水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

令和6年9・10月 講演会のお知らせ

2024-07-12 05:34:30 | 日記

会 場:那珂市ふれあいセンターごだい

    9月8日(日)「水戸天狗党湊を脱出し大子路から野州路へ」
   10月6日(日)「維新の魁となり八溝山北麓に散った志士たち」

講 師:飯村尋道氏
時 間:10時~11時30分
参加費:300円(資料代等)
定 員:100名 申込み不要 ; 当日先着順

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水戸と会津Ⅱ ― 市川三左衛門と松平容保 ―

2024-06-18 05:14:30 | 日記

6月9日(日)、当会事務局長仲田昭一が、「水戸と会津」Ⅱ ― 市川三左衛門と松平容保 ― と題して講演を行いました。

会津藩は、戊辰戦争に於ては「賊軍」とされ、薩長両藩を中心とする新政府軍は「錦御旗」を掲げて「官軍」と称されました。しかし、果たして会津藩は反朝廷の「賊軍」であったのかに疑問を呈した内容で、今後は「官軍」「賊軍」の呼称をやめようではないかと訴えました。

会津藩は、決して朝廷に抵抗したのではなく、途中で降伏も嘆願していたのを、「会津憎し、会津を倒すことが本願」の思いで迫った新政府軍の方針に問題があったのではないか。それに対して会津藩は、旧藩主松平容保、新藩主喜徳を中心に家臣、領民とも一致して新政府軍に向かい、結果は責任感に満ちた悲劇となったが、藩祖保科正之の家訓、日新館での教えは貫かれ、朝廷及び幕府への義は尽くされた。
そこには、武士道の美に溢れていたと思われます。

水戸藩は、そのような義は見られず、藩主の命は通らず、藩政を担った門閥派は分裂、領民も含めた天狗派と諸生派の対立抗争が展開された。理由はともあれ、水戸を脱して会津助力へ向かった家老市川三左衛門たちであったが、会津藩の必死の覚悟を受け入れる所ではなかった。家訓に基づいた藩全体の姿勢、至誠のレベルの違いではなかったか。

水戸藩の分裂抗争には、尊王の「家訓」も弘道館教育の「尊王攘夷」も理解されず、生かされることもなく、私憤・怨念・報復に満ちた残虐な結果のみが際立った。誰も責任を取って、鎮めることができなかった。そこに、とても美を見出すことはできない。

日本の歴史が大きく転換する際に、それぞれの藩に於て、責任を取る潔さが見出されています。自らを省みて、学ぶことのあまりに多い事を痛感させられました。

 

<以下関連事項抄> 

孝明天皇と松平容保 <松平容保への孝明天皇からの御製と御宸翰>
 会津藩主松平容保は孝明天皇の信任を得た。決して反朝廷ではない。武士の忠誠の心をよろこばれて次の御製を下されている。

    やはらくも 猛きこころも相生の 松の落葉の あらす栄へむ
    武士と 心あはして 巌をも つらぬきてまし 世々のおもひで

  容保は、終生これらを肌身離さず保持していたことは特筆される。

 水戸市川勢と会津藩
水戸藩内の対立>
江戸邸の藩主慶篤と本圀寺勢尊攘派と水戸城内の市川ら門閥派の対立抗争となったが、門閥派内でも元家老尾崎為貴ら有志数百人が大挙して水戸城中へ進入し、水戸城を奪回した。市川・朝比奈・佐藤ら500余人は、万一城に向かって発砲することがってはならないと水戸城を脱出し会津へ向かった。新政府軍の攻撃から必死に藩を護ろうとする君臣一体の会津勢にとっては、内紛で逃亡してきた水戸藩勢は迷惑な存在であった。

<白虎隊の殉節>8月23日(午前11時頃)
隊員20人、城に入らんと欲し、間道より飯盛山に登る。時に西軍本道の兵を追撃して城下に迫る。砲声地に震い、煙霧天を掩い、城外火。衆これを望み見て思えらく、城陥り君侯難に遇うと。是に於いて共に殉国に決し、即ち城に向かいひざまづいて拝して曰く、臣等が事畢ると。(『会津戊辰戦史』)(会津教育の精華)

