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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

公使館、教会そして学校のまち明石町――築地居留地ツアー

2018年11月16日 | 日記
今年も11月4日に「中央区まるごとミュージアム」が開催され、「築地居留地ツアー」に参加した。
今年は安倍政権が明治150年キャンペーンを張っている。築地の北・明石町は、いまでは聖路加病院と聖路加国際大学以外はごく普通のマンション街だが、150年前には東西500m、南北300m(周囲の日本人も住む雑居地域を含めてもその3倍)ほどの小さな区画に居留地があった。
ガイド役は、NPO法人築地居留地研究会のスタッフの方が務められ、まず築地居留地について概要説明があった。なおこの記事を書くにあたり、「築地外国人居留地歴史マップ(築地居留地研究会)、「東京築地居留地百話」(清水正雄 冬青社 2007)、「築地外国人居留地」(川崎晴朗 雄松堂出版 2002)を参考にした。

立教学校の校長で建築家・ガーディナーが本願寺の屋根に上って1894年に描いた居留地のスケッチ(立教大学所蔵)
築地は埋立地である。江戸開府から50年ほどたった1657年3月の明暦の大火で江戸市中の大半が消失した。その瓦礫を埋め立ててつくったのが築地で、浅草横山町にあった西本願寺も明暦の大火で消失し移った寺だった。赤穂藩の上屋敷をはじめ、上位の幕臣の住居がある地だった。
幕末の1858年、幕府は日米修好通商条約を締結し、7都市を開港開市することにした。まず59年に神奈川、長崎、函館が開港、すこし時間はかかったが維新後の1869年1月1日、一番遅く築地が開市、新潟が開港し外国人居留地が設置された。そのため居留地にあった武家屋敷や民家は移転させられ、更地になった。また木管の下水を敷設し、その遺物がタイムドーム明石をつくるときに発掘された。なお、開港と開市の違いは、開港は埠頭が必要で、外国人は借地権と建物所有権を有した。その一方、開市では建物所有権はなく借家権だけあったことだ。
ただ、築地は横浜や神戸と違い、海が遠浅なので大きい船は入れない。そこで見切った外国人貿易商は横浜に戻ってしまった。もともと52区画のうち20区画しか借主が現れない不人気で、すべての区画がさばけたのは15年後の84年だった。貿易商のあとにやってきたのが、外国公使館、教会、学校などだった。そこが神戸、横浜、長崎などと築地が大きく異なる点だった。
公使館ではアメリカ公使館がその代表である。1874(明治7)年から90年に赤坂に移転するまでこの地にあった。石標が8つ残っており、うち3つは赤坂のアメリカ大使館に寄贈され、ここに5つ残っている。

聖路加大学敷地に残る星と白鷲と星条旗の石標
その後1899(明治32)年7月に不平等条約が改正され、居留地は廃止されたが洋館は残った。しかし1923年の関東大震災で焼失・壊滅してしまった。いま明石町に残っているのはトイスラー記念館(1933年宣教師館として竣工)、カトリック築地教会(現在の建物は1927年竣工)といずれも震災後のものだ。強いて挙げれば、アメリカ公使館の石標、明石小学校脇のイギリス積みの煉瓦塀くらいしか残っていない。
学校関係では、慶応の碑は1970年代からあったが、明治学院以降の9つの学校の発祥の碑は築地居留地研究会の活動の成果ともいえるそうだ。そこでこの日のツアーも学校跡地の碑を中心にみて歩く会になった。

人数の関係で二手にわかれてエクスカーションが始まった。まず集合場所の聖路加病院の敷地内にあるトイスラー記念館をみた。トイスラー(1876-1934)は聖路加病院の初代院長のアメリカ人宣教医師である。宣教師館として1933年に建築された2階建ての洋館で、立派な暖炉があった。壁面に小さな写真がびっしり掲示されていた。英文の聖書に、ところどころ「Chichi to Ko to Seirei」「Hajime ni ari,ima ari」などと日本語の発音をローマ字でタイプ打ちした紙が貼りつけられている。当時の宣教師が日本語で布教しようとした特別な聖書だった。
かつては200mほど東に建っていたが98年の病院大改築の際、この場所に移築されたとのこと。地下1階にはボイラーがあったが、いまは災害時用の貯水スペースに転用されている。

