2月9日(日)、当会の齋藤郁子代表の講演でした。綿密な調査の上での浩玻の生涯に迫った臨場感あふれる講演は、大勢の参加者を魅了しました。
浩玻は、明治17年(1884)10月20日、那珂郡勝倉村(ひたちなか市)の旧家武石家に生まれました。
縁者の武石民蔵は、江戸時代中期の寛政5(1793)に水戸藩彰考館総裁立原翠軒の推薦を得て蝦夷地を探検しています。
その勇猛心を承けた浩玻も、外国留学を志して渡米し、「これからは飛行機の時代だ」と悟り、研究と訓練に励みました。
浩玻は飛行士として多大な期待を受けての帰朝でした。日本で初飛行翌日の大正2年(1913)5月4日、大阪ー京都間の都市間連絡飛行の懸賞飛行で着陸寸前に不慮の事故で絶命しました(30歳)。
ちなみに、留学の当初の目的は文学の研究でした。水戸中学の頃から月刊文芸誌『明星』にも投稿して与謝野鉄幹などとも親交がありました。
旅立ちの時
日露戦争の最中の明治35年(1905)3月、海外留学を目指して水戸から横浜へ出発。船員見習いなどを経て欧州航路の乗船を体験。その後、郷里に帰ってパスポートを取得。明治36年4月、郷土の代議士根本正からの紹介状を持ってア渡米します。パスポートとビザの申請にも根本正の添え書きがあったと言われています。
サンフランシスコでは日本人福音会の寄宿舎に住みながら地元の公立学校に通います。福音会寄宿舎グラマースクール→ハイスクールというコースはかつて根本正がたどった道と同じでした。教師からは模範生として日本の詩人として評価されていました。
しかし、福音会への会費支払いと機関紙『独歩』への送稿は続けたものの、次第にキリスト教からは離れていきます。
浩玻にとって飛行機が全てとなっていました。『飛行機は私にとって宗教であり、哲学であり、また生活そのものでなければならなかった』と語っています。
転身
スメルザでの3,4年は真面目に飛行機研究に心身を捧げていました。夜になっても燈を消して寝ようとはしない。「他の者が寝られないで困るからもう寝たまえ」と注意するとランプの3方を紙で隠して明かりを小さくして相変わらず勉強したといわれます。
1911(明治44)年「空中飛行機」(後に浩玻遣稿「飛行機全書」として政教社から出版された)および「飛行機国防論」を執筆しています。

1911年12月14日、500$でカーチス飛行機学校と契約した。1912年(大正元)2月から5月まで在学し、米国で墜落した近藤元久に次いで国際免許122号を取得した。日本人で他に免許を持っているのは徳川好敏と日野熊蔵大尉だけである。学費の苦心はしたものの、卒業した時には巧みに8の字の空中飛行を8回までやった。学校に入って操縦の技を学ぶ上においては大いにうるところがあったが、学科の方は教師よりも浩玻の方がずっと進んでいて、教師に教えることも屡々だったといわれます。
アメリカでは100回飛んでどんな機種でも乗り回すようになっていた。グレンジヴィルに亙り恐ろしい危険な飛行をして危うく野牛と衝突せんとしたのを初めとして再びスポーケンに取って返しウィルバーに行きウォーターヴィル市に及ぶまで盛んに飛んだ。その間、気紛れ機械もあって、殆んど機械と共に打死の覚悟は自分の常習となってしまったという。
帰朝
浩玻は、早く日本に帰って尽くしたいと思い始めていた。帰るならば飛行機を持って帰らなければと金策に走った。
スメルザ日本人会の協力によりスメルザ飛行会を発足。同志がそれぞれに株を持つ形で兎に角も4千$ばかり集まった。
4月 9日 久方ぶりに両親と手を握り交わし、始終歓談する
4月12日 大阪へ行き、22日東京に戻った。再び故郷に帰ったが、23日すぐに大阪に赴き、今度は大阪朝日との契約が成立。
帰朝してから和歌集を発行するつもりだとも言っていました。
横浜に上陸した時に短く散髪をしました。友人の「何故?」の問いに「自分は飛行家になったのだから五分刈りにした。これが忠空愛国の表現だと答えた」と答えそうです。
市連絡飛行と高飛行を行うに至った動機
浩玻は、自分の存在を知った朝日新聞社と在米中に面接して飛行について交渉していた。この敬すべき民間飛行家の希望を満たせると同時に斯界(しかい)のため貢献しようとする朝日新聞社の主旨に基いて、また浩玻の新たなるレコードを造るため、浩玻は市連絡飛行と高飛行を快諾しました。
飛行機の組み立て
