NHKで放映の西郷隆盛も美化されて描かれているが、彼は大久保らと組んで、明治革命を成就させ、その政府を転覆させようとした飛んでもない男である。薩摩軍、政府軍双方で13000人もの戦死者を出した国内戦をどう見るのか? また、勝にしても、美化されたものを信じている、海舟ファンには申し訳ないが、以下にその実像を記して置く。
土地成金という言葉がある。これのはしりは勝海舟その人である。というのは、それまでの日本には地租、つまり土地の私有権は無く、その為税金も掛からずだった。 収穫した物だけに課税されていたのである。が、明治になって新政府は、収入源を新しく作らねばならぬので、土地そのものへ課税し、従って土地売買も認可した。 だが、明治新政府の構成員というのは、各藩の下級武士か郷士。それに訳も判らぬ公卿ばかりで、それまでの人材は皆粛正されていたので、土地へ税金をかける案は海舟だといわれるし、 それゆえ事前に当人は判っていたゆえ、彼はべらぼうに大儲けしたというのである。
さて、明治元年の九月に天皇は初めて東京へおいでになり、翌年には京へ戻られはしたが、当時の京の人達は当然のことながら非常に怒った。それで仕方がないというので、当座は京都に天皇は居られたのだが、 又その翌年三月に東京へおいでになりとうとうそのまま東京に居着きになってしまった。
その結果京都は唯の観光地になってしまったのである。 何故かというと勝は当時二束三文だった東京の土地には手付け金を広く打っていたが、 京になどは投資していなかったからである。さて、芸者さんが非常に綺麗な職業のように、テレビドラマであり、それも女流作家の書く物に多い。 が、実際には芸者さんは接客業なのである。おたみ、さんは十七歳から芸者になっていた訳で、六年も経てば今で云う旦那とか、パトロンというのが何人か相当居た筈である。
西郷と勝の、不安定な関係
さて、その勝海舟が駿河まで迫ってきた薩軍の西郷の許へ山岡鉄舟をやり「江戸を砲撃しないでくれ、官軍は箱根の山の向こうで待ってくれ」と頼み込んだわけだが、 俗説では戦火による江戸町民を救うためだとか、色々恰好良くされている。 果たして本当の理由は一体何だったのかというと、それは前述した地上権問題だったのであ。 当時は勿論土地は私有ではなく、旗本屋敷も徳川家から貰ったものだった。そして官軍が次第に迫ってくるというので、家財道具も古道具屋に叩き売って旗本は殆ど居なくなり最後に残ったのは屋敷だけだった。 これに目を付けたのが勝海舟の偉い点で、僅か五十銭から一円という手付けだけで上手く買い取ったのである。家屋敷といっても旗本の武家屋敷だから、十五間から二十間もある大きな家もあった。
勿論これは海舟自身が直接表に出てやったわけではない。
テレビにも出てきたが、勝の父の勝小吉の許に出入りしていた差配の甥で「升売り」の喜平さんなる者を使ってやらせた。この喜平が後に喜兵衛となるが、「升売り」というのは、 今でも酒屋さんの前を通ると立ち飲みで一杯やってる客もいるが、江戸時代には酒の一升樽を天秤の両方に担いで一合桝を持って歩き、「え~酒!酒」と売り歩いたのである。 お客が来ると、酒をなみなみと注いだ桝の縁に塩をつけて、呼び売りして歩いた江戸風物詩である。
が、それはともかく海舟はこの升売り喜平という人を使って本所深川から今の飯田橋神楽坂、赤坂にかけての旗本屋敷のあらかたに手金を打っていた。 僅かとはいっても塵も積もれば山となるその手金の出所は、勿論おたねの前の旦那位しか借金する当ては無かったから、「なア頼まれておくれでないかえ」と、おたみが金策にやらされて、 集金して片っ端から手付けが打たれていたのだろう。
だから海舟は江戸を無血開城しないことには大変な事になる。そこで山岡鉄太郎に持たせた書状の中にも、ざっくばらんに大砲なんか打ち込まれたら、手付けしか払ってない家屋敷が吹っ飛ばされてしまい、 儲けるどころか、借金の山を抱えこんでしまうと、相当に海舟も狼狽して泣き言を書いたらしい。
