新令和日本史編纂所

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津軽外三郡誌の考察 論考・津軽史料

2021-07-13 16:35:09 | 新日本意外史 古代から現代まで
津軽外三郡誌
論考・津軽史料

これは、津軽(青森県)は大和朝廷とはまったく異民族の土地なりとして、別個の歴史をもち、京方と戦いつつ、別個の王国だったとする内容である。
即ち、大和民族は単一民族となす説に反対する文献なのです。そしてまだ儒学が全盛の江戸期に書かれたものである。
それに寛政五年からは、津軽から福島までは未曽有の大飢饉で、津軽領だけでも二十万人もの餓死者を出している。
こんな時代に、手分けして各地を回り聞き書きをしに、餓鬼地獄の中を矢立をもって歩いて記したという、現実にそぐわぬ可笑しな部分もある。
こうした点は心して読む必要がある。
しかし、記紀を金科玉条とする史観より、見るべきものは多く、一笑に付すものでは決してない内容である。以下にその考察をしてみたい。

 「東日流外三郡誌」というのは、青森県北津軽郡市浦村の村史編纂会が昭和四十六年に設置された際に、五所川原市飯詰の和田喜八郎家所蔵の、江尸時代から門外不出、
他見一切無用と厳禁されていた三百六十巻の古文書の中より、判読できる百巻を上中下の三巻にし、同村の委員会より「市浦村史資料編」として刊行された、
今まで正史とよばれるおかみの歴史とは全然異質の文献なのであります。
 和田家49代の当主によれば、寛政二年に和田長三郎が、鎌倉侍所別当の和田義盛の一族だったのに、北条氏に追われて秋田に隠れすみ、世直しのため南朝に与し津軽へきたが滅ぼされ、
神職を勤めていたが、長三郎はそれさえも追われ、妻が秋田上綺の秋田孝季の妹だったので、そこへ行き二人で祖先を追跡調査して、己れらの血脈を伝えるために生涯かけて採録筆写したものといいます。
 「反藩の罪科に厳重に問われるゆえ、と油桐紙に包み、極秘に天井裏に隠して伝わってきたもの」と、二人が書き綴って一部ずつを子孫に伝えたのが、秋田孝季の子孫の方の分は散逸してしまったが、
和田家では樟木の箱に入れていたので、二百六十巻は判読困難だったが、その中の百巻分だけは昭和三十二年春に初めて蓋をあけた時は助かって、どうにか読め得たと前書にのべています。
 さて、この津軽地方の地形的変遷や古代津軽人の風習言語、つまり「亀ヶ岡式上器」や「森田村石神(おせどう様)の縄文式円筒方式土器」それに「市浦村中島出土の土師器」に関連する古記録は
「耶馬台国五畿七道の(倭の)五王の長髄彦、安日彦が、九州日向に出現したジンム族の鉄製の剣や矛によって追われて、遠く津軽へ亡命してきて、
その伴ってきた一族によって開拓されたる為」といった記述が基礎となっているものですから、韓国歴史界にとって、この「東日流外三都誌」が、さも日本での唯一の信頼すべき古代史料のごとく、
大々的に取りあげられたことがあった。
 かつて長州の御雇い教師リースが、日本には歴史学はないと明治十八年の博士号設定の時に文学博士の範囲にしか入れさせなかった程ですから、日本では、宮下文書や竹内文書なみにしかみなさず、
問題にはされていません。ただ考古学や人類学の分野では研究しかけていますが、いわゆる各大学で講義する歴史屋さん達は、まったくまだ目も通していない程の不勉強さでかないません。
 しかし韓国だけでなく朝鮮人民共和国でもおおいに検討されだしていて、双方共に、「魏の国に貢進していた耶馬台国なる存在は、親魏政権というよりは今の中国の出先機関が統率していた中国の