トイスラー記念館(1933年建築)
居留地近辺は、その門前町となり外国人向けの商店や、外国人向けに牛乳をつくる牧場ができ、芥川龍之介の父・新原敏三が牧場「牧耕社」を経営し、芥川は長男としてこの土地で生まれた(ただし掲示板は生地の少し南にある)。居留地の南西隅に「生誕の地」の掲示がある(実際の生誕地はもう少し北のほう)。ただ生後7か月で母の長兄・芥川家の養子となり両国で育った。なおこの土地は朝ドラ「あさが来た」で有名になった五代友厚が明治7年に福島県の銀山経営をするために事務所をおいた場所とのことだ。

居留地南の聖ルカ通り沿いの慶應義塾発祥の碑のところでちょっと驚くような話を聞いた。てっきり福沢諭吉がこの地で慶応義塾を開校したものだと思ったら、そうではなく中津藩士・岡見彦三が、同藩出身で大阪の適塾の塾頭になっていた福澤諭吉を講師に推薦して招聘し1858年に開いたのが慶應義塾だそうだ。講師は福沢以前に他藩出身の佐久間象山や松木弘安(後の寺島宗則)などが務めていた。

「慶應義塾発祥の地」の石碑。左奥は「解体新書」をかたどった蘭学事始地の碑
さて隅田川沿いの土手の明石町河岸公園を北に歩いて、下の道路を南に戻ったところにマンションが2つ並んでいた。ここは居留地6番A,Bの跡地(居留地の番号はこちらの地図を参照)で、かつて宣教師のカロザース夫妻が経営するA6番女学校と婦人宣教師ヤングマンが経営するB6番女学校という長老派系の2つの学校があった。その後この2校は新栄女学校として合併し、その後麹町の桜井女学校も合併して女子学院となった。
その西の17番にはまんじゅう屋の塩瀬総本家がある(この記事を参照)。この場所にはかつて英米の約12のプロテスタント会派共同のユニオン・チャーチがあった。ユニオン・チャーチが表参道に移転したあと、1906年にアメリカン・スクールが入ったが、白金(港区)生まれの元駐日大使ライシャワーが通学した。
また17番には東京一致神学校もあった。これはアメリカ長老教会、スコットランド一致教会、アメリカ改革派教会の3つが合同でつくった学校で1877(明治10)年に開設された。これが明治学院大学につながるので「発祥の地」の碑が設置されていた。ただ、明治学院はアメリカ長老教会の宣教医師ヘボン(ヘップバーン)が横浜で開いたヘボン塾の後継のひとつで、フェリスや女子学院の兄貴分ということになっていて、妹分の2校が兄より古いのはおかしいという先生がいたので、いまでは明治学院もヘボン塾開設の1863年を創立年としている。

その向かいの18番にはスコットランド一致教会の宣教医ヘンリー・フォールズ(1843-1930)の自宅があった。そして東京ではじめてのミッション病院「築地病院」を近くにつくり、日本人に目の障がい者が多いことから訓盲院をつくった(いまも築地4丁目に東京盲唖学校発祥の地の碑がある)。またモースの大森貝塚の土器で古代人の指紋を発見し、これをイギリスの学術雑誌「ネイチャー」に投稿し、科学的指紋の研究が始まった。これをきっかけに、指紋はスコットランドヤードや日本の警視庁など世界の犯罪捜査に応用されることとなった。
少し南が長老派系であったのに比べ、北のほうの13,14,15番のあたりはメソジスト系で13番には海岸女学校(その後の青山女学院)や青山学院発祥の地があり、14番には現在滝野川にある女子聖学院があった。

