水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

平家の公逹 ― 清盛と重盛、重衡 ー

2022-05-01 12:49:19 | 日記

 今回は「『大日本史』に見る鎌倉御家人」のテーマの下に、「平家の公達(きんだち) ― 清盛と重盛、重衡 ―」と題して開催しました。

 清盛と重盛父子の間には、「われ、忠ならんとすれば孝ならず、孝ならんとすれば忠ならず」の名言や「衣の下の鎧」のことわざが生まれています。また、唱歌「青葉の笛」に詠み込まれた笛の名手敦盛(あつもり)や歌人忠度(ただのり)、また、敗者として捕縛された重衡(しげひら)、その世話役となった千手前が恋焦がれ悶死するなど、現代にも通じるさまざまな人間模様が語られました。

それにしても、なぜ平家の天下は短かったのでしょうか。

○ 平清盛の文化政策 

・ 清盛(きよもり)は大輪田泊(現神戸港)を築港し、日宋貿易の振興に尽くしたことは、清盛の国際性、先進性、博識、政権構想のスケールの大きさを示すものとして評価されます。

   文化財の保護にも努めました。天下及び一家の繁栄を祈願して安芸の厳島神社を修造し、法華経を書写して奉納しました(平家納経)。また三十三間堂を造営し、地方の歴史的文化遺産の修復などに努めています。地方に派遣された一人に平景清がいます。常陸の久福寺(茨城県那珂市飯田、現一乗院)にはゆかりの「景清桜」(写真)が残っています。  

 

○ 平家の公達(きんだち)

・ 平清盛(『大日本史』列伝79・80)と平重盛(「列伝」83)永万元年(1165)、平家討伐計画の噂が流れ、その元凶は後白河法皇とにらんだ清盛は、自ら鎧甲冑に身を固めて一家一族を招集し、法皇を幽閉しようとします。平服姿で赴いた嫡男重盛は、父の行動を次のように戒めます。

  我が平家は、逆臣を討ち乱を鎮めるなど、その功績もまた多い。今、何の咎などがあって非難攻撃されなければならないのか。平家打倒の噂は、おそらくは反平家の者たちが流したものです。軽々に事を起こすべきではありません。自分たちが、朝廷を敬い、民を恵めば、神もまさに我を助けてくれるでしょう。どうして、噂などにおそれることがあろうか。
  また、清盛は重盛の到来を聞き、急ぎ自ら衣で身を覆いますが、その下に着した甲冑姿は隠すことはできませんでした。
  重盛はさらに続けます。父がいかに法皇を幽閉しようとしても、自分重盛は法皇を守ります。しかし、子として父に対抗することはまた成し得ないことです。重盛が孝行を果たそうとすると忠義に反します。忠義を果たそうとすると不孝となります。実に進退いかんともなりません。
 「(私の)言、もし聴かれずば、請う、先ず重盛を斬られよ。」
と。ここに重盛の忠臣としての誇りと気迫、覚悟を見ることができます。
  不幸にして病を得た重盛は、父清盛に先立ち42歳で死去します。亡骸は高野山に葬られましたが、その後、家人の平貞能によって分骨されます。貞能は重盛の夫人を伴い常陸国の白雲山(茨城県東茨城郡城里町小松)に逃れ、小松寺を創建し重盛の分骨を埋葬しました。ここには夫人の供養塔も残っています。  

  貞能はその後。常陸国行方郡の萬福寺で死去したと伝えられています。

  清盛は、治承5年(1181)閏2月4日に64歳で亡くなります。最期に際して、

  ただ恨むる所のものは頼朝の首を見ざるなり。我歿するの日、堂塔を造ること無れ・・・願わくは、頼朝の首を斬りて以て墓上に懸けよ、凡そ我が子孫たらんものは、宜しく是の心を体し、敢えて懈(おこたる)ること勿(なか)れ。
と遺言しています。

  流石に清盛、平家の全盛を担った武人でありました。     

・ 平忠度(ただのり)は藤原俊成に師事し和歌を学び歌人としても知られていました。木曽義仲の入京に伴う京都脱出に際し、師の俊成を訪い和歌「さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山ざくらかな」を預け、後に編集される勅撰集『千載(せんざい)和歌集』への登載を依頼しました。一の谷の合戦で最期を迎え、名を名乗ることなく鎌倉武士の岡部忠澄に討たれます(41歳)が、箙(えびら)につけられていた和歌

  行き暮れて木の下陰影(かげ)を宿とせば花や今宵のあるじならまし

から忠度であることが分かります。俊成は、約束を守り登載しましたが、源氏の世に「平忠度」を称えることをはばかり、「詠み人知らず」としてしまいました。
歌人俊成の卑怯さが見えます。

・ 平敦盛(あつもり)は笛の名手でもありました。最期はやはり一の谷の合戦です。鎌倉御家人の 熊谷直実に討たれます、まだ17歳の少年でした。直実は自分の子直家を想い起し、世の無常を感じて出家して蓮生と称し、後に敦盛の妻子に出会い、敦盛の笛(「青葉」または「小枝」)を返したのでした。

平重衡(しげひら)は、父清盛の命令もあって、平家に対抗する奈良の東大寺や興福寺を焼き討ちしています。一ノ谷の合戦で捕縛され、鎌倉に送られ源頼朝の前に引き出されました。重衡は少しも臆することなく「早く斬罪に処せよ」と迫ります。近侍していた源氏の武士たちは、その潔さに賛嘆の声を上げました。

  頼朝は感服して重衡を赦し、寵愛の女房「千手前」に世話役を命じて篤く遇しました。しかし、東大寺・興福寺勢が重衡の身を要求し、奈良へ向かう途中で遂に斬首されました。時に29歳でした。
 重衡の側で世話役を果たしていた千手前は「恋慕の思い朝夕止まず」(『吾妻鑑』)遂に悶死してしまいます。

平宗盛(むねもり)は異母兄の重盛が亡き後平家の棟梁を務めましたが、平家は壇ノ浦で滅亡します。その際宗盛は捕縛され、鎌倉へ送られます。引見した頼朝は、比企能員をして云わしめます。
  平家の人々に特に怨みはありません、自分は朝敵となった平家追討の院宣を受けて軍兵を遣わしました。「こちら鎌倉までお下りいただき、恐縮に存じます。」
  宗盛(39歳)はかしこまり、媚(こ)び諂(へつら)い「命ばかりはお助け下さい、出家して仏の道に入りたい。」と命乞いをしました。周りの源氏の侍たちは、その態度に無念なりと舌打ちしたのでした。
  それに対して、宗盛の子清宗(17歳)は「わが家、世々朝家を護り、功ありて過(あやまち)無きは、世人の共に知る所なり。而して事既に此に至る。また何をか言わん。唯々、速やかに死を賜わるを幸と為すのみ。」と堂々と頼朝に迫ります。

  頼朝は、清宗の態度から処刑ではなく、自害を進めましたが受けられず、やむなく父子を処刑するに至りました。

 「 凡そ人物の本質の露呈せられるもの、一つはその得意の時に在り、二つはその失意の時に在る。就中(なかんずく)、失意逆境の時を以て、人間の値打ちは、明々白々に現れるのである。平素は誰も誰も大した違い無いように見え、相当に力もあり修養も積んでいるかに思われていても、さて一たび得意の地位に登れば、にわかに反り返って鼻は九天の上を指し、失意の逆境におちいれば、急にうなだれて目は地底を這うもの多い。要は品格である。平重衡、宗盛を比較し、頼朝の感服から学ぶことは多い。」(『続々父祖の足跡』平泉澄著)

 

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