支配体制。それを追払って新しい大和朝廷をたてた日向ジンム族は九州へ渡った朝鮮半島人だ」として、物騒なデマですが、南北が統一するのは失地回復しかないと秘かに言われています。
中国の以前の華首相の線引きで、朝鮮半島からまさかとは思いますが、南北統一は対外戦争しかないと攻めてこられては、吾々はまた縄文日本人の昔に逆戻りさせられてしまい困ります。
それゆえ専門家がまったく手がつけられぬ「東日流外三郡誌」の真の解明を、どうあっても吾々日本人が負わざるをえません。
 歴史とは過去の具象の真実のあり方を把握すべく努力することで、それを勝手に都合よく解釈する事ではないからです。さて、そうした誤りをおかさせるのには、その第一に述べられている処の、
〈東日流流転史〉に「山麓に住居するは阿曾部族、海浜に住むを津保化族とよぶは、その昔、天変地異ありて山が火を噴き、浦が隆起して陸となりし為なり」と、まず説明しているのであります。
 「太古の古い称号は、スーサンポー、津軽をチンパルとよぶは、いずれも唐の漢語。大昔のことだが大漢国より忍び難き国乱ありて、やむなく漂着してきたれる彼の国の難民共を祖先とす」
「その頃、九州の日向に起こりし一族が東に遠征。それまで耶馬台国五畿七道を洽領せし安田彦、長髄彦を討伐。
よって耶馬台一族は北方に遁がれて津軽まで落ちのび、再挙を企てたがならず、原住民の津保化や阿曾部の民と混血して、荒吐一族となり北上川平泉まで進攻し総処となし、
東西南北にそれぞれ王をおきて統治し、ウーワンと中国語でよび、日の神を、ヤンとかヤーとよんで崇拝した」となっていますから、
耶馬台国が「瞳」と当時はよばれていた中国大陸の出先機関の統治地だったというようにも解釈されてしまいます。もちろん魏の国へ朝貢していたからこそ、〈魏志倭人伝〉にも記載されているのです。
しかし、その頃の日本列島には耶馬台国群に対抗していた古代海人族らの、八幡国群が黒潮のくる各海浜には、処々にあって対抗し彼らは懸命に戦っていたのです。
 それに今も中国地方とよばれる岡山には、華夏王朝とよぶ吉備の地域が前から既にあったのです。
 高梁川の地名が今もある一帯で、大和朝廷になってからは、大陸から新しくきたのと区別するためにと、トウはトウでも藤でなく「桃」とよばれる人々のいた土地なのである。
〈群書類従〉の「大唐和尚伝」に、桃原とか桃生との文字ででてくる日本へきてからの唐人にお伴をする通訳の連中の植民地だった安全な土地があるのに、
何故に彼らが中国系だったら東北の津軽まで逃亡するのか辻つまが全然あいません。〈葦原談義〉には、つがる平原は、葦の大草原にて、豊葦原の国なりぬと史書にもいう、とあります。
 そして、ひとつかみの稲穂をもって九州の築紫にきた後の日向族が、遊放民族の猿田彦に米の味を覚えさせ、酒や女をあてがって、今いう呑ませる、抱かせる、握らせるで彼ら部族を己が奴隷となし、
自分らは高天原より高千穂に降臨せし神々なりと称し、やがて本州の耶馬台国を征討させました由。
 さて日向族の彼らが持ちこんできて、強制的に水稲を種もみとして植えさせ、収穫を、「上毛」と称して貢進させていたのが、韓国産のホコネとよぶ水稲の種もみと高天原より高千穂へ、
鉄の矛や剣をもってきたジンムは、韓国より渡来の日向族で、己らが先祖だと韓国史学界では言うのであります。
 津軽契丹 
東日流三郡暦の考察
