水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

尊攘の嵐

2021-09-01 20:13:41 | 日記

  幕府が既に外国と条約を結び、外交を進め、留学生を派遣するなど開国政策を次々と打ち出している中で、朝廷や攘夷運動家が
 攘夷を実行しようとしていること、幕府も横浜港を閉じようとしていることは、時勢に合わず矛盾も甚だしいことです。筑波山で
 挙兵した若き水戸藩士の藤田小四郎や田中愿蔵たちも時勢を見る眼を失っていたと考えます。小四郎は幕府ありきの攘夷を愿蔵は
 討幕をと道は分かれますが、結果として素晴らしい才能を無にしたことは残念なことです。

  水戸藩の一橋慶喜公であるから、自分たちの心情を理解してくれるであろうとしたことは、一面で理解はできますが、慶喜公の
 立場からすれば容易に許すことは出来ないことです。

  武田耕雲斎は、心ならずも小四郎たちと同行することになりますが、悲劇の人という他はありません。しかし、島崎藤村は『夜
 明け前』のなかで、京都へ向かう水戸藩士一行の行動を好意的に描いてくれています。                                           結果として日本史上最悪の残虐な処刑を持った結果としたのは、あくまで幕府です。そこには、一橋慶喜公といえども、あるいは
 御三家水戸藩と雖も問題としない幕府の強力な権力・権威をみることができます。

                                                 
                                                                 田中愿蔵の墓(福島県塙町 安楽寺) 

 
資料に用いた『夜明け前』から水戸天狗党一行の姿を見て参りましょう。

背中に長患いをした母を背負った百姓へ 浪士二人が当所のものであろう寺があらば案内せよ、自分らは主君の首を納めたい。大病の老母のことを話すと、自分の家来を付けておく、早く案内せよとて来迎寺境内へ。
  浪士は境内の建屋の扉を開いて首級をその上に載せた。敬い拝して「こんなところで御武運拙くなり給わんとは夢にも知らなかった。御本望の達する日も見ず仕舞にさぞ御残念に思し召されよう、戦の習い是非ないこと
  と思し召されよ」と、生きている人にでも言うようにそれを言って、暗い土の上に額ずいた。短刀を引き抜いて土中に深くその首級を納めた。
それから浪士は元のところに引き返し来て、それまで案内した男に褒美とし
  て短刀を与えたが、百姓の方では「元来百姓の身に武器なぞは不用のものである」と堅く断った。そういうことなら、病める老母に薬を与えようと、銀一朱をそこに投げやりながら・・・。

浪士等の軍律を厳しくすること 幹部の眼を盗んで民家を掠奪した土佐の浪人のあることが発見され、この落合宿からそう遠くない三五沢まで仲間同士で追跡してとうとうその男を天誅に処した。その男の逃げ込んだ
  百姓家へは手当として金子一両を家内の者へ残して行った。

幕府閣僚の権威が強くなって、何事につけても権威をもって高二万石にも達しない飯田のような外藩にまで臨もうとするから(一藩の責任を負って家老が自刃までした。水戸浪士は間道通過)。しかし、砥沢口合戦の
  日にも和田峠に近付かず、諏訪(藩)松本(藩)両勢の苦戦を救おうとせず、必ず二十里づつの距離を置いて徐行しながら水戸浪士の後を追ってきたというのも、そういう幕府の追討総督(田沼意尊)だ。

耕雲齋の苦闘と至誠
 耕雲齋は抜き身の鎗を杖にして、田丸稲右衛門や山国兵部や藤田小四郎と共に、兵士等の間をあちこちと見て廻った。戦場のならいで敵の逆襲がないとはいえなかった。
一同はまたにわかに勢揃いして、本陣の四方を固める。その時、耕雲齋は一手の大将に命じ、味方の死骸を改めさせ、その首を打ち落とし、思い思いの所に土深く納めさせた。深手に苦し
む者は十人ばかりある。それも歩人に下知して戸板に載せ介抱を与えた。こういう時になくてはならないのは二人の従軍する医者の手だ。陣中には五十ばかりになる一人の老女も水戸から
随いて来ていたが、この人も脇差を帯の間にさしながら、医者たちを助けて甲斐甲斐しく立ち働いた。
 夜も早や四つ半時を過ぎた。浪士たちは味方の死骸を取片付け、名のある人々は草小屋の中に引き入れて火をかけた。その他は死骸の在る所で聊かの火をかけ、土中に埋めた。仮の埋葬
もすんだ。

禁裏御守衛総督一橋慶喜と幕府軍追討総督田沼意尊
 慶喜は厳然たる態度をとって容易に水戸浪士を許そうとはしなかった。そのために武田耕雲齋は浪士全軍を率いて加州の陣屋に降るの余儀なきに至った。しかし水戸烈公を父とする慶喜は、その実、浪士を救おうとして陰ながら尽力するところがあったとのことである。同じ御隠居の庶子に当たる浜田(10男:武聡)、島原(16男:昭嗣・忠和)、喜連川(11男:昭縄・
縄氏)の三侯も、武田等のために朝廷と幕府とへ嘆願書を差し出し、因州(5男:慶徳)、備前(9男:昭休、始め忍藩、後に岡山へ茂政)の二侯も、浪士等の寛典に処せらるることを奏請した。そこへ江戸から乗り込んで行ったのが田沼玄蕃頭だ。田沼侯は筑波以来の顛末を奏して処置したいとのも考えから、その年の正月に京都の東関門に着いた。                 武田耕雲斎
 ところが朝廷では田沼侯の入京御差し止めとある。怒るまいことか、田沼侯は朝廷が幕府を辱めるも甚だしいとして、兵権政権は幕府に存すると称え、あたかも一橋慶喜なぞは眼中にないかのように、その足で引き返して敦賀に向かった。正月の26日、田沼侯は幕命を金沢藩に伝えて、押収の武器一切を受け取り、28日には武田以下浪士全員を引き取りを言い渡した。この総督は、市川三左衛門等の進言に耳を傾け、慶喜が武田等死罪赦免の儀を朝廷より沙汰あるよう尽力中であると聞いて、にわかに浪士の処刑を急いだという。

田沼侯に対する世間の非難の声も高い
 水戸浪士を敵として戦い負傷までした諏訪藩の用人塩原彦七ですらそれを言って、幕府の若年寄ともあろう人が士を愛することを知らない、武の道の立たないことも久しいといって、嘆息したとも伝えらるる。この諏訪藩の用人は田沼侯を評して云った。浪士等の勢いの盛んな時は二十里づつの距離の外に屏息し、徐行逗留してあえて近づこうともせず、所謂風声鶴唳にも胆が身に添わなかったほどでありながら、一旦浪士等が金沢藩に降ったと見ると、虎の威を借りて刑戮をほしいままにするとは何という卑怯さだと。しかしまた一方には、個人としての田沼侯はそんな思い切ったことのできる性質ではなく、むしろ肥満長身の泰然たる風采の人で、天狗追討のはじめに近臣の眠りを覚まさせるため金米糖を席にまき、そんなことをして終夜厳戒したほどの貴公子に過ぎない、周囲の者がその刑戮を敢えてさせたのだという者も出てきた。

天狗派・諸生派の多くは、弘道館で学んだ人達。
それらを失ったことは、明治維新を迎えて水戸に人物なしの状況を作った。
開国への思考が育っていたらと残念に思う。

 

コメント
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