ただ生きるのではなく、よく生きる

自然の法則をとらえ、善(よ)く生きるために役に立つ情報を探して考えてみる

悟りの境涯は「明鏡止水」に

2017-06-24 17:51:23 | 知恵の情報
なお注意すべきは、われわれの心は、良きも悪しきも、正も邪も、反対観念もヒネクレた
心も、時と場合とに応じて、出没極まりなく、さまざまに変化して、決して自分の意の
ごとくならぬものであるからその起こるがままに起こし、心の流れるままに流して
いけば、いわゆる「明鏡止水」というふうに、心が自由自在の働きができるようになり
「悟り」の境涯にもなるものであります。そのわれわれの心がさまざまにヒネクレ、ネジケル
のは、たとえば、松の木が必ずしもまっすぐに伸びず、曲がりくねるのと同様です。
これについて、一休禅師の話があります。あるとき、一休が、「この松を誰かまっすぐに
見ることのできるものがあるか」という問いに対し、ある人が「この松は曲がりくねって
いる」と答えたとのことです。すなわちその松を、あるがままに正しくまっすぐに見て、
正直に表現したのであります。曲がった松を直ぐに見直そうとし、ヒネクレタ心を単純に
取り直し、思い曲げようとするところに、種々の強迫観念や、妄想煩悶が生起する
のであります。

─『現代に生きる森田正馬のことば 生活の発見会編II 新しい自分で生きる』
 生活の発見会 白揚社より



境涯:きょうがい ;人がこの世に生きてゆく上での立場。境遇。身の上。

明鏡止水
【読み】 めいきょうしすい
【意味】 明鏡止水とは、邪念が無く、静かに落ち着いて澄みきった心の状態のたとえ。
【明鏡止水の解説】
「明鏡」は、一点の曇りもない、よく映る鏡のことで、「けいめい」とも読む。
「止水」とは、流れずに静かにとどまって、澄んだ水面のこと。
 曇りの無い鏡と澄んだ水面のように、安らかに落ち着いた心境をいう。
『荘子・徳充符』にある「明鏡」と「止水」の二つの言葉を合わせてできた句。
「明鏡」は、甲徒嘉のことば「鑑明らかなれば則ち塵垢止まらず、止まれば則ち明らかならざるなり
(鏡が きちんと磨かれていれば塵は付かない、塵が付くのは鏡が曇っているからだ)」から。
「止水」は、孔子のことば「人は流水に鑑みること莫くして、止水に鑑みる。唯止まるもののみ能く
衆衆の 止まらんとするものを止む(人は流水を鏡として使うことはなく、静止した水を鏡とする。   
ただ不動の心を得た者のみ、心の安らぎを求める者に対して、それを与えることができる)」から。
【出典】 『荘子』
【注意】 「名鏡止水」と書くのは誤り。
【類義】 虚心坦懐/光風霽月
<故事ことわざ辞典より>