鉄道写真1973~1982

青春時代に熱中して撮影した写真の数々を、じっくりと発表してまいります。

   

素顔のローカル線 (番外・津軽線)

2006-01-29 01:09:38 | 素顔のローカル線








         
                                       1980(昭和55)年12月撮影

 この年の年末は雪が少なく、雪景色をテーマに東北方面を彷徨っていたが、南東北では雨が降ってくる始末。
しかも羽越本線の客レも50系が混じり始めた。
「こんなのは客車ではない、113系あたりの電車と何ら変わらない安っぽさ」
と思っていた私は、かろうじてやって来たオハ35に乗り込みながら打ちひしがれていた。
蒸気機関車を見送り、またそれに代わる喜びを与えてくれた旧型客車の旅も、もはや失われる時が来たのだ。

 青森まで来るといくらか雪があった。まだ乗った事のない津軽線に乗ってみた。
これは三厩まで往復した時の印象を記録したものである。



流氷と9600 名寄本線沙留

2006-01-27 01:29:41 | 現役蒸気機関車

追分で最後まで残った9600の1台、39679。これは渚骨駅か、沙留駅か。


名寄本線 沙留(さるる)の駅はオホーツクの海辺にあった。この時期は流氷で埋め尽くされていた。
この写真は海の上の氷に乗って撮ったものだ。
そういう実感はなく、荒れた陸地のような感覚だったが。

1975年2月撮影

石北本線 呼人のC58

2006-01-26 01:03:08 | 現役蒸気機関車
 呼人は1975年の春に、人気のある場所だった。
朝のいい時間に上りの客レと、下り大雪くずれ1527レがやって来るのと、
力行を撮れる適度な築堤があったからだ。
 また、素泊まり1300円のその名も「呼人旅館」の存在も大きい。
さすがに、ここで大雪崩れを撮るには夜行では無理だからだ。


                      《豪快に呼人を発車する522レC58119》

 前日の夜、常紋の撮影を終え呼人の駅で下車すると、待合室に妙なおじさんがいた。
その人は大手町あたりのビジネス街から、そのままやって来たかのようなバーバリー風のコートを着て、寒そうにしていた。
ビックリしたのは足元を見ると、通勤用の革靴であったことだ。そしてカメラを1台持っている。
話を聞くとSLの写真を撮りに来たのだという。事前に呼人がいいというのを誰かに聞いたのだろうか。
女満別空港から、直接来たらしい。この年はSLブームのラストという事で、こういう人もいたのである。
 宿もわからないというので、一緒に呼人旅館に泊まることにした。
別々の部屋だったが私はオガタン(オガクズを350cc缶位に固めた燃料で火力は強いがすぐ燃え尽きた)ストーブに火をつけ、
くつろいでいた。
 しばらくすると、ドンドンとドアを叩かれた。開けるとおじさんがいて「寒い」と言う。
部屋に行って見ると、煙が充満している。オガタンに火をつけられず生焼けなのだ。
私は新聞紙と割り箸の点火用の材料を使って、すぐに火をつけてあげた。
「おじさん、これオガタンはすぐ燃え尽きるから、次を入れないと消えちゃいますよ」
と、教えてあげた。
 こんな浮世離れした大人もいるのかなあと、不思議だった。
すごいお坊ちゃまが、そのままオジサンになった感じ。
でも、謙虚な方で、とてもいい印象が残っている。


                  《北見機関区のエースC5833の牽く、堂々急行編成の1527列車》



オマケ 女満別あたりを往く貨物列車


1975年2月撮影


素顔のローカル線  (番外編1)

2006-01-18 06:48:46 | 素顔のローカル線
素顔のローカル線シリーズから選に漏れた作品で、ちょっと組んでみました。
磐越西線だけで膨大なカットがあるのですが、ほとんどネガのままです。
デジでは中々プリント並みのクオリティが出せないので、勉強しないといけませんね。


         







1~3磐越西線 山都駅
  4宗谷本線

1977年撮影








素顔のローカル線  1

2006-01-15 00:22:29 | 素顔のローカル線
 もうひとつの鉄道写真へのアプローチ、
「人と鉄道」を追求したのが、このシリーズ。
最後の数年は、これがメインになった。
折りしも旧型客車は消えんとし、北海道の盲腸線も廃止の危機にあった。
 行き当たりばったりでは、すぐ類似カットの山となり、レベルの高い写真は得られなかった。
考えに考え、あるべきシーンを想定すると、もはや偶然では得られそうもない領域となってしまう。
セットを組み、演出をしなければダメか?
それが鉄道である必然性は?
色々考えたものの、中途半端に終わってしまった。
 そのいくつかの断片が、プリントされ残されたのである。


函館本線


函館本線


釧網本線


羽幌線


磐越西線


磐越西線

2へ続く(不定期連載の予定です)






あの日の社台に、馬はいなかった

2006-01-11 09:24:56 | DL・DC
 栗丘と並ぶ室蘭本線の撮影名所が、ここ社台ファームと樽前山。
駅名で言うと社台~錦岡だ。
蒸気機関車時代は3度訪れたが、馬がいる時は山が見えず、
山がいい日は馬がいないという、消化不良の場所だった。
 蒸気機関車がなくなって数年後にフラっと思い立ち、行ってみると、


