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江州龍花村に、惣兵衛という、炭焼を商売にしている者がいた。
この辺り多くは、北山炭といって洛中で売られ、銅壺や風呂などに、早く火が熾って便利だとして持て囃され、惣兵衛も、毎日往還して渡世としていた。そして、伊香立という所を始め、周辺各地の山々の持ち主に前金を渡し、炭窯ごと買い取る形で、出来た炭を運んでいた。
その、惣兵衛が買った炭焼窯のうち、崩坂の藤五郎という者は、多くの山を持ち窯数も多く、大量の炭を作っていたので、藤五郎方から惣兵衛方へ、直接、馬でたくさんの炭俵を積み運び、その結果、藤五郎は大金持ちになっていた。こうした取引は二三代も続いていたので、お互いに、いい得意先として馴染んでいた。
そのうえ、田舎者の習いとはいいながら、惣兵衛の先代は特に律儀者であったので、藤五郎も心安く、頼もしく思っており、二八月の商売が冷える時期に、銀の入る事がない時でも、特に不満は言わなかった。
先代惣兵衛もまた、藤五郎からの馬の便りで、貸付の頼みがあるときは、二十両三十両の事であっても、早速、惣兵衛が世話をして用立てた。このような具合であったから、毎年の決算でも、わざわざ帳面に立会って吟味する事もなく、互いに手紙のみで信用しあう仲であった。
そこへ来て、今の惣兵衛もまた二心ない者で、よく親から引き継いだ仕事を、万事に気をつけて勤め、家はますます繁盛していた。
しかし、いかんせん惣兵衛は生まれつき不自由を知らず、金銀を稼ぐ苦労をも弁えぬ身の上に育ったので、昼夜かまわず遊び続け、一日を暮らす長さに退屈して、ろくでもない事ばかり考え、あらゆる慰みに携わり、碁、将棋、鞠、揚弓、手跡、読物と、およそ人が娯楽とすることは一通り極めた。
それほど遊んでばかりいては、心を亡くしてしまう元だとは分かっていたが、遊びの道は止められず、上方の花や、名にしおう祇園へも出かけ、舞妓や芝居にうつつを抜かして、しばらく逗留しようと京都に登り、炭の得意客があるのを頼って、河原町四宮のあたりに借り座敷を構え、毎日の遊山に気を伸ばし、茶屋や旅籠で美食に耽り、これほどの楽しみは他にないだろうと思っていたが、それも馴れてしまえば、やがて面白さも薄くなってしまう。
そうなると、遊びも病膏肓に入るで、衣服や腰のものは言うに及ばず髪かたちまで、万事、上方の風流を見習い、気取って、故郷の事など忘れて奢り高ぶれば、持っている金銀も大方は悪い遊びに使い果たし、あまつさえ博奕にまで手を出して、結局は身ぐるみ剥がれて、ほうほうの体で故郷に帰った。
惣兵衛は、思いもかけず金に不自由する身となって、今までは思いもしなかった欲を起こし、悪い決心をした。
そんな時、藤五郎方より、炭窯の仕入れなどに入用の事があって、いつものように金三百両を支払ってほしいと連絡があったが、惣兵衛にはそんな金などなく、しかも、このような状況では貸してくれる人もおらず、そうしたことを藤五郎へ連絡したところ、不審に思った藤五郎から、今回は年々の帳面に立会ってきちんと勘定すべし、との催促があった。
根が無分別な惣兵衛は悪心を起こし、自分の家に、藤五郎の姪が幼少の頃より賄いをしていたのを、若盛りの頃、何かと情けがましく言い交した事があったので、その娘をあれこれと騙し賺して藤五郎のところへ行かせ、藤五郎の印鑑を盗み出させて偽印を作り、帳面の内容を改竄してしまった。
この帳面を基に、突然、六十貫匁の負債があると言われた藤五郎は、覚えのない借り越しに激しく立腹し、奉行所を経て対決に及んだ。しかし帳面には、年貢に納めるべき金を納めていないことが書かれており、もちろん嘘言であって、本当は藤五郎に理があるのだが、押されている印鑑が間違いなく藤五郎のものであったため、弁明は全く取り上げられず、六十貫匁の銀を上納すべしとの判決が出てしまった。
(注:年貢の未納は罪であり、殊に、故意であれば重罪となる)
藤五郎は、何とかこの無実を晴らして、自分には一点の曇りもない旨を申し開きしたく、奉行所に訴え嘆願したが、無実を証明する有力な証拠もなければ、未納の罪に虚言の罪も重なって、藤五郎家は取り潰しという決定がなされてしまった。
事、ここに至って藤五郎は、今はよし、この偽印によって無実の罪に問われるのならば、己は死んでも、この憤りには報いてやると、急ぎ家財を売り払い、残った山林を妻子に譲るなどして身辺を整理し、自分自身は、三年のうちに惣兵衛を取り殺しきっと思いしらすべし、との書置きを認め、山を出て自害した。
