《在りし日の相方さんと溺愛娘のぴーちゃん》
米澤観児を愛してくださる皆様へ
11月19日は敬愛する俳優でありパートナーであった
米澤観児氏の6回目(5年目)のメモリアルディ。
彼が向こうに戻ったのは、紫深い空に一番星がきらめく夕刻でした。
彼を覚えていてくださる方が、もしこれをご覧になっておられましたら
秋の夕暮れにほんの少しの時間、彼を思ってくださったなら
空の上の彼もとても嬉しいのではないかと思います。
共にお祈りくださったならありがたく幸せです。
本年もこの時期に合わせて、ご挨拶のお便りを予定しておりましたが、
この10日ほど酷く体調を崩し、やっと今日復活したところです。
その様な訳で、今年は郵便の発送が遅れてしまいました。
どうしようか悩みましたが、嬉しいご報告もあるので
中には19日を超えてしまう方も在るかもしれませんが
お便りさせていただきたいと思っております。
また、昨今、メールアドレスやご住所の変更でご連絡がつかなくなった方が多くおられます。
皆様のお知り合いの方に米澤氏を知る方がおられましたら、
ご案内などご伝言いただけましたら嬉しく存じます。
何卒よろしくお願いいたします。
《これは生前、相方さんが一番お気に入りだったぴーちゃんとのツーショット》
《本当に、いつでもどこでも、どんな時も、二人は一緒でした》
《間違いなく芝居する以外の時間は彼女のために生きていたと思います・笑》
《ここからは独り言です》
「秋の夕暮れ、彼はお星様になりました」
そういう風に言えば、なんとドラマティックでロマンティックなことだろう。
でも、人によって、誰かの死と言うものは現実的な壮絶さを呼ぶ。
なんたって、それまで築き上げてきたものが突然に、忽然と消えてしまうのだ。
確かにそこにあった過去を消し、現在を消し、未来までも消し去ってしまう。
思いはその人の中に在る。生きている。
その通り。
私もそう思うし、そう実感している。
とはいえ、人間の心というものは、かくもはかない存在だ。
例えどんなに相手を信頼していても、愛していても、理解していても、
相手は自由には見えもせず、聞こえもせず、触れることも出来ない。
そうなれば、寂しさと孤独がどんどん追い詰めてくる。
いや、見えないだけで、いると思うし実感もある。
稀に遭遇するときもある(私の場合)
実際は目の前にいるのだ。
呼べば来てくれるのだ。スーパーマンのごとく。
わかってるんです。ええ。
けれど、それは稀であって、しかも人間は奇跡を見てさえ忘れ、
不安におちいるアホだからね、ホトホト困るよね。
身罷った人らに何か疑問が浮かんだところで、答えを出してくれる相手の声が
即、わが耳で聞けなければ、ただただ不安や哀しみにしか繋がっていかない。
なんて、与えられる愛情に浅ましく、根性の無い魂にしか育てられなかったんだよ!
これまでの自分をぶん殴ってやりたい!と自分にキレることの多いことと言ったら…。
心の闇は広がるばかりで、ココロノ病院に行って、
「何か一つくらい、やりたかったことぐらい残ってるでしょう?
やってきたことと、並ぶくらいのものはありませんか?」
と、言われても、本当に無いのですよ、これが。
あるわけないよねー、それを至高のものとして目標として
命を懸けてやってきたんだもん。命なんだからさ。
命って生きることだし、愛だし、真実だし、すべてでしょ?
大体、人間、命に代わるものってあるの?
私が聞きたいよ。
ましてや、私の場合、全く無になった死から出発して、
再度見つけ、掲げた物だった。だから、なかなか…。
探しても、探しても、代わるものは見つからない。
だから、せめて残っているものを、命に代えて守っている。
ぴーちゃんやぴぴちゃん、無垢なる魂たち。
この感覚、感情、思考、思想、これまでの生き様のすべてを。
それを持って、新しく生まれてくる日に日々向き合う。
それしか今は出来ない。
頭に駆け巡る相方さんの声。
「雪が降っている。季節はずれの雪だ。きれいだな。最後の喘ぎだ…」
思わず胸ン中で後の台詞を続けてしまう。
「難しいな。疲れを癒すのはなんて難しいんだろうね…」
あぁ、観ちゃん、今ならわたしゃメグスが出来そう(笑)
こんな自分がいたたまれず、どうしようもなくなって
心の中で天を仰いで爆発的に語ってみたりもする。
観ちゃん、ぴーちゃんはもうすぐ15歳だよ。
もう歩くのもよちよちになってきたんだよ。
おわかれの明日がいつ来るかと不安だよ。
くそう、観ちゃんめ、ぴーちゃんとのお別れをしたくなくて先に逝ったな!
