銭儲け太閤記
(注)昔は中国から輸入した銅や鉄製の粗悪な貨幣が全国に流通していた(これをビタせんという)。戦国期は銀が主流で秀吉は日本に多く産出した金を貨幣として流通させようとしたが、 失敗した。だから家康は江戸幕府を開いた際、箱根以東は金本位で一両は四朱、一朱は四分と四進法。 箱根以西は銀本位制で十進法を採用。だから一般の庶民は「銭、銭」と言い「金儲け」などとは言わなかったのである。 現代でも「守銭奴」とか、北島三郎の歌に、漁師が「銭の重さを数えても」とあるくらいである。後段に「箱根の関所の役割」を記したので併せて読んで頂きたい。
でたらめな秀吉伝説
秀古は金儲けの生れつきの天才である。 が、講談では武勇抜群の豪傑が天下をとるようになっている。個人の腕力などは知れたもので、今も昔も金作りが巧くてガバつと儲けて分配する者でないと天下はつかめない。 なのに俗にいわれる秀吉伝説ときたら、金儲けにはふれず、まことしやかな嘘ばかりである。 たとえば………… 秀吉は尾張中村の百姓弥右ヱ門の子で、弥右ヱ門は以前織田信長の鉄砲足軽をしていた。 そして秀吉は顔がサルに似ていたから、幼名を小ザルとよばれたり、日吉権現のお使いがサルといわれたから、日吉丸ともよばれていた。などとする…………だから。 「少年のころに家出して、武家奉公を志し、遠江と当時よばれた静岡へ行き、今川義元幕下で久能城主をつとめていた松下加兵衛につかえた……これらのことは豊臣太閤素状記という本にもでている」 などと、嘘ばっかりである。
「さて秀吉は、九州征伐の終わった天正十八年に、松下を三万一千石の大名にして報恩した。利害関係でのみ結びついている戦国時代の主従の美談として、心あたたまるものがある」というの は、日本史探訪にでる国学院教授某の本である。そして、「秀吉は、忠君愛国の精神の持ち主だった。聚楽第をたてるや、後陽成帝をお迎えしたほどである」というのは、戦前の旧制高校の教科書にされていた黒板勝美著『国史通論』の一節である。 ほかもまあ似たり寄ったりだが、これらは、どれもみなうそっぱちなでたらめなのである。どうして、こんないいかげんな話が生まれたかといえば、幕末にでた、『絵本太閤記』のたぐいをそのままうのみにしたためだろう。
これはつまり『西遊記』をよんで、かっての中国には、「孫悟空とよぶ、サル面の豪傑がいた」と信じたり、 「猪八戒なる白ブタの大勇士もいた」と本当にするようなものであるらしい。
つまり、お話というのはおもしろければよろしく、針小棒大。いろいろエスカレートする。 そうしたお話では耳の中へしまいこんでいた小さな鉄棒を、ワンタッチで大きくして振り回してもよいが、ほんとうの事実なるものはそうではないのである。 さて、江戸時代に、「士、農、工、商」といった分類の仕方をしたから一般の大衆つまり侍でない者は、みな百姓だったとするようだが、実際はそういう事はありえなかった。 封建時代にあっても田畑をもつ者しか耕せなかったのが実情。 では秀吉の生家はなんであったかといえば、木こりかまき売りだった。
通説の、父が鉄砲足軽だったというのも、これまたうそらしい。 なぜかというと、鉄砲伝来は天文十二年(1543年)で、これが九州でも大友家で武器として採用しだしたのは、天文二十年と記録に残っている。 だから尾張まで伝わってくるには、それから五年ぐらいはかかろう。 となると秀吉が二十歳のころの時代になる。 それでは子どものときに死別した弥右ヱ門が、鉄砲足軽であるわけはない。それから、当時、 「遠江」とよばれたのは今の静岡ではなく、浜松市である。
