自民党安倍派の裏金議員で高市早苗氏の推薦人である西田昌司参院議員が「ひめゆりの塔」展示について書いてもいないデマを流して「歴史の書き換え」と発言。歴史を書き換えて嘘に修正しているのは彼ら右翼政治家だ。

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西田昌司参議院議員と言えば、2025年7月の参院選で改選を迎えるにあたって、今の石破茂首相では戦えないと、2025年3月12日の自民党参院議員総会で
「今の体制では参院選を全く戦えない。リーダーを選び直さないといけない」
と述べ、2025年度予算案の成立後に党総裁選を実施すべきだと主張し、その後記者団にも現状のまま参院選に臨めば
「大惨敗する」
「腹の中で(首相退陣を)思っている人はたくさんいる」
と訴えた人。
そして、西田議員は自民党でも右翼として知られ、2024年秋の自民党総裁選では高市早苗候補の推薦人にもなった裏金議員ですから、
「事実として前回総裁選の党員投票で一番多かったのは高市氏だ。そういうことも含め、もう一度、党内議論が必要ではないか」
その直後に、石破首相が自民党の1年生議員たちに商品券10万円分を贈った事実が判明したため、西田議員はさらに3月14日にも
「予算を通したら、もう使命を果たしたのだから、退陣されるのが正解だ」
と述べて、2025年度当初予算の成立後の首相退陣を要求しました。
その直後に、高市氏は西田氏になんだか差し入れしたとか何とかくだらない投稿をしていますので、二人は極右議員としていまだに仲良しなんでしょう。
西田昌司参議院議員が、憩室炎で小麦使用食品を食べられないと話しておられたので、「粉もんが好きな関西人が、うどんを我慢するのは辛いよなぁ」と思い、私が気に入って食べている米粉うどん(大阪東部JAが開発)を差し上げようと考えました。…
— 高市早苗 (@takaichi_sanae) March 25, 2025
さて、小物議員なので知らない方もいるかと思って西田氏をご紹介する前振りが長くなりましたが、その西田昌司参院議員がよりによって憲法記念日の5月3日に、それも沖縄県那覇市内で開かれた「憲法シンポジウム」の講演で、糸満市にある「ひめゆりの塔」の説明書きについて、日本軍が沖縄に入って来たことでひめゆり学徒隊の生徒が亡くなり、アメリカによって沖縄が解放されたという内容だったとした上で
「ひどい。歴史の書き換えだ」
などと言及したことが話題になっています。
その憲法記念日にうちでアップした下記の記事に、常連コメンテーターの狸子さんから
『今日は憲法記念日なので、38年前の朝日新聞阪神支局襲撃事件の記事を今年も読み、言論と報道の自由について、今年はなおさらに、考えなければならない。
我が家ではこれがルールです。
そんな日に、自民党議員がひめゆり記念館に対し冒涜する汚言をはいた最低な記事を読んでしまいました。
宮武先生の記事希望します。
よろしくお願いいたします。』
と真摯なリクエストをいただいたので、今回はうちにしては珍しくさっそく記事にいたします。
【#憲法記念日】侵略戦争と植民地支配の反省の元に作った日本国憲法が「よい憲法」だとわかるためには、戦前の日本が起こした侵略戦争であるアジア太平洋戦争と植民地支配に対する理解と深い反省が必要だ。
この西田発言、いろいろと酷い点が多々あるのですが、まず第一に、憲法記念日に那覇市で行われたシンポでの講演だったこと。
これはかつて、おおさか維新の会代表だった橋下徹大阪市長が、2012年11月10日に、よりによって広島で
「(日本に拠点を置く)米海軍第7艦隊が核兵器を持っていないことはあり得ない。日本が米国の核の傘に守られている以上、持ち込ませる必要があるなら国民に理解を求めたい」
と語り、さらに、被爆者の方々や広島市などが訴えている核兵器廃絶については、
「理想としては(廃絶)。でも、現実的には無理ですよ、今の国際政治で。日本は平和ぼけしすぎている」
と言い切ったのに匹敵する暴言と言えるでしょう。
池田信夫氏と珍問答 核武装論者の橋下市長は、核廃絶は無理も何も、そもそも核廃絶などする気がない
