続・エヌ氏の私設法学部社会学科

無理、矛盾、不条理、不公平、牽強付会、我田引水、頽廃、犯罪、戦争。
世間とは斯くも住み難き処なりや?

舎利の奇特にて命たすかりし人の事

2018-12-23 | 諸国因果物語:青木鷺水
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 津国瀬川の宿、待兼山のほとりに甚之丞という者がいた。
 先祖は昔、荒木津守が伊丹籠城をした時、何度か手柄を立てて感状などを貰い、その後、摂津守を恙なく勤めるなど天晴れな武士であったが、伊丹が没落の後は、屋敷ひとつばかりの、浪人同然の身となった。
 しかも、それが三代目の今に至っては、再び武家の名を興すことも叶わず、そうかといって、土民の数に入りながらも農業については何も知らず、心ならずも隠遁の身なりをし、訊かれもしないのに、羽振りの良かった昔の話ばかりして過していた。
 ただ、せめてもの取柄で、人に無心がましき事は言わず、損をかけることもなく、特に何の生業をする様子でもなかったが、人並みに木綿の衣裳をさっぱりと着こなし、年に二度ほどは、近所の衆を呼んで碁や将棋に遊ぶなど、人を傷つけたり迷惑を掛けたりすることのない善人と、人々から言われていた。
 その隣郷で宮の森の辺に、重太夫といって甚之丞とは無二の友がいた。重太夫は庄屋で、多くの下人なども召し使う富裕な者で、暇があれば、その辺の友人宅へ遊びに行き、殊に甚之丞も遊び好きなので、互いに朋友の交わりを深くしていた。
 ある朝、重太夫は用事があって多田の方へ行くと、大和河の端に高札が立てられていた。それを読んでみると、
「当月十二日の夜、この河の端にて、金子三百両が入った財布を一つ、封をした黒塗の箱一つ、拾い申し候。心当たりのある御方は、目録を御持参くだされ候。目録と現物を照合の上、落とし主へお返し申し候。以上。瀬川の宿 山中甚之丞」
と書かれていた。
 往来の旅人たちがこれを見て、
「この立札は、遠く京海道にも立ててあった」
「上牧で最初に見た」
「俺は桜井で見た」
「郡山や芥河、高槻の辺にもあった」
などと口々に言うのを、重太夫はつくづく聞いて、
「もし甚之丞でなければ、このような高札を立てたりはしなかっただろう。本当に無欲な奴だ。それにしても、こんな高札を立てるのなら、俺にも何か相談があってよさそうなものだが、何で相談してこなかったのだろう」
と訝った。
 ところが欲は汚いもので、重太夫は、この高札に似つかわしい話を取繕って、うまいこと金品を手に入れられれば儲けものだと思い、甚之丞宅へ行き、かの高札の事を、
「俺のところの使用人が、この前、池田へ届ける酒代を預って、大坂から帰っていたのだが、他にも何かと荷物が多かったので、そのうち二三個を、どこかへ紛れるか落してしまったらしい。残念で、困っていたのだが、お主が拾ったのは幸いだった。さあ、渡してくれないか」と話した。
 甚之丞はこれを聞いて、
「その話に偽りはないだろう。殊にお主と俺の仲であれば、早速にも渡すが、このような事には念を入れるのが互いのためだ。箱の上書きに何と書いてあるか、金子の封印には何と書いているか、目録を書いて持ってきてくれれば、確認した上で引き渡そう」
と言う。
 重太夫は、これは困った、目録に何と書けばいいのかと思ったが、家に帰って、とにかくそれらしい案文を認めて持参したところ、二三日過ぎて甚之丞方より、
「成程、目録に相違はなかった。ただし、箱の中は封印したままなので、何と書いてあったのか確認はできなかった。とにかく、今晩、返し渡そう」
との連絡があった。
 重太夫は嬉しくなって、早速、受け取りに行くと、金子三百両は封のまま、箱もそのまま渡してくれた。重太夫は、当座の礼として金子百両を持参しており、甚之丞は固く辞退したが、半ば無理やり受け取らせて、酒など呑み交わし、夜が更けるまで語り合って帰った。
 次の日、重太夫は朝早くから起きて、心に人知れぬ笑みを含みつつ、この金子に灯明など奉って、氏神を幾度か拝み、さて、かの封を切ってみたところ、三百両は悉く真鍮で作った偽小判で、一文にもならない代物であった。これはどうしたことかと大いに仰天し、そのままこの金を引っ提げて甚之丞の家へ行き、いろいろと穿鑿したが、かえって重太夫のほうが言い掛かりをつけているようで、旗色が悪くなり、一代の不覚なりと諦めて帰った。
 元々は、重太夫が手にするいわれのない金であったが、そうなると重太夫は、この偽金は甚之丞が準備したに違いない、甚之丞は本物の小判を着服して商売の元手にでもするつもりだ、と思うようになった。
 そしていつしか、この事が人々の噂話に登るようになり、甚之丞は村中の取沙汰が悪くなり、人付き合いも疎くなってきて、とうとう住み慣れた家も僅かな代金で売ってしまい、大坂に下り、知り合いを頼って、しばらくは居候のようにして身を隠した。
 そして、時々は北浜の米市で商売をして、少々の利益を得ていたが、それも始めのうちは稼ぎになっていたものが、後には損ばかり出すようになってしまった。
 そんな矢先、甚之丞を住まわせている家の亭主が、ある夜、妻子を道修町の親元へ遣し、ひとり居間で寝るでもなく、夜半の頃まで留守番をしていた。
 甚之丞はその夜、谷町辺りに用事があって出かけており、夜遅くに帰って来た。頃は元禄十五年の秋、名月に近い空が俄かに掻き曇り、時ならぬ夕立が凄まじく降る折、庭の沓脱ぎの下から人の声がして、立ち出るものがある。
 これは誰だ、盗人に違いない、何とかして撃退せねばと甚之丞は思ったが、平生から物怖じする性格であったので、臆病神に憑りつかれ、ただ一念に大悲観世音の名号を唱え、盗人が家中のお宝を丸剥にして行ったとしても、命さえ助かりたいと尻込みした。
 それでも、心に念仏を唱えながら一太刀斬り掛け、あとは夢中で刀を振り回すと、盗人は静かになったので、急いで止めを刺そうと斬り付けた。そして刀を引き抜こうとしたが、何に引っ掛かったものか、刀が抜けなくなってしまった。
 これはどうしたことかと、心は急いて大汗をかき、えいやえいやと引いているうち、主の女房が手代に送られて帰ってきた。
 そうこうしているうちに、皆が家の中へ入ってくる音がしたので、これで運の尽きかと思い、刀を捨てて逃げようとしたが、何のはずみか自分が着ている着物の、裾の破れに足を引っ掛け、どうと倒れたのを、手代たちも見付けて、捕えてみれば甚之丞である。

 さては、こいつが旦那を手にかけ殺したのかと、斬り込んだ刀を引き抜いて見ると、亭主には少しも傷がなく、持仏堂の戸を切り割って、中の舎利塔に切先が食い込んでいた。
 忝くもこの舎利は、和州の寺より申し請けた、有難い仏舎利であった。
 亭主も、この奇特で怪我もせず無事だったことにより、甚之丞を許し、甚之丞も、この瑞現に逢って心を改め、その場で髻を切って、道心の身となって、今も玉造の辺に住んでいるという。

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