日本近代文学館は1967年に開館した目黒区駒場にある近代文学の資料館である。
2階で通常展「近代文学の名作 作家の手稿?」が開催されていた。森鴎外から三島由紀夫まで32人の作家を、1人の作家につき肖像写真、原稿、発表された雑誌または書籍で紹介している。
たとえばトップの森鴎外でいえば、陸軍医局長時代(1907-1916)の肖像写真と「舞姫」の冒頭部「石炭をば早積み果てつ。中等室の卓ほとりは・・・」の手書き原稿、そして「国民之友」(1890年)が展示されている。その他、森の場合1922(大正11)年7月6日の遺書も展示されていた。「余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ一切秘密無ク交際シタル友ハ賀古鶴所君ナリ・・・」というもので、確かに森は3日後の7月9日に60歳で亡くなっている。昨年三鷹の禅林寺でみた森の墓を思い出す。ただ展示されている遺書は口述筆記であり、自筆というわけではない。
樋口一葉は「たけくらべ」だったが、達筆すぎてほとんど読めなかった。山梨県立文学館でみたときも読めなかったので、わたしは昔の小説家の原稿はこんなものだと思い込んでいた。しかしそうではないことがわかった。夏目漱石(坊ちゃん)、有島武郎(或る女)、島崎藤村(夜明け前)は楷書で非常に読みやすい。漱石は「かな」がうまくないことまで発見した。一方、坪内逍遥(オセロ)や泉鏡花(湯島詣)は歌舞伎の勘亭流のような書体だった。実際に歌舞伎の台本の影響を受けているのかもしれない。
「坂の上の雲」で話題の正岡子規は「飯待つ間」が展示されていた。筆跡以上に「余は昔から朝飯を喰わぬ事に決めて居る故病人ながらも腹がへって昼飯を待ちかねるのは毎日のことである」という内容にひきこまれた。1899年10月の作なので死の3年前の文章である野口雨情「赤い靴」は、もちろん「赤い靴はいてた女の子、異人さんにつれられていっちゃった」のあの童謡の歌詞だ。原稿用紙にわずか14行分、鉛筆の走り書きのように見えかねないが、1921年から1世紀近く歌として命があるとは、と驚く。
石川啄木は明らかにレタリングを意識した書き方だった。北門新報や東京朝日で校正の仕事をしていたので、普通の読書家のレベルを超えて活字や書体への関心が高かったのだろう。自筆詩集「呼子と口笛」(1911年)は赤のタイトル文字、キリスト教のマークのような図形と女王のようなイラストがあしらわれ、「われは知る、テロリストのかなしき心を――」の「ココアのひと匙」は教科書体のような書体で記されていた。
日本近代文学館絵はがきより 詩稿ノート「呼子と口笛」
一番豪華な展示は6人の原稿が展示されている大ケースだった。6人の原稿とは、小林秀雄「ゴッホの手紙」、立原道造「夕(村の詩)」、太宰治「人間失格」、三島由紀夫「春の雪」、芥川龍之介「蜘蛛の糸」、宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の6点のことである。
驚いたのは、太宰の原稿と三島の原稿が瓜二つだったことだ。原稿1枚目の右半分を使い、大きな字でタイトルを書いているところなど様式まで同じだ。出版社のせいでみかけが同じ体裁になるのかとも思ったが、筑摩と新潮社なので違っている。
しかしこれをみると、三島が太宰をマネたとしか思えない。三島は、いわゆる軟弱で露悪的な太宰の作品をいかにも嫌いそうなので意外だった。1946年12月練馬区桜台で太宰と三島が酒を飲んだとき三島が「わたしは、あなたの文学を認めない」といったと、同席した中村稔が「私の昭和史〈戦後篇 上〉」に書いている。
文字そのものは三島のほうが流れるようで上手だった。芥川の原稿はいかにも作家の原稿という感じだった。立原道造は、いわゆる金釘流、建築学科の学生だったので製図のような書き方になってしまうのだろうか。そのなかに鳥の絵文字が混じっているのが、かわいいけれど、不思議だった。
さて、宮沢賢治の字は子どものような筆跡だった。しかしそういう字で「ではみなさんはさういふふうに川だと云はれたり、乳の流れたあとだと云はれたりしてゐたこのぼんやりと白いものがほんたうは何かご承知ですか」と書かれているといかにも人柄が表れているようにみえた。しかも一度使った原稿用紙の裏を利用している。「書は人なり」というが本当だ。しかし2000年代からはほとんどワープロ使用に切り替わったので、残念ながら今後はこういう展示はできなくなるだろう。