次に驚いたのが、このシンポの主催者が神道政治連盟沖縄県本部と、沖縄県神社庁と、日本会議沖縄県本部でつくる実行委員会で、これを自民党沖縄支部が共催したものであったこと。
日本最大の極右団体である日本会議に沖縄県支部もあるであろうことは、2011年9月22日が投開票だった沖縄県知事選挙に自公推薦で出馬した佐喜真淳元宜野湾市長が、日本会議系の団体「沖縄県祖国復帰記念大会実行委員会」が主催する「沖縄県祖国復帰42周年大会」なる集会に参加して閉会のあいさつをするなど、日本会議べったりの右翼だったことで、何となく想像は付いていました。
沖縄県知事選、日本会議の会員で、前回の知事選から8回も統一教会のイベントにも出席し、辺野古の新基地建設を容認する自公推薦の佐喜真淳候補だけは絶対に当選させてはならない候補者だ。
しかし、沖縄にも神社庁があり、神道政治連盟があるんですね。
前述のうちの憲法記念日の記事で、日本国憲法の立法事実はすべて戦前の日本と日本が引き起こした侵略戦争と植民地支配の事実とそれに対する反省にあることを書きました。
その中でも、神社神道を国教として天皇を神格化・絶対化した国家神道体制が戦争を可能にした元凶であり、日本国憲法では政治と宗教を分離する政教分離が徹底して規定されたことを書きました。
その政教分離原則や国民主権原理を無視して、靖国神社に首相は公式参拝しろとか未だに言っているのが神社本庁であり、神道政治連盟なわけですから、その組織が戦争で最も大きな被害を受けた一つである沖縄の地で活動しているということにあらためて私は驚いたんです。
しかしまあ、西田議員のボス安倍晋三氏が組閣した第三次安倍内閣では25人中22人の閣僚が神道政治連盟という大惨事だったのですから、沖縄にもいるのは当たり前なんでしょうね。

さらに、今回の西田発言で一番ひどい話なのは、西田氏がひめゆりの塔の展示内容をあげつらって
「要するに日本軍がどんどん入ってきてひめゆりの(学徒)隊が死ぬことになった。アメリカが入ってきて沖縄は解放されたという文脈で書いている」
「まるで亡くなった方々が報われない。歴史を書き換えられると、こういうことになっちゃう」
と言ったくせに、実はひめゆり平和祈念資料館の普天間朝佳館長が西田議員の指摘した内容について
「塔や資料館の記述にはない」
と指摘し、
「史実や歴史に誠実に向き合って発言してほしい」
と批判していることなんです。
西田氏の発言の方がデマで、事実の「書き換え」じゃないですか。
アジア太平洋戦争の末期、米軍は日本本土を攻略する拠点とするため、1945年3月26日に沖縄本島の西方沖にある慶良間(けらま)諸島に、4月1日に本島中部の西海岸にそれぞれ上陸しました。
日本軍は本土決戦の時間稼ぎのため持久戦を展開しました。
司令官の自決で日本軍の組織的戦闘が終結したとされる6月23日まで約3か月に及んだ地上戦で、日米合わせて約20万人の死者が出ました。
そのうち住民の死者は9万4000人(推計)にのぼり、沖縄出身の軍人・軍属2万8228人と合わせて、沖縄県民の4人に1人が亡くなったとされる凄まじい地上戦が沖縄戦だったのです。
その責任はひとえに沖縄の人々を犠牲にして天皇制の温存を図った大日本帝国と旧日本軍にあります。
西田議員の
「要するに日本軍がどんどん入ってきてひめゆりの(学徒)隊が死ぬことになった。アメリカが入ってきて沖縄は解放されたという文脈で書いている」
という「誤読」は大筋、実は歴史通りなのです。
自分でもそれが真実だと知っているから、ひめゆりの塔の展示にもそう書いてあるに違いないと思い込んだのでしょう。
ひめゆり学徒隊には沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒・教師240人が動員され、半数以上の136人が犠牲となりました。
その悲劇を偲ぶのがひめゆりの塔です。
ひめゆりの塔と同じ敷地で当時の実相を伝える「ひめゆり平和祈念資料館」は、1989年の開館で今年で36年になります。
西田議員は、戦後の米統治で日本人が
「完全に洗脳された」
「ここまで間違った歴史教育は(自身の選挙区である)京都でもしていない。かなりむちゃくちゃな教育をされている」