<会津藩に殉難烈士烈婦多し>
家老西郷頼母の家族 = 母律子(58)、妻千重子(34)、妹(26)・妹(23)、長女(16)・次女(13)ら子女に向かって云う
「我等も城に入り、君公に従わんとすれども、幼子を伴い、却って繋累とならんことを恐る。むしろ自刃して国難に殉ぜん。今日は実に汝らの死すべきときなり。いたずらに生を偸みて恥を残すことなかれ」と。千重子、長子を城へ入れ、3人の子女(9、4、2)を刺殺して母、妹と共に自刃す。

<9月22日 会津藩降伏>
重臣ら嘆願書
  重臣ら補導の道を誤れりと自らを責め、新旧藩主容保、喜徳の勤王、幕政、藩政への実を掲げて至慈寛大之御沙汰を「泣血奉祈願候」嘆願した。ここに、会津藩の君臣の美をみて感慨新たなり。

〇 容保・喜徳の開城
  二公(容保、喜徳)は式(降伏式:軍監薩摩藩中村半次郎:桐野利秋、軍曹山縣小太郎)了るの後、城中に帰り、重臣将校らを召して、その苦戦辛勤を労い、訣別の意を表し、然る後城中の空井、及び二の丸の墓地に至り、香花を供して礼拝し、諸隊の前に至り、一隊ごとに辛勤の労を慰して、訣別を告げたるに、三軍の将卒、皆恨を忍び、涙を呑み仰ぎ見る者無し。

<水戸藩市川三左衛門らの迷走>
9月22日 会津若松城  ⇨ 会津田島 ⇨ 那須板室 ⇨ 湯津上 ⇨ 馬頭 ⇨ 小砂 ⇨ 小野河岸(大宮)⇨ 9/28石塚 ⇨ 9/29水戸城下(家老山野辺義芸ら防戦に失敗)
10月1日 弘道館の戦い(正庁残し文武教場・寄宿舎・医学館賛天堂など焼失)⇨ 長岡 ⇨ 紅葉 ⇨ 玉造 ⇨ 霞ヶ浦 ⇨ 潮来 ⇨ 松岸村(高崎藩飛地銚子)上陸

〇 市川三左衛門の最期
    八日市場の高野村剣士大木佐内保護、大木の助力を得て東京へ(久我三左衛門と変名)。娘の嫁ぎ先宝徳寺に潜伏 ⇨ 明治2年2月26日青山百人町の剣道師範村松某宅に潜居中捕縛 ⇨ 長岡原にて逆磔 (長く生きさせるために額に錐で穴を開け血を出させ、その党数人残らず処刑せらるるを見せ、その上にて突き殺し候事の由)「水戸藩紀事(明治新聞の書抜)」 

市川の辞世 「君ゆへにすつる命はおしまねと 忠が不忠に成そかなしき」
      主君の為に命は惜しまないけれども、その忠誠心は、藩主の意向に沿うことなく、結局は謀反(不忠)となってしまったことは無念なことだ

<その後の会津藩の選択>
会津28万石没収される。猪苗代3万石案は狭い地域への閉じ込めとなり、家臣たちの屈辱感も残り、領民への卑屈感もある。寒冷地斗南3万石を選択。開拓成功に期待と希望を抱いた。
旧藩主容保は鳥取藩・和歌山藩にて幽閉の後赦免となり、明治13年(1880)日光東照宮宮司拝命。明治26年12月4日に58歳を以て歿した。

 

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令和6年7月 講演会のお知らせ(終了しました!)

2024-06-18 04:57:31 | 日記


南の方ではようやく梅雨入りしたところもあるようです。関東でもそろそろ梅雨に入るのでしょうか。
7月も講演会を開催します。
ご参加お待ちしています。

会 場:那珂市ふれあいセンターごだい
   7月7日(日) 「常陸太田が生んだ東洋一の外科医 男爵 佐藤進 博士」

講 師:仲田昭一氏
時 間:10時~11時30分
参加費:300円(資料代等)
定 員:100名 申込み不要 ; 当日先着順

尚、8月は夏休みを頂きます。

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水戸と会津Ⅰ―徳川光圀と保科正之―

2024-05-15 19:57:08 | 日記

令和6年5月12日、「水戸と会津Ⅰ ― 徳川光圀と保科正之 ― と題して、当会の事務局長仲田昭一氏が講演しました。

江戸幕府が安定化に向かい、武断政治から文治政治に変化する時代。名君として評価されたのが会津藩の保科正之、水戸藩の徳川光圀、岡山藩の池田光政です。
保科は将軍秀忠の4男でしたが認知されず、高遠藩保科家の養子となりました。
光圀は水戸藩頼房の3男でしたが水にされる危機がありました。
平穏であったのは戦国の猛将池田輝政の孫で徳川家康の四天王の一人榊原康政の娘を母とした光政だけでした。

