シド・バレットの訃報は、実のところ、さほど驚いたわけではなかった。
ようやっと天に召されたのだな・・という気持ち。
ただいろいろな人たちの中にあるシドの存在を知っていくことにより、シドの死は私の心の中を浸食していった。
知り合いにかかわるショックな話も耳にする。
“狂気には合理的な部分がある”もしくは“狂気は一種の合理性をはらんだものである”との言葉を思い出しました。
(この言葉を言ったのは、コリン・ウィルソンの処女作「アウトサイダー」でも名前が挙がった、G・K・チェスタトンだったと思うけど、実家に居たときのように、手を伸ばせば資料が見つかる状態ではないので、解らないことが解らないままになって、思考が進められないことに、少しイライラと憤りを感じる。)
狂気に寄り添うことで、魂の解放をつかむことができるのかもしれない。
詩人とは、おしなべて一種の狂人のことを指すものなのではないか。
頭に浮かんだのはR・D・レインの「引き裂かれた自己」
そして、ジェーン・カンピオン監督により映画化もされた、ジャネット・フレイムによる自伝「エンジェル・アット・マイ・テーブル」も思い出す。
多感な少女期を通過し、詩人を夢見た女性ジャネット・フレイムは、私にとっては「これはそんなに気が狂っているというわけではないと思うけど?私にもこんな体験あるんだけど。」という些細な理由から(単にはにかみが行き過ぎただけです。多くの人々の前で視線に耐えられなくて逃げ出すなんて。そんなことはわたしにとっては本当に共感できる心理状態だ。シド・バレットも多くの人が見ているライヴでステージ上からおもむろに立ち去ったことがあったみたいですね・・・。)自殺未遂を起こし、精神病院に収容されます。
それからが大変。かれこれ10年ほど閉じ込められ、頭に電流を流すショック療法まで強要され(こんな非人間的人体実験が行われてたなんて、しかも特に敏感なひとたちに・・別に鈍感ならやっていいってわけじゃないけど・・ほんと信じられない!怒りを感じる!)ロボトミー手術を受けさせられる寸前、ようやっと以前書いた詩的小説の才能を認められ外に出ることができた頃には彼女は30代半ばになっていた。
社会復帰した後も彼女は理解の無い人からは“風変わりな女”と見られることになるが、それでもこの映画を観てると、外部から見た人間像と、本人の意識というものはたいてい著しくかけ離れているものなのではないか?と思ってくる。
彼女は、紙一重の作家として語られていたけど、ある種の人からはまんま“狂人”だったかもしれないと思うけど、狂気の中にこそ“解放された心”と言うものは存在するものなのかもしれないと私は推論を立てたくなります。
この映画は、重いテーマでありへビィな描写があるにもかかわらず、物語全体に流れる雰囲気はとても柔らかく暖かいです。ジャネットはよく怯えるけど、笑うことも多い。
詩人の心の解放は、“詩人以外の人”が心の解放に必要なものを多くは外部(人との関係etc)に求めるのと違って、内部にこそ存在するのではないか?と思います。
シドに対する想い、希望もそこらへんにある。
だって、40年ほどの間彼が苦しみ続けたなんて、思いたくないです。
パパラッチに追われることはシドにとって間違いなく苦痛だったと思うけど、私は彼はある程度心の安息を得られる状態で生涯を過ごすことができたのだと信じたいです。
「エンジェル・アット・マイ・テーブル」とは、ジャネットが敬愛したリルケの詩から付けられた題名だそうです。この“机の上の天使”とは“希望”の代名詞であるとの解説を耳にしましたが、シドの机の上に天使は現れたのかな・・?きっと現れただろうと思う。その推論を後ろ盾するものは人間の心というものはしごく合理的に作られているものだという私の確信から来てます。
P.S.シドの死を教えてくださったevergreenさま、悲しみの渦中におられるにもかかわらず、コメントを下さってありがとうございます!
モスコさんもたか兄さまも、コメント本当に嬉しいです!
もやもやの気持ちのままにコメントをお返しできず、この記事が先行してしまってゴメンナサイね・・・m(__)m
ようやっと天に召されたのだな・・という気持ち。
ただいろいろな人たちの中にあるシドの存在を知っていくことにより、シドの死は私の心の中を浸食していった。
知り合いにかかわるショックな話も耳にする。
“狂気には合理的な部分がある”もしくは“狂気は一種の合理性をはらんだものである”との言葉を思い出しました。
(この言葉を言ったのは、コリン・ウィルソンの処女作「アウトサイダー」でも名前が挙がった、G・K・チェスタトンだったと思うけど、実家に居たときのように、手を伸ばせば資料が見つかる状態ではないので、解らないことが解らないままになって、思考が進められないことに、少しイライラと憤りを感じる。)
狂気に寄り添うことで、魂の解放をつかむことができるのかもしれない。
詩人とは、おしなべて一種の狂人のことを指すものなのではないか。
頭に浮かんだのはR・D・レインの「引き裂かれた自己」
そして、ジェーン・カンピオン監督により映画化もされた、ジャネット・フレイムによる自伝「エンジェル・アット・マイ・テーブル」も思い出す。
多感な少女期を通過し、詩人を夢見た女性ジャネット・フレイムは、私にとっては「これはそんなに気が狂っているというわけではないと思うけど?私にもこんな体験あるんだけど。」という些細な理由から(単にはにかみが行き過ぎただけです。多くの人々の前で視線に耐えられなくて逃げ出すなんて。そんなことはわたしにとっては本当に共感できる心理状態だ。シド・バレットも多くの人が見ているライヴでステージ上からおもむろに立ち去ったことがあったみたいですね・・・。)自殺未遂を起こし、精神病院に収容されます。
それからが大変。かれこれ10年ほど閉じ込められ、頭に電流を流すショック療法まで強要され(こんな非人間的人体実験が行われてたなんて、しかも特に敏感なひとたちに・・別に鈍感ならやっていいってわけじゃないけど・・ほんと信じられない!怒りを感じる!)ロボトミー手術を受けさせられる寸前、ようやっと以前書いた詩的小説の才能を認められ外に出ることができた頃には彼女は30代半ばになっていた。
社会復帰した後も彼女は理解の無い人からは“風変わりな女”と見られることになるが、それでもこの映画を観てると、外部から見た人間像と、本人の意識というものはたいてい著しくかけ離れているものなのではないか?と思ってくる。
彼女は、紙一重の作家として語られていたけど、ある種の人からはまんま“狂人”だったかもしれないと思うけど、狂気の中にこそ“解放された心”と言うものは存在するものなのかもしれないと私は推論を立てたくなります。
この映画は、重いテーマでありへビィな描写があるにもかかわらず、物語全体に流れる雰囲気はとても柔らかく暖かいです。ジャネットはよく怯えるけど、笑うことも多い。
詩人の心の解放は、“詩人以外の人”が心の解放に必要なものを多くは外部(人との関係etc)に求めるのと違って、内部にこそ存在するのではないか?と思います。
シドに対する想い、希望もそこらへんにある。
だって、40年ほどの間彼が苦しみ続けたなんて、思いたくないです。
パパラッチに追われることはシドにとって間違いなく苦痛だったと思うけど、私は彼はある程度心の安息を得られる状態で生涯を過ごすことができたのだと信じたいです。
「エンジェル・アット・マイ・テーブル」とは、ジャネットが敬愛したリルケの詩から付けられた題名だそうです。この“机の上の天使”とは“希望”の代名詞であるとの解説を耳にしましたが、シドの机の上に天使は現れたのかな・・?きっと現れただろうと思う。その推論を後ろ盾するものは人間の心というものはしごく合理的に作られているものだという私の確信から来てます。
P.S.シドの死を教えてくださったevergreenさま、悲しみの渦中におられるにもかかわらず、コメントを下さってありがとうございます!
モスコさんもたか兄さまも、コメント本当に嬉しいです!
もやもやの気持ちのままにコメントをお返しできず、この記事が先行してしまってゴメンナサイね・・・m(__)m
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