と述べましたが、そもそも、ひめゆりの塔やひめゆり平和祈念資料館に行ってもいないでデマを流したのでしょう。
そのあたり、立花孝志氏に踊らされるネット民そっくりです。
誰かに洗脳されているのは西田議員の方なのです。
参考記事
沖縄テレビ
”平和の砦であり続けるために”開館35周年のひめゆり平和祈念資料館が力を入れるワークショップ
ひめゆりの少女: 十六歳の戦場
編集後記
ひめゆり学徒隊の少女たちは、沖縄戦の中で傷ついた兵士や市民を必死に看護する中、自分たちも半数以上が亡くなってしまったのです。
その悲劇の元はと言えば、日本が侵略戦争を起こしたこと、そして市民にいくら犠牲が出ても一向に終戦しようとしなかったから、沖縄での地上戦にもなってしまったからではないですか。
その中で日本軍が沖縄の人を犠牲にしたのは紛れもない事実です。
それを右翼がどう言いつくろうとしても、歴史を書き換えようとしても、事実は変えられませんよ。
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ひめゆりの塔展示を「歴史の書き換え」と発言 西田参院議員の発言要旨
神道政治連盟県本部と県神社庁、日本会議県本部でつくる実行委員会が3日に那覇市内で開いたシンポジウムで、自民党の西田昌司参院議員が過去に見学した糸満市のひめゆりの塔の展示内容を挙げ「ひどい。歴史の書き換えだ」と述べた。
西田昌司参院議員の「ひめゆりの塔」に関する発言は以下の通り。
緊急事態が出てくる前に、みんなが気付いて、国民保護できるための法律の整備をしないといけない。そのためにはまず、われわれ自民党の議員が、国場(幸之助)先生も含めて、間違ってきた戦後の教育とか、でたらめなことをやってきたのをやめなきゃいけない。
特に、沖縄の人にお願いしたい。かつて、私も何十年か前、国会議員になる前に、ひめゆりの塔にお参りに行ったことがある。今はどうか知りませんけど、ひどいですね。ひめゆりの塔で亡くなった女学生の方々が、たくさんおられるが、あの説明を見ていると、要するに日本軍がどんどん入ってきて、ひめゆり(学徒)隊が死ぬことになっちゃったと。そして、アメリカが入ってきて、沖縄が解放されたと。
そういう文脈で書いているじゃないですか。亡くなった方々は救われませんよ。本当に。だから、歴史を書き換えられると、こういうことになっちゃうわけですね。そういう話は結構、それなりの市民権を持っているわけですよ。
われわれ京都の中でも、共産党が非常に強い地域ですけど、ここまで間違った歴史教育はしていません。沖縄の場合には、地上戦の解釈を含めて、かなりむちゃくちゃな教育のされ方をしてますよね。そのことも含めて、もう一度、われわれが自身の頭で考え、ものを見て、流されている情報が何が正しいのかということを自分たちで取捨選択して、自分たちが納得できる歴史を作らないとできないと思います。それをやらないと、日本は独立できないですよ。

ひめゆりの塔の展示は「ひどい。歴史の書き換えだ」自民・西田参院議員が発言 憤る平和祈念資料館長「沖縄戦体験者の思いを踏みにじる」
神道政治連盟県本部と県神社庁、日本会議県本部でつくる実行委員会は憲法記念日の3日、那覇市内でシンポジウムを開いた。自民党の西田昌司参院議員が講演し、過去に見学した糸満市のひめゆりの塔の展示内容を挙げ「ひどい。歴史の書き換えだ」と述べた。
その上で、旧日本軍を念頭に「亡くなった方は救われない。歴史を書き換えられるとこういうことになってしまう」と発言した。
また、「沖縄の地上戦の解釈はかなりむちゃくちゃな教育になっている」とも言及。「自分たちが納得できる歴史をつくらないといけない」と訴えた。
シンポは党県連が共催。1部は故安倍晋三元首相の顕彰祭を開き、2部では西田氏と国場幸之助氏(自民)が講演した。(政経部・又吉俊充)
■西田議員が発言した記述、実際にはなし
自民党の西田昌司参院議員が過去に訪れたひめゆりの塔の展示を「歴史の書き換えだ」などと発言したことに、ひめゆり平和祈念資料館の普天間朝佳館長は「沖縄戦体験者の思いを踏みにじる発言だ」と憤った。
普天間さんによると、塔や資料館には西田議員が発言したような記述はないという。普天間さんは「資料館の展示は体験者の話がベース。沖縄戦を体験した県民や、ひめゆり学徒隊の過酷な体験を否定する発言だ」と語気を強めた。