あー、今月、もうにゃんことわんこのご飯代と病院代で生活費がございません。
どうするんだよ。お互いのお金はすべて演劇に使ってたからね。
あたしゃ、一円もお金が無いのは知ってるでしょ?
おーい!飼い主、帰って来い!
ごめんねぇ、逝っちゃってすぐ、きっとそっちも不安だったろうに
人に連絡をまわすのが精一杯で、全然傍にいられなかった。
ご家族が居たから、割り込んでまで傍に居たいとはいえなかったんだよ。
お金も何も私は持っていなかったから、なにも私が決めてあげられなかった。
大好きだった家すら、戻してあげることも叶わなかった。
大好きだった仲間達も全員に合わせてあげられなかった。
お通夜もお葬式もぴーちゃんを同伴させてあげられなかった。
お世話になった人たちにも何もしてあげられなかった。
親御さんやご家族にも、お友達にも、仲間達にも。
何一つ、私はしてあげられなかった。
今でも、私の中はただただ申し訳なさでいっぱいだよ。
未だに思い返すものは何も見れない触れられない。
だからお墓にもいけない。
お墓の代わりに身につけてる遺骨ペンダントを握って祈るくらいしか出来ない。
友達が送ってくれた、お墓から見た景色の写メを見ながら祈るくらいしか出来なくてごめん。
家族を守りたい、代わりに親孝行をと思っても、
この状態では助けてもらうばかりで何もしてあげられない。
遺されたちびたちを守るって行っても現実は厳しい。
3月までに家が見つからなければ、犬猫ともどもホームレス確定。
どんなことをしても、この子達は手放さないけど。
持ってかれるくらいなら、一緒にテントで暮らす覚悟だ。
世間の風は犬猫飼ってる人間にきびしいものです、観ちゃん。
そんな自分はあたしが出来ることは、このイノチと引き換えに
観ちゃんが私の手元に遺してくれたものを守ることくらいだから。
「誰にも手放したくない」と最後まで言っていた絵を守ること。
いのちだ、と言ってたぴーちゃんとその家族の小さいもの達を守ること。
演劇をするために生きてる、といった、芝居や芸術のために生きること。
嘘のない真実を生きること。愛を生きること。
すべての人に感謝を持って生きること。
せめて誰かの、何かの役に立つことを出来る範囲でやっていくこと。、
それらを目指して生きていくことくらいしか、いまのところ出来ないよ。
だって、どうしたって、自分の目指す世界はそっちに行った人たちと共に在るのだから。
胸に溢れ出てくる言葉はこんなのばっかり。
どうしたって愚痴になる。
だから実際の言葉にはできんのよ。したくないのよ。
ああ、観ちゃん、世の中はめまぐるしく変わっていくよ。
地震や災害が次から次に起こって
たくさんの場所で争いがあって、テロが起こって
平和な日本もいつしか戦争の足音まで聞こえるようになったよ。
私が一人でこの子達を最後まで見守れるように見守っててよね。
こうやって、迷い道のまんま、6年目にはいります。
でも、そうして毎回気づくんです。
こんなにも迷うのは、まぎれもない愛が、ここに今もあるからだと。
そんな6年目の始まりです。
そして
結局、いつも行き着く思いは
「いまあなたが幸せでありますように」
それだけです。
そして、あなたの引っ越した日に、重ねて思うのです。
すべての愛するものを失ったかなしみにある方々に
いつか安らぎのときが訪れますように
すべての人の間に愛が生まれるように
いつか平和が訪れますように、と。