鉄道写真1973~1982

青春時代に熱中して撮影した写真の数々を、じっくりと発表してまいります。

   

モノクロの話

2006-04-25 22:48:13 | DL・EL・DC・EC等
                      


 高校時代に写真部に入ったのだが、先輩は幽霊部員が何人かいるだけで、入部早々友人と二人の隠れ家になってしまった。
暗室道具や薬品は完璧に揃っていたので、毎日プリントを楽しんでいた。
そのうちフィルム現像にチャレンジするようになった。
最初はキングのベルト式という初心者向きのもの。
現像液はパンドールだったか。
フィルムがネオパンSSだったから、たぶんそうだ。

 氷酢酸の停止液に漬け、フジフィックスの定着を十分。この時に像が見えるとほっとした。
水洗の後、ドライウェル(水滴除去剤)に漬けて乾燥。錘のついたクリップで吊るす。

 道具は池袋の今はない「キクヤ」で揃えた。
随分失敗もした。うっかり最初に定着液を注いでしまい、流れ去ってしまった記録もある。
ベルト式は液の流れが悪く、中心と外側では現像ムラもできた。

 その後ノーベルト式に変り、トライX100ftの頃には2段式、3段式を揃え、大量同時現像ができるようになった。
最後はキングパターソンのステンレス製のものだったが、ステンレスリールに暗室袋の中でフィルムを巻くのは、とても慣れが必要だった。
随分器用だったものだ。

 現像液や現像法も色々工夫した。
最後はD76を1:1希釈現像か、ミクロファイン2:3で24℃で12分とかで、微粒子を追求したりした。
忘れちゃったなあ。また思い出したら書いてみよう。

美しいD51603

2006-04-21 22:14:04 | 現役蒸気機関車



 1975年10月の渡道では、今まで行かなかった路線を重点的に回った。
その時根室本線滝川口で見たのが、苗穂工場最終検査出場車のD51603だった。
昼間ロングで撮った時、妙にピカピカしたカマが走っていたので「何だろう?」と友人と不思議がった。
その晩芦別で、発車を待つカマがD51603だった。
一灯しかない構内灯に照らされてギラギラと光るさまは、実に美しかった。

 発車するまでの1時間あまり、撮影するのは我々二人だけだったというのも時代だろう。
今なら大変な騒動なんだろうなあ。


撮影 1975(昭和50)年 根室本線 芦別駅

わたらせ渓谷鐡道

2006-04-18 22:07:33 | 私鉄・第3セクター



 足尾から日光へ抜ける道をドライブしようと思っていたら、わたらせ渓谷鐡道のDCが走っていた。
昔は足尾線といってC12の重連が有名だった。
そのハイライト区間の草木~神戸も今は長いトンネルに変わっている。


撮影 1990年頃 わたらせ渓谷鐡道

茨城交通

2006-04-16 22:40:11 | 私鉄・第3セクター



 大雨が続いてやっと晴れ間が見えた日に、茨城交通を訪れた。
ここは当時でも珍しい混合列車が走っていたので、お気に入りの路線のひとつだった。
混合列車といっても、小さい凸型DL+貨車数量+このキハだったが、貨物が付く事はめったになかった。

 川が凄い増水で、今にも鉄橋に届きそうだが、それよりも驚いたのはドアを開けたまま走って来たことだった。
どうせ客もあまりいないし、湿気た車内を乾燥させようとしたのだろうか。
のんびりした面白い鉄道だった。


 撮影 1978(昭和53)年 茨城交通 中根~那珂湊の地図

抜海

2006-04-12 21:39:43 | 素顔のローカル線



 宗谷本線321列車は、最も好んで乗った列車のひとつだ。返しの324列車とともに何度楽しませてもらっただろう。
いつでもガランとしていたが、郵便・荷物と客車2両の4両編成の、まあ堂々としたものだった。
この類のローカル列車は、今なら単行のキハではなかろうか。


撮影 1980(昭和55)年 宗谷本線 抜海駅

朝のC57 日豊本線高鍋

2006-04-08 23:18:41 | 現役蒸気機関車



 九州入りする時は東京から急行「桜島・高千穂」を利用した。朝10時頃東京駅を出て、夏だと岡山あたりで日が暮れた。
そこから夜一杯山陽路を走ると早朝に九州に着いた。
まず筑豊地区で一日撮影して、その晩の日豊本線の夜行急行「宮崎」に乗る。
すると早朝の高鍋に到着。駅付近のこの鉄橋で何本か撮れた。
 大好きな日豊のC57に会えるとあって、門司港駅で夜行を待つ間もわくわくしたものだ。

 高校2年のこの夏は、列島縦断2万キロの撮影旅行を計画。現役蒸気機関車時代最も充実した夏だった。


撮影 1973(昭和48)年7月 日豊本線 高鍋付近の地図