戦後80年が近づき、沖縄戦体験者は減り、風化も叫ばれる。普天間さんは「私たちにとっては踏ん張りどころ。戦争は絶対に起こしてはならない。体験者から渡されたバトンをしっかりと次の世代につないでいきたい」と強調した。(社会部・滝口信之)
ひめゆりの塔「歴史書き換え」 自民・西田参院議員、シンポで発言 沖縄


自民党の西田昌司参院議員が、憲法記念日の3日に那覇市内で開かれた「憲法シンポジウム」(主催・県神社庁など、共催・自民党県連)の講演で、糸満市のひめゆりの塔の説明書きについて、日本軍が沖縄に入って来たことでひめゆり学徒隊の生徒が亡くなり、アメリカによって沖縄が解放されたという内容だったとした上で「ひどい。歴史の書き換えだ」などと言及した。戦後日本の教育を批判する文脈での発言。ひめゆり平和祈念資料館の普天間朝佳館長は西田議員の指摘した内容について「塔や資料館の記述にはない」と指摘し、「史実や歴史に誠実に向き合って発言してほしい」と語った。
西田議員は講演で、何十年か前に訪れたというひめゆりの塔について、「要するに日本軍がどんどん入ってきてひめゆりの(学徒)隊が死ぬことになった。アメリカが入ってきて沖縄は解放されたという文脈で書いている」と発言。「まるで亡くなった方々が報われない。歴史を書き換えられると、こういうことになっちゃう」と批判した。
また戦後の米統治で日本人が「完全に洗脳された」とし、その後の教育や報道を批判する持論を展開。県の沖縄戦教育についても、「ここまで間違った歴史教育は(自身の選挙区である)京都でもしていない。かなりむちゃくちゃな教育をされている」と述べた。
普天間館長は、資料館の設立課程には「生存者自身が長い間語ることができなかった戦争体験を見つめ直し、戦前の学校生活から振り返った重要な蓄積がある」と説明。「展示内容には沖縄戦の教訓を次世代に伝える思いがちりばめられている」と強調し、「多くの人に理解してもらうためにも、われわれはぶれずにしっかり腰を据えて発信していく」と語った。
「ひめゆり」の記憶つなぐ 戦後生まれの資料館長 普天間朝佳さん(その1)

6月上旬。沖縄県糸満市の「ひめゆり平和祈念資料館」では、修学旅行で訪れた中学生たちがメモを取りながら展示を見て回っていた。有名な「ひめゆりの塔」と同じ敷地内にあり、多くの学生や観光客らが足を運ぶ。新型コロナウイルス禍前までは、元ひめゆり学徒たちが来館者を迎えていたが、その姿はもうない。
第二次世界大戦末期の沖縄戦で日本軍による組織的戦闘が終結して23日で79年。「証言員」として沖縄戦の体験を館内で語ってきた30人のうち21人が世を去り、存命の元学徒たちも90代半ばとなった。「彼女たちがいてこその資料館だったので、寂しさはある。コロナ禍が落ち着いたので『また戻りませんか』と声をかけたが、『もう無理よ』という答えだった」。館長の普天間朝佳(ちょうけい)さん(64)は残念がる。
資料館がオープンしたのは1989年。23日の沖縄慰霊の日で開館35年を迎え、これまでに約2400万人が訪れた。普天間さんは8代目で、初の戦後生まれの館長だ。
「ひめゆり」は、45年に沖縄戦が始まった頃、那覇市安里で校舎を共有していた沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の愛称だった。両校には教員などを志す13~19歳の女子生徒たちが県内各地から集まり、勉強や部活動に励んだ。だが、米軍の上陸が迫ると、15歳以上の上級生は日本軍の要請で戦場に駆り出された。丘に掘られた「病院壕(ごう)」で約2カ月間、重傷を負った兵士たちを看護した。
手術場では痛みに耐えきれず暴れる患者を押さえ、壊死(えし)を防ぐために切断された手足を壕の外に運んで捨てた。食事の運搬や兵士の遺体の埋葬も生徒たちの仕事で、砲弾が飛び交う中を走り回った。
