興浜北線というのも廃線からだいぶ時が過ぎ、変換が面倒です。
そればかりか地図を見ると岬を鉄道と平行してまわっていた国道も、
トンネルが出来て旧道になっているではありませんか。
北見神威岬と言っていましたが、地図では神威岬になっていますね。
地名は丁度岬で分かれていて、駅名と同じ斜内~目梨泊になっています。
背景の海はオホーツク海です。
ここで撮影するには、稚内行きの夜行急行利尻に乗り、早朝の音威子府で下車。
天北線の始発で浜頓別へ。更に興浜北線の目梨泊で下車。
そしてここまで歩いたと思います。
9600が来るのは10時半頃。
始発で来るとちょっと早すぎるので、北見枝幸まで往復乗車して時間をつぶしていたのかもしれません。
撮影地点は、ご覧のような岩山。ちょっとした岩登り気分でした。
撮影 1975年 興浜北線 斜内~目梨泊
磐越西線でおなじみのC57180が門デフに改装されるという事を知りました。
久々におっ!と思ったニュースでした。
日豊本線に通いつめた私は、C57は門デフ以外ありえない派でしたから、ちょっと驚きました。
今までも何度も書きましたが、C5765のドイツ風門デフが最高ですね。
次に最も多かったC5557、C57117などのスッキリタイプ。門デフの標準と言えましょう。
C57180もおそらくこのタイプでしょうか。
3次型C57はボイラーサイドのくねくねしたパイプがなくなり、すっきりしたイメージです。
C57170~189がこれに相当し、わずか20両ですから現役当時何両が門デフだったのでしょうか。
私が実際に見たのはこの鹿児島機関区のC57175のみです。C57180もおそらくこんな感じなのではないでしょうか。
会津の門デフといえば当時はC11254が有名でした。
遠く九州から転属して来て、そのままの姿で只見線、会津線を駈け回っていました。
夏のある日、会津川口~只見の間で撮影していると、この254が来ました。
これは帰りは松浦線あたりのアーチ橋を思い起こす会津宮下で撮ろうと決めました。
それがこのカットです。ちょっと九州風ですね。
当時の只見線会津宮下駅です。山小屋風の瀟洒な建物で、こうして写真に撮ってあるのは何か心に響くものがあったのでしょう。
撮影1974年
1 日豊本線 楠ヶ丘信号場~青井岳
2 只見線 会津川口~本名
3 只見線 会津宮下付近
久々におっ!と思ったニュースでした。
日豊本線に通いつめた私は、C57は門デフ以外ありえない派でしたから、ちょっと驚きました。
今までも何度も書きましたが、C5765のドイツ風門デフが最高ですね。
次に最も多かったC5557、C57117などのスッキリタイプ。門デフの標準と言えましょう。
C57180もおそらくこのタイプでしょうか。
3次型C57はボイラーサイドのくねくねしたパイプがなくなり、すっきりしたイメージです。
C57170~189がこれに相当し、わずか20両ですから現役当時何両が門デフだったのでしょうか。
私が実際に見たのはこの鹿児島機関区のC57175のみです。C57180もおそらくこんな感じなのではないでしょうか。
会津の門デフといえば当時はC11254が有名でした。
遠く九州から転属して来て、そのままの姿で只見線、会津線を駈け回っていました。
夏のある日、会津川口~只見の間で撮影していると、この254が来ました。
これは帰りは松浦線あたりのアーチ橋を思い起こす会津宮下で撮ろうと決めました。
それがこのカットです。ちょっと九州風ですね。
当時の只見線会津宮下駅です。山小屋風の瀟洒な建物で、こうして写真に撮ってあるのは何か心に響くものがあったのでしょう。
撮影1974年
1 日豊本線 楠ヶ丘信号場~青井岳
2 只見線 会津川口~本名
3 只見線 会津宮下付近
C12208というカマはあまり印象にありません。
今回アップして初めて気がついたほどです。
前回の241号はとても印象に残っているのですが、たぶんプリントしていたかどうかの差でしょう。
208号を調べると、なんと大井川鉄道にいるのですね。
それも部品取り用のスペア機だとか。
復活していれば、いくら私でも気がついていたでしょうが、
そういうわけで今日まで知りませんでした。