人間誰しも大変なことになると周章狼狽し、こと自分の一身に係わるとなれば、必死猛志になって一生懸命になるので海舟とて例外ではなかったのである。 この裏話をすっぱぬいたのは、かっての総理大臣、幣原喜重郎である。 西郷隆盛とて内心では「あの野郎!」と思っていたのであろうが、こうした話しが打ち消され勝海舟が美化されてしまうのは、真山青果という人が、江戸城明け渡しの芝居を書くにあたって、 西郷と勝、つまり太いのと細いのを対比する見せ場をつくるため、さも尤もらしく話しを作ったからである。
勿論海舟が晩年に、若い女達への自慢話にしていたような氷川物を種本にしたのであろうが、あの当時の江戸には江戸を守らなければならないといったような人間は居なかったのである。 言い換えれば江戸において私有財産を守らなければならない財閥や、人間がその頃はもういなかったという事である。
江戸城から将軍慶喜は、恭順と称して上野寛永寺へ逃げてしまうし、旗本屋敷はもとより、大名屋敷も空っぽの状態で、商人はみんな近在へ疎開してしまい、残っていた江戸人は何処へも逃げる当てが無く、 悪性インフレの為に、喰うや喰わずの状態であった。
だからもしあの時期に江戸に砲撃があったら彼らは暴動を起こし、略奪かっぱらいが出来、かえって大助かりで儲かった筈である。 つまり今でこそ江戸を戦火から守ったと賞賛するが、明治元年に改元される時点において、一般民衆の立場では、官軍に撃ち込まれたほうが好都合で、それこそ世直しであり、人助けであったろう。 なのに海舟は芸者上がりの女房に無理を言って集めさせた金を無駄にしてはと、オカミの為でなく、オカミサンの「おたみの為にも・・・」と、頑張ったのであるとの見解しか、今では出来はしない。
さて、映画や芝居では、勝は西郷隆盛と非常に仲がいいようだが、実際は大違いである。西郷が明治八年に薩摩へ帰った時に、海舟が何時も大きな事を云って、 仲良しの親友のごとく振る舞っていたから引き留め役をしてくれと頼まれても、彼は頑として断っているのである。それで薩摩の連中が袂を連ねて、西郷と一緒になって野へ下り皆辞めてしまうと、 さっさと今度はその後釜に入って、勝海舟は直ぐさま海軍省へ入り海軍大臣になるのである。その後も鹿児島へ行き、西郷を説得してくれと大久保利通らから何度も懇願されたが、
「西郷さんには西郷さんの考えがあるでげしょうからね・・・私なんぞがねぇ」と、どうしても海舟は腰を上げなかった。そして城山で自刃の報が伝わるや、「それ達人は達観す」と、 上手くもない琵琶歌をこしらえて流行させたにすぎない。 というのは、(誰にも知られたくない、見られたくない・・・)ところの(頼むから砲撃は見合わせてくれ)との手紙を、西郷に出したのを取り返せずにいた海舟は、 どうもかねてから西郷が死ぬのを待っていたらしい。しかし西郷はこうした点では偉い人で、死ぬまで手紙の事は口にしていなかったのである。偉人と云うべきだろう。 さて、話しは前に戻るが、現在でも本所深川から飯田橋神楽坂あたりの土地の名義はいまだに升売り喜兵衛さんの名義になっている。
徳川慶喜は勝を信用していなかった
勝は鳥羽伏見の戦いの敗北を知っていた
さて、どうしてこの裏話が一般に知られるようになったかと言えば、それには訳がある。 勝は手金を打った旗本屋敷を守るため、勝小吉の時から町火消しの者の出入りが多い方だから、駿府へ使いに出した山岡鉄太郎から西郷へ懇願させて、砲撃を止めさせるよう交渉し、 江戸にあっては火消しの連中を集めて、「もしもの時には、此処と此処は手金を打ってある屋敷だから、ぜひともおぬしらで守ってくれよ」と図面に印をつけ頼んでいるのである。
