今年令和7年は、昭和100年、敗戦後80年に当たります。
今年はそれらに因んだ内容の講演会を進めていきたいと思っています。
始めに日本と朝鮮との交流の新たな出発点として、日韓国交正常化60周年を記念して、1月26日(日)、本会事務局長の仲田昭一が「大西郷の征韓論を問う」と題して講演しました。
幕末・明治初期に於て、大国ロシアの南下は大きな脅威でした。それに対抗するために、日本は半島の李氏朝鮮の独立及び親日政権を期待していました。その実現のために征韓論は唱えられたのです。
征韓論は、西郷隆盛がその中心人物に据えられますが、西郷は決して朝鮮を征服することを目的とはしていませんでした。外交を以て同盟化を図ろうとしていました。
本講演は、西郷が交渉の特使として派遣されることが決定した後、どうしてそれが覆され、朝鮮との交流が実現しなかったのであるかを追った内容でした。
明治43年(1910)8月、日本は大韓帝国(韓国)を併合しました。この植民地化関係は、35年後の日本の敗戦まで続き、戦後は日本のそれまでの政策を批難・攻撃されてきました。
また、戦後朝鮮半島は不幸にして大韓民国(南)と朝鮮民主主義共和国(北)とに分断されました。
日本は、昭和40年(1965)6月、佐藤栄作首相と大観民国朴正熙大統領の間で日韓基本条約を締結し、親交に努めて来ました。
それから60年を経ました。しかし、南北を含む朝鮮問題は依然複雑です。征韓論を問い直しながら、今後さらに両国の叡智を傾けて相互理解を深め、融和に努めていきたいものです。
征韓論の背景
・幕臣勝海舟の東亜連盟論
日本の海軍を拡張し、先ず朝鮮を説き、次に支那(清国)を説き、三国同盟して、以て欧米の力に対抗すべしとの東亜連盟論を主張。
・長州藩士吉田松陰の対策
「幽囚録」の中で、日本の将来像を示して云う。蝦夷地の開拓から始まり、カムチャッカ・オホーツクを奪い、琉球・朝鮮を諭して親交し、やがて北は満洲・南は台湾・ルソンなどを収めて進取の気性を示すことであると。
・久留米の神官真木和泉守保臣
文久3年(1863)秋、西郷吉之助に宛てた書簡の中で、日本は朝廷の世の中に復し、朝鮮や満洲朝鮮・満洲・清国はもちろん、南海諸島一般をわが日本の指揮に従わせることなしには、国威を世界に輝せることはできない。
・福井藩士橋本景岳の日露同盟論
安政4年(1857)11月28日に、藩の重臣村田氏寿に宛てた有名な書簡。
今日の世界情勢は、やがては五大洲は一つの同盟国家となり、その盟主を立てることで世界の紛争は止むことになると思う。その盟主は、まず英国と魯国であろう。現在、英国は慓悍貪欲、魯国は沈鷙厳整である。いずれ後世には、人望は魯国へ帰するであろう。さて、その時日本はとても非同盟として独立はかなわないであろう。独立で行くためには、山丹(沿海州)・満洲の辺、朝鮮国を併せ、且つアメリカ州或は印度地内に領土を持たなければ、とても望みのようには行くまい。しかし現在はそれは難しい。その訳は、印度は西洋に侵略され、山丹辺は魯国が手を掛けている。その上、今は力不足、とても西洋諸国の兵に敵対して連戦はできない。かえって今の内に同盟国になるのがよい。米国やその他の諸国は交流はできようが、英国・魯国は両雄並び立つことは不可能であり甚だ扱いにくい。結論としては、自分(景岳)は是非露国に従いたく思う。ただし、その場合は日英戦争を覚悟しておかなければならない。
以上紹介した四人の意見は、日本の独立を保ち国威を発揚するには、近くは朝鮮や満洲、遠くはインド・アメリカまでを併合することがなければならないとした。これらを侵略思想という者もいますが、これらの意見はいかにして、日本を欧米列強の属国化から防ぐことができるかの深刻な叫びであったかを思うべきです。
征韓論の起こり
・朝鮮国大院君の改革と鎖国主義
朝鮮国若き高宗の父大院君は、一家の識見と猛断的な実行力をもって鋭意朝鮮内部の大改革に手を附け、また鎖国政策を強固に踏襲し、国防の整備に尽力しました。露国の東方侵略に備えた対処法でした。
・朝鮮と英米仏三国の衝突
江戸時代の交流は朝鮮の釜山にある「倭館」がその窓口であり、交渉は主として対馬藩が担っていました。しかし、対馬藩は朝鮮の外臣的存在でした。
この頃朝鮮国は、アメリカの商船ゼネラル=シャーマン号事件、乗船していたイギリス人2名も犠牲、フランスのカトリック宣教師が処刑されるなど、米国、英国、仏国と対立してたことから、対馬藩主宗義達を通して日本に救援を依頼してきました。
