先日のリサイタルのMCのために
ちょっと・・・下調べをしていたら、面白いことがわかりました。
ま、ご存知の方もいらっしゃることと思いますが、
Heinrich Heineが詩を書いていたのは、主にドイツにいたころのこと。
その時期に書いたものを “Buch der Lieder”としてまとめて出版しました。
1827年のことだったそうです。
有名な「歌の翼」も「詩人の恋」もその中に入っています。
その後1830年のフランスの革命に感銘を受けパリに移住したそうです。
そして、評論などをしながら、サロンに出入りしていました。
ある時、リストが2回連続でリサイタルを開いた時のこと。
その2回目の演奏会前に記事を書き上げたHeineは
リストに対して、「今のうちに読んでおいたほうが良いのでは?」と手紙を書いたそうです。
まさに悪徳評論家
良い批評に書き換えてほしければ・・・・
Geld !
もちろん、リストは無視して演奏会をしました。
案の定、翌日の新聞には「見るべきところのない演奏だったもの盛り上がったのは、
fanの女性陣の助力のおかげ」とかなんとか書いてあったとか、なかったとか・・・・。
それを機にリストはHeineとの縁を切ったといわれています。
日本ではHeineは昔から人気のある詩人です。
それはコミュニストっぽいところがあるからでしょうか?
ロマン派の音楽家から見ると大変に創作意欲を掻き立てられる作風だったのだと思います。
「憧れ」と「渇望」 それに異国情緒も
ユダヤ人であるためにより複雑だといわれているHeine
少し突っ込んで研究してみるのも面白いかもしれません。
ちょっと・・・下調べをしていたら、面白いことがわかりました。
ま、ご存知の方もいらっしゃることと思いますが、
Heinrich Heineが詩を書いていたのは、主にドイツにいたころのこと。
その時期に書いたものを “Buch der Lieder”としてまとめて出版しました。
1827年のことだったそうです。
有名な「歌の翼」も「詩人の恋」もその中に入っています。
その後1830年のフランスの革命に感銘を受けパリに移住したそうです。
そして、評論などをしながら、サロンに出入りしていました。
ある時、リストが2回連続でリサイタルを開いた時のこと。
その2回目の演奏会前に記事を書き上げたHeineは
リストに対して、「今のうちに読んでおいたほうが良いのでは?」と手紙を書いたそうです。
まさに悪徳評論家
良い批評に書き換えてほしければ・・・・
Geld !
もちろん、リストは無視して演奏会をしました。
案の定、翌日の新聞には「見るべきところのない演奏だったもの盛り上がったのは、
fanの女性陣の助力のおかげ」とかなんとか書いてあったとか、なかったとか・・・・。
それを機にリストはHeineとの縁を切ったといわれています。
日本ではHeineは昔から人気のある詩人です。
それはコミュニストっぽいところがあるからでしょうか?
ロマン派の音楽家から見ると大変に創作意欲を掻き立てられる作風だったのだと思います。
「憧れ」と「渇望」 それに異国情緒も
ユダヤ人であるためにより複雑だといわれているHeine
少し突っ込んで研究してみるのも面白いかもしれません。