、これは幕末まで続いている。
所が「源」を名のっていても、
足利氏は土葬ではなく火葬にし、等持院に葬り木像を飾っている。これは「輪廻」といって、人間は一度死んでも何度も生まれ変わるものだと、信じられていたのが中世期の思想だったためである。
それゆえ葬いだけは、次ぎに生まれ損なってはいけないから、拝火教徒は神妙に死という汚れをお清めするための火葬は、来世蘇生のため止められなかったらしい。信仰のせいである。
(日本史の捉え方として、原住系と外来系との対立、民族間の闘争。そして宗教対立という視点から入れば解明しやすくなる)
つまり足利義満が大陸勢力を極端に恐れたのは、元から睨まれる西南系拝火教の末裔という、そうした出自からである。
そしてこれが「応永の乱」と呼ばれる大内義弘が堺に拠っての叛乱にも繋がる。日本史に隠されているが、渡来した中国人に
よって早くたてられた吉備王朝の昔から「中国地方」と呼ばれる岡山以西は、中国渡来の文化人が住み着いていた土地ゆえ、山口は京そっくりだと小京都の別名もあるくらいで、
その血を引く大内氏は南シナ海のニンポーに出先機関を持っていた。
この大内氏というのは「朝鮮百済王聖明の三子の琳聖、東海の周防大内県(吉敷群)に一族と来たり。
初めは多々良氏を称す」と、当時では栄誉ある舶来系で、大内氏を称してからも「我が祖の家系について」と朝鮮へ身元確認の親善使をたてたりしている。明国のニンポーは今で言う領事館である。
その山口には「日本国昔年欽奉、大明国勅賜御印」と但書の付く「日本国王」の印鑑。
それと「朝鮮国賜印、景泰四年七月造」という銅印を持っていて「祖国朝鮮、明国万歳」とやっていたのが大内氏である。だから長門へ追われて逃げた時も、大陸の血を引く公家さんたちの左中将二条良豊、持明院権中納言冷泉隆豊らが一緒だった程である。
「寧波」の漢字を当てるが、そこから堺まで海流を利用した航路が開かれていて、大内義弘は本国の長州より、海流の便利を考え、南支よりの応援を当て込んで堺で兵を上げたのである。
(信長も堺とマカオ間に火薬輸入のため、航路をもっていた)「吾が足利のことを向こうへ知らせ、助力の兵が来ては大変だ」と、この時義満は狼狽しただろう。
そして自分が先陣に立って全軍を指揮して一気に落とした。
九州の南朝方を討伐するときでも自分は行かず、今川貞世を名代に出している。
山名一族叛乱の明徳の乱の時も河野通義を派遣して、自分では戦争に行ったことがない義満が、堺まで出かけて指揮を執って攻めたのだから、如何に彼が大陸を恐れていたかが判る。
さて、である。いくら義満が「臣」とへりくだっても、明国がそれだけで満足して「よしよし」とビタ銭と呼ぶ鉄銭を、公式記録では六十万枚だが、
その後日本では幕末まで一文銭として全国的に通用していたのだから、実数はその百倍の六千万枚にも及ぶ莫大な物を「日本王は臣として朝貢してきているのだから、
どんどん呉れてやれ」と果たして気前良く送荷してくれたであろうか。
今の歴史は、臣従したことへの報酬と極めて安直に解釈するが、常識的に判断して、こんな事が果たして有り得るだろうか。今まで誰も解明していない。
鉄貨流入は臣従と関係ない貿易による物と思推される。
では日本からの輸出品は何かとなる。学校歴史では漆器、蒔絵、甲冑、日本刀の類と言うが、向こうに日本人が居ないのにこれはおかしい。隠されているが、それは黄金である。
当時の日本列島にどんどん産出された山金や砂金を大陸に送り込んでいた。黄金で同じ重さの粗悪なビタ銭と引き替えていたものらしい。
実数を六千万枚と見ても、ビタ銭一枚七十五グラムとして、四十五万キロもの夥しい黄金がむざむざと足利氏によって、明国へ、貿易とも言えぬ、割の合わない、朝貢という美名で搾取をされていた。
足利氏御用の日銀であり、大蔵省でもあった蜷川家の手で、現在の常識では考えられぬが、次々と送り出されていたらしい。
■■■■足利義満と金■■■■ NO-2
マルコ・ポーロの『東方見聞録』に「北京の宮廷で夥しい山金の塊りや袋入りの砂金をみて、何処からと聞けば東方の島国からと言う。そこはまだ開発途上国で材質柔らかく、装飾用にしかならぬ黄金の需要など全くなく、