火消しの連中にしてみれば、父親の小吉の時から厄介になっているので、海舟が借金を背負って男を下げては可哀相だと、「他の家など皆ぶち壊しても、勝先生に頼まれた所は守ってやろう」となったわけである。 当時の消火とは酷いもので、一軒を守る為には周囲の他の家をみなぶち壊してしまう破壊消防なのである。 そんなわけで他の組へも「・・・ここと、ここの屋敷はよろしゅう願います」と、伝達をつけて依頼を出した。 用心に用心して手を打ったのだろうが、浅草新門の「お」組にも回状はまわった。所が、まずい事に、新門辰五郎の娘が当時、徳川慶喜の気に入りの側室だった。
だから寝物語にでも、その話しは筒抜けに慶喜の耳へそのまま入ったらしい。 なにしろ慶喜の立場からでは、全く怪しからん話しであるから、唾を吐き出すように「鳥羽伏見の合戦の前に、硝石の事を幕臣なら告げに来るべきなのに、彼奴は頬かむりしくさって、 まるで野良犬のごとく薩長の奴らと仲良おしくさって・・・又も己の私利私欲のみにこだわって、火消し共まで動員させようとは呆れかえった奴だ」と罵った。
この硝石の事は、日本史では隠されているので詳細を記しておく。日本史に島原の乱がある。 カトリックといえば、天草における叛乱も後水尾帝の院宣による勤皇の一揆であって、それを日本史では切支丹の宗教一揆とするのは間違いである。
当時オランダの平戸商館長ニコラス・クーケパックルが、帆船デ・ライブ号に乗り込んで、キリスト教徒の船員と共に半月の余も砲撃した事実を照らし合わせても変ではないかと言える。真相は、 「フロイス日本史」にあるように、原城はイゼズス派の本拠地であった。戦国時代から彼らは日本に来ていたが、布教費用調達の為日本では一粒も産出せぬ火薬の原料の硝石を持ってきていて、 横文字の教義も読めず説教を聞いても何も判らぬ者達が、硝石欲しさにドリチェナキリシタンとだけ唱え、それが切支丹大名と呼ばれていた。
さて口の津は、硝石と交換にイゼズス派が入手していた彼らの治外法権の場所。だから一揆は硝石入手のため襲撃して、口の津の原の古城の倉庫番の白人やその奴隷を殺したので、 オランダのカピタンは神の名において仕返しをするため協力したいとなった。
この話しの裏書きは、 「山田右衛門なる画師一人のみが投降して助命されたが、その者が城内で見てきた旗というのを描かせた」とする証拠が・・・・誠に可笑しな話しだが、カトリーコとプロテスタンの二種の旗が混じっているからである。 ヨ ーロッパでは共に天を戴かざる仇敵どうしとして、互いに国をあげて殺戮しあっていたのが、いくら東洋の九州の片隅であれ、双方の旗を立てて、両者が力を合わせて抗戦することなど有り得ないし、 又今日伝わるように、三万七千から五万にも及ぶ女子供までが「主のおんため」にとみんな死んだものならば、世界中他に例のない話しゆえローマ法王庁の記録にも残っているべきなのに、 ぜんぜんその記載が見つからぬ事実、島原の乱に関しては一行も出ていない不可思議さも、これなら謎解き出来る。 つまり松平伊豆守が、局地解決として他へ叛乱を波及させぬよう、一部だけの者に限られる切支丹を巧く利用し、政治的発表をなしたのだろう。 五万からの女子供を一人残らず虐殺したのも、殉教の為でなく、口封じ政策の犠牲と見るべきだろう。
後の鎖国も、なにも切支丹伴天連の魔法を恐れたのではない。幕末の長州奇兵隊が、(木こりや百姓でも鉄砲と硝石さえ持たせれば、結構みな一ちょう前の兵士に使える)となったように、 硝石さえ入手したら女子供でも銃は扱えて強敵になるからと、徳川家だけが硝石を独占して一手に輸入し、他の大名に渡らぬようにした政策である。 いわゆる「抜け荷買い」つまり密貿易も、テレビや小説みたいに、絹や珊瑚を買い求めるのへの取締ではない。 鉱石として日本では一片も産出されない硝石を、他の大名が入手しては叛乱するので用心の為の治安維持法なのである。 つまり幕末になって長州や薩摩が下関や鹿児島を焼け野原にされたものの、上海やフランスから新硝石を仕入れるまでは徳川三百年の泰平は保てたのである。 勝海舟は初めから、長崎出島輸入の火薬の硝石は古くて湿気をもっていて使い物にならぬと、徳丸ガ原の実験を見て知っていた。 だから、「そうかい下関や鹿児島でも、南蛮船の弾丸が当たれば皆爆発するのに、此方から撃つやつは火薬の硝石が駄目で、十発に一発ぐらいしか音もたてずかえ、そいつはいけないねぇ」と、合点。
