KOFUKUの家から

演劇的体質の自由人
大きな愛にいだかれて
チワワたち猫たち
南のちいさな森の家にて
芸術的田舎暮らし真っ最中

Come,Yet Again Come~帰っておいで

2012-02-16 | KOFUKU日記
今日からまた少し冷え込んできた南の国です。
それでも、春の足音はもうずいぶん近くに聞こえてきました(^^)


《梅のつぼみが随分膨らんできました》



《庭に面したお山の天高くそびえる大きな椿の木も満開。》
《何百もの花が咲いています。》


我が家(実家)の裏のお庭は25~30畳くらいの広さがあるかと思いますが
そのうちの三分の一くらいの広さが花壇と畑になっています。
一番奥の高くなった部分にじいじがコケや梅などの木を植えてくれて
その手前ではいまハーブを育てています。

以前、住まわれていた方が、たくさん植物さんたちを育てておられたようで
最近、寒さが緩み、雨が降るごとに、あちこちからぽこぽこと花芽が出始めました。
いったい何の芽だかわからないのがまた楽しみで、そのまま出てくるままに育てております。

ちびさんたちも元気です。


《まろたんと会えないのでカンナちゃんにべったりです(^^)》

  
《今日は雨も止んで日向ぼっこの二人》

日常は穏やかに流れて行っています。


あぁ、だけど、ただ生きるって事は何て難しいのだろう?
死と向き合う事はなんて難しいのだろう?

最近、独りで出来ることは、思いを巡らすこと、
ほんの少しの種類の音や映像を目にする事
こうして文字を打ち込むことだけになった。

これさえもできなくなったら、大変。
だから、その不安を迎えないために、こうして文字を打ち込む自分がいる。

人と会う、何かを共にする、一緒に生きる、当たり前の簡単な事。
なのに心が向かわねばなんて難しい事だろうね。

大切な人の死を経験すると大抵、人ごみが嫌いになるそうだ。
雑踏の会話が苦手になるそうだ。
なんで、この世にこんなにたくさん生きているのに、
あの人が死ななくてはいけなかったのか?
なぜ私が生き残ったのか?
ずっとこの疑問を持ち生きるのだそうだ。

はい、類にもれずであります(-_-;)

なんとか、そればかりを思い浮かべずに、
ほかの人の波動に合わせて笑顔浮かべて生きられる
そんな時期だってないわけでもないのに、
ひとつトリガーに引っかかると、寝ても覚めても、
思いばかりが浮かぶそう思う時期もあるのです。

今はそんな時期。
話しもできる、ご飯も食べられる。
きっと周りは平気なんじゃん?と思うかもしれないな。

だって周りには心配かけたくないし、自分が倒れたら迷惑かける。
こんな状態で、そんな風にいたくない。

思わず、こんな詩がよぎる。


********************************

《最後だとわかっていたら》
ノーマ・コーネット・マレック


あなたが眠りにつくのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは もっとちゃんとカバーをかけて
神様、仏様ににその魂を守ってくださるように祈っただろう

あなたがドアを出て行くのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは あなたを抱きしめてキスをして
そしてまたもう一度呼び寄せて 
抱きしめただろう

あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが
最後だとわかっていたら
わたしは その一部始終をビデオにとって
毎日繰り返し見ただろう

確かに いつも明日は やってくる
見過ごしたことも取り返せる
やりまちがったことも
やり直す機会が いつでも与えられている

「あなたを愛してる」と言うことは
いつだってできるし
「何か手伝おうか?」と声をかけることも
いつだってできる

でも もしそれがわたしの勘違いで
今日で全てが終わるとしたら
わたしは 今日
どんなにあなたを愛しているか 伝えたい

そして私達は 忘れないようにしたい

若い人にも 年老いた人にも
明日は誰にも約束されていないのだということを
愛する人を抱きしめるのは
今日が最後になるかもしれないことを

明日が来るのを待っているなら
今日でもいいはず
もし明日が来ないとしたら
あなたは今日を後悔するだろうから

微笑みや 抱擁や キスをするための
ほんのちょっとの時間を 
どうして惜しんだのかと
忙しさを理由に
その人の最後の願いとなってしまったことを
どうして してあげられなかったのかと

