水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

渋沢栄一と徳川慶喜

2021-09-02 13:00:11 | 日記

   人との出会いは人生に大きな影響を与えます。渋沢栄一は、水戸藩の学問に触れながら、さらに一橋慶喜公の家臣となり、やがて徳川将軍家の家臣:幕臣となります。偶然にもとも言え
ますが、渋沢自身の能力を以てパリ万博にも派遣され、自己の才能をさらに発展させます。この時期、海外の姿を体験できたことは非常に大きい財産となりました。留学した他の幕臣(榎
本武揚ら)が、新政府において様々な分野で活躍した姿を見ればそれがわかります。世界への視野が広がり、それぞれの特色を尊重する心を養います。「青い眼の人形」と「答礼人形」の
交流に見る民間外交で平和な世界を目指したことは高く評価できるでしょう。

 また、渋沢栄一は、近代日本の資本主義の父とも言われますが、渋沢の本質は「資本の蓄積と活用」にあります。『論語とそろばん』の意味を、今日の経済界はよくよく見習うべきであ
りましょう。

 今回の講座は、「渋沢栄一の資本主義の父」などの面は他に置き、渋沢が德川慶喜公に心酔し、尊敬し、まことに慶喜公の忠臣であったことを示すことに意味があります。
『徳川慶喜公伝』の編纂は、渋沢の本領発揮です。後世に輝く事業といってよいでしょう。

以下に、資料として用いた『德川慶喜公伝』の一部を交えながら慶喜公と渋沢栄一の交流を紹介しておきます。

徳川慶喜公は云います「戊辰戦争で旗揚げすることは、国民に塗炭の苦しみを与えるのみである。恭順はすべて国家を思う心からである                            渋 沢 栄 一
   これを聞いて自分渋沢栄一は、「慶喜公はなんと偉大なるご人格ではないかと、益々尊敬の念切なるものがありました。」と語っています。

渋沢栄一は質問します「薩摩藩・長州藩などが幕府を攻撃しようとする動きの中で、仏国公使レオン・ロッシュが幕府への支援を申し出たのを謝、慶喜公が拒絶されたのはなぜですか」
   慶喜公は答えます
   日本の国柄は、兵は朝廷の命令によって動くものであり、それに違反することは朝敵・国賊の汚名を受けることになる。誰もが、その汚名を恐れたのであると。
   「よし、従来の情義によりて当家に加担する者ありとも、斯くては国内各地に戦争起こりて、三百年前の如き兵乱の世となり、万民其害を受けん。これ最も余が忍びざる所なり。」
   日本が朝廷と幕府とに分かれて戦うことは、戦国時代の悲惨さに戻ることと同じである。戦国争乱当時の国内の悲惨さを思い起こしてほしい。
  〈反面に、次の事実も重大なことでした。この戊辰戦争は、フランスの支援を受ける幕府とイギリスの支援を受ける官軍(薩摩藩・長州藩など)の戦いになったことです。当時、英仏
   間はシナ大陸での利権を廻って対立していました。まさに、日本人による英仏両国間の代理戦争になる危険性があったのです。血を流すのは日本人だったのです。〉

渋沢栄一は問います「德川慶喜公はなぜにせっかくの幕府を放棄する「大政奉還」をしたのですか」
  (自分慶喜は)何の見聞きたる事も候わず。唯、庭訓(家庭の教え)を守りしに過ぎず。
   そもそも水戸家は、義公以来尊王の大義に心を留めたれば、父なる人も同様の志にて、「此後朝廷と本家との間に何事の起こりて、弓矢に及ぶようの儀あらんも計り難し、斯かる際
   に、我等にありては、如何なる仕儀に至らんとも、朝廷に対し奉りて弓引くことあるべくもあらず、こは義公以来の遺訓なれば、ゆめゆめ忘るること勿れ」と。
   「万が一、朝廷と幕府が対立することがあった場合は朝廷方に味方するのだぞ、忘れるなよ」との水戸家の教えに従ったままのことでした。

 ここに、これら幕末の厳しい状況の中で、慶喜公がどのように判断を下し、実行していかれたかを聞き出し、記録した渋沢栄一の大きな功績を見ることができます。               徳 川 慶 喜

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする