初冬の明知鉄道 2006-03-30 22:16:36 | 私鉄・第3セクター 森の木々に纏った白い雪と、白壁の蔵が実にいい和風の雰囲気を出している。 国鉄時代の明知線は、中央西線のD51撮影のついでに1度行っただけだったが、 かなりの勾配があり、蒸気機関車C12230があえぎながら登って行った事を覚えている。 このカットのような下りこみでもDCだと絵になるのは、便利だ。 終点の明智は「大正村」と銘打って古い建物を保存し、観光化しようとしていた。 今はどうなっているだろうか。 撮影 1991年 明知鉄道 飯沼
桜の南阿蘇鉄道&高森線 2006-03-29 22:21:53 | 私鉄・第3セクター 1991年の九州懐古ツアーの時立寄った南阿蘇鉄道は、桜がキレイだった。 蒸気機関車C12の高森線時代は1973年8月と1974年1月の二度訪れたが、 二度目の時、立野の駅で出会った老人の事を思い出す。 その方は齢の頃65歳くらいか。上品な服装でキヤノン7Sを小ぶりなマスミの高級皮バッグに入れていた。 そしてその標準レンズは、かのF0・95だった。 私が「凄いですね、そのレンズ」と言うと、 「これの開放のボケがいいんや」 「君は、高校生か。随分カメラに詳しいなあ」 と、上機嫌で色々写真の事を教えてくれた。関西の方のようだった。 私も齢を取ったらレンジファインダー機の似合う、この人のようになりたいな、とその時は思ったものだった。 その時撮った写真がこれである。アーチ橋を下から撮った写真は前に紹介したが もう一度貼っておきます。 この時わざわざこのポイントまで案内してくれた親切な旅館「璧水楼」の女将さんを思い出し、 ぜひ宿泊してお礼を言いたかった。 ところが、行って見ると旅館は跡形もなかった。 白川にダムをつくるらしく、立ち退いたようだった。 撮影 上1991年 中1974(昭和49)年 下1973年 立野~長陽
光る海 のと鉄道 2006-03-28 22:01:06 | 私鉄・第3セクター これも七尾線に蒸気機関車きらめき号が走った時に、ついでに撮ったもの。 撮影場所を調べようと、駅すぱあとを立ち上げると何もない。どうやら廃線のようだ(びっくり) だいいち穴水~輪島間の七尾線がないではないか。あの勾配区間が。 しかも、のと鉄道のHPを見ると和倉温泉(これは昔の和倉か)~穴水が、エリアになっている。 うーむ。知らぬ間に時代は変っているのだなあ。 これは穴水~蛸島間の海沿いのところだが、この辺り、国鉄時代は北陸周遊券のエリア外で、 別料金をプラスしなければならなかった。なかなか行きにくい場所だった。 蒸気機関車時代はC11が「ふるさと列車おくのと号」を牽いて休日に走っていた。 最終日に何とか撮影に行けた事を思い出す。 撮影 1990年 穴水~蛸島のどこか。
雪の神岡鉄道 2006-03-25 15:16:10 | 私鉄・第3セクター 神岡鉄道を訪れたのは、たしか1990年の冬だった。七尾線に「きらめき号」というC57+C56の豪華列車が走った時だ。 その帰りにちょっと寄ってみたのだが、景色の良いのにびっくりした。 雪と森と川のつくり出す、墨絵のような風景の中をゆっくりと小さなDCが走って行く。 この1枚ですっかり満足してしまった。 たしか貨物列車も撮ったような気もするのだが。 調べてみると貨物列車は今はなく、鉄道自体も存続の危機のようだ。 2002年に小柴博士がノーベル賞を受賞した時、スーパーカミオカンデが話題になったが、私はこの風景を思い出していた。 撮影1990(平成3)年頃 神岡鉄道 HP 漆山付近の地図
