想い事 家族の記録

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ゴミは自治体の指定にしたがって下さい。

2024-09-07 11:36:00 | 日記
ワンオペ業務中。
「◯◯さんて、そこの理容店の娘さんですよね」
と、たずねてきたお客様。

なんで、それを知っている?

いやだなー。
こうやって、家を特定して云ってくる人、たまにいるんだよな。

「僕のこと、覚えてませんか」

と云われ、顔を見たら、
なんか、見覚えがあるような、
ないような。

「就労センターの者ですよ」

と云われ、思い出した。
あー、帽子おじさんだ!

社会復帰のリハビリに通っていた就労支援施設センターの所長さんだった。
私は密かに、帽子おじさんと呼んでいた。
初めてセンターに行った日、
皆んなの前で挨拶する時に、
ずっと「挨拶の時は帽子を取ってね」と譲らなかった所長さん。
私は頑なに心を閉ざしていた時期だったので、
深く帽子を被り、顔を隠していた。
挨拶とは云え、帽子は絶対に取りたくなかったので、ささやかな抵抗を試みたのだが、相手は絶対に譲らなかった。
「挨拶の間だけでいいから、ちょっとだけ、取ってくれる?」
どうしても取って欲しい所長さんと、取りたくない私の意志が拮抗した。
ますます皆さんの視線は集まるし、地獄のような時間が流れた。
私が寝負けして帽子を取り、
挨拶するまで終わらなかった。

以来、私は彼のことを帽子おじさんと呼ぶようになったのだ。

その帽子おじさんはセンターを退職して、時々店を訪れては、私を見ていたらしい。

「声をかけたら悪いかなって、ずっと思ってたんだよ」

基本、お客様とは視線を合わせない接客を心がけているので、
よほど個性的なお客様でないと、
こちらからは気づかない。
声をかけられるまで、全く気づかなかった。
よく相手は覚えていたなと思った。

「あの頃は大変だったよね。
だいぶ元気になったように見えたから、良かったと思ってたよ」
と云って下さった。
「まだ通院しながらなんですけどね。
だいぶマシにはなりました」
と、こちらも自然に笑顔になれた。

あの頃は、笑うことすら難しかった。
センターの職員さんは皆んな優しくて明るくて、よく笑わせにきてくれたなと思い出した。 

この人たちは何がおかしいんだろうと思いながら見ていたが、
次第にセンターに通うのが楽しくなった。

お菓子の箱を作る仕事をした。
音楽を聴きながらやっても良かったし、疲れたら休んでもいい。
平和な場所だった。

この里山に越してきてからは、
本当に、色んな人に支えられてきたなと、あらためて実感した。
たまたまそうだっただけかも知れないけれど、
八王子では、酷い目にばかりあっていた。
仕事ができない私は、目上の人から疎まれていたし、
助けを求めた市の職員にまで罵倒された。
裏切ったくせに、元旦那は何度も何度も金の無心を繰り返す。
未来の選択肢の中に、
自死があったのは、今考えると、
本当に恐ろしい状況だ。

今は。
あと一歩のところまで来ている。
おそらく何をすべきなのか、
選択肢を増やせるくらいまで、
回復してきた。
何をすべきか。
理解しながら行動できていないが、
実際行動に移せたら、
多分、全ての鎖は断ち切れると
わかっている。

自分の未来に、こんな光景が待っていたなんて、あの頃は知らなかったよ。
でも、帽子おじさんは、
あの時なんであそこまで、
私の帽子に拘ったんだろうか。
俯いていないで顔をあげろとでも云いたかったんだろうか。
病んでいても、礼節はわきまえろと、云いたかったんだろうか。

謎は深まるばかりである。

「頑張ってね」

と云って、帽子おじさんは帰った。

私はいまだに、
俯いたまま、接客をしています。




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