これに驚いた長州や薩摩は慌てて直ぐ和平交渉をし、その代わりに、新硝石を買いに上海へ家来を派遣したと聞くと、勝は膝を叩き、 「徳川家が今度、薩長と戦う時は、馬関戦争や鹿児島戦争の二の舞になるだろうよ」と、幕臣のくせに、土佐や長州、薩摩の連中に対し、何時世の中がどう転んでもよいように接触しだした。 しかし慶喜は虫が好かずだったせいか、この情報を海舟は故意に知らせずだった。だから、何も知らぬ慶喜は自信満々。
慶応四年正月二日には、自ら大阪城で「討薩表」を布令して幕府軍を出陣させたものの、鳥羽口や伏見の戦いで、僅か二千の薩長土の兵士へ、三万からの幕軍が攻め掛かったはよいが、弾薬が殆ど不発の状態で、 「これまで積み上げて在った大阪天満与力保管の硝石が、古くて用をなしません」と報告を聞くや、慶喜は真蒼になって、直ちに小姓と偽って城外へ脱出し、 沖の軍艦で逃げてしまったのである。つまり政治的発表の<恭順謹慎>の実体はこれである。 「エゴイスト」という言葉がある。しかし並の人間は他への思惑や気兼ねがあって、とてもそうそうは自己本位に振る舞えるものではない。 所が海舟の偉大さはこれがやれた事である。四つも年上の女で深川の芸者上がりの”おたみ”と一緒になったのも、今でいえば ひも、をして小遣いをたかっていたが、塾が開きたくて、金をひっぱり出す為に一緒になっただけの話し。
だから海舟も忌み嫌って、慶喜をその後三十年も静岡住まいさせ東京に戻さなかったのである。さて、世の中で何が一番儲かるかといって、破産会社の管財人くらい儲かるものはない。 腐っても鯛というが、徳川六百万石の後始末というか、その管財人にまんまとなっていたのが、これまた勝海舟その人である。
何しろ非常に土地に対する目が肥えていたのか、それとも地租を自分で決めていたせいか彼の財産は全部土地で儲けたものである。 だから儲かって仕方が無く金をばらまき、貧困に虐げられていた旧幕臣にはすこぶる人気があった。だが初手から慶喜は勝を全然信用しなかった。 「官軍が入ってきて、勝の家を荒らした」という話を聞いても、「打ち合わせずみの芝居ゆえ、勝は大方妹のお順の所へでも行っていたんだろう」とせせら笑っていたと言うし、 そんなわけで、徳川家管理財産支配人の勝だが、慶喜は自分の個人的な財産は管理させなかった。
別にして管理させたのが渋沢栄一で、後に渋沢財閥として発展した。ところが勝も死ぬ時にはやはり後ろめたい思いに駆られたのか、自分の長男の小鹿(ころく)の娘に徳川慶喜の十一番目の息子を婿にとっている。 そして徳川家から預かった金は、そっくり何十万両でありましたと言って帳簿と付け合わせで返金している。 今ではこれも逸話とされ、かりそめにも一円の違いもなく全額を戻しているのは美談なりとされている。
しかし幕末と明治三十年との間では、一文銭が一厘となって十枚で一銭に貨幣価値も変わり、物価は二十倍から三十倍になっている。 なのにその間に勝手気儘に運用して、三十年前の金額を返して済ませたのが、はたして美談と言えるだろうか。
勝の運用預り金に比べて十分の一以下と云われる慶喜の管財人の渋沢栄一の方が、一大財閥になれたのに海舟は若い娘たちを集めて自慢話を語った<氷川情話>その他の本しか残していない。
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