3人が置かれた位置にも興味が湧きます。東北の伊達藩や最上藩の抑えとしての会津や水戸、西国大名や京都の抑えとしての備前岡山です。
講演では、保科正之と徳川光圀を中心としながら3人の治績を取り上げ、治国・平天下の基盤には何が必要か、領民の生活への配慮は何が重要かなどが説かれました。

〇長幼の序
池田光政=慶長14年(1609)4月誕生、寛永9年(1632)6月備前岡山31万5千石の藩主。
保科正之=慶長16年5月誕生、寛永13年(1636)山形最上20万石藩主、寛永20年(1643)会津23万石の藩主。
徳川光圀=寛永5年(1628)6月誕生、寛文元年(1661)水戸28万石の2代藩主

〇治政の特徴は、領民生活の安定化と有能な学者を招いて学問の振興
〈教育と学問〉
岡山藩
寛永18年(1641)岡山藩校「花畠教場」(藩校的)開校、正保2年(1645)陽明学者熊沢蕃山を招く。寛文10年(1670)閑谷学校(庶民の教育)創設。

会津藩
寛文4年(1664)民間による庶民教育の「稽古堂」はじまる。翌5年、朱子学者山崎闇斎を招く。
藩校「日新館」創設は5代藩主容頌(かたのぶ)の享和3年(1803)
山崎闇斎は25歳で脱仏教、人倫の価値は君臣・父子・夫婦の三綱、仁義礼智信の五常である。仏教はこれら否定している。
※朱子学は、「心」=「敬」を根底にする「行為の型」を重視=卑怯さの否定 ⇨(白虎隊への継承)
※君臣関係=日本では朝廷 ― 幕府 ― 藩主 ― 家臣 ― 領民 ⇨ 徳川家康の幕藩体制は朝廷の存在を認めた上でのもの(位階・官職の任命、改元制度)
 9代藩主松平容保の京都守護職拝命は皇室への忠誠心の発露、名誉
『二程治教録』序文 = 宋代に程明道・程伊川兄弟が出て、堯舜時代の「治教の学」を継承したことの意義を示す(学問の重要さ)
保科正之は、学問の重要さを認識し、「治教の学」の実践化を図った。それは、「家訓」15カ条に表れている。
その第一条に「 大君の義、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例をもって自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従ふべからず。」とある。
慶安4年(1651)徳川家光臨終の時、正之に対し「宗家を頼み置く」と。正之「身命を擲(なげう)って御奉公仕る」と家綱の後見役に就く(幕府への忠誠)。

 ≪参考≫「什の掟」(什により多少の違いはある。6歳から9歳の子供たち10人前後の集団)
     年長者の言うことに背いてはなりませぬ、「ならぬことはならぬものです」など

水戸藩
正保2年(1645)徳川光圀『史記』伯夷を読み志学の念起こす。
寛文5年(1665)徳川光圀、朱舜水を招く。
明暦3年(1657)『大日本史』編纂のための史局「彰考館」を創設
徳川光圀の家訓「我が主君は天子也、今将軍ハ我が宗室也。(宗室とハ親類頭也)あしく了簡 仕、取違へ申まじき由、御近臣共に仰られ候。」

〈領民生活の安定化〉
承応3年(1654)江戸玉川上水工事完成。保科正之の推進(徳川光圀の笠原水道)
明暦元年(1655)会津、飢饉対策として「社倉制度」創設(徳川光圀の義倉・稗蔵)
          90歳以上へ養老米(高齢者への福祉、年金制度の始めと称される)
明暦3年(1657)江戸明暦の大火:水戸藩小石川藩邸類焼、駒込藩邸内に史局を開き『大日本史』編さん開始
          江戸城天守閣類焼、正之は再建の必要なしを明言、上野広小路設置・新堀開削など提言
寛文元年(1661)徳川頼房歿(殉死禁止の命)会津藩殉死を禁止、末期養子の禁止緩和
寛文3年(1663)幕府、殉死を禁止する(会津、保科正之の進言)
寛文6年(1666)池田光政、藩内淫祠を破却(水戸藩、会津藩も社寺改革を実施)
          『会津風土記』完成(芦名氏、蒲生氏時代からの脱却を図る)
寛文8年(1668)「会津家訓15か条」制定
寛文12年(1672)保科正之 12月18日江戸藩邸で歿(63歳) 霊社号「土津(はにつ)霊神」
延宝3年(1675)会津藩、土津神社(はにつじんじゃ)創建(山崎闇斎撰文「土津霊神之碑」あり)
天和2年(1682)5月22日  池田光政岡山城西の丸にて歿(74歳)
元禄13年(1700)12月6日  徳川光圀西山荘にて歿(73歳)