「雙葉学園発祥の地」の石碑
少し西のブロックはカトリックの系統になる。45番は雙葉学園発祥の地で、小さくかわいい「双葉」の石碑がある。「徳に於いては純真に、義務に於いては堅実に」という校訓が刻まれていた。道路の向かいの南側36番には、いまもカトリック築地教会があり、暁星学園発祥の碑がある。暁星はこの教会のなかの神学校で始まった。これらはフランスカトリック教会や修道女ラクロ・マチルドがいたサンモール修道会の影響下にあった。1874年に聖ヨゼフ教会として始まり、77年から1920年まで司教座があり、東京大司教館の地位を占めた(その後、文京区・関口教会に移転)。この教会は角地にあるが東西方向が居留地通り、南北方向が居留地中央通りと名付けられている。
居留地中央通りを隔てた西側の42,43番には米国バプテスト教会の系統の東京中学院(のちの関東学院)があった。そのはす向かいの37,38,39,26,27には立教女学院立教学院があった。

中央区というと銀座や日本橋の印象が強いが、この明石町には日本に7つしかない居留地があった。もっと知られてよい歴史的事実である。ただ関東大震災で洋館はすべて消失し、なにも残っていない。これが神戸や横浜と違うところだ。もう少し整備されてもよいと思った。学校、公使館、教会というと、いまの港区のような街だったのかもしれない。30年ほどのわずかな歴史だが、歴史的価値は大きい地区だった。

なお居留地研究会は、アメリカ、ペルー、フランス、スウェーデンなど9か国の公使館があったので、今後も学校だけでなく大使館へも働きかけたいとのことだった。
また11月3日には第11回外国人居留地研究会全国大会がこの研究会主催で開催され「居留地と女子教育」というテーマで横浜、長崎、神戸など全国7都市から発表があった。

全国大会7都市のシンポジウム(聖路加国際大学アリスホール)
今年のまるごとミュージアムでは、ほかに泰明小学校の「泰明と銀座」展(泰明小開校140周年写真展)、新富座こども歌舞伎、京橋図書館の「平成のわがまち中央区」を振り返る(写真とベストセラー、資料の展示)、月島図書館の「小川幸治氏の絵にみる月島」(絵画展)、築地社会教育会館の区民文化祭作品展などをみた。

☆まるごとミュージアム恒例の銭湯巡り。今年は月島温泉に行った。温泉という名前だがもちろん銭湯だ。ビルの2階にあるが、この店が珍しいのは1階が月島観音という観音堂があることだ。これは戦後の1951年月島の西仲通り商店街の有志が長野の善光寺にお願いし如来像と観音菩薩像を「奉還」し、別院として観音堂を建立したものだ。そして再開発事業でビルになった2001年9月にこの場所に移設したと「縁起」に書かれていた。
下足入れが99、男性ロッカーが48、カランの数が17、風呂は水風呂、普通の温度の浴槽、電気風呂、サウナなどがある一般的な銭湯だ。珍しいのは露天風呂が付いていることだ。サイズは3人ほど入れるのでまあまあだが、景色はまったく見えない。都会なので仕方がないとあきらめた。
なお「洗面化粧台を使ったら、その度にぞうきんで拭くように」「自分の髪の毛は流しでなくゴミ箱へ」「飲料水持ち込みご遠慮ください」など細かい注意書きがたくさんあった。店の方に聞くと、銭湯のルールを全然知らない観光客がとんでもなく非常識なことをするから、とのこと。都心観光地ならではの苦労があるようだ。
大きなビルに入っていて、商店街の街路に面したところにはもんじゃ焼き屋が3軒、洋食屋と串焼き屋が各1軒、スーパーのダイエーが1店、裏の3階以上はマンションで60戸ほど入居しているのでかなりの規模のビルのなかの銭湯である。

住所   東京都中央区月島3-4-5 2F
電話   03-3531-1126
営業時間 14:30―23:45(土日・祝日12:00~23:45)
定休日  無休
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