このタイトルを見て、落語に詳しい方は「あれっ」と思われたかもしれない。
「あたま山」といえば、シュールな落語の名作である。
文化年間から小話やまくら程度に演じられていた物を、八代目林家正蔵(晩年 林家彦六)が膨らまして一席にまとめたモノだそうだ。
もちろん、江戸前の落語なので、タイトルは「愛宕山」とかけてある。
「シュール」というのは、強引に言えば「ふぇち」と少し似ていて、物事のある一面を捉えて誇張して表現している、と思うとわかる気がする。
それゆえに、作者の「捉え方」と自分の「感性」の方向性が合わないと、全く理解不能に陥る。
「シュールレアリズム」の「絵画」等は良い例かもしれない。
ここで、話を戻そう。
今日観たのは、NHK BS2で放送されていた「ヤマムラアニメーション」作製の「頭山」である。
舞台が現代に置き換えられているほかは、ほぼ、忠実に「落語 あたまやま」の世界が再現されている。
最後の「オチ」を映像で、どう表現しているのか、とても期待してみていたのだが、まあ、60点くらいの出来であった。
で、困ったのは、家族が見終わって、
「どういう意味?」
と聞かれた時である。
もちろん、説明は出来る。
が、それを「なるほど」と納得してもらえるかと言えば、そうではないのである。
元々、「落語」と言うのは、小道具も無く衣装も無く、「口演」のみで客のイメージのかなに様々なものを思い起こさせる「演芸」である。
実は、これに類する物は、日本以外には無く、昔、桂 枝雀が、海外公演のときに苦労したと言う話がある位だ。
その中でも、この「あたまやま」は、観客のイマジネーションへの挑戦とも言える作品である。
「あたま」の上に、花見客が来て、船が出る。
そして、最後は「あの」オチなのだ。
結構、シュールで上級の笑いである。
で、案の定、うちの家族は「頭の上に花見客が出る」辺りから、ついてこれて居ない。
この作品が「面白くするために強調したい」方向に、感性があっていないのである。
なので、説明しても「???」なのである。
それを責めても意味が無い。
先に書いたとおり、「シュール」にも、合う、合わないがあるのである。
なので・・・。
もうカンベンして。お父さんは、これ以上は説明できないの
参考:PHP文庫 千字寄席
「あたま山」といえば、シュールな落語の名作である。
文化年間から小話やまくら程度に演じられていた物を、八代目林家正蔵(晩年 林家彦六)が膨らまして一席にまとめたモノだそうだ。
もちろん、江戸前の落語なので、タイトルは「愛宕山」とかけてある。
「シュール」というのは、強引に言えば「ふぇち」と少し似ていて、物事のある一面を捉えて誇張して表現している、と思うとわかる気がする。
それゆえに、作者の「捉え方」と自分の「感性」の方向性が合わないと、全く理解不能に陥る。
「シュールレアリズム」の「絵画」等は良い例かもしれない。
ここで、話を戻そう。
今日観たのは、NHK BS2で放送されていた「ヤマムラアニメーション」作製の「頭山」である。
舞台が現代に置き換えられているほかは、ほぼ、忠実に「落語 あたまやま」の世界が再現されている。
最後の「オチ」を映像で、どう表現しているのか、とても期待してみていたのだが、まあ、60点くらいの出来であった。
で、困ったのは、家族が見終わって、
「どういう意味?」
と聞かれた時である。
もちろん、説明は出来る。
が、それを「なるほど」と納得してもらえるかと言えば、そうではないのである。
元々、「落語」と言うのは、小道具も無く衣装も無く、「口演」のみで客のイメージのかなに様々なものを思い起こさせる「演芸」である。
実は、これに類する物は、日本以外には無く、昔、桂 枝雀が、海外公演のときに苦労したと言う話がある位だ。
その中でも、この「あたまやま」は、観客のイマジネーションへの挑戦とも言える作品である。