☆朝廷と幕府の関係について、会津・水戸・岡山藩とも基本方針は「尊王敬幕」であるが、水戸藩は究極的には倒幕論といえる。

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水戸藩弘化甲辰の国難

2024-05-01 10:13:17 | 日記

今年は「甲辰」(かのえたつ)の年です。60年前は東京オリンピックが開催され、120年前は日露戦争が起こっています。180年前の弘化元年(1844)には、水戸藩の九代藩主徳川斉昭(烈公)が幕府から隠居謹慎の処罰を受ける大事件があり、これが水戸藩にとって大きな分岐点となったのでした。いわゆる「弘化甲辰の国難」です。4月21日(日)に、当会事務局長の仲田昭一がその事件の内容を藩主徳川斉昭、家老結城寅寿、側用人藤田東湖の動きを中心に講演しました。
その中で、藩主の推進力を大きく飛躍させるのは、家臣たちの一致協力の姿勢が基盤にあってこそとの重要性が述べられました。
水戸藩は、藩成立期以来の譜代の家臣団に加えて、中期以降に農民・町人出身の学者が士族として登用された新興家臣団が存在したことが大きな特色です。
その両者が、両輪となって藩政改革がなされれば大きな成果となったはずでしたが、譜代の門閥派、新興の改革派と分かれ対立したところに悲劇がありました。
更に其処に、朝廷と幕府が介在して、より複雑な藩政が展開されることになってしまいました。

九代藩主徳川斉昭
藩主を誰にするかでは、門閥派が将軍家斉の子清水恒之丞を推したのに対し、改革派は敬三郎(斉昭)を推しました。
対立抗争の結果、兄斉脩の遺言により斉昭は30歳で藩主に就きました。此処で既に、門閥派と改革派の対立が既に表面化しています。
 新藩主斉昭の新政四大改革は、駒込中屋敷亀の間住まいの時期に学問に励み、十分に練られていました。              

結城寅寿
結城寅寿の遠祖は藤原氏系の小山朝光で、下総結城氏さらに白河結城氏などにかれていく。『大日本史』の編さんのための資料収集の中で、南朝方に味方していた白河結城氏に注目した徳川光圀が藩に迎え入れました。やがて門閥派として成長していきます。
寅寿は門閥派内の才子にして非凡の人物があり、斉昭の寵任も得、徐々に同志を要路に登用して閥派の勢力を快復して、新進派を圧するようになりました。
「天保の新政、寅寿の参画経営に出てたるもの少なからず」と評されています。

天保11年寅寿23歳にて小姓頭に進みます。この年齢での抜擢はこれまで無かったことです。
東湖は側用人となって初めて寅寿と親交を持つようになります。東湖は職務上命令することも多々ありましたが、寅寿が表向き無造作に振る舞っているのは嘘で、諸事至って精密、テキパキと事を処理しました。これには 政府役人一同感心、藩主も満足していました。執政寅寿と側用人東湖は両輪となって斉昭の藩政を推進させた仲であるだけに、互いをよく理解し合っていたと思います。

藤田東湖
父藤田幽谷は、商人から学識を以て士分格を得ました。
東湖は、学問の実践力を以て斉昭の信任を得て、通事、側用人に抜擢され、藩主を補佐して天保の改革の推進役となりました。
それに伴って、門閥派からは羨望、怨嗟の対象ともなり、立原・藤田の学派の論議が再燃してそれが政治上にも及びます。
『水戸藩党争始末』は、検地や土着、学校、江水家臣の惣交代など、藩主斉昭の改革を高く評価しながらも、「人事の面で藤田派の非門閥に多く、立原派の門閥派に少なし。戸田銀次郎、藤田東湖、今井金右衛門らの登用に対して、結城寅寿ありしのみ・・・巨室世家には、この新政を快とせざりし者多かりし」と評しています。