だから 今日
あなたの大切な人たちを
しっかりと抱きしめよう
そして その人を愛していること
いつでも 
いつまでも大切な存在だと言うことを
そっと伝えよう

「ごめんね」や「許してね」や
「ありがとう」や「気にしないで」を
伝える時を持とう
そうすれば 
もし明日が来ないとしても
あなたは今日を後悔しないだろうから

******************************

なんだか、共感。
でも旨にあるのは「後悔」っていうんじゃない気がする。

たぶん、最後がわかってて、相手に何をしていても、
失ってしまったら、たぶん、今の私と間違いなく同じ気持ちになるだろう。
だって愛する人へは、何をどれだけ捧げたって尽きないものだから。

事実、そうおもって相方さんのそばで精いっぱい暮らしたけれど
やっぱり彼が天に帰ってみると、同じ、いや前よりも深い道を歩んでると思う。

だけど今は、その思いが自分のいのちを支えている気がする。
痛みが愛を教えてくれるとでも言ったらいいんだろうか?
だから、難しさの中で、じりじりする気持ちの中で
こうして、のたのたと足踏みをしていられるんだと思う。

思いが巡ると、それはどんどん過去に進んで行って、
自分の人生のあちこちを掘り返す。
それは喜びもあれば、痛かったり、かゆかったり、
辺に苦しかったりもする。

昔、それこそ、まだ歩き始めの乳児の頃から
私が心配していたことは、家族が生きているか?という事だった。
夜中に起きて、寝てる家族の口の前に手をかざし
息をしているかを、胸に手を当て鼓動を聞いて
それらを私は毎晩確かめて、そして眠った。

大きくなって大事な人が隣に眠るようになっても、いつもそうだった。
隣にいる人の暖かさや鼓動は安心できるものだった。
それを確認することは長い間の儀式みたいなもので、
いまもその音やぬくもりや息の感触が手に残っている。

だけど最近はちびたちが顔周りにくっついて眠ると
暖かさや心臓の鼓動が耳に聞こえてくるのが苦手になった。
その音がいつか止まってしまうことを
私は二度もはっきり知ってしまったから。

独りでいるとそんな思いがぐるぐる回る。
メリーゴーランドみたいにまわり続けてる感じ。
唯一、そんな話をできた人が天国に行ってしまったのだ。
元気なのか、元気じゃないのか?もう自分でもわからなくなる。
それを確認するすべが、いまは傍にない。
そういう事は特別な人にしかできない事だったりするから。

それでも「後悔」に似た、愛の痛みみたいなものが
自分を支えてくれることだけは間違いない気がする。

私は物書きの端くれだからか、言葉に力をもらう事が多い。
何か思うたびに、ふと、そういう言葉たちが浮かぶ。

人生や生きるというメリーゴーランドの高みにいる時も、低い場所にいる時も。

******************************

《帰っておいで》
メブラナ・ジェラルディン・ルーミー



Come, Come, Yet Again Come

Come, Come whoever you are,

Wanderer, worshipper, lover of leaving,
It doesn’t matter.

Ours is not a caravan of despair.

Come, even if you have broken your vow
a thousand times.

Come, yet again, come, come.


帰っておいで、何度でも
何度でもいいよ、かえっておいで。

さすらい人も、
求める人も、
世捨て人でも、
誰であっても、かまわない。

私たちは絶望しない者たちの集まり。

帰ってくればいいよ。
たとえ1000回自分に負けてたとしても。

だから戻っておいで。
何度でも。

戻っておいで。かえっておいで。


*****************************

今日はこんな言葉に癒されている自分がいる。

ホント、人生、
雨の日も、晴れの日も、だな。

ただ一つ、確かに解ってることは、
なんにしても自分しか答えは出せないってこと。

私は私を巡って、また私に帰るしかない。
善きにつけ、悪しきにつけても。

そしてたぶん、これは永遠。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