photo life 秋田

秋田が分かる「かもしれない」ブログ

生鼻崎を主役に撮ってみる

2014-04-20 | 男鹿市

 断崖絶壁になっていますが、むかしの大地震により先端が海中に沈んでしまったんだとか。それまではここに脇本城があったそうです。
 今ではジオパークスポットのひとつです。

 そんな生鼻崎を丸一日、いろんなところから撮ってみました。前景を入れたり似たような写真ばかりですがご覧ください。

 

 

 
 船越海岸防波堤から眺めると、左右に男鹿の山並みも一望できました。肝心の主役がちっこすぎです。

 
 変わってマリンパークから早朝7:30頃。朝は光線具合が悪いようです。

 

 

 
 変わって比詰の防波堤からお昼頃。日が昇るにつれていい感じに。崖の高さはいいとして、幅が分かりづらくなってしまいました。

 

 
 ので、近くまで寄ってみて広角レンズで。トンネルの海側には屋根つきの歩道があるのですが、裏側は防波堤のようになっていて歩けます。屋根が高くて手を伸ばしても撮れませんでした。

 

 
 港湾事務所付近の防波堤から夕方。くすんだ感じになってしまいましたが、全景撮るならいいのかも。


 光線具合からお昼頃がベストのようです。
 国家石油備蓄基地の灯台辺りだと、真正面からドーン!と撮影できそうですがね、、、関係者以外立ち入り禁止エリアなのです。
 船川エリアを散歩の際は参考にしてみてください。

寒風山の夕焼け

2014-04-19 | 男鹿市

 前日の記事と同日。防波堤の先から寒風山を眺めていました。
 こうやってみると寒風山も大きいよね~と思いつつ、目を凝らしたら上っていく自動車が見えるんじゃないかと思い、やっぱりそんなに大きくないか(笑) と思うのでした。

姥御前神社 ~三湖伝説~

2014-04-11 | 三種町
 大昔のこと、鹿角草木の村に八郎太郎というマタギの若者がいた。仲間と十和田の山に猟に出かけた。その日、八郎太郎が飯の支度をすることになり、岩魚を焼いて待ったが、ついに一人で食べてしまった。すると急にのどが渇き、夢中になって水を飲み続けてとうとう大蛇となり、そこに大きな湖を作って住みついた。これが十和田湖だという。
 それから長い年月が過ぎて、南祖坊という修験者が鉄のわらじを履いて十和田湖畔にやってきたところ、わらじの緒が切れたので、熊野権現のお告げのあった永住の地としてここに住み着くことにした。そして、主の八郎太郎との争いが始まったが、ついに八郎太郎は南祖坊の法力に敗れ、十和田湖をでて米代川を逃げ下り山本郡琴丘の天瀬川に流れ着いた。八郎太郎は、そこで老翁と老姥の住む家に世話になったが男鹿の島とこの陸地をつないで大きな湖をつくって住みかとすることを神に祈願して、お告げを得ることができた。
 八郎太郎は世話になった二人に「鶏の鳴く夜明けを合図に大地震が起きて大洪水になる」と知らせて立ち退かせた。ところが老姥が忘れ物の麻糸を取りに戻ったとたん、暁の鶏が鳴いて大地が鼓動して大洪水となった。洪水に流されて溺れそうになった老姥を、とっさに八郎太郎は足で蹴り上げたが、対岸の芦崎に飛ばされたので、残った老翁と別れてしまった。ようやく八郎太郎は、この八郎潟の主として住み着くことになり、また老姥は姥御前として芦崎に祀られ、老翁は三倉鼻の夫殿権現として祀られた。
 それからこのあたりでは、鶏の鳴く合図で別れ別れになったことから、鶏の卵も食べることを固く禁ずるようになったという。

 以上、ネットに眠っていた八竜町の歴史探訪から抜粋



 八郎湖・十和田湖・田沢湖を巡る三湖伝説。ゆかりの神社が旧八竜町にあります。
 祭神は手名椎神(てなづちのかみ)。ヤマタノオロチ伝説に出てくる老夫婦の妻ですので、「姥御前」神社という名前も納得。
 潟上市天王の東湖神社はスサノオを祀っていますから、八郎湖周辺の神社はヤマタノオロチ伝説とも関係があるのでしょうか。
 古くは大同年間(806~809年)創建とも言われているそうです。二匹の狛犬の台座には


 安政三年(1856年)


 丙辰九月十六日とありました。
 この年は、7月21日にハリスが下田に着任。同23日安政八戸地震、8月25日台風による暴風と高潮で江戸で死者10万人。
 時の将軍は13代徳川家定。篤姫の旦那様ですね。


 境内のケヤキは樹齢350年の大木だそうです。
 ちょっと気になったのは、鳥居が二つ並んでいること。手前の鳥居の奥もお社かもしれませんが、詳しくは不明です。ですが、この近くの神社でも鳥居が二つ並んでいるところもありましたので、何かしらの理由があるのかもしれません。