天刑の乱こと、天慶の乱で坂東八ケ国の拝火宗徒を津軽へ追った時、藤原氏は唐を滅ぼし、取って代わった契丹(宋国)よりの今来漢人をになし東北へ追ったというのが、津軽大陸人説の真相である。
 〈東日流開聞〉の章では、太古は中国大陸や韓国とも日本列島は地続きであったとして、当初は、
「アソベ一族」の民が海浜で塩をやき漁をして暮していた処へ、中国系の津保化一族が大挙して押しよせてきて、石斧や石剣の縄文人を攻め、やがて彼らが逃げこんだ行来盛火山が噴火して死滅。
その後へ耶馬台国の一族や中国より渡来民が入ってきて、混血しあって、荒吐一族となり、異民族の倭族とはあけくれ交戦をくり返しつつ津軽を確保したといいます。
これが津軽の非大和民族説です。
 よって日向族がたてた大和朝廷では、斉明帝の頃に、奥州の荒吐五王を難波の都に招いて官位を与えて懐柔しようとしたが、津軽は拒んだので、阿倍比羅夫が百八十隻の船団で討伐にきたが、
有間浜で応戦して八十余隻を火箭をもって焼き払い、やむなく阿倍比羅夫は、船の酒や食糧を提供して命乞いしたといいますし、斉明六年に又も阿倍船団二百隻の来攻があったが、
十三湊で沈められてしまったのが半分以上。陸から前に攻めこんできた上野毛田道将軍のごときは、部下もろとも六百八十余名が一人残らず中山にて包囲全滅されてしまったと、その津軽の武勇さを誇っています。
 今でこそ大和民族は単一民族と学校歴史では義務教育しますが、これでは大和朝廷系の日向族と、東北の、耶馬台国残党の中国系の荒吐族とは、ともに天地を共に頂かぬ異民族どうしとなります。
 つまり韓国と中国の勢力争いを、縄文日本人を兵卒にして、双方で必死にくり返して、「安東将軍」とか「征東将軍」、明治になるまで「征夷大将軍」の官命がこれ故にあったのです。
明治政府も、「界外」とみて降参した賊軍会津を移したりしましたが「津軽盲暦」というヤマトの漢字は一切使用しない絵だけのカレンダーを江尸時代から用いて対抗していた。
契丹系も追われ津軽に多く住んでいて鈴木姓を名のる。現在でも青森県には「つがる暦」という漢字を全く使わない絵暦ががある。
 
日本人は高千穂より九州を平定し大和へ入ってきた日向族ではなく津軽の荒吐族こそ耶馬台国直系の貴種なりとする他、世界史の中に、その津軽年代表をおき証明す。
 〈日本書紀〉や〈古事記〉みたいに神がかりの内容ではなくして、〈最古代重日流外三郡暦〉では、
「津軽の歴史は日本皇紀より約二千二百九十三年より古く、中国の陳の時代で、当時西南や太平洋州では、シャールキン一世がサーゴンと国号を定めて、カルジヤを建国し栄えていた時代」とし、
「アフリカでは既にメネスが黄金帝国をつくっていたし、エジプトでメンフィスが奴隷とした白色人種を使役したピラミッドを作りだしていたものである」と、
世界史の中で、津軽建国を説明しています。「ビッキムガモ」と称していた津軽の原住民たちが栄えだした頃は、中国は黄帝の世で暦法を定め、算術、医書、養蚕をもう始めだし、
アフリカではエジプト第四王朝のスフィンクス造成期となす。
 中国が「夏」となった頃、インドにアリアン族が大挙して進攻。当時の日本列島は百二十八の種族の民が漂着し、それぞれ一族で分領しあって相互闘争をくり返し、津軽では石器より土器時代。
 アラビヤにプクソスが現われて統一しだした時、ヨーロッパ北部には白っ子人種のスカンジナビア人が集りだし、これは後の白人種となる。津軽ではコウゾの樹皮や鹿皮で衣服をつくるようになったとします。
 スリイピングバックの元祖にあたるような、獣の毛皮をはぎ二枚をつなぎ合せた袋に入って、寒気の厳しき津軽では冬の寝具を作りだすようになった頃、中国では「殷」が建国されています。