沖縄本島中部に上陸した米軍は南北に分かれて進攻した。首里(現・那覇市)にいた日本軍(第32軍)の司令部は米軍が迫ると、本島南部へ後退。女子生徒たちも南部の壕へ移ったが、その後になって軍から病院の「解散」を告げられた。爆撃の中に放り出される形となり、両校から動員された240人(教師18人を含む)のうち、半数以上の136人(教師13人を含む)が命を落とした。当時、編成された九つの女子学徒隊の中で、動員数、犠牲者数ともに際立って多い。
「ひめゆり学徒隊」の悲劇は、戦後間もない50年ごろから小説や映画などで繰り返し紹介され、全国的に知られるようになった。46年建立の「ひめゆりの塔」には60年代以降、日本本土から観光客が押し寄せた。だが、生き残った元学徒たちの多くは長い間、体験を公にすることはなかった。
その理由を普天間さんはこう語る。「『生きるも死ぬも一緒に』と誓い合った学友たちが目の前で亡くなっていき、戦後、彼女たちは生き残って申し訳ないという思いを抱いた。友達のご遺族と出会うのが怖くて、隠れるように生きていたという話も聞きました」
元学徒たちや両校の卒業生らが資料館建設に踏み出したのは80年代。戦後40年近くがたち、「亡くなった学友や先生のためにも戦争の実相を後世に伝えたい」という思いが次第に強くなった。卒業生でつくる同窓会が資金集めに奔走し、元学徒たちは意を決して学友たちが亡くなった壕に入り遺品や遺骨を集めた。
元学徒ら退いた後も
迎えたオープンの日。雨天にもかかわらず、遺族や卒業生らが次々と訪れ、元学徒たちが出迎えた。亡くなった生徒と教師の写真が並んだ展示室で涙を拭う来館者もいた。後日、普天間さんは、元学徒で7代目館長の島袋淑子(よしこ)さん(96)からこう聞いた。
「実はあの日を迎えるのが怖かったのよ。ご遺族にどう思われるかと。展示を見たご遺族が『これで、皆と一緒にいられるね』と喜んでくれて、私もほっとして涙が出てきた」
普天間さんは戦後の59年、同県中城(なかぐすく)村で7人きょうだいの末っ子として生まれた。沖縄戦では県民の4人に1人が亡くなったとされる。普天間さんの祖父や叔父、いとこら6人も本島南部で命を落とし、一緒に行動していた母と当時3歳だった姉はどうにか生き延びた。「母が生きたおかげで自分がいる」と思う。
琉球大を卒業後、那覇市役所の職員や地元新聞社が発行する副読紙の記者などを務めたが、どれも長続きしなかった。29歳の時、開館を控えた資料館が職員を募集していることを新聞で知り、採用試験を受けた。「ここなら、やりがいのある仕事ができるはずだ」という予感があった。
開館時の職員は普天間さんら2人だけで、元学徒たちは無報酬で館の運営や展示の説明などさまざまな仕事を担った。「私も結構忙しくて『大変なところに来てしまった』と思った。でも、彼女たちが60歳前後になって、慣れない仕事を一生懸命やっている姿を見ると、弱音は吐けなかった」
館長は代々、沖縄戦を体験した元学徒らが務めていたが、2018年、普天間さんは館長を任された。
「それまでの館長の存在の大きさを感じていたので、荷が重いと思った。でも、高齢となった体験者にこれ以上頑張ってもらうわけにはいかないというのが一致した意見でした」
元学徒の思いが詰まった資料館。ところが、普天間さんが館長に就任してほどなくして、存続の危機に直面する。<取材・文 遠藤孝康>
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インチキ選挙で反社連合が勝った昨秋の兵庫県知事選挙と同じ手口ですね。
統一教会や日本維新の会の反社たちの手下立花孝志が、多くの有権者を間違った方向に扇動した手口です。
兵庫県警が立花孝志を野放しにしているのは、政権にとって使える存在だからではないですか。
一方で、斎藤元彦の「公益通報者保護法に定められた組織内体制整備義務の対象は、内部通報に限定されるという考えもある」という発言に政府関係者がダメ出しをしているのは、これ以上暴走されて問題がさらに大きくなれば、この手口と立花が使えなくなるからでしょう。
ところで、問題の斎藤元彦。知事と副知事、次長級以上の職員を対象としたパワハラ研修を受けるのだとか。
パワハラ犯を認めながらも、自らの処分はせずに「研修」でごまかそうとしていますが、これで無罪放免となるのなら、これまでにパワハラで処分を受けた兵庫県職員はどうなるのでしょう。研修を受ければ処分は撤回?