「あたま」の上に、花見客が来て、船が出る。
そして、最後は「あの」オチなのだ。
結構、シュールで上級の笑いである。
で、案の定、うちの家族は「頭の上に花見客が出る」辺りから、ついてこれて居ない。
この作品が「面白くするために強調したい」方向に、感性があっていないのである。
なので、説明しても「???」なのである。
それを責めても意味が無い。
先に書いたとおり、「シュール」にも、合う、合わないがあるのである。
なので・・・。
もうカンベンして。お父さんは、これ以上は説明できないの
参考:PHP文庫 千字寄席
それだけに、頭山を演じることの出来る落語家ってのもなかなかいませんし(あくまで面白く演じることのできる人)怪作ですよね。
それって、これに限らず落語全般で大事な話しですよね。
最近は、寄席の放送って少なくなっているので、「落語」に接する機会自体が減って今すけど、たまに飛行機の「JAL寄席」とかで「ああ、このネタ、掛かっている」と思って聞いたときに、技量が無くてがっかりする事もあります。
落語って、今後、どうなるんでしょうねぇ。
他の表現方法に置き換えると、筋書きだけになってしまい、
面白さが消えてしまいそうです。
シュールな落語といえば、僕は「粗忽長屋」が好きなんですよ。
あれって、P.K.ディックだと思いません?
そうなんですね。
「話芸」なので、知っているからと言って、素人が話しても面白くないし。^^
>シュールな落語といえば、僕は「粗忽長屋」が好きなんですよ。
>あれって、P.K.ディックだと思いません?
「粗忽者」って、結構シュールな行動に描かれがちですよね。
でも、「ディック」と来ましたか。
思いも付きませんでしたが、なるほど、と言う感じです。
ぢゃ、「粗忽長屋」を、ハリソン・フォードとシュワちゃんで
原因のひとつとして、聞く側の感性の鈍化があると思います。
今は、何でも具現化、いいかえれば映像化、ビジュアライズされてないと、受け手側が理解できなくなってるような気がします。
落語のように、観客のイマジネーションに訴えかけるような芸は、はっきり「こういうもんだ」と見せ付けないと理解できない現代人の多くには、受け入れにくい芸となっている、そんな気がします。
もっとも、落語に出てくる言葉、言い回し、道具、場所などが、現代では馴染みの薄いものが多いことも、落語が沈みかけてる原因だとは思いますが。
いずれにせよ、一平まで真打になれるようじゃ、落語界の未来も明るいとはいえないでしょう(毒)
落語協会(?)のやっている「真打制度」は、年功序列ですからね。
一度も「落語」をやっているところを見たこともない人が、「真打」なのは、どうなんでしょう??
「観に来ないほうが悪い!」とも言ってはいられないと思うのですけど。
落語のシュールさって、「考え落ち」なんですよね。それがすごく好きで。
落語の中では「芝浜」みたいな人情噺が好きだったりします。
いいっすよねぇ。人情話。
芝浜、渋いです。
「子はカスガイ」とかも好きで、小学生から
嵌っていました。
落語につられてやってまいりました。
私は、談志師匠が大好きなだけで、落語好きとはいえないのですが。
師匠の「芝浜」は絶品ですね。涙なしには観れません。
>聞く側の感性の鈍化
なるほど、聞きなれないとホント疲れますよね、落語って。口承文芸って身近にありませんものね、今。
いらっしゃいませ。
談志師匠も良いですよねぇ。
何より「浜芝」の奥さんの度量に驚きますよね。
元来、日本は「賢母」の国と言う言葉もあるようで
上手に泳がされている身にとっては、あらためて
かみさんに頭が下がります。
>>聞く側の感性の鈍化
>なるほど、聞きなれないとホント疲れますよね、落語って。口承文芸って身近にありませんものね、今。
そうですねぇ。
感性ももちろん、環境も無いですよね。現在。