花のくま川鉄道 2006-03-24 21:46:18 | 私鉄・第3セクター たまにはそう多くない、最近の写真を貼ってみます。南九州のくま川鉄道のDC(レールバス?)。 九州に滞在する用が出来た時、昔歩き回った懐かしい場所を訪問する途中だった。 ここは国鉄時代は湯前線と言って、あそボーイで復活した58654が走っていたところだ。 私は人吉までは何度か来たが8620を撮ることはなかった。 第3セクターになって本数も増え、気軽に乗ったり撮ったりできるようになったのは、いい事だと思った。 美しいレンゲ畑があったので、春の雰囲気をねらってみた。 撮影1993年頃の3月 くま川鉄道 公式HP
五能線スケッチ 2006-03-23 21:37:29 | 素顔のローカル線 当時残っていた客車列車にはたいてい郵便車や荷物車が連結されており、このように活躍していた。 定員40名のコンパクトな荷物合造車は居心地が良く、連結されていれば必ず乗った。 深浦までは中々の混雑ぶりだ。 混雑時の特等席、手ブレーキ室。さすが地元の母子はよく知っていらした。 海沿い区間を行く。このあたりで1972年12月、客車を牽く8620蒸気機関車が暴風の海に転落した事を知る者も今は少ない。 丹念に停車しながら荷物を下ろしていく。宅配便の発達がこんな仕事も失くしてしまった。旅の情緒と共に。 不老不死温泉!この看板はインパクトがあったなあ。温泉の話題になるとまずここが浮かんでしまう。 撮影 1980(昭和55)年
天北線スケッチ 2006-03-21 22:33:00 | 素顔のローカル線 キハ22の車内。学校帰りの高校生たちで賑やかだった。まさかこの線が廃線になろうとは。 途中の浜頓別からは北見枝幸までの支線の興浜北線まであったのだ。 鬼志別まで来ると、さすがに閑散としてくる 廃止反対の看板が目立つ鬼志別駅。 このあたりから乗ってきたおじさんに「どこから来なすった」と話しかけられた。 「おじさん地元ですか」 「ああ、だが元は樺太におった。戦争に負けて引き揚げて来たんじゃ」 ほう、と思った。この時点で戦後35年か。まだそういう人が現役で活躍していた。 帆立貝の養殖で、この辺りの景気は悪くないと言っていたが、今はどうなのだろうか。 撮影 1980(昭和55)年 天北線 鬼志別
天北線 寿乗降場 2006-03-20 22:50:38 | 素顔のローカル線 寿という目出度い名前の乗降場があるのは道内時刻表で知ってはいたが、中々訪問するチャンスがなかった。 1980年の夏、あるイメージを求めて道内各地を彷徨っていた時、ついに下車してみた。 陽射しは強いがカラっとしたとても気持ちのいい日で、2~3時間この板のホームでゴロゴロしていた。 だれ一人居らず、クルマも通らず、あたかも時が止まってしまったかのような気がした。 撮影1980年 北海道 天北線 寿 音威子府の右上の方である。 それにしても、『店舗苦戦と変換されるよ天北線』という笑い話があったが、時の流れは速いものだ。
タブレット 2 2006-03-18 23:30:46 | DL・DC DD5137の窓から手を伸ばし、タブレットを素手の手のひらで掴み取る名人芸。 蒸気機関車関連本の傑作動輪の響きにも、面白いエピソードがたくさん載っていた。 通過列車で、このように取ろうとしたら、掴み損ねて緊急停車したとか、逆に渡す時に転がって田圃に落ち何十分も探したとかだ。 この本ほど面白い鉄道書を私は知らない。ぜひ一度は読んで頂きたい。 これは通過列車が螺旋状のタブレット受けにまさに投入するところだ。普通はタマの方を持つのかと思ったが、そうでもないようだ。 キハ82オホーツクも最晩年か。色あせてくたびれた様子が見て取れる。 タブレットも合わせてご覧ください。 そういえば北海道はホームの花がきれいな駅が多かった。 宗谷本線の智東駅も廃止だそうだが、あの駅も実に花の美しい駅で管理局の表彰も受けていたはずだ。 写真が出てきたら紹介してみたい。 撮影 1979(昭和54)~1980年 上 磐越西線 下 石北本線