幕府は、朝鮮に役人を送って朝廷する予定を建てましたが、これらの動きに対して、清国政府は、朝鮮に対し日本の幕府が朝鮮征伐に出撃すると警告したのです。日本、朝鮮、清国の敏感な微妙な関係を示しています。
・明治維新後の日本と朝鮮
慶応4年(1868)1月15日、参与兼外国事務取扱取調掛東久世通禧はフランス、イギリス、イタリア、アメリカ、プロシア、オランダの各国に対し、王政復古を通告しました。 同明治元年9月、新政府は朝鮮との国交について従来通り対 馬国厳原藩主宗重正に委任するとともに、対馬藩主に対し、「幕府を廃し王政一新、万機御宸断を以て仰せ出され、朝鮮御取扱の事件等すべて朝廷より出ることを含め、旧弊を刷新し努力奉公せよ」と訓令しました。
これを承けて藩主宗重正は、家臣樋口鉄四郎(正使)、菰田多記(副使)を朝鮮に派遣し以下のような親書を提しました。
我が邦皇祖連綿、一系相承け、太政を総攬す、ここに二千有余歳・・・・貴国との交誼既にすでに久し、宜しく益々懇款を結び万世渝らざるべし、是れ我が皇上の盛意なり、乃ち使を馳せ以て旧好を修め、冀わくば此の旨を諒せよ。
ところが、大院君摂政政府はすこぶる鎖国攘夷の政策を固執し、日本の開国進取の新政を喜ばず、当初より好意を持たなかったのです。しかも、この親書に①「皇祖」「皇上」「皇室」の文字及び「奉勅」の文字があること(本来朝鮮の「下」なる日本が、「上国」である清国のみが使用する「皇」「奉」を外交文書に用いることは朝鮮国としては許されない)。② 朝鮮はこの文書は旧例に違うこと。③朝廷・朝臣等の文字は、両国間の書簡に使用した例はないこと。➃押印の「印」が旧に同じでないことは、好に悖ることこと。などの理由から受取を拒否したのです。
・新政府の意向 ー 木戸孝允の強硬論 ー
明治新政府成立以降、朝鮮との交渉は対馬宗氏の手を離れて中央政府が直接取り扱うことになりました。明治元年(1868)、新政府に立った木戸孝允は建白しました。
欧米との国交を回復した、況んや朝鮮は近隣の国にして旧好の国、別に確かな使者 を派遣して一新の旨趣を告げ、互いに将来往来することを臨むべきであると。
同年12月14日、木戸は議定岩倉具視に対して使節を朝鮮に遣わして彼の無礼を問い、若し服せざる時はその罪を鳴らし、その国土を攻撃し、大いに神州日本の威力を伸張することを訴えました。かなり強圧的です。
明治2年(1869)12月3日、政府は木戸孝允を、明春に清国・朝鮮へ使節しとて派遣することを決定、同月7日には、外務大権録佐田白茅、同少録森山茂、同斎藤栄を朝鮮へ向け出発せしめましたが、朝鮮の対応は交流には否定的でした。
佐田は朝鮮問題はとても口舌では埒が明かぬ、只だ武力解決あるのみであるとの結論に至っていましたし、森山も斎藤も同様な結論を持つにいたりました。
当時の外務省の意見は、今日朝鮮を日本が取れば日本の利、他国が取れば日本はとても成り立たない程の重大な関係にある。このまま引き込んでは日本の恥辱、まして世界列強はいずれも朝鮮に野心あり、当時プロイセンとフランスは交戦中、虎視眈々のロシアはその好機に乗じて極東に迫って来るであろう。アメリカもまた朝鮮に対し兵力を持って報復するとの説もあるとしました。
また、ロシア進出の脅威を説くとともに、フランスが支那のキリスト教徒虐殺に抗議して欧米諸国と混乱の状況にある。これが終わればフランス、イギリス、アメリカがその勢いに乗じて朝鮮を窺う恐れもある、日本は速やかに、一正使、一大将を委任して対馬に派遣し、和戦寛猛の変に対応せねばならないと説いたのでした。
しかし朝鮮は、あくまで旧例を主張して百事ことごとく皆対馬宗氏との交渉のみに固執した。折衝は停頓すること1年有半を経過した。
・右大臣岩倉具視ら一行の米欧出立
そのような中、明治4年(1871)11月10日、特命全権大使右大臣岩倉具視、副使参議木戸孝允・大蔵卿大久保利通・工部大輔伊藤博文等の一行は条約改正を目指して米欧に向けて出発しました。
留守部隊は太政大臣三条実美、参議西郷隆盛・板垣退助・大隈重信、外務郷副島種臣らである。その際、派遣一行と留守部隊との間には「留守中に(人事や新規事業、改革など)新規の処断および官吏の増員を禁ずる」との約定書が交わされています。これは重大な問題です。新政府が発足したばかりの状況にあって、人事や諸改革を止めることに理不尽さがありました。
この留守の明治5年(1872)正月、日本政府は倭館滞在の使節・役人に対し訓令を発し「朝鮮陣に対し、親愛・懇篤の情を以て親交し、いささかも粗暴の振る舞いなど致すまじく」と厳命しています。
