山本鼎は,同著の中で次のようにも書いています。
「美術教育と美術家教育を混同してはいけない」(6頁)
美術教育と美術家教育は違うというのです。美術教育とは美術を使って人間を育てること,美術家教育とは美術家=アーティストを養成することを指しているでしょう。こう言われれば確かに違う。しかし,我々はこれらのイメージを混同し重ねていることはないでしょうか。
例えば,図工や美術の成績をもらうとき,「別にアーティストになる訳じゃあないから,構わないよ。」なんて言葉,聞いたり言ったりしたことありませんか。こんな発言の背景には,美術教育が美術家教育だっていう考えがありそうです(成績・評価の是非についてここでは置いておきます)。言い方を変えれば,将来にゴールとなるべき職業像があって,それに近づけるのが「教育」だという見方です。もちろんこのよう側面があることは否定できない。しかし芸術は今普通教育に導入され,将来アーティストになろうとする子どもたちだけでなく,すべての子どもたちが授業を受けています。なぜでしょう。
これは,すべての子どもたちに芸術的な体験が必要不可欠なものであるからに他なりません。
人にとって,将来のために準備をする教育はもとより必要です。将来なりたい職業があるとすれば,さまざまな基礎学力を付けていくことによってその子どもの可能性が開いていくことは確かな事実なのです。
しかし,我々は社会の歯車になるためにのみ存在するわけではありません。教師だって,社会の歯車として効率的かつ正確に動く子どもたちを生産しているわけでもない。
子どもたちにとって,現在をよりよく生きたり,子どもとして人として現在を全うしたりすること「も」,必要不可欠なことなのです。現在行われている芸術の教育は,それを重視しています。子どもの今が,子どものリアルが,芸術の営みの中で命と重なることを可能にしているのです(残念ながらそうでない実践も少なからずあります・・・)。
今,教育の効率化という掛け声のもと,狭い意味での学力向上だけに目が向いてしまっています。この風潮は「将来アーティストになる子どもたちばかりではないのだから,いっそ芸術の授業を削減してしまおう」という動きにもつながっています。しかし,こんな時代だからこそ,すべての子どもたちの今を,芸術的体験によって充実させ,かけがえのないものに位置づける必要があるのです。大正時代に山本が語った言葉は,平成の今の時代も生きています。
「美術教育と美術家教育を混同してはいけない」(6頁)
美術教育と美術家教育は違うというのです。美術教育とは美術を使って人間を育てること,美術家教育とは美術家=アーティストを養成することを指しているでしょう。こう言われれば確かに違う。しかし,我々はこれらのイメージを混同し重ねていることはないでしょうか。
例えば,図工や美術の成績をもらうとき,「別にアーティストになる訳じゃあないから,構わないよ。」なんて言葉,聞いたり言ったりしたことありませんか。こんな発言の背景には,美術教育が美術家教育だっていう考えがありそうです(成績・評価の是非についてここでは置いておきます)。言い方を変えれば,将来にゴールとなるべき職業像があって,それに近づけるのが「教育」だという見方です。もちろんこのよう側面があることは否定できない。しかし芸術は今普通教育に導入され,将来アーティストになろうとする子どもたちだけでなく,すべての子どもたちが授業を受けています。なぜでしょう。
これは,すべての子どもたちに芸術的な体験が必要不可欠なものであるからに他なりません。
人にとって,将来のために準備をする教育はもとより必要です。将来なりたい職業があるとすれば,さまざまな基礎学力を付けていくことによってその子どもの可能性が開いていくことは確かな事実なのです。
しかし,我々は社会の歯車になるためにのみ存在するわけではありません。教師だって,社会の歯車として効率的かつ正確に動く子どもたちを生産しているわけでもない。
子どもたちにとって,現在をよりよく生きたり,子どもとして人として現在を全うしたりすること「も」,必要不可欠なことなのです。現在行われている芸術の教育は,それを重視しています。子どもの今が,子どものリアルが,芸術の営みの中で命と重なることを可能にしているのです(残念ながらそうでない実践も少なからずあります・・・)。
今,教育の効率化という掛け声のもと,狭い意味での学力向上だけに目が向いてしまっています。この風潮は「将来アーティストになる子どもたちばかりではないのだから,いっそ芸術の授業を削減してしまおう」という動きにもつながっています。しかし,こんな時代だからこそ,すべての子どもたちの今を,芸術的体験によって充実させ,かけがえのないものに位置づける必要があるのです。大正時代に山本が語った言葉は,平成の今の時代も生きています。