栗橋のEF571号機 2006-03-14 23:14:40 | EL・EC これは1976(昭和51)年の撮影。蒸気機関車とお別れしてから初めて撮った写真のようだ。 東北本線栗橋の利根川鉄橋の手前の築堤。 堂々12両編成の先頭に立つトップナンバー。 でも、ゴーナナの場合は、2号機以降のスタイルがイイんだよなあ。 その他のEF57の記事
タブレット 2006-03-13 22:43:54 | 素顔のローカル線 1970年代までは特急電車の走るような路線以外は、単線のところは大体どこでもタブレットが使用されていた。 ホームの柱などには『タシカニ』という標語がよく貼ってあった。 タ=タブレット、シ=信号、カ=旅客、ニ=荷物の頭文字を取ったものだが、荷扱いはとうに消え、タブレットも風前の灯のようだ。 数時間に1本のようなローカル駅で撮影していると、よく事務所の中に入れて頂きお茶を飲みながら駅長さんと世間話をしたが、 列車が近づいてくるとチンチンとタブレット授受装置が鳴り、△や○のタマを取り出す。 ポイントを切り替えると腕木信号がガクンと下がり入線許可となる。 昔のことなので、あやふやだがこんな流れだった。 撮影 1977年 紀勢本線 これは音威子府の蕎麦屋の入口の写真だが、ひらがなで『たしかに』が書いてある。 音威子府の記事はこちらからどうぞ 宗谷本線 徳満駅でのシーン。タブレットの絵と「たしかに」
冬の旅 鉄道スケッチ 2006-03-12 21:02:43 | 素顔のローカル線 冬の旅というとシューベルトの歌曲集を、誰しもが真っ先に思い浮かべるだろう。 私たちの世代ではフィッシャー=ディースカウのバリトンの美声が、多くのクラシックファンを酔わせた。 10年くらい前にNHK教育テレビで「シューベルトを歌う」という番組があり、そこでの指導ぶりもさすがだった。 このクラシックレッスンシリーズはとても面白く、今やっているスーパー・ピアノレッスンも、 生徒もかなりの技量なのだが、先生が弾くと同じピアノでも音色がこうも変ってしまうのかと驚くばかり。 好きな曲の時が、非常に楽しみな番組だ。 磐越西線 宗谷本線 名寄本線 深名線 根室本線 撮影 1979(昭和54)~1982年
歌志内線(廃線)のD51 2006-03-09 23:52:45 | 現役蒸気機関車 歌志内線を訪問したのは1975年の5月。今は人口7000人くらいの日本一小さい市で有名だが、当時は炭鉱も健在で、それなりに活気があった。 さすがに沿線の駅は無人化されていたが、その駅舎には、まだ有人時代の香りがしていた。 写真は文殊駅近辺だが、この駅が中々趣があったので後年見に行くと、なんと平凡な新築のつまらない駅になっていた。 無駄なことをするものだと思っていたが、その後歌志内線は、あっけなく廃線になってしまった。 予算を消化する為だけの駅舎の新築、腹立たしかったなあ。 撮影 1975(昭和50)年 5月 歌志内線 焼山~文殊
夕張線のD51 最終2日前 2006-03-03 22:05:01 | 現役蒸気機関車 昨日の夜景の続きのコマです。12月22日か23日。このD51465がよく来た。 このカマは実にいい形の煙を出した。吹き上がり方が見事なんですよ。 色々な条件を考えても、他機より煙がいい。写真的には最高のカマだった。 写真を見ていたら、夕張線の下りは午前中は逆光だったのを思い出した。 雪が降っていた方が撮りやすかったなあ。 撮影 1975(昭和50)年 12月 上 清水沢~鹿ノ谷 下 紅葉山(現・新夕張)~沼ノ沢 関連記事はこちら
SL最後の日 追分の9600 2006-03-02 22:24:29 | 現役蒸気機関車 今日3月2日は30年前の1976(昭和51)年、室蘭本線追分機関区に残った9600が火を落とした記念日だ。 39679、49648、79602の3両ではなかったか。 これで当時の国鉄から完全に蒸気機関車の火が消えてしまったのだ(梅小路は除く) 写真は12月22日頃の追分での夜景。49648だ。 撮影 1975(昭和50)年12月 室蘭本線 追分駅