続・エヌ氏の私設法学部社会学科

無理、矛盾、不条理、不公平、牽強付会、我田引水、頽廃、犯罪、戦争。
世間とは斯くも住み難き処なりや?

さだまさし氏の「償い」 その1

2010-09-21 | 社会学講座
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少々古い話なので、大勢の方があちこちで論じておられるとは思いますが。


2001年、4人の少年が、男性に対し、足が当ったと口論の末、三軒茶屋駅のホームで4人がかりで暴行を加え、くも膜下出血で死亡させた。
 主犯格の少年2名が傷害致死罪に問われ、裁判の中で2名は「申し訳なく思います」「自分という人間を根本から変えてゆきたい」などと反省の弁を述べた。
 しかしその一方、事件自体は、酔った被害者がからんできたことによる過剰防衛であると主張するとともに、裁判中の淡々とした態度や発言などが、反省しているかどうか疑問を抱く態度を繰り返していた。

 2002年2月19日、東京地裁は、懲役3~5年の不定期実刑の判決を下した。
 判決理由を述べあげた後、山室惠裁判長が被告人らに対し「唐突だが、君たちはさだまさしの『償い』という唄を聴いたことがあるだろうか」と切り出し、「この歌のせめて歌詞だけでも読めば、なぜ君たちの反省の弁が人の心を打たないか分かるだろう」と異例の説諭を行った。




 この話は、裁判官が流行歌を引用して被告に説諭した異例の出来事として、当時、マスコミにも大きく取り上げられました。その論調は、事件が事件だけに、さすがに直截的に揶揄するものではありませんでしたが、「厳格であるべき裁判官が、流行歌なんか持ち出してきやがって」と、呆れを言外に匂わせるものでした。

 しかし私は、少し違う視点から話をしてみたいと思います。

 この歌に出てくる「ゆうちゃん」は、罪の重さを認識し、過ちは償わなければならないという、人間として当然の心を持っていたが故に、その心は被害者の奥さんにも届き、固く閉ざされたままだった奥さんの心の扉は、7年目にしてようやく少しだけ開かれました。
 それは、過ちは犯したけれども、本来のゆうちゃんは真正直な人間であり、被害者の奥さんもまた同じく真正直な人間であったため、人間として当然の気持ちが、人間として当然の気持へ通じたからに他なりません。

 しかしそもそも、加害者に人間の心が備わっていなかったならばどうでしょう。

 「償い」のように、人影に気付くのが僅かに遅れ、ブレーキが間に合わないということは、車を運転している者になら誰にでも起こり得る、すなわち、誰でも犯す可能性のある過ちです。
 一方、三軒茶屋の事件で加害者の少年らは、4人掛かりで執拗な暴行を加え、被害者を死亡させており、誰でも犯す可能性のある過ちとは程遠く、ごく特殊な人間が故意に引き起こした凶悪な犯罪です。
 しかも過剰ながらも防衛行為であったと、自らの正当化を図り、さらに、具体的に何をしたのかはよく分かりませんが、裁判中の態度も、およそ反省の色がないものだったようで、読み上げた反省の弁とやらも、おそらく弁護士の作文に過ぎないでしょう。

 人は誰でも過ちを犯します。だから人は、過ちならば許すこともできます。
 しかし、故意は許すことができません。

 故意に人を死に至らしめる犯罪を行い、しかもその行為を罪として反省することもなかった少年らは、人間として当然の気持ちなど毛ほども持ちあわせておらず、その点が、人間として当然の気持ちを持ち合わせていながら、過ちを犯してしまったゆうちゃんとは、決定的に違います。
 断言してしまえば、ゆうちゃんは人間でしたが、少年らは人の皮を被った獣です。

 説諭せずにおれなかった山室裁判長には悪いのですが、獣に人間の言葉は、まして人間の気持ちは、到底理解できませんし、なぜ反省の弁が人の心を打たないのかも、理解できません。
 獣にとっては、そんなことなどどうでもよく、自分がどれくらいの期間、檻に入れられるかの方がよっぽど重要な関心事であるに決まっています。
 残念ながら、人間である山室裁判長の気持ちは、獣たちには届いていません。

 それに、過ちで人を殺めてしまったゆうちゃんが、許されるまで7年もかかっているのに、弄ぶかのように人を殺めてしまった少年らへの刑が長くても5年とは、娑婆に居るのと刑務所に居るのとの違いを考慮したとしても、どう考えても不条理だとしか思えません。
 獣たちは5年間さえ経過すれば、すなわち2010年の今現在、大手を振って道を歩いているに違いなく、その獣は、明日、あなたの隣に座っているかも知れません。

 なお、この件についてさだまさし氏は、「法律で心を裁くには限界がある。今回、実刑判決で決着がついたのではなく、心の部分の反省を促したのではないでしょうか。この歌の若者は命がけで謝罪したんです。人の命を奪ったことに対する誠実な謝罪こそ大切。裁判長はそのことを2人に訴えたかったのでは」と述べています。
 少し裏読みになりますが、さだ氏も、山室裁判長の気持ちは理解しながらも、ゆうちゃんと少年らとでは決定的な違いがあって、裁判長の気持ちが少年らに響いたとは思っていないように見て取れます。

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