鉄や銅のごとき硬質の物のみ求めている黄金で輝く島があり、道にも岩金がゴロゴロしていて、全く無価値と言われる」と言った意味のレポートが出ている。
だが日本ではまさかと従来は誇張の如くとられている。
しかしルネッサンスの植民地支配時代に入った ヨーロッパではアフリカやインドの有色人種は、その肌に似合うからと黄金を欲しがっていた。つまり他国より先に植民地を確保するためには、
どうしてもその地の王や有力者の関心をかうため、黄金を必要とした。 が困ったことに金が何処からも採掘できぬヨーロッパである。
つまりジャン・パルジャンが教会から盗み出した燭台の如く、それまでのヨーロッパ は銀だけが貴金属だった。所が植民地確保の
競合に突入すると、白人には銀が似合うが、有色人種は金を好むゆえ各国が競って金を求めて当時ポルトガルのエンリケ航海王によって発見された、
海流航海法を利用するため急ぎ大型船建造を始めた。もしヨーロッパで昔から金が貴金属視されていたものなら、錬金術といったまやかしものが堂々と各宮廷に突如として出てくる筈はない。
王や貴族が何処でも錬金術師を歓待したのは、それまで金を軽視していた証拠である。慌てていたのであろう。それが証拠に大英博物館やロンドン塔、ルー
ブル美術館へ行っても、ルネッサンス以前の物で金を用いた装飾品やコップの類は少ない。
つまり金と銀の評価が現在と中世では、まるっきり違っていたことが判らねばならない。そして『東方見聞録』の内容は各国で評判になったらしい。
彼らにとって喉から手の出る程欲しい金がゴロゴロしている島国が東方洋上にあるというので、各国で建造した大型帆船を皆東洋向け出帆させた。
当時魔女狩り旋風の吹き荒れる欧州各国から、一斉に日本向け船が来たのは、何もキリスト教布教の為でなく、黄金の宝島探しのためであった。
幕末のペルリの来航が、当時のアメリカの捕鯨船団の給水補給基地に日本を当てるため、黒船を率いて浦賀へ来たように、15~16世紀の南蛮船の来航目的は黄金探しが真相である。
当時の日本の国情が詳細に欧州にレポートされ、今も保存されているのも、このおかげである。
つまり日本からの物を向こうへ渡して儲けていた明国では、黄金の値打ちが判っていて、バーター制で同量の金を運ばせよう
と、ビタ銭をどんどん鋳造して日本へ送っていたのである。
つまり縄文期の銅器時代が終わり、武器や農耕機具に銅より硬い鉄が必要なのに日本では鉄の産出が少なく、金だけはごろごろしていたのが中世の日本だったと言えよう。
金時計や金歯、金指輪も無かった時代なので、牛若丸を奥州へ連れて行った者も「金はいらんかね、安くしとくよ」と、当時は日本一の消費都市の京へ平泉の有り余っている金のセールスに来ていた
<金売り吉次>(きんうり)の名で今では偲ぶだけである。
金が未だ貨幣でなかった頃。金は叩いて延ばせば広がるが実用的なスキ、クワも出来ぬし、釘や鋸にもならない。
京へ持っていっても、金屏風の箔位にしか買ってもらえない。あまり売れないので吉次は牛若丸を営利誘拐したか、甘言で騙して奥州へ連れていったのかもしれない。
何しろ余り売れないので、平泉では金色堂といった金の延べ板の堂や、箱や壺等作っていたらしい。
現在でこそ貨幣が金本位制になり、発行する紙幣に見合うだけの量が無いから、インフレ対策に金の延べ棒や板が財産保全にと大切にされている。
未だ住民の殆どが穴居生活をしていた当時の奥州でも、装飾品にしかならぬ金は益無き代物ゆえ、堂の壁板や瓶に細工しやすいから使っただけの話し。
それなのに、現代では勘違いされて、今日的価値判断で見て間違い、金がふんだんに惜しみなく派手に使われているのは、さぞ文化水準が高かったのだろうと「藤原三代の栄華」とか「平泉文化」と帰納してしまう。これはおかしい。
足利末期の関白一条兼良が、応仁の乱の時避難していた奈良興福寺大乗院の院主は 兼良の三男だが「黄金は明国人へ進物にすれば歓ばれると、京の各寺にては鋳物の下人に命じて鋳型にて黄金板を作らしめている」と、