それに、今後も斎藤のパワハラが続いた場合でも、「研修」ですませるつもりなのでしょうか?
どこまで行ってもインチキまみれ、ツボまみれ。
言葉になりません。
今日はこれだけで失礼させていただきます。
また、先生のお名前をご変換しまして申し訳なく存じます。ご容赦下さいませ。
またしてもすみませんでした
それはさておき、西田昌司は歴史教育に文句をつけていますが、文句を言いたいのは沖縄の方々の方でしょう。
昨年、教科書検定で合格した令和書籍の中学校歴史教科書における沖縄戦記述に批判が広がりました。この出版社代表があの竹田恒泰です。「沖縄戦についてここまで詳しく説明している教科書が、ほかにあるだろうか」と自画自賛しますが、右翼作家のエッセイは教科書とは言わないです。
慰霊の日特集/歴史教科書と沖縄戦/研究成果と戦前美化のはざまで/県民が向けるべき視線とは
https://www.qab.co.jp/news/20240620215154.html
沖縄戦の学徒隊を「志願」、特攻隊を「散華」と記述しました。「散華」=「華と散る」ですよ。戦争のリアルを知らない懐古主義オタクの自己満足(国史教科書と銘打ってます)が、歴史の事実をねじ曲げ右翼プロパガンダ、日本スゴイ物語にしてしまいました。
「子どもと教科書全国ネット21」が文部科学大臣に抗議文を出していますが、そこに教科書の酷い内容が一部記されています。
令和書籍『国史教科書』検定「合格」による「近隣諸国条項」と「河野談話」の有名無実化に抗議する
https://kyokashonet21.jimdofree.com/%E4%BB%A4%E5%92%8C%E6%9B%B8%E7%B1%8D/
私は別コメントで現在の歴史授業は生徒が討論し考えるスタイルになったと書きましたが、こんな偏向内容をみっちり刷り込まれてしまったら10年後の日本はどうなってしまうのか心配です。右翼傾向の教科書は他にもあるのです。
ウクライナ全面侵攻後のロシア教科書で愛国的傾向が顕著になったり、イスラエルの教科書ではパレスチナ人に対する嫌悪が醸成されるような内容となっていたり、事実を歪曲する教育は恐ろしい結果をもたらします。米国もトランプ党の支配する州では同じ道をたどるでしょう。独裁基盤を盤石にするためには国民を画一的に思想統制するのが効果的です。日本がこの仲間入りをしないよう声を上げ続けなければなりません。
長くなっちゃったので本文に載せませんでしたが、西田議員についてはこの記事の写真が印象的です。
『立憲民主党が自公国と相乗りして反共路線で辛勝した京都市長選挙。共産と協力して自公両党と対決し現職市長に大勝した前橋市長選挙。立憲民主党の支持者が望んでいるのは前橋の闘いだということは明らかだ。』
https://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/bbd4741b2584f73e99d58cfc9b3e1e79
今回の講演も結局、反共主義が言いたかったんですよね、西田講演の要旨を見ると。
裏金議員であることの指摘より、統一教会議員であることを書いた方がよかったかもです。
ゴメンテーターさんも秋風亭師匠もいつも鋭いコメントありがとうございますm(__)m