カーチス式とライト式の長を抜き、粋を集めて更に浩玻が特殊考案を施したものは、復用飛行機。ホールススコットA2式第85号の60馬力発動機。4月29日午後5時過ぎ組み立てが完成、直ちに試運転の結果は好成績を得たのでした。
飛行の実態
5月1日 記念飛行
5月2日 予備飛行 成尾飛行場の中空を何回となく旋回
5月3日 都市連絡飛行 鳴尾飛行場→阪神電鉄線路に沿って大阪へ→淀川尻を横断→西区岩崎町の大阪瓦斯のタンクを目標として市街に入る→道頓堀の上空を東へ→心斎橋→旋回→天王寺公園(拓殖博覧会)→生玉神社、神津神社の上空→旋回して拓殖博覧会の上で二周→城東練兵場(小憩)→深草練兵場に戻る
5月4日 鳴尾→神戸 午後:海抜約900mの六甲を上る(高度約1,200~1,500m)
大暴風による予定の変更
5月1日は、雨のため中止。午後からは暴風襲来のため飛行機を格納した天幕がなぎ倒される。飛行機の翼及び昇降舵の一部を破壊→浩玻は修理に着手(2日間の延期)
変更日程
5月3日 予備飛行、4日 都市連絡飛行、5日 高飛行
武石浩玻氏大阪朝日新聞社の招聘によりて、5月3日、鳴門京阪にて3回の飛行をなせり、その飛行を監査のごとし、第1回7分47秒、第2回、14分43秒、第3回、約12分、第2回都市連絡飛行5月4日、都市連絡飛行のため午前10時22分鳴尾を出発し、同30分大阪市天王寺公園を通過し、同40分大阪城東練兵場に着陸。午後0時31分に出発し、同46分に八幡城方を通過し、道55分30秒、京都市深草連平城に着陸。飛行機は地面に撃突し大破損(略
遭難原因の推定
飛行機が地面に近付づいた時、鉄片が離脱し平衡を失った。平衡を戻そうと操舵の調整をするが、それのまだ終わらないうちに飛行機は地に撃突し着陸架の前部を破損し操縦者左側下にある車輛の一端が地中に突入。飛行機はなお大なる惰力に依り前進し、地中に突入した車輛の一部は再び折れて其の位置に止まり、飛行機は跳飛ばされて破壊した。
今回の遭難により得た教訓
振動の害:振動は主として発動機運転の際の反動により生ずる。発動機の平衡不良になるときは振動は益々大となる。これは発動機の選定上最も注意すべき点にしてその試運転において単に馬力及び回転数のみならず振動の大小も厳密に審査するを要す。昨今の製造家は発動機の平衡問題に特に留意し既に発動機内回転体の中心位置を不動にするために、特別の装置を施すものもある。
積載量の増減が飛行機の安定状態に影響を及ぼす
葬儀
浩玻の遺骸は、4日衛戍病院から大阪市西区土佐堀の在米中からの友人田坂秀治邸に移され、 9日長柄葬儀場において神葬式で執行された。田坂邸と葬儀場間の約5㎞は悲しみの群集で埋まり、「その数幾十万なるを知らず」と報じられた。
遺骨は12日に水戸駅に到着。停車場前の霊壇に安置され、群集 の弔意を受けた後、根本正が定宿としていた太平館の応接室に移され、約50分の休憩の後13台の腕車(人力車)と村の生徒、水戸市内の有志に擁せられ兄如洋氏の長男信行(10才)のひざに乗せられ勝倉の生家に向かつた。
武石家の葬儀は18日に営まれた。導師は金襴の七条袈裟を纏い僧侶20名 楽師3名を従い霊壇の前に進んで奠供の式を行った。遺族と親族の焼香、次いで田坂秀治氏、村山朝日新聞社長、根本正等の焼香、朝日新聞社長、水戸市長、記念碑建設発起人総代、いばらき新聞社長等の弔辞朗読があった。三反田、勝倉小学校の生徒も参列し会葬者は千余名に達した。
武石浩破の墓と銅像
墓は生家から500mの勝倉地蔵根にある武石家墓地中央にある。高さ6m。墓石には、村山龍平朝日新聞社長題表と墓石三面に西村天囚による墓碑銘が刻まれている。
像は、水戸一高内の櫓跡に1913年(大正2)11月地元有志により建立された。
浩玻の死後には天皇・皇后両陛下の御詞が下され、久邇宮殿下は生前の約束であった浩玻の飛行機への命名「白鳩」を行い弔慰金を下賜している。
葬儀には多くの人々が列席し、与謝野鉄幹も浩玻の死を悼んで「故武石浩玻君に捧ぐ」を兄如洋氏に送っている。
後に全日本空輸の初代社長となる美土路昌一は当時朝日新聞にあって、飛行前に京阪神間の地勢を浩玻とともに視察した。葬儀では朝日新聞代表として弔辞を読んでいる。
この悲劇は、多くの人に影響を与えることになる。すなわち、事故をきっかけに未知の空飛ぶ機器に怖気づくのではなく、飛行機に命を懸けた浩玻の意思に感動した多くの若者が飛行家を志すことになる。