日本近代文学館絵はがきより 橋口五葉装丁「吾輩ハ猫デアル」
また、目が覚めるほど美しい(ちょっとオーバーか)装丁の書籍もいくつか目にした。「つたとシェークスピアの顔」を四角く色箔で型押しした「オセロ」(坪内逍遥 富山房)、猫を四角い朱印のようにデザインした橋口五葉装丁の「我輩は猫である」(大倉書店と服部書店)、黄緑の地に美しい筆文字のタイトルと纏のデザインの「たけくらべ」(樋口一葉 博文館)、緑の葉と紅い花が美しい平福百穂装丁の「土」(長塚節 春陽堂)、黒地に丸く鳥のデザインが入った恩地孝四郎装幀の「どんたく」(竹久夢二 実業之日本社)などである。週刊読書人の紅野敏郎さんの長期連載「戦前本の魅力活力魔力」のなかで、写真付きで紹介されていた本もいくつかあったように思う。
なお、ここで展示されているのはすべてレプリカである。わたしには、これで十分なのだが、オリジナルでないとと、こだわる方はもちろん多いと思う。ただ装丁に関しては、かえって復刊のほうが新刊当時のデザインをそのまま見ることができてベターに思える。
高見順像
☆この文学館は、高見順・川端康成・伊藤整・稲垣達郎・小田切進らが呼びかけ、高見が初代理事長として建設を推進したが、起工式の翌日、食道ガンで58歳で亡くなった。功績をたたえ2階のホールには高見の像がある。高見はタレント高見恭子の父である。いまでは、志賀直哉文庫、芥川龍之介文庫など120を超えるコレクションと100万点の資料が保管されている。4万9081点の蔵書や原稿から成る高見順文庫もそのひとつだ。
近代文学館で働いておられた方で、宇治土公(うじとこ)三津子さんという方がいた。わたくしはお目にかかったことはないが、新宿・利佳の常連だった。20周年記念文集に、塩田良平さん、成瀬正勝さん、瀬沼茂樹さんらと並び高見順さんも利佳の客だったと宇治土公さんが書いている。この記事を書くためネット検索していて、宇治土公さんが昨年73歳で亡くなられたことを知った。
2階で通常展「近代文学の名作 作家の手稿?」が開催されていた。森鴎外から三島由紀夫まで32人の作家を、1人の作家につき肖像写真、原稿、発表された雑誌または書籍で紹介している。
たとえばトップの森鴎外でいえば、陸軍医局長時代(1907-1916)の肖像写真と「舞姫」の冒頭部「石炭をば早積み果てつ。中等室の卓ほとりは・・・」の手書き原稿、そして「国民之友」(1890年)が展示されている。その他、森の場合1922(大正11)年7月6日の遺書も展示されていた。「余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ一切秘密無ク交際シタル友ハ賀古鶴所君ナリ・・・」というもので、確かに森は3日後の7月9日に60歳で亡くなっている。昨年三鷹の禅林寺でみた森の墓を思い出す。ただ展示されている遺書は口述筆記であり、自筆というわけではない。
樋口一葉は「たけくらべ」だったが、達筆すぎてほとんど読めなかった。山梨県立文学館でみたときも読めなかったので、わたしは昔の小説家の原稿はこんなものだと思い込んでいた。しかしそうではないことがわかった。夏目漱石(坊ちゃん)、有島武郎(或る女)、島崎藤村(夜明け前)は楷書で非常に読みやすい。漱石は「かな」がうまくないことまで発見した。一方、坪内逍遥(オセロ)や泉鏡花(湯島詣)は歌舞伎の勘亭流のような書体だった。実際に歌舞伎の台本の影響を受けているのかもしれない。
「坂の上の雲」で話題の正岡子規は「飯待つ間」が展示されていた。筆跡以上に「余は昔から朝飯を喰わぬ事に決めて居る故病人ながらも腹がへって昼飯を待ちかねるのは毎日のことである」という内容にひきこまれた。1899年10月の作なので死の3年前の文章である野口雨情「赤い靴」は、もちろん「赤い靴はいてた女の子、異人さんにつれられていっちゃった」のあの童謡の歌詞だ。原稿用紙にわずか14行分、鉛筆の走り書きのように見えかねないが、1921年から1世紀近く歌として命があるとは、と驚く。