一方、惣兵衛は、大事を言い抜け、勝訴した悦びに、いよいよ不道徳を好んで身上を稼いでいたが、藤五郎の死期の一念が、恐々と心に懸っていた。しかし、だからといって、藤五郎が亡くなった場所へ行って手を合わせるわけでもなく、二年あまりが過ぎた。
ところで、惣兵衛の母は死期の遺言で、ある庵に葬るよう頼んでいたが、今年は七年忌でもあったので、惣兵衛は前日の夜からその庵へ行き、翌日はしっかりと年忌を勤めた。それが終わると、惣兵衛は緊張が解けたのか、酒に酔いつぶれてしまい、何かと管を巻き、訳の分からないことを言って腰を上げようとしない。短い秋の日が傾けば、道も暗く心もとなくなるので、惣兵衛は下男にすすめられて荷馬に乗せられ、鞍に抱きついたまま眠っていた。
そのうち、かの藤五郎が死んだ山あいも程近くなると思う頃、不思議や今まで晴れ渡っていた空が俄かにかき曇り、時ならぬ雷が激しく閃き、礫のような雨が横殴りに吹き付け、跡先も分からぬほど暗くなってきたので、惣兵衛も小気味悪く恐ろしくなってしまい、馬を打ちたてて一散に馳せた。
さっきまで晴れていたのが、一転、こんなに雷が激しく鳴り響くような天気になるとは、一体どうしたことかと心も眩む折節、惣兵衛の後方に、大きな雲が一つ、墨を広げたように真っ黒なのが近くまで舞い下がり、惣兵衛が乗っている馬の上へかかると見えた時、殊に凄まじい稲光が炎を蒔いたように光って、続いて大きな雷が次々と落ちかかり、山も谷も揺るがした。
これ肝を潰した下男は、足を踏み外して遥かなる谷へ転げ落ち、死ぬかと思うばかりの体であったが、それでも漸く雷が収まり空も晴れれば、下男も何とか谷より這い上がって、さても旦那はどうなったのかと、その辺を見歩いた。
すると、馬は二町ほど脇の岩陰に、鞍縄もちぎれたまま嘶き立っていたが、旦那は今の雷で、体中の骨はばらばらに砕け、手足はもとより五体で損傷していない個所はなく、皮などは紙を広げたようになっていた。
それでも、わずかに目と口が動いているようなので、下男は惣兵衛を小さく押してみて、馬に括り付けて、どうにかこうにか帰りつき、さまざまな療治を施したが、もとより叶うはずもなく、二十日ばかりして死んでしまった。
江州龍花村に、惣兵衛という、炭焼を商売にしている者がいた。
この辺り多くは、北山炭といって洛中で売られ、銅壺や風呂などに、早く火が熾って便利だとして持て囃され、惣兵衛も、毎日往還して渡世としていた。そして、伊香立という所を始め、周辺各地の山々の持ち主に前金を渡し、炭窯ごと買い取る形で、出来た炭を運んでいた。
その、惣兵衛が買った炭焼窯のうち、崩坂の藤五郎という者は、多くの山を持ち窯数も多く、大量の炭を作っていたので、藤五郎方から惣兵衛方へ、直接、馬でたくさんの炭俵を積み運び、その結果、藤五郎は大金持ちになっていた。こうした取引は二三代も続いていたので、お互いに、いい得意先として馴染んでいた。
そのうえ、田舎者の習いとはいいながら、惣兵衛の先代は特に律儀者であったので、藤五郎も心安く、頼もしく思っており、二八月の商売が冷える時期に、銀の入る事がない時でも、特に不満は言わなかった。
先代惣兵衛もまた、藤五郎からの馬の便りで、貸付の頼みがあるときは、二十両三十両の事であっても、早速、惣兵衛が世話をして用立てた。このような具合であったから、毎年の決算でも、わざわざ帳面に立会って吟味する事もなく、互いに手紙のみで信用しあう仲であった。
そこへ来て、今の惣兵衛もまた二心ない者で、よく親から引き継いだ仕事を、万事に気をつけて勤め、家はますます繁盛していた。
しかし、いかんせん惣兵衛は生まれつき不自由を知らず、金銀を稼ぐ苦労をも弁えぬ身の上に育ったので、昼夜かまわず遊び続け、一日を暮らす長さに退屈して、ろくでもない事ばかり考え、あらゆる慰みに携わり、碁、将棋、鞠、揚弓、手跡、読物と、およそ人が娯楽とすることは一通り極めた。
それほど遊んでばかりいては、心を亡くしてしまう元だとは分かっていたが、遊びの道は止められず、上方の花や、名にしおう祇園へも出かけ、舞妓や芝居にうつつを抜かして、しばらく逗留しようと京都に登り、炭の得意客があるのを頼って、河原町四宮のあたりに借り座敷を構え、毎日の遊山に気を伸ばし、茶屋や旅籠で美食に耽り、これほどの楽しみは他にないだろうと思っていたが、それも馴れてしまえば、やがて面白さも薄くなってしまう。