それに対し朝鮮は、日本国の改革政治を咎め、日本は外国からの新政を受けると雖も恥じず、その形を変じ生活風俗を易えた。これ即ち日本の人というべからずと侮蔑したのです。今後は、国交を断絶して朝鮮から一切手を引くか、武力を以て朝鮮の頑迷さを処断するかのいずれかの策ほか無くなりました。こうして朝鮮問題は、外務省一省の問題ではなく、国家の大問題となったのです。
・西郷隆盛の朝鮮派遣決定とその挫折
特使派遣問題
明治6年6月12日 新政府廟議での征韓論初審議において、「征韓、否征韓ではなく、如何にして朝鮮を膺懲(懲らしめる)すべきか」が議論されました。参議板垣退助や太政大臣三条実美らが、出兵、派遣特使は武装すべし等強硬論の中で、参議西郷隆盛は「改めて堂々有名なる使節派遣して暁諭、なお聴かれざれば膺懲すべし。その時には、自分がその任に当たろう」と発言、出席者は西郷が自ら特使となって訪朝するとの発言は青天の霹靂たる出来事と驚いています。
西郷は「大使は寸兵尺鉄をも携えず、平和の大使として大手を振って乗り込むべし。我が他心無きを示して、なお聴かず、害を加えるようであれば、正々堂々とその罪を世界に鳴らして、これを討伐するも未だ遅しとせず」と自らの存念を吐露しました。
しかし、これは重大事件であるので、よろしく岩倉大使らの帰朝を待って後に決しようととの結論に至りました。
派遣一行の帰朝
大蔵卿大久保利通の帰朝は明治6年(1873)5月26日です。直後に西郷を訪ねたかと思われますが、西郷と大久保はこの時激論を戦わせ、大衝突したと思われます。大久保には、出発時の約束が守られず、人事を含めて諸改革が断交されていたことへの不満が 激していたと推測されます。以降、二人は対立します。(洋行中に西郷と大久保の反目の記録なく、二人の間は友好関係にあったのです)
8月17日に廟議が開かれ、西郷の特使派遣が決定されました。大久保は、不満からか翌日18日に東京を出発して富士登山、関西の名所旧跡を歴遊、東京帰着は9月21日でした。諸問題を解決推進すべき大蔵卿の役職を捨ててです。
参議木戸孝允の帰朝は7月23日、外務卿副島の台湾からの帰朝は7月26日、右大臣岩倉具美の帰朝は9月13日です。
10月12日に、大久保利通が大蔵卿より上の参議に任命されました。西郷ら参議と同列になりました。重大な人事です。
<岩倉・大久保の「一の秘策」>
こうしてやっと(明治6年)10月14日・15日にかけて閣議が開催されました。
14日 太政大臣三条実美、右大臣岩倉具視、参議西郷隆盛、板垣退助、大隈重信、後藤象二郎、江藤新平、大木喬任、大久保利通、副島種臣(参議木戸孝允病欠)が参集しました。西郷は、先の8月17日の閣議での派遣決定の再確認を迫ります。大久保は、派遣は開戦に繋がると反対します。しかし、「朝鮮が徳川幕府の旧態に泥んで明治維新を理解せず、暴慢無礼の態度を示すに至っては皇威を損ずるものであって、これを不問に処するわけにはゆかぬ。外務官吏の派遣ではなく確かな責任者を派遣して日本の姿勢を見せることが重要、軍隊を持たず、自らが単騎その任に当たろう」 との西郷隆盛の意見により、最終的に西郷の朝鮮派遣が決定されました。時に、10月15日です。
事の「始末書」は太政大臣三条実美が天皇の裁可へ上奏のはずでしたが、この決定に大久保利通は激怒・憤懣、抗議し参議の辞表を叩きつけます。驚いた岩倉は同調し、派遣反対に廻ります。三条実美は気が動転して人事不省となり、17日に決めた西郷派遣決定の上奏を1日延期することになりました。
ここから大久保の「一の奇策」が生れます。岩倉具視を太政大臣代理にと閣議決定し、「派遣反対を上奏する」ことにしよう。大臣代理となった岩倉は曰う。「自分は三条とは別人、自分の思い通りにする。閣議決定には拘束されない。特使派遣は中止とする」と。岩倉・大久保等の策謀でである「今は外事より内治が優先」との方便により、西郷の派遣決定は覆され、10月24日派遣は中止となりました。西郷隆盛の意図は、決して征韓論ではありませんでした。
必至の覚悟で参議となった大久保は、西郷を巻き添えにしても、征韓論者ら自分に反対する一派の追放を決意したのです。明治維新の達成に奔走した志士たちの、悲しくも無念の分裂となりました。これは、朝鮮に開国を勧めて、共に英国、露国などの侵略に対抗しようとの遠望企図であった征韓論の破綻ばかりでなく、明治新政府の分解でした。