撮影 1974年 高森線 立野~長陽
高森線はC12の牽く客車列車と、1往復の混合列車がありました。
スイッチバックで有名な豊肥本線の立野から高森までの短い路線でしたが、
高森まではかなりの勾配があり、小型タンク機C12の奮闘が見られました。
撮影地の移動もSL列車になるわけですが、すさまじいブラスト音が今でも印象に残っています。
立野に向かう帰りの列車は下りこみなのですが、その為定数が増やされていたのでしょうか。かなり長い貨物を繋いでいますね。
発車シーンは迫力がありました。
場所はこの辺だったでしょうか。
撮影 1974年 高森線 立野~長陽(今は第3セクターの南阿蘇鉄道になっています)
網走駅にて。
後藤工場式デフにJNRマークの入ったC5833。
門デフや後藤工デフのような切り取りデフは細身のボイラーによく似合う。
石北本線 美幌~緋牛内を行くC58重連です。
この列車こそ、1975年3月期の白眉だったでしょう。
駅からは相当遠く、美幌からタクシー相乗りで撮影地付近まで。
高野第一というバス停のところから、この地点まで10分くらい歩きます。
ここは本来逆光なのですが、この日は程よく曇り、光が万遍なく回っていい感じです。
美幌駅までの帰りは路線バスでしたね。
今、北見バスのサイトで検索したら高野第一~美幌駅は7・4キロ360円でした。
当時はいくらだったかな。160円くらいだったような記憶があります。
撮影 1975(昭和50)年 北海道 石北本線
この写真を撮った日。夜行の大雪6号で生田原まで行きました。到着は早朝の4時40分頃。
当時の生田原駅のホームには大きな寒暖計があり(ガラス管に赤い液が入った古い型)、それを見ると赤いものがありません。
「なんだ、壊れてるのか・・・」とよくよく見ると、最下部の液だまりから、わずかに伸びていました。
零下25度まで目盛りがあったと思うのですが、その下。推定零下28~29度でした。
後年北見駅前の数字表示型の温度計で零下30度を目撃しましたが、やはり快晴の朝が冷え込んだようです。
が、当時のメカニカルシャッターは寒さに強く、トラブルはありませんでした。
この汽車を待つ間、斜面の雪を溶かして飲んだコーヒーは美味だったなあ。
ステンレスカップにぎゅうぎゅうに雪を詰めても、固形燃料で沸かすと半分ほどに減ってしまいます。
追加で雪を足して、インスタントコーヒーを入れる。まさに至福のひとときでした。
場所はこの辺ですね。
零下20度の撮影地から暖かい列車の中に出たり入ったり、その温度差は数十度になったのですが、
人間の身体というのは案外平気なんだなと思ったものです。
撮影 1975(昭和50)年 石北本線 生田原~常紋信号場
名寄本線(廃線)中湧別と網走の間を結ぶ湧網線(廃線)は、好撮影地が多く人気があった。
中でも計呂地は湖岸に近く、この大カーブの築堤もあり有名な場所だった。
現在の地図だとこのあたりでしょうか。
計呂地駅は委託駅ながら国鉄OBの年配の方がいて、通常の駅と変わらぬ業務を行っていた。
この駅長さんは駅がSLファンで賑わうのが嬉しそうだった。
待合室にいる誰にでも声をかけ、「今日は貨物あるよ。いい写真撮っておくれよ」
また、赤字線で廃線の危機感もあり「旅行券買ってくれ~」が口癖だった。
私も買ったくらいだから、けっこう売れたのではないだろうか。
独特の口調とイントネーションで漫談を聞いているようで、いつも待合室は笑いに包まれていた。
面白さで鮮明に記憶している駅は、ここくらいですね。
撮影 1975(昭和50)年
雨の三笠駅構内に憩う39696。幌内炭鉱からの石炭を満載したセキに囲まれている。大きな給水塔も往時の賑わいを彷彿とさせる。
9600は三笠から貨物専用線の幌内炭山までの間で使われていた。
幾春別方面からD51の貨物が入って来る。本線はD51が使われていた。
三笠駅ホームから反対側を見る。人やバスが踏み切りを行きかい、それなりの活気が感じられる。
9600が動き始めた。D51に渡す貨物の入換え作業だ。
どしゃぶりの雨にうたれながら出番を待つD51
今は地図を見ても鉄道の印がないので、確実にどこであったかはわからないが、
町名と駅名の類推からこの辺ではないだろうか(赤枠のあたり)
