
吐月峰 柴屋寺
今川家に仕えた連歌師・宗長が永正元年(1504)または永正三年に元は太田道灌の家臣で、後に今川家の家臣となった斎藤安元の援助で結んだ草庵・柴屋軒が前身。

宝物も多く展示してあり、後水尾天皇短冊・足利義政より拝領の文福茶釜(芦屋釜)・一休宗純より宗長が賜った鉄鉢・宗長所持の青磁香炉・今川氏親寄進の螺鈿菓子器・今川義元寄進の横笛・武田信玄寄進の高麗茶碗「村雲」・細川幽斎寄進の南蛮焼獅子香炉などなど

庭園
宗長作庭と伝わる

徳川家康手植えの「手向槇」

宗祇・宗長木像
連歌黄金期を支えた師弟

宗祇・宗長の墓
宗祇は文亀二年(1502年)に亡くなり、同行していた宗長は「宗祇終焉記」を著した。
宗長の師は宗祇ですが、もう一人師と呼べる人物が一休宗純です。宗長は一休に参禅し、終の棲家を一休ゆかりの酬恩庵に求めますが結局叶わず天文元年(1532)この柴屋軒で亡くなりました。
2人の偉大な師に比べ宗長は知名度が劣りますが、決して並の人物ではありませんでした。
永正13年(1516)武田信虎と大井信達が争った際、今川氏親は信達に援軍二千を送り甲斐勝山城に入城させたが、武田信虎は城を包囲してしまう。今川氏親は武田と和議を結ぶべく使者を派遣したが、この時交渉役に任命されたのが宗長だった。50日間に渡る交渉の末に宗長は見事に和議をまとめ、今川勢二千の救出に成功している。