鉄道写真1973~1982

青春時代に熱中して撮影した写真の数々を、じっくりと発表してまいります。

   

五能線と津軽鉄道

2007-11-04 19:33:24 | 素顔のローカル線

五所川原
  
  板柳
  
  板柳

津軽鉄道では古い電車を客車として使っていた

このディーゼル機関車も、古めかしいものに見える


 五能線はいいところでした。
混合列車と海沿いの景勝路線。
川沿いの磐越西線と双璧と言えたでしょう。
写真のような客車に乗る事で、
一段とローカル風味を楽しめました。

撮影 1977(昭和52)年

 




孤高の駅長

2007-05-27 21:07:42 | 素顔のローカル線






 乗客もなく、ただひとり雪晴れのホームで列車の到着を待つ駅長の姿。
数年を経ずして廃線になった名寄本線元紋別駅でのひとコマだ。
交換のキハ22は3両も繋がっている。
今では考えられない事だが、当時の積雪期は故障の事も考え動力車を多めにしていたのだろう。
単行で辺鄙なところで故障したら、それこそ大げさでなく危険でしたから。

1982年 名寄本線

ある日の磐越西線

2007-05-24 21:35:32 | 素顔のローカル線


 山都駅。なんでもない日常の風景だが、交換の客車列車と貨物列車の3両のDD51が写っている。
ホームの駅員さんと乗客の配置が絶妙で、けっこう気に入った一枚だ。
 前にも書いたかもしれないが、考えてみるとこの頃がDD51の全盛期だったわけで、
客車に貨物に各地で大活躍していた。
良き時代の鉄道風景に接することが出来たのは幸運だった。

1981年5月 磐越西線


                      

旅の記憶

2007-05-23 20:53:41 | 素顔のローカル線

 網走駅

 
 石北本線の混合列車 白滝駅か

 
 函館本線深川駅

                 
                  石北本線

 
 宗谷本線紋穂内駅


 撮影 1980(昭和55)年 北海道にて

 一枚目網走駅で1528列車大雪5号に乗車前に撮ったものか。
SL時代はC58だったが、DE10ではなくDD51牽引に置き代わった珍しいところ。
夜間照明の明るさがSL時代より増していてて、ゴーストが出ている。
逆光のきれいなゴーストは「写真」という感じがして好きだ。

 二枚目の混合列車。荷もなく新鋭車掌車ヨ8000が繋がれている。
このヨは昭和50年12月のSL廃止の時期に増えてきたもので、
室蘭本線鷲別駅の構内に大量に留置されていたのを覚えている。

三枚目は深川駅。乗り換えのため時刻板を眺める老婦人。
留萌本線と深名線がここから分岐していたが、後者はすでにない。
スハフ32とED76の組合せは、小樽~旭川ではよく見られたものだった。

四枚目はローカル線でよく見られた光景。行商ばりの大きな荷物をかつぐ婦人と、
どんな列車にも必ず乗っていた車掌氏。

5枚目はおまけで、宗谷本線の長距離鈍行列車。
そういえば名寄以北はSL時代、9600の独壇場だったが、
ここもDD51がそのまま入っていた。
(客車列車は当時もC55、C57だったので、ここのDD51は不思議ではありませんね)


日出谷の朝

2007-03-24 21:25:19 | 素顔のローカル線


 当時のダイヤを見ると、これは日出谷止まりの1222レのようです。
たぶん夜行の佐渡で新津まで行き、先行の224レで日出谷まで行ったのでしょう。
ここは、磐越物語号でなじみの場所とは思いますが、
当時はカメラを構える者は、当然私以外には誰一人おりません。
そういう時代でした。

写真のDD51は初期型の13番か15番で、塗分けが一般型と違います。
たしか、重連総括制御のできないカマではなかったでしょうか。

1977年2月頃の撮影だと思いますが、この時期から磐越西線がすっかりお気に入りになりました。

撮影 1977(昭和52)年 磐越西線 鹿瀬~日出谷

急行宗谷 兜沼通過

2006-08-11 00:03:29 | 素顔のローカル線










                   

