水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

鎌倉幕府三人の将軍 ― 源頼朝と頼家・実朝 ―

2022-05-15 19:02:33 | 日記

 令和4年5月8日、春季講演会のテーマ「『大日本史』から見た鎌倉御家人たち」のなかの「鎌倉幕府三人の将軍 ― 源頼朝と頼家・実朝 ―」を開催しました。

 平家は京都での華麗・平安な生活に慣れ驕りが見られました。
 軟弱な貴族と化して栄華は短いものとなってしまいました。

 源氏はどうでしょうか。
 頼朝は、源氏の嫡流として再興を期し、伊豆では綿密な計画の下で準備を進めていました。
 従う御家人達も大勢集まり、遂に平家を倒し幕府政治を始めましたが、病魔に襲われての落馬が原因で命を落としたといわれます。
 その後の実子頼家・実朝の二代の将軍も短命に終わりました。
 何が原因であったのでしょうか。そこから学ぶことはどのようなことでしょうか。興味のある内容でした。

○ 金砂山の合戦 ―源頼朝と岩瀬与一太郎―
 治承4年(1180)11月、頼朝は佐竹秀義の籠る金砂山城を攻撃するも、城は地勢険絶、兵は精鋭、難攻の末にこれを落とし、岩瀬太郎らを生け捕りにします。頼朝の前に引き出された与一太郎は、(主人の敗れを思い悔しさに)流涕已まず。

 頼朝問う「何故に主と共に死なずや」
 太郎曰く「将軍に自らの所見を述べんがためなり。将軍は平家を討つことを以て事と為さず、しかも親族(佐竹氏は同じく源氏)を誅除するははなはだ非業である。今なすべきことは、天下の勇士と力を合わせて平氏を倒すことではないか。将軍の配下は、果たして心服しているのか、ただ威力に恐れているだけではないか。後世の非難は避けられまい。どうか熟慮せられよ」と。
 頼朝目黙然たり。
 これは、『大日本史』に載せられた名場面、佐竹氏のために、我らが郷土のために誇りとしたいところです。

 頼朝の欠点は「素直」でなく、「残忍酷薄」であり「猜疑心」「嫉妬心」が強く、慈愛の涙が少ないところです。嫡流嫡男の強い意志からは、兄弟縁者も容赦なく成敗していきました。範頼・義経・木曽義仲、そして佐竹氏を。厳しい苦難の連続がそうしたのでしょうか。

○ 頼朝の尊王
 しかし、日本の国柄を自覚し秩序の確立には心を尽くしました。

  • 尊王
    文治元年(1185)正月六日付け範頼宛て書状では、「返す返す大やけ(安徳天皇)の御事、事なきように沙汰させ給うべきなり」とあります。
    「安徳天皇はお助けせよ」(平家追討中、屋島合戦前のことですが、頼家・義経たちはこれを果たせませんでした)
  • 秩序の確立
    次は、朝廷と幕府の関係を明確に述べて、日本の国柄(国体)を明らかにしているところです。
    尾張国の御家人玉井四郎助重は勅命に背いて乱暴止まず、注意を与えようとした頼朝が派遣した使者の招きに応じず、かえって悪口を吐く始末でした。それへの処断に発した名言です。
    「綸命に違背するの上は、日域に住すべからず、関東を忽緒せしむるに依りて、鎌倉に参るべからず、早く逐電すべし」(『吾妻鏡』文治元年6月16日の条)
    (天皇の命に叛く者は日本から出ていけ、鎌倉将軍を無視するものは鎌倉に入ることはならないと。すなわち、頼朝は朝廷を無視して幕府政治を始め独裁制を施行したのではありません)

○二代目頼家は暗愚?
 頼家の夫人は、頼朝の信頼を得ていた比企能員の娘です。頼家の心は、北条家を離れて比企家に向いて行ったといってよいでしょう。母政子は、頼家に誡めて言う「(そなたの行動は政治に倦み、民の困苦への対策がない。女色に耽り、侫者を重用している)豈、海内を鎮撫することを得んや。汝が世に及びて、恩礼衰薄、人怨恨を懐けり」と。このような懸念があってか、御家人ら13人による合議制を採ったのであろう。
 頼家は、元久元年(1204)伊豆の修善寺で謀殺されます。


○ 三代目実朝の目は京都へ
 実朝の夫人は後鳥羽天皇の従妹です。頼家が謀殺されるなど北条氏を中心とする御家人の抗争が激しくなり、実朝の心は晴れませんでした。しかし、実朝が編纂した『金槐和歌集』にある以下の和歌には、優しくも勇壮・雄大な心が表れています。

 ・時により過ぐれば民の嘆きなり 八大龍王雨やめたまえ
 ・もののふの矢並つくろふ籠手の上に 霰(あられ)たばしる那須の篠原
 ・大海の磯もとどろに寄する波 割れて砕けて裂けて散るかも

 そして、次の歌には、父頼朝の「尊王の精神」を見ることができます。

 後鳥羽上皇との親交から
 ・山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも
 ・ひんがしのくにわがおればあさ日さす はこやの山のかげとなりにき
 ・大君の勅をかしこみちちわくに 心はわくとも人に言はめやも

 承久元年(1219)正月、前年暮に右大臣となった祝賀に鶴岡八幡宮へ参ります。不吉な予感からか、庭の梅を見て「出でていなば主なき宿となりぬとも 軒端の梅よ春を忘るな」と詠んでいます。はたせるかな、その拝賀の場で甥の公暁に刺殺され、公暁もまた生を失うに至ります。これにより、「頼朝の覇業遂に衰う」と『大日本史』は評しています。

 これらは、「家」の存続・継承が並大抵のものではないことを示しています。

 この抗争の背後に蠢(うごめ)いていたのは、まぎれもなく「北条氏」ではなかったのか。夫頼朝を突然失い、我が子頼家(23)、実朝(28)も若くして亡くした政子、その心境はいかがなものであったのか。心寒いものもあります。

源 頼朝 安田靭彦筆(『源平の時代展』茨城県近代美術館より)、北条政子 守屋多々志筆(『源平の時代展』茨城県近代美術館より)、右大臣源実朝 松岡映丘筆(『鎌倉武士』世界文化社より)

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