駅前のバスにのって「頭陀寺」へゆくと、昔の小さな城あとは、今では幼稚園になっているが、 その向こうのたんぼの中に畳四枚ほどの竹やぶがあって、「松下加兵衛屋敷跡」の棒杭がある。 秀吉が奉公していたのは、ここに頭陀寺十二坊という薬師寺派の大きな僧院がめったころで、 松下は今でいえばその僧院のガードマンのボスだった。さて、であるからして、 (浜松はそのころ、今川の勢力範囲だから、その家来だったろう)というのも早とちりである。 のちの浜松城はそのころの引馬城の飯尾豊前守は、今川の幕下にあったが、松下は宗旨違いで直接の家来ではない。薬師寺の寺侍の大将のようなものだから、サラリーは寺から貰っていた。 そこで桶狭間合戦で織田信長のため、今川義元が討たれたの後のことだが、「手引きして殺させたのは飯尾らしい」と疑われた豊前守が、
「私ではありもうさん。宗旨違いの松下が怪しいのでござる」と、頭陀寺を襲って焼いてしまった。そこで松下は久能山へ逃げこんでいたが、 「あだを討たして下され」と、徳川家康に仕えてから、今川義元の子の氏真を攻めた。 それゆえ、のち秀吉から久能山の三千石は貰ったが、すぐ家康へこれを提供し、その隠居所にして貰い、関ヶ原合戦でも家康側にたって豊臣を攻めている。 この方が本当なのである。
松下と秀吉との関係は実際はこういうところだから、前述の歴史家のとく説はみな事実誤認としかいいようがないようである。 また、秀吉が勤皇だというのも、おへそでお茶をわかしたいような話である。 (注)明治新政府の高官といっても、下賤の出が多く、ろくに歴史も知らず、「豊臣は反徳川だから勤皇だったろうと」 正一位の追位をしているぐらいのものである。 そのころ、奈良興福寺多聞院に、英俊和尚とよぶ筆まめな人がいて、毎日々々のことを日記につけていた。今も伝わっているが、その中にも、 「正親町天皇の皇太子誠仁親王さまが、ハシカにかかって一日でなくなられたというが、三十五歳の親王が子どもの病気で死なれるはずはない。 秀吉に殺されたか自害されたのだろう。かねて秀吉は自分は前帝と持萩中納言の娘の間に生まれた正統な皇位継承者だ、といいはって居るから して、これで次の帝はもはや、秀吉に決まったようなものだ」と書いている。 また秀吉は恐れ多い話だが、
「自分はこんな古くさくむさい御所をつぐ気はないから、聚楽第とよぶのをこしらえる」 と、大阪万博なみの規模をもつのを、京のまん中の十丁四方の人家を強制的に取りこわして建設にかかった。 そこで正親町帝が無念がられて、「あんなやつに皇位を奪われるのは、まことに残念である」 と絶食して自害なさろうとハンスト始められた、ところが秀吉は御所へのりこみ、
「こら女官どもッ、おかみの口をこじあけてでも、何かを食していただかんと責任はそのほうらに及び、みな丸裸にして御所の外塀へぶら下げるぞ」とおどかした。 びっくりした女官たちは、ヒイヒイ泣き叫んで、むりやりに帝に重湯をすすめ奉った。 さて、秀吉は強引に帝位を奪うわけだったが、死んだ誠仁親王の亡霊がでて、落雷や火事が各所に起き、自分の命もあぶなかろうと、公卿の山科言経らにおどかされ、 「それでは困る」と、やむなく誠仁親王の忘れ形身の後陽成帝を御位につけ、 (本来ならば、ここが新御所になるわけでしたが、これまで付けてはあげられません。
ただ見せて上げるだけですよ) と天正十六年(一五八八)四月十四日から五目問、ご滞在を願っただけの話。こんな勤皇のしかたがあるのだろうか。つまり、これまでの秀吉伝説は、 正確な史料からすると、みなデタラメなのである。まやかしに過ぎない。 秀吉は、ただ希代な銭儲けの天才みたいな男で、それで巧く金で、天下をとったのにすぎない。 といって、それは悪いというのではない。今でも、儲けのこつは、それはおおいに利用できるだろうからである。