 あまりにも暑い日が続いているので、涼しげな写真を選んでみました。
雪晴れの宗谷本線兜沼駅を、雪煙を巻き上げながら爆走通過する気動車急行宗谷。
タブレットの角度にも注目です。車体側に目標の目印があるんですね。
↓の下にタブレットの輪を当てると、タブレットキャッチャーにぴたりと納まるようです。

 こういう一場の連続写真をシークェンスと言うのは、当時の専門誌で知ったのですが、
「人と鉄道」のシリーズを撮り始めてからは、いつも物語のある写真を撮りたいなあと思っていました。


撮影 1980(昭和55)年  宗谷本線兜沼駅

その他の宗谷本線作品
さいはての9600
雪とつららとDD51
抜海
年越し蕎麦は音威子府で

◆最後に兜沼のアリバイ写真をつけたのですが、駅名板を見ると芦川から勇知に向かって走っている。
という事は、この列車は「宗谷」ではなく、急行「礼文」ですね。
この向きの稚内行「宗谷」は、夜になってからの通過でした。

日中線  昼間は走らぬ

2006-07-18 22:51:16 | 素顔のローカル線




 会津加納駅。日中線はC11時代から何度も訪れているが、たまたまこの駅の記録が出てきたので仮にまとめてみた。
この線は磐越西線の喜多方駅から熱塩までの盲腸線で、朝夕のみの3往復の客車列車があった。
昼間は走らぬ日中線と揶揄された、超ローカル線だった。





この日は新人車掌さんの研修日のようだった。



会津加納駅の駅舎。意外に立派なものだ。

          
           事務室の様子。もう夕方まで列車はない。



国鉄の赤字はいよいよ厳しくなってきた。妙に広い空間にわずかにひとつの電球が灯っていた。
壁には増収!目標額○○円などとポスターや標語が貼られていた。
「国鉄が好きだけど、どうなるかなあ」
「いい写真撮れますか」
お茶を頂きながら、そんな話をしばらくしていたと思う。

            
             一番の撮影地はこの鉄橋ではなかったか。


撮影 1980(昭和55)年11月

 熱塩編、その他はネガ発見次第追加予定。

雪とつららとDD51

2006-06-03 20:49:03 | 素顔のローカル線


 
 見事なつららの下がった函館本線銀山駅。
蒸気機関車時代はいつもファンで賑わっていたこの駅も、今では誰ひとり訪れる者もない。
静寂の中、DD51に牽かれた客車列車がやってきた。



 駅員さんの登場で、いくらか物語のある絵になる。乗降客はひとりもいない。



 降りしきる雪の中、発車時刻を確認する。



 発車ぁああ  という感じ。寒い日でした。



 寒いといえば和寒駅(宗谷本線)人の出入りのある駅では、つららは折られてしまう。



          まあまあの雪のつき具合。

                      
           
                      名寄駅では、構内の除雪で大わらわだった。



 撮影 1981(昭和56)年




東京1978年11月

2006-05-29 23:00:18 | 素顔のローカル線
 1978年11月と書かれたネガが出てきた。御茶ノ水、上野あたりでスナップしたものだ。
自分でも忘れていた写真だが、今見ると中々興味深いものもある。



 御茶ノ水



 こういう配給電車が新聞などを運ぶ為か、毎日走っていた。クル29000と書かれていた。



 秋葉原



 山手線車内 遠足帰りの小学生



 上野。宅配便のなかった時代、故郷から多くの土産を自力で持ち帰る光景も見られた。



 上野



 上野



 上野



 日暮里駅を通過するひたち



 のどかな日暮里駅の常磐線ホーム



 推進運転でDD51と12系の客車列車が上野へ向かう。
このあたりでDD51 は当時でも珍しかった気がするが成田線の臨時だろうか。



 撮影1978(昭和53)年 11月


◆よく見ると、特急のヘッドマークが文字だけだ。
ということは1978年10月以前の写真だ。
1年前の1977(昭和52)年の撮影が正しいと思われる。

◇しかし、よくよく考えてみると、1978年10月にヘッドマークに絵(通称マンガ)が入ったのだが、
当初は字幕式のものだけで、このボンネットの取り外し式のものは、文字だけで残ったのかもしれない。
そうすると、やはり日付は正しいのだろう。