石川啄木は明らかにレタリングを意識した書き方だった。北門新報や東京朝日で校正の仕事をしていたので、普通の読書家のレベルを超えて活字や書体への関心が高かったのだろう。自筆詩集「呼子と口笛」(1911年)は赤のタイトル文字、キリスト教のマークのような図形と女王のようなイラストがあしらわれ、「われは知る、テロリストのかなしき心を――」の「ココアのひと匙」は教科書体のような書体で記されていた。
日本近代文学館絵はがきより 詩稿ノート「呼子と口笛」
一番豪華な展示は6人の原稿が展示されている大ケースだった。6人の原稿とは、小林秀雄「ゴッホの手紙」、立原道造「夕(村の詩)」、太宰治「人間失格」、三島由紀夫「春の雪」、芥川龍之介「蜘蛛の糸」、宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の6点のことである。
驚いたのは、太宰の原稿と三島の原稿が瓜二つだったことだ。原稿1枚目の右半分を使い、大きな字でタイトルを書いているところなど様式まで同じだ。出版社のせいでみかけが同じ体裁になるのかとも思ったが、筑摩と新潮社なので違っている。
しかしこれをみると、三島が太宰をマネたとしか思えない。三島は、いわゆる軟弱で露悪的な太宰の作品をいかにも嫌いそうなので意外だった。1946年12月練馬区桜台で太宰と三島が酒を飲んだとき三島が「わたしは、あなたの文学を認めない」といったと、同席した中村稔が「私の昭和史〈戦後篇 上〉」に書いている。
文字そのものは三島のほうが流れるようで上手だった。芥川の原稿はいかにも作家の原稿という感じだった。立原道造は、いわゆる金釘流、建築学科の学生だったので製図のような書き方になってしまうのだろうか。そのなかに鳥の絵文字が混じっているのが、かわいいけれど、不思議だった。
さて、宮沢賢治の字は子どものような筆跡だった。しかしそういう字で「ではみなさんはさういふふうに川だと云はれたり、乳の流れたあとだと云はれたりしてゐたこのぼんやりと白いものがほんたうは何かご承知ですか」と書かれているといかにも人柄が表れているようにみえた。しかも一度使った原稿用紙の裏を利用している。「書は人なり」というが本当だ。しかし2000年代からはほとんどワープロ使用に切り替わったので、残念ながら今後はこういう展示はできなくなるだろう。
日本近代文学館絵はがきより 橋口五葉装丁「吾輩ハ猫デアル」
また、目が覚めるほど美しい(ちょっとオーバーか)装丁の書籍もいくつか目にした。「つたとシェークスピアの顔」を四角く色箔で型押しした「オセロ」(坪内逍遥 富山房)、猫を四角い朱印のようにデザインした橋口五葉装丁の「我輩は猫である」(大倉書店と服部書店)、黄緑の地に美しい筆文字のタイトルと纏のデザインの「たけくらべ」(樋口一葉 博文館)、緑の葉と紅い花が美しい平福百穂装丁の「土」(長塚節 春陽堂)、黒地に丸く鳥のデザインが入った恩地孝四郎装幀の「どんたく」(竹久夢二 実業之日本社)などである。週刊読書人の紅野敏郎さんの長期連載「戦前本の魅力活力魔力」のなかで、写真付きで紹介されていた本もいくつかあったように思う。
なお、ここで展示されているのはすべてレプリカである。わたしには、これで十分なのだが、オリジナルでないとと、こだわる方はもちろん多いと思う。ただ装丁に関しては、かえって復刊のほうが新刊当時のデザインをそのまま見ることができてベターに思える。
高見順像
☆この文学館は、高見順・川端康成・伊藤整・稲垣達郎・小田切進らが呼びかけ、高見が初代理事長として建設を推進したが、起工式の翌日、食道ガンで58歳で亡くなった。功績をたたえ2階のホールには高見の像がある。高見はタレント高見恭子の父である。いまでは、志賀直哉文庫、芥川龍之介文庫など120を超えるコレクションと100万点の資料が保管されている。4万9081点の蔵書や原稿から成る高見順文庫もそのひとつだ。
近代文学館で働いておられた方で、宇治土公(うじとこ)三津子さんという方がいた。わたくしはお目にかかったことはないが、新宿・利佳の常連だった。20周年記念文集に、塩田良平さん、成瀬正勝さん、瀬沼茂樹さんらと並び高見順さんも利佳の客だったと宇治土公さんが書いている。この記事を書くためネット検索していて、宇治土公さんが昨年73歳で亡くなられたことを知った。