箱根の関所 「箱根の山は天下の険」という有名な歌がある。この歌は何のことは無く、箱根に登山鉄道が出来た際の PR用の宣伝唱歌なのである。江戸時代、本当の所はここ箱根の関所は「天下の権」で、 険は険でも、権力の権で、つまり徳川幕府の 国家権力のことだった。 日本は海外旅行をする際、現在と違って昔は出入国管理所で日本円は一万円以上の持ち出しは禁じられていた。 そして余分を持っていれば没収されたものである。 箱根の関所も同じで、現代でこそ「入り鉄砲と出女の禁」とまことしやかに伝わっているものの、これは与太話で、実は徳川体制の出入国管理所であった。
日本は世界にも例の無い、一国二制度製貨幣制度で、西と東では銀本位制と金本位制とに厳然と区分されていたと以前 「手形の由来」に記したが、此処の関所は東下りしてくる者は手持ちの銀は一貫匁以上は関所でオカミに没収された。 そこで余分の銀を持っている者は、どうせ関所で取り上げられてしまうのなら、旅の恥はかき捨てとばかり、 豪勢に使ってしまえと、箱根にさしかかる三島の宿場で(流連)いつづけして、飯盛り女郎の総揚げをして散財をしたのである。 さて有名な春日局は前の夫、稲葉正盛との間に産んだ子供、稲葉正勝を可愛がっていた。 そこで我が子可愛さのあまり、ここ小田原十万石の城主だった大久保忠隣を除封し、阿部正次を藩主にさせた。 これはいきなりやるのもえげつないので阿部はクッションの役目で、その後春日局は家康に頼んで四年目に吾が子稲葉正勝を小田原城主にさせている。 これは小田原が管轄する箱根の関所は膨大な金銀没収ができ莫大な利益があればこそである。
そて、 江戸時代の刃傷第二号は、貞享元年(1684)八月二十八日。 春日局第四子正則の子の、若年寄稲葉正休が、ときの大老堀田正俊を刺殺した。稲葉はその前日、 「五代将軍様に春日局のおん血をひく綱吉様を将軍に迎えた功によって、我らは幕閣を左右できる身分になったが、 自分はれっきとした直孫なのに、堀田は外孫を妻に迎えた血脈の者。 にも拘わらず堀田が春日局さまの遺産を独り占めとは怪しからん。ゆえにわしは成敗してくれる」と、父正則の代からの家老どもを呼んで、 頭を下げて言って聞かせ、父正則が小田原十万石時代に溜め込んだ金銀を、 「不公平のないように家中一同に配分し、みなが路頭に迷わぬよう致してやれ」家臣団が動揺せぬようにと手配し、こうして後顧の憂いを無くして登城し、 遺産を横領された仇討ちに堀田正俊の胸を一突きにして仕止め、自分も寄ってたかって斬り殺されている。 つまり殿様が危ない時には、家来は身命を賭しても守るが、その代わり殿も、 「家来が困らぬように責任を持つこと」といったのが、誠の武士道精神であった。 「まわし」とは相撲の褌ではない さて、こうした訳で三島の宿場は次々と散財する泊まりの遊び客で大繁盛し、また大混雑だった。 だから女郎衆も客から客へといそがしくマワシを取るとも言えないから客には「お化粧直しに一寸」といって 別の客の男のところへ行ったから、現代でも唄に残っているように「三島女郎衆は化粧が長い、化粧が長けりゃノーエ」の唄になって伝わっている。 余談になるが昭和三十年、四十年代のキャバレー華やかし頃も、大店となればホステスは在籍300人とか、800人以上もいて、 売れっ子ともなれば客の指名でホールを忙しく走り回っていた。 この時も彼女たちは別の客から指名が入ると「一寸おトイレに」(オトイレを音入れにもじって「録音してきます」等と言っていた女も居た)と言って席を離れたもので、 粋人の客は、遊び慣れているので、 マワシをとられているのが分かっても大様に構えていて、野暮は言わなかったものである。これを「粋な男の痩せ我慢」という。