抜海

2006-04-12 21:39:43 | 素顔のローカル線



 宗谷本線321列車は、最も好んで乗った列車のひとつだ。返しの324列車とともに何度楽しませてもらっただろう。
いつでもガランとしていたが、郵便・荷物と客車2両の4両編成の、まあ堂々としたものだった。
この類のローカル列車は、今なら単行のキハではなかろうか。


撮影 1980(昭和55)年 宗谷本線 抜海駅

五能線スケッチ

2006-03-23 21:37:29 | 素顔のローカル線


当時残っていた客車列車にはたいてい郵便車や荷物車が連結されており、このように活躍していた。



定員40名のコンパクトな荷物合造車は居心地が良く、連結されていれば必ず乗った。
深浦までは中々の混雑ぶりだ。



混雑時の特等席、手ブレーキ室。さすが地元の母子はよく知っていらした。




海沿い区間を行く。このあたりで1972年12月、客車を牽く8620蒸気機関車が暴風の海に転落した事を知る者も今は少ない。



丹念に停車しながら荷物を下ろしていく。宅配便の発達がこんな仕事も失くしてしまった。旅の情緒と共に。



不老不死温泉!この看板はインパクトがあったなあ。温泉の話題になるとまずここが浮かんでしまう。


撮影 1980(昭和55)年






天北線スケッチ

2006-03-21 22:33:00 | 素顔のローカル線


キハ22の車内。学校帰りの高校生たちで賑やかだった。まさかこの線が廃線になろうとは。
途中の浜頓別からは北見枝幸までの支線の興浜北線まであったのだ。


 
鬼志別まで来ると、さすがに閑散としてくる



廃止反対の看板が目立つ鬼志別駅。
このあたりから乗ってきたおじさんに「どこから来なすった」と話しかけられた。
「おじさん地元ですか」
「ああ、だが元は樺太におった。戦争に負けて引き揚げて来たんじゃ」
ほう、と思った。この時点で戦後35年か。まだそういう人が現役で活躍していた。
帆立貝の養殖で、この辺りの景気は悪くないと言っていたが、今はどうなのだろうか。

撮影 1980(昭和55)年 天北線 鬼志別




天北線 寿乗降場

2006-03-20 22:50:38 | 素顔のローカル線






 寿という目出度い名前の乗降場があるのは道内時刻表で知ってはいたが、中々訪問するチャンスがなかった。
1980年の夏、あるイメージを求めて道内各地を彷徨っていた時、ついに下車してみた。
陽射しは強いがカラっとしたとても気持ちのいい日で、2~3時間この板のホームでゴロゴロしていた。
だれ一人居らず、クルマも通らず、あたかも時が止まってしまったかのような気がした。

撮影1980年 北海道 天北線 寿 音威子府の右上の方である。

それにしても、『店舗苦戦と変換されるよ天北線』という笑い話があったが、時の流れは速いものだ。

タブレット

2006-03-13 22:43:54 | 素顔のローカル線
                   

 1970年代までは特急電車の走るような路線以外は、単線のところは大体どこでもタブレットが使用されていた。
ホームの柱などには『タシカニ』という標語がよく貼ってあった。
タ=タブレット、シ=信号、カ=旅客、ニ=荷物の頭文字を取ったものだが、荷扱いはとうに消え、タブレットも風前の灯のようだ。
数時間に1本のようなローカル駅で撮影していると、よく事務所の中に入れて頂きお茶を飲みながら駅長さんと世間話をしたが、
列車が近づいてくるとチンチンとタブレット授受装置が鳴り、△や○のタマを取り出す。
ポイントを切り替えると腕木信号がガクンと下がり入線許可となる。
昔のことなので、あやふやだがこんな流れだった。

撮影 1977年 紀勢本線



 これは音威子府の蕎麦屋の入口の写真だが、ひらがなで『たしかに』が書いてある。
音威子府の記事はこちらからどうぞ



宗谷本線 徳満駅でのシーン。タブレットの絵と「たしかに」