今に残る「大乗院寺社雑事記」に書き残されている。これは活字本でも読める。
つまり足利末期でさえ金は進物品としか見られていなかったのを尋尊大僧正が自筆で書き残した程ゆえ、その一世紀前の義満やマルコ・ポーロの頃には「こんなもので宜しければ、どんどん持たせます」
と、明へ進上していたのも判る。何しろビタ銭に鋳られてくる鉄銭は溶かせば刀や槍にする事もできる。
だが足利末期の応仁の乱では、双方共矢種が尽きてしまい、鉄銭で矢じりまで作った。つまり二束三文と言う言葉も、当時の矢は一筋と呼ばず一束といっていたから、一文銭三つ溶かして矢が二本出来たということを指すのである。
「応仁私記」にも「近頃は金も値が貴くなりて」と出てくるように、勘合符で運んでくる官船の他、私船で買い取りに来る商人も増え出したので、金にも商品価値が出てきたらしい。
つまり儲かる黄金を自発的にどんどん積み出してくるので「テンホウである」と、足利氏の素性が海洋民族であっても一向に構わんと、進攻等しなかっただけと見るべきで、この点義満の対明政策は成功といえよう。
そして対明用に集結した金の延べ板の余ったので今のプレハブ住宅なみに、応永四年四月一日に北山に金閣寺を作らせ、僅か半月で完成させ、十六日に検分している。
しかし対比上、銀の方も建てようとしたものの、材料入手難で計画倒れとなり、八十七年後の足利義政の代になってようやく銀閣寺は完成している。この一例をもってしても、銀は金に比すべくもない貴金属だった明白な証拠といえる。
◆◆◆◆足利義満と金◆◆◆◆ NO-3
金が無くて倒産というのはある。だが大阪城のように天守閣には割竹に流し込まれた金の延べ棒が山積みされていて落城してしまった事実は何を意味するのだろう。
分銅流しとか竿金の名称で「頑丈な天守の床板が軋むほ程に積み上げて在った」と記録にある。有り体は、この時期においても金はカネでなかったことである。
大阪落城後の焼け跡に岩のようにごろごろしていた黄金を、略奪したり、掻払った兵もいない。「汝に悉皆みな呉れてやる」と家康に言われて全部貰った籐堂高虎も有難迷惑そうに集めて茶釜や茶壺を作っている。
歴史屋は(猛烈な炎に焼きただれていたゆえ、そうした用途しかなかったのだ)と説明する。
だが鉄屑のスクラップを溶かして新鉄にするごとく銀でも金でも火力のため黒ずみは表面に出るが変質することはない。
高虎にしても、黄金がカネなら茶壺など作らず通貨に鋳造し直す筈だし、それより吝な家康が気前良く皆呉れてやるはずはない。
これは家康が元和元年五月の時点で、黄金とは単なる装飾用軟質金属にすぎず、まだカネではないと認識していた例証でもある。
十六世紀と現代では様々な事象に対して評価が逆なのを理解しなければならない。「黄金の茶室」を秀吉が作ったからと言って、さも豪華絢爛だったごとく目を奪われ間違えるが、金閣寺や金色堂と同じように、
廃物利用とはいえぬまでも、余っているから使ったに過ぎないらしい。
当時ヨーロッパ各国もルネッサンスの為のバブル金儲けの植民地政策上、従来の銀本位制から金本位制に切り替えていたゆえ、織田信長もポルトガルとの火薬輸入決済に日本を金本位に切り替えようとしたらしい。
しかし、当時の日本の銀の大半を支配していた蜷川道斎に忌まれ、その姪の夫にあたる丹波亀山在城目付の斉藤内蔵介に率いられた一万三千の軍によって本能寺で爆死を遂げた。(この内蔵介を
影で操った黒幕が家康なのである)
次の秀吉も大陸遠征の火薬や資材購入のため、やはり対外的には金で決済だったゆえ、金本位制に貨幣制度の切り換えを目論んだ。その計算の元彼が作らせたのが、
日本最初の金貨である天正大判小判なのである。だが秀吉の権勢をもってしても、足利時代から連綿として続いてきた蜷川財閥金融資本の銀は強く、切り替えは出来なかった。
やむなく勲章代わりに各大名へ与えたり、公家を集めて「金配り」とばらまいたと言うのも、金本位移行の為の布石か、又は蜷川勢力に勝てぬ事への鬱憤ばらしとも考えられる。
この計画のため、佐渡金山を取り上げ、上杉景勝を会津百万石へ移封させもしたが、雄図空しく金がカネにならず、用途を失った地金がやむなく大阪城に山積みされていただけの話しである。