天保2年(1831)11月16日の郡奉行川瀬教徳への斉昭書簡では「君子(改革派)は我(斉昭)が愛する所、不肖(門閥派)も亦我が養う所(双方共に我が家臣なり)」(茨城県立歴史館蔵)と、両派への配慮、その苦辛を吐露しているのは注目するところです。
この感情的対立は貫きがたいものがあり、水戸藩政にとっても不幸なことであった。 

寅寿と東湖と今井金衛門
今井金衛門は若年寄となった寅寿と昵懇であったが、今井は天保14年9月に寺社奉行に転じ、次第に寅寿と今井の関係が悪くなっていきました。
今井はやけくそ気味で、領中の寺院等打ち壊しを始めます。
その内、仏嫌いの者たちが、得たりと乗り込み、改革の粋を越えた寺院整理となってしまいました。
 
社寺改革と藩主斉昭の処罰
改革の目的は異国船対策の「攘夷」と寺院勢力の削減と僧侶の風儀粛清にありました。海防策として大砲、武具の充実の必要から梵鐘・仏具類の没収が始まります。
義公光圀が伯父武田信吉のために創建した浄鑑院常福寺も廃寺の対象となりました。常福寺も抵抗しましたが結局は供出することになります。
それまで、水戸東照宮は常福寺が主とし祭祀を行っていましたが、斉昭は神仏分離として唯一神道に改めて常福寺を排除してしまいました。
常福寺は、斉昭の異常さを芝増上寺に訴え、増上寺は大奥を通じて幕閣を動かします。
結城寅寿も幕閣に通じて藩政展開の是正策を取りました。
将軍・幕閣とも、やむなく斉昭の引退を決断します。御三家と雖も、幕府の前においては無力でした。
弘化元年(1844)5月6日、斉昭は幕府から致仕謹慎を命ぜられ駒込に閉居します。家老戸田忠敞と側用人藤田東湖も蟄居謹慎の処罰を受けました。
藩政はこれから暫く、結城寅寿と後見役の高松藩主ら門閥派が主導権を握ることになります。弘化甲辰の国難です。

藩主斉昭の雪冤運動
改革派の郡奉行吉成又右衛門をはじめ領内の庄屋、神官たちは、藩主の処罰は不当であると江戸へ上り、老中たちに処分の撤回を求める運動を展開します。
藩内は、家臣団も領民も対立分裂し、江戸上りの農民の中心は大庄屋・山横目でした。菅谷村山横目横須賀勘兵衛、大岩村(常陸大宮市)竹内源介、上小瀬村(常陸大宮市)井樋政之丞、小場村(常陸大宮市)安藤幾平、成沢村(水戸市)加倉井砂山、田谷村(水戸市)田尻新介(會澤正志斎門下)等です。
江戸に上った神官の内、那珂郡では、額田村白石陸奥、堤村多賀野但馬、鴻巣村鷲尾金吾、本米崎村海後山城、福田村今瀬伊織、田崎村小田部。静村の斎藤監物らがいます。
これらの嘆願の影響もあったか、12月26日になってやっと斉昭の謹慎が解除されました。

東湖の幽閉生活と著述
東湖は小石川藩邸から小梅下屋敷に幽閉されました。この期間に、東湖の代表的な著述『弘道館記述義』『回天詩史』『常陸帯』「正気の歌」「小梅水哉舎記」などが生れています。
やがて時勢が変わり、斉昭と東湖は幕政補佐として登場します。
殊に東湖の著述は、薩摩藩の西郷隆盛や越前藩の橋本景岳、久留米藩の真木和泉守らをはじめ幕末の志士たちに大きな影響を与えることになりました。
 
国難の影響
この斉昭らの処罰事件の位置づけは、水戸藩の異常な分裂を生み出したことにあります。
斉昭や東湖らの復権の後、改革派が復活して悪政の首謀者として結城寅寿を幽閉処分にし、挙句には弁明無しの処刑を成してしまいます。続いて一族も処刑されます。
その前後に、「尊王」「佐幕」「攘夷」「開国」をめぐって家臣団も領民も分裂抗争を続け、藩は分解の状態になってしまいます。
分解を止め、収束・統一に導く主導者が生れる環境を見出せませんでした。
弘道館教育とは何だったのでしょうか。水戸にその教育は生きなかったというのでしょうか。

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