 アラブではイスラエル族がカナンの地に入りだした頃。ヨーロッパのギリシヤが航海術にすぐれ、スカンジナビア人らも暖流寒流の潮流で大洋航行することを次第に覚え活躍しだしたゆえ、
スパルタが起こったり、トロイが木馬を城内に入れた為に隠れていた兵達に占領されたりして滅亡する。
 さて中国が『周』となって武王が即位した頃、とことわってから、〈東日流外三郡暦〉では、日本国日向に高天原天神地神の愚想信仰起こりて、衆是に従う者多し、その導師は女人なりという。
津軽にては大船を造りて渡島や東島崎にゆき交易」とでています。こんなことが堂々と行われたなら、江戸時代だけでなくても皇国史観の昭和初期から、戦後までのおかみでも、
不敬罪もので投獄処刑であります。さらに、「インドにシャカが生まれて仏法が弘まりだした頃になっても、日本はまだ統一されておらず」とあります。
 東北=津保化族。関東‥卜宇津味族。中部=津袮奈族。奈良H‥津止三毛野族。紀伊り奈津三毛野族。
南海道=大賀味族。淡路=賀止利族。因州=宇津奴族。安芸=亜羅三毛族。北九州=日向一族。南九州=猿田一族と分かれて「神武帝日向高千穂宮より東征なされしは、即位前七年冬十月五日なれど、
山口周防の軍勢に一年の余にわたって封じこめられ、進撃するあたわず、ようやく向わんとするも安芸に拒まれ七年の歳月を失う」と、吉備で八年も釘づけにされ、
「高島でも三年も悪戦苦闘をしいられて難波の浪速に到り、淀川をのぼって河内の草香村の自肩の津に辿りつく」とあります。
 河内の草香というのは後の桓武帝の御生母高野新笠の居られた土地で、ここへ彼らが持ちこんできた韓神さまが平野四神で〈神祇式〉によれば、やがて、皇大神となると記録されてもおります。
 だから妙に辻つまが合わされていて、河内で武具を整えて竜田へ進軍したがならず、生駒〈夷駒山〉越えに大和へ入ろうとした先発隊の五瀬命は討死。
和泉へ向えば稲飯命もそこであえなく戦死。
 といったように日向族が、大和朝廷をつくる迄の戦争。「津軽のみは殺掠を好まず別個に暮し豊かに暮せり。これ日本神代の実相にて、日本史の誤てるを心に感銘をなす可。寛政庚申二月 秋田孝季」
 となっています。つまり大和朝廷成立以前にあって、津軽は別個の、異民族として栄えていたというのです。明治以降ドイツからきた長州の御雇い教師リースが、日本人は島国ゆえ単一民族だと今の
学校歴史を設定してしまいましたが、この書はこれに反対して、明確に複合民族であると主張しているのです。
津軽異種説

縄文時代から武力征服されて弥生時代に変った時の日本の人種は、百余にも別れていたというし、あくまでも単一民族ではなくて違うと主張するのは津軽のみです。
 秋田孝季があげている各種族の名称を分類しますと、ウクスツヌの発音が上につく津とか宇のつく中国大陸系がある。イキシチニのつくのは朝鮮系。アカサタナのつくのは古代海人族。
オコソの発音がやはり上につくのは沿海州から入ってきた、蒙古系と分類されている。これは正しい見方である。
日本列島は、ベーリング寒流と黒潮暖流が流れてきて抜けてゆく日本列島だけに、あらゆる種族が入りまじっています。
また、〈日本古事記〉に言う苦戦の経過も、記紀のに合わされています。
 しかし、これをその儘うのみにしてしまいますと、中国大陸の魏の国に朝貢して臣従していた日本の耶馬台国政権を、韓国よりの日向族が随分とも苦労してご先祖様を解放してくれた事になります。