夕張、三笠、歌志内と我々が詣でていたところは、いずれも過疎地域となってしまっている。
撮影1975(昭和50)年 幌内線 三笠駅
紅葉山(現・石勝線新夕張駅)の2番線で憩うD51と、機関士さんたち。駅名板の右下、次の駅が「かえで」になっている。
1番線は登川線の専用だからだ。
上の写真とは別列車だが、同じホーム。夕張方面から石炭を満載して追分に向かう上り列車。
重量貨物列車なので、発車シーンは迫力満点
下り列車の進入。
蒸気機関車マニアだった私が、鉄道情景に目覚め始めた頃の写真です。
こういう写真をもっと撮りたかったのですが、時すでに遅し。残された時間はわずか数ヶ月でした。
撮影 1975(昭和50)年 夕張線 紅葉山駅
続きはこちらで
http://blog.goo.ne.jp/pkm135/e/14b1ba8d4d96ff364e86a2f83b3f6e89
http://blog.goo.ne.jp/pkm135/e/8c50dcd082ad5fa8e2e1965ea6c2aa19
私が高校生になって、自由に撮影旅行が出来るようになったこの頃は、
もう蒸気機関車はほとんど日本の北と南の端っこに残っているばかりだった。
だが、逆にそれが私の放浪癖に火をつけたのではなかろうか。
SLを撮るために遠くへ行ける。この動機は大きかった。
もし最後に残ったのが関東の平凡な路線だったら、何回か出かけて終了していたかもしれない。
事実、西武山口線にコッペルが走っていたが、一度行ったきりだ。
日豊本線 清武~日向沓掛
吉都線に行こうと都城で降りると、そこにはC57151+C5765の重連が。
一度こんな夢の組合せの走りを撮りたかった。
夏らしい黒煙を吹き上げ名機C5765が貨物列車を牽く。
夏雲、麦藁帽子、ローカル線、蒸気機関車、古い客車、むせるような草の匂い、夕焼け・・・・
すべてのノスタルジーの要素に満ち満ちていた、あの夏。
側頭葉にしまいこまれた、すべてのあの夏の日の記憶をよみがえらせてみたい。
関連記事 16歳の夏
撮影 1973(昭和48)年 7月
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北海道の湧網線は網走から中湧別(名寄本線=廃線)までの、今は廃線となったローカル線です。
そんな路線でも9600の貨物列車が毎日走っておりました。
この写真は先日竜巻被害のあった佐呂間付近ですが、
シルエットで、9600の1軸の先輪、4軸の動輪、3軸のテンダーがよくわかります。
で、最近気になるのが、機関車よりも後ろに付いてる貨車だったりします。
この写真、珍しいワムフですね。ワムとヨを無理やりつなげたような形。
2軸台車の堂々としたスタイル。
蒸気機関車そのものは、復活したものでも味わえますが、
もうこういう貨物列車は永遠に記憶の中だけのものでしょうね。
撮影 1975(昭和50)年
1975(昭和50)年12月14日に室蘭本線のSLが落ちると(最後のSL撮影記参照)、とうとう残るは夕張線のみとなってしまった。
それも毎日新製のDD51が入りカマのスジは減るばかり。
そんな時にビッグニュースが入った。
ラッセル車の試運転がD51で行われるというのだ。
これはいつも似たような場所で出会う、ベテランファンに教えてもらったのだと思う。
案外知らなかった人も多かったのではないだろうか。
半信半疑で待ち構えていると、本当にやって来たのだ。
「掻いてる掻いてる!いいぞぉおお」と、皆で歓声を上げながら撮影したのを覚えている。
当時はビデオもなく、8ミリや録音はオマケで、固まって撮影する時も静かにするということはなかったのだ。
そちらの本格派の人たちは、スチール派とは離れた場所で余計な音を拾わないようにしていた。
ラッセルのヘッドが複線用で、単線の夕張線にはイマイチだったかもしれないが、
当時は煙が余計に嗅げるだけで大満足でした。
これがわが国最後のSLラッセル車の運転だと思うのだが、
12月24日以降に、密かにDL不足のため運転されたという話も聞いた事があります。
撮影1975年12月 夕張(現・石勝)線
上 紅葉山(新夕張)~沼ノ沢
下 滝ノ上付近