そうなると、遊びも病膏肓に入るで、衣服や腰のものは言うに及ばず髪かたちまで、万事、上方の風流を見習い、気取って、故郷の事など忘れて奢り高ぶれば、持っている金銀も大方は悪い遊びに使い果たし、あまつさえ博奕にまで手を出して、結局は身ぐるみ剥がれて、ほうほうの体で故郷に帰った。
惣兵衛は、思いもかけず金に不自由する身となって、今までは思いもしなかった欲を起こし、悪い決心をした。
そんな時、藤五郎方より、炭窯の仕入れなどに入用の事があって、いつものように金三百両を支払ってほしいと連絡があったが、惣兵衛にはそんな金などなく、しかも、このような状況では貸してくれる人もおらず、そうしたことを藤五郎へ連絡したところ、不審に思った藤五郎から、今回は年々の帳面に立会ってきちんと勘定すべし、との催促があった。
根が無分別な惣兵衛は悪心を起こし、自分の家に、藤五郎の姪が幼少の頃より賄いをしていたのを、若盛りの頃、何かと情けがましく言い交した事があったので、その娘をあれこれと騙し賺して藤五郎のところへ行かせ、藤五郎の印鑑を盗み出させて偽印を作り、帳面の内容を改竄してしまった。
この帳面を基に、突然、六十貫匁の負債があると言われた藤五郎は、覚えのない借り越しに激しく立腹し、奉行所を経て対決に及んだ。しかし帳面には、年貢に納めるべき金を納めていないことが書かれており、もちろん嘘言であって、本当は藤五郎に理があるのだが、押されている印鑑が間違いなく藤五郎のものであったため、弁明は全く取り上げられず、六十貫匁の銀を上納すべしとの判決が出てしまった。
(注:年貢の未納は罪であり、殊に、故意であれば重罪となる)
藤五郎は、何とかこの無実を晴らして、自分には一点の曇りもない旨を申し開きしたく、奉行所に訴え嘆願したが、無実を証明する有力な証拠もなければ、未納の罪に虚言の罪も重なって、藤五郎家は取り潰しという決定がなされてしまった。
事、ここに至って藤五郎は、今はよし、この偽印によって無実の罪に問われるのならば、己は死んでも、この憤りには報いてやると、急ぎ家財を売り払い、残った山林を妻子に譲るなどして身辺を整理し、自分自身は、三年のうちに惣兵衛を取り殺しきっと思いしらすべし、との書置きを認め、山を出て自害した。
一方、惣兵衛は、大事を言い抜け、勝訴した悦びに、いよいよ不道徳を好んで身上を稼いでいたが、藤五郎の死期の一念が、恐々と心に懸っていた。しかし、だからといって、藤五郎が亡くなった場所へ行って手を合わせるわけでもなく、二年あまりが過ぎた。
ところで、惣兵衛の母は死期の遺言で、ある庵に葬るよう頼んでいたが、今年は七年忌でもあったので、惣兵衛は前日の夜からその庵へ行き、翌日はしっかりと年忌を勤めた。それが終わると、惣兵衛は緊張が解けたのか、酒に酔いつぶれてしまい、何かと管を巻き、訳の分からないことを言って腰を上げようとしない。短い秋の日が傾けば、道も暗く心もとなくなるので、惣兵衛は下男にすすめられて荷馬に乗せられ、鞍に抱きついたまま眠っていた。
そのうち、かの藤五郎が死んだ山あいも程近くなると思う頃、不思議や今まで晴れ渡っていた空が俄かにかき曇り、時ならぬ雷が激しく閃き、礫のような雨が横殴りに吹き付け、跡先も分からぬほど暗くなってきたので、惣兵衛も小気味悪く恐ろしくなってしまい、馬を打ちたてて一散に馳せた。
さっきまで晴れていたのが、一転、こんなに雷が激しく鳴り響くような天気になるとは、一体どうしたことかと心も眩む折節、惣兵衛の後方に、大きな雲が一つ、墨を広げたように真っ黒なのが近くまで舞い下がり、惣兵衛が乗っている馬の上へかかると見えた時、殊に凄まじい稲光が炎を蒔いたように光って、続いて大きな雷が次々と落ちかかり、山も谷も揺るがした。
これ肝を潰した下男は、足を踏み外して遥かなる谷へ転げ落ち、死ぬかと思うばかりの体であったが、それでも漸く雷が収まり空も晴れれば、下男も何とか谷より這い上がって、さても旦那はどうなったのかと、その辺を見歩いた。
すると、馬は二町ほど脇の岩陰に、鞍縄もちぎれたまま嘶き立っていたが、旦那は今の雷で、体中の骨はばらばらに砕け、手足はもとより五体で損傷していない個所はなく、皮などは紙を広げたようになっていた。
それでも、わずかに目と口が動いているようなので、下男は惣兵衛を小さく押してみて、馬に括り付けて、どうにかこうにか帰りつき、さまざまな療治を施したが、もとより叶うはずもなく、二十日ばかりして死んでしまった。