 なにしろ秋田孝季らが、これを書いた江戸時代の寛政時代というのは、まだ熊沢蕃山でさえ、「中国人は貴種」とあがめ、荻生徂徠でさえ物徂徠と号をつけ、
「もし孔子や孟子の国から攻めてきたら、それでも迎え討てるか?」等と議論しあい、儒学者たちが、しきりと迷い悩んでいた時代なのであります。
 今でも舶来崇拝とか西洋かぶれといった言葉がありますが、これは、縄文日本人として征服され弥生時代から奴隷とされてきた劣等感の裏返しみたいに、
日本人は「ええ恰好し」と言われる国民性です。
 ですから秋田孝季が現代人でしたら、山本七平みたいに(ユダヤ人でも白人だから)と書きもしたでしょうが、まだ南蛮人は紅毛の蛮人みたいに思われ、最高の貴人は中国人なりとされていた頃ゆえ、
津軽人の先祖は、その貴種なりと悦ばしげに恰好づけしたにすぎないような気がします。
 そして今日の学校歴史も、満鉄歴史と申してもよいように、日露戦争後に満州へ侵出するため布設した南満州鉄道によって鴨緑江経由でシルクロードから、すべての文化は流入されてきたごとくに、
海洋潮流学を全く考えぬ、陸路日本史ですので、中国人を柤とする津軽の荒吐族だけは、日向族つまり当時の三韓からの侵略者たちか弥生時代に変え、
奴隷にして徴兵した縄文日本原住民をそれぞれ三方から棄て殺しにして戦わせあっていたのに対し、津軽は超然としていたなどと書いたのでありましょう。
 しかし日本海も対島海峡もなく、中国大陸や韓国と日本列島が陸続きであったという仮説のもとに、この〈東日流外三郡誌〉は成立していますが、
〈魏志倭人伝〉にも、日本列島は洋上にあった事は明記されています。つまり藤原基経によって廃立され山中へ逃れたもうた陽成帝やその側近が、木地師となってからも、
自分らの先祖は高貴な出自であると誇って、それぞれが変ですが、「藤原姓」を、追われた立場では敵姓なのに、逆に用いて今に到っているのと同工異曲であります。
 なのに今では安倍一族でさえ京の懐柔政策で、藤原姓をうけて名のると、さもそのせいみたいに、「藤原三代の栄華」と、東北には当時黄金だけはあり余っていて、
消費都市の京へと「金売吉次」といったセールスマンを派遣しても捌けず、やむなく建立した金色堂などをもって裏付けとするのと、まったく本当の歴史離れした日本歴史の変てこな論理に、
さも中国大陸系の耶馬台人と、朝鮮系日向族の代理戦争みたいに書かれたものが、今となっては韓国史学界を歓ばせているのです。
 シルクロード熱で誤らされていては、真実の解明などは及びつこう筈はありえません。かえって、こうした他から隙を突かれるようなものさえも、今ここに蘇ってきてしまうのです。
まあ世界史とはまったく分離して独得すぎる日本史を勝手に作ってしまったのは歴史屋さんの責任でしょう。

今や習近平独裁の共産中国は、ひたひたとその世界侵略を日本にも向けている。
 今さら日本国民を、右寄りに教育しても遅いが、日本人は百余種の流入混種の複合民族なのだと、そこを正直に教え、ライジングサンの旭日旗の下に、日本人たるもの日本列島を命がけで守らねばならないと実教育をすべきでしょう。外国で歴史をよく勉強させるのは、愛国心を持たせるのが教育目的だそうです。
それを単なる暗記物にして年号だけ覚えさせたり、大学入試にも歴史は除かれている今のお国柄ではどうなるものでもなかろう。
尖閣を盗られ、沖縄も盗られ、最後は日本本土が奴隷化されかねない現状を俯瞰すれば、未来は暗澹たるものである。
 

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