だから無価値な黄金を貰っても仕方ないと、諸大名も味方しなかったのである。
又大阪城の幹部連中も京阪では蜷川の目が光っていて金は価値なしと判っては、集まった浪人共の士気が阻喪するだろうと、遠隔地から集めてきた女達で、大阪城三の曲輪に大慰安所を設けた。
落城の際、女が二万人の余も居たと伝わるのは、淀君付きの侍女や腰元だけでなく、慰安婦が一万五千余も居たからである。
つまり大阪城では浪人共が外部へ出なくてもすむように、城内で酒と女をふんだんに当てがって、これも黄金の力なりと信じ込ませて奮戦させたものらしい。
そして、次の国家主権者の徳川家康でさえ、銀本位制の変革はせぬと伏見城内で鋳造させた金の小判は関東へ移し、金を貨幣として通用させるのは箱根の山から東だけと限定した。
二十一世紀の現代でも「一金何円」と、領収書、小切手、約手に書く習慣も、幕末まで天下の権勢によって箱根の関所で東西に分け、以東は金で一両は四分、一分は四朱だが、三島から九州までは銀本位制で何匁が単位だった。
「箱根の山は天下の嶮」と言うのは、ここの関所は入国管理所と税関のような所で通過する旅人から「お前の所持金は十両だから、手数料二分を置いて行け」と、やっていて、莫大な儲けになったらしい。
”天下の嶮”は権力の”権”の意である。金と銀では等価が違うから、領収書その他に金で払うのか、銀で払うのかを初めにつけて区別する名残が今でも在るのはこの訳である。
さて、日本全国の銀を支配していた蜷川道斎の姪婿の斉藤内蔵介の忘れ形見の阿福が春日局になる。
その前夫との子の稲葉正吉が、金銀交換で儲けの多い天下の権の箱根を押さえる小田原十万石の城主に、従来の大久保家を陥れてなったり、その子の正休は若年寄になって幕政を担当するのもそれなりの訳があった。
同じく春日局の孫娘を妻とした堀田は後に大老となって天下を押さえだした。だから親類に当たる蜷川が、春日局の家老と言う恰好で、当時の喜左衛門が江戸へ来て大名並の豪勢な暮らしをしていたと、太田南畝の考証にもある。
が、貞享元年八月二十八日に千代田城内で若年寄稲葉正休が、現在換算で数十億にものぼる春日局の遺産を、直系でもない孫婿のくせに堀田正俊が横領しているのはけしからんと刃傷。
共に殺し殺されてしまった事件が起きた。このため幕閣を押さえていた春日局の孫共が断絶廃家となった。
蜷川喜左衛門の孫も京へ戻ったし、それまでの蜷川の圧力も減じてきた。そこへ目を付けたのが柳沢吉保その人である。
「足利義満のために日本の金も豊臣家以降は底をつき、通用量に事欠く有様。よってこれまでの含有量の多い大判小判は禁止し、銅増しの新小判を鋳直すべしと砂田彦十郎の献策だが、吉良上野介殿は京方の足利氏の血脈である。
その為に向こうでは頼られていて、よって毎年の如く行かれ知己も多い。
一つよしなに新小判造りの采配をおみに頼む」佐渡金山を開発した上杉家の三姫を妻にしている、高家筆頭の切れ者の上野介を呼んだ柳沢は次ぎに「京都所司代小笠原備後守や、京都町奉行松前伊豆守には、
おことに協力して仕事を成すよう既に命じて在る。銀をどうしょうではなく、蜷川に関係のない金だが、そこは用心するように」と命じた。
これが悪貨は良貨を駆逐するといわれた元禄小判の誕生である。進言したことになっている砂田彦十郎は勘定奉行に栄転、協力した所司代は一万石加増の幕閣の老中。
松前伊豆守は江戸南町奉行に出世。だが総指揮を執って柳沢政権の金箱となった吉良は「おことは源氏白旗の高家筆頭の名誉ある武家の棟梁の家柄なれば」と若年寄にも昇進させてもらえぬ。
だから、嫌気の出た吉良は「辞める、隠居する」と言いだした。吉良の口から偽金造りの裏話が流布されては困ると、田舎大名の浅野内匠頭に、吉良に抜刀させるよう挑発せいと命令したのに、
失敗したから即日浅野をバッサリ殺して口封じをした。これが有名な赤穂事件の発端となる。
が、これは後日の話。
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