あっけなく理想的な写真が撮れた。

蒸気機関車の時代は、というと


馬がいない


いつまでたっても、馬は現れずあきらめた


オマケ。急行気動車。

1975~1977年撮影 室蘭本線 社台~錦岡

地図を見たら、今は後ろに高速が走っているが、撮影に影響があるのだろうか。

北海道のローカル気動車

2006-01-10 00:32:10 | DL・DC
 今の鉄道趣味を見ていると、撮影派(撮り鉄)と乗車派(乗り鉄)が、
ほとんど分裂してしまっているようだ。
私も何度か復活蒸気機関車を撮影に行ったが、たいていのカメラマンはクルマだった。
 私が撮影に熱中していた時代は、鉄道全盛期の最末期だった為、撮影を抜きにしても、鉄道に乗っているのが楽しかった。
過去記事を読んで頂ければわかるが、ほとんどが列車と徒歩による撮影行だ。
たまには苦しい、つらい体験もしたが、それが今では一番いい思い出になっている。
また、楽しくなるような夜行列車やローカル線がたくさんあった。
 北海道のローカル線を走るキハにも趣があった。
本州の寒いところでも、半自動ドアで、客室と外はドア一枚だったが、
北海道のは、デッキで分離されており駅ごとに気兼ねなく降りられた。
ツートンの塗分けも品があった。

              《根室本線 滝里~野花南》

 古いタイプのキハは室内灯が赤っぽい白熱灯で、夜のムードは最高だった。
私は蛍光灯の旧型客車より高い点をつけていた。
形式にあまり興味がないので確信はないが、キハ22やキハ10~12ではなかろうか。
ただ、バスのような貧弱なシートの本州だとキハ17のようなのは、イマイチ。
キハ22の白熱灯。これが良かった。


                《日高本線新冠の判官館を行くキハ。月が出ている夕暮れ》


                   《胆振線 北湯沢付近》

 この頃はバイトもしたのでいくらか旅行資金にも余裕があり、
夜行列車ばかりでなく、たまにはYHに泊まることもできた。
新冠も北湯沢もYHのあった駅だ。
北湯沢の写真はスキー場のてっぺんから写したものだが、
銀箱と三脚姿の私が「リフトに乗りたい」と言うと、
係員の方は、びっくりして目を丸くしていたが、
ちゃんと往復乗せてくれた。

1976~1978年撮影


常紋のキハ82 特急おおとり

2006-01-04 02:39:20 | DL・DC
 正月のシメは、雪景色と華やかな特急にしたい。

                           
                           常紋のトンネルを抜けたWカーブの、おなじみの場所だが、D51だと本体の数倍も煙が上がり、
                           このようなアップは撮れない。
                           当時は夜間とトンネルしかライトを点灯しなかったので、締まらない印象もある。


 オマケ。常紋を通過する「オホーツク」
これくらいの天候で、トンネル直後なのに消灯ですよ。
今は腕木信号もないんだろうなあ。
「おおとり」は列車自体がないとも聞くが、よくわからない。
念のためにググってみたら、やはりない。
オホーツクは、まだあるようだ。

撮影は上1975年下1978年

食糧難だった正月の鉄チャン

2006-01-03 02:54:26 | 現役蒸気機関車
 昭和40年代後半~昭和50年代前半には、まだ田舎にコンビニもなく、
また、年末年始に開けている商店、食堂も少なく食事には苦労したものです。
定番の菓子パンも、12月26日あたりが最終製造日で、三が日過ぎまで、
やっと開いている商店に行っても、売れ残りの1週間も経った豆パンなんぞしかなく、
それを我慢して齧るしかなかった。


                 《1974年の正月、定期貨物も荷がなく単機。都城駅にて》

                          《淋しく発車していく単機》

 そんな経験を何度かするうちに、固形燃料+鍋+ラーメン持参という手法が編み出された。
新宿のカメラ屋でフィルムや機材を仕入れた後、秋葉原の登山道具屋で、固形燃料を買う。
丸い、未使用のガムテープくらいの大きさの缶に固形アルコール燃料が入ったもので、
(料理屋の小さな鍋料理で、下から燃やすアレですな)
中々の火力だった。

 昭和48~49年頃には、鉄チャンの集まる駅では大体調理風景が見られたものだ。
調理が終わった後、火を消す為フタをかぶせるのだが、あわててかぶせると、
熱膨張で、「パーーーン」と、もの凄い音とともに、フタが数メートル飛んだ。
その音を聞くと、「ああ、やってるな」と笑いが込み上げて来たものだった。

     《しょうがない、C55でも撮るか。だけど、背景の建物、今見ると古風でいい味だなあ》

                  《おっ、C55がブルートレイン牽いてるよ。いいねえ》

 色々な銘柄のラーメンを食べたが、一番のお気に入りは都城の地元製品で、
「クロレラうどん」というものだった。
これは半生麺と共に別添で揚げ玉が付いていた優れもので、汁も抜群に美味かった。
これを青井岳や、楠ヶ丘の山中で、湧き水でつくって食べた時は、幸福感に満たされた(笑)
何しろ食後にやってくるのはC57ですしね。

 他には緊急避難として、桜田淳子がCMをしていたグリコのコメッコをよく食べた。
まあ、米だから、いくらか一般食に近いかなと思ったまでの事だが。
登山屋で、フリーズドライ食品も買って試したが、当時のものは容量が少ない上に美味くなかった。

 その頃、駅の立ち食いそばは、カケが60円くらいだったが、宮崎駅ではカケでもカマボコやトロロ昆布が載っており、
お得な感じがした。

               《臨客が走るのは正月のウレシイところ。田野~日向沓掛》

                   《田野駅に戻ると人気スターC5765が!貨物もついてる》

                    《青井岳で待ち受けたけど、風が強くて失敗》

                      《交換の貨物も単機だよ》

                      《にちりんが通過すると、間もなく発車》

                        《ショボい白煙だが、オマケの一枚》