焼津名物 “炎の弾丸男!!”    【富士山通信 Vol.2】

“百見は一体(体験)に如かず”を信条とし、持続可能な人類、世の中を目指し、人間性の向上と楽しい人生を目指すパワフルな鮪屋

たくさんの想い出が詰まった生家が・・・

2011年07月26日 | 焼津
毎度 焼津名物 炎の弾丸男!!でござる。

 ついに生家が取り壊されるそうです!

 我輩 昭和43年4月3日この世に生を受け、御年43歳。

 ど焼津の北浜通りに生まれ育ち、

 大学4年間+各国をふらついていた1年以外はずっと焼津に。

 現在は賃貸マンション暮らしですが、

 その前は現在の実家(西焼津)に

 さらにその前は ど焼津の北浜通のなんばん小路の住人でした。

 何だかんだ言いながら25年近くはど焼津に住んでおり、

 43になった今となってもそこでの暮らしが最も長かった。

 ただ生家とは言いながらも、西焼津に実家が越してからは、近所の幼馴染の人に譲ったため、我が家というわけではなかった。

 そんな想い出の生家が取り壊されることに!!




 
 人の手に渡ったとは言っても、想い出がいっぱい、いっぱい詰まった生家が取り壊されるのは本当に寂しい。

 家の中の物が全て運び出され、壊すのを待つ状態になっていたので、
お願いをして、家の中に入らせてもらい、ガキの頃の視線を思い出し、畳に寝転がったりして写真を撮ってきた。

お神楽で傷つけられた大黒柱、

大黒柱に貼られたパンダのシール。

我輩や、姉の成長が刻まれた柱。

親父と相撲を取った部屋、

豆まきをやった玄関や部屋、

二階窓からの景色、

朝になるとラジオ英語講座、英会話やオリビア、カーペンターズ、アバなどの音楽が流れていた狭い姉貴の部屋?(部屋なんてもんじゃない)

涼しい風を運んだり、近所の子供が玄関から勝手口に走り抜けた土間・・・

身体が小さくトイレを使えないときに、小便をしていた勝手口。(昔はこんなことが許されていたぁ。笑・汗)

人の手に渡って既に20年程?経ったというのに、まだまだ想い出がいっぱい、いっぱい詰まっていた。

出来ることなら我輩が死ぬまでそのままの姿でと思ったけれど、それは叶わぬ願い。

 物心ついたころにはあったのでそろそろ?もう?築50年。

 これで幼少のころの記憶に残るなんばん小路の家は、

 写真の右の家、ユミちゃん家(ち)、ごんべさん、醤油屋のばーばん家(ち)、かっちゃん家(ち)マルホ、増田さん家(ち)だけとなった。

 鍵があってかけなかったり、ちょっとした外出なら隣や向かえの家に頼んで、鍵も掛けずにでかけたり・・・

 クーラーなどない暑い夏はみんなおもてで夕涼みをしたり・・・

 アナログテレビの放送も先日終わりましたが、

 とっても味のあった昭和の時代、本当に人と人とのつながりを感じあえた時代だったと思う。

 スマートな人付き合い、生活もいいけれど、

 昭和の生活も悪くない。

 ましてや経済成長を続けていた昭和の良いとこ取りをしてきた我輩世代にとっては、昭和の時代はバラ色だった!!

 これからの日本はどんな方向に?

 政治・経済その他もろもろで先が見えない現在において、
 我々はどこに、何を求めて歩を進めていくのか(べきなのか?)

 太平洋戦争など本当に大きな暗い出来事があった昭和でさえ、こんなに良かったと振り返ることが出来るのだから、

 バブル崩壊、金融危機、阪神大震災、東日本大震災・・・
 なぜこんなに続く??と思うほどのこの平成の時代が、いい時代だと懐かしく思える日が、きっと来るんだろうと信じているし、

 その日の為に微力ながら力になれればと思う。

 昔の我が家!

 とっても楽しい笑顔あふれるたくさんの想い出を演出してくれて、
 本当にありがとう!

 大感謝! 大満足!!

 では・・・
 
 

 
コメント (4)
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