Hei!(「ヘイ」って読んで「やあ」って意味)~義務教育世界一の秘密

義務教育世界一の国の教師養成の実態を探る旅。フィンランドの魅力もリポート!その他,教育のこと気にとめた風景など徒然に。

自分が変わること

2006年07月07日 | Weblog
教育において「自分が変わること」の意味や重要性を,もっと我々(教員や大人)が自覚し,子どもたちや学生に伝え促す必要があるのではないか。

資本主義の世界に生きる日頃の生活において,我々が受ける快適なサービスは,「お金を支払う」対価として提供されることが少なくない。お金を出すからこそ,外で美味しい食事をとったり,しゃれた服を着たりすることができるわけだ。このようなことは,この社会の中でごく当然のこと自然なこととして行われている。そしてそのことで生活の多くの部分が成り立っている。

しかし,同様の論理を教育という営みの中にそのまま適用することは果たして適切なことだろうか。教育も社会サービスであり,サービスを提供するために我々教員は給料をもらっているし,学校には国民が払った税金から資本が投入されている。またサービスを享受する児童・生徒・学生たちは税金や授業料といった形で対価を支払っている。

これまで行われてきた教育において,サービスといった発想が充分でなかった点は否定できない。するつもりもない。これは我々が謙虚に反省すべき点である。しかし,だからといって,教育という営みの中に商業行為におけるサービスと同じ発想と手法をそのまま導入することはやはり違うと言わざるを得ない。

これを,変化や対応といった視点で考えてみよう。商業行為においては,客の満足を得るためにサービスを提供する企業側が細やかに変化や対応を行う。では教育行為ではだれが変化するのか,するべきなのか。両者それぞれに必要ではあるものの,その本質は,教育の主体である子どもたちや学生がより良い方向に変化することに他ならない。周りが自分に合わせてくれてその場が一時的に快適だということより,どこにでも通用する人材になれるようにするために,一時的に負担感があろうとも自分が変化することの方が優先されなければならないのだ。

高まるための変化の要求をしなければ,単にお茶を濁し,ごまかしているにしか過ぎない。サービスの提供者である教師や指導者が,子どもたちの姿を見極めようとするのではなく,顔色を伺おうとするならば,それは教育の崩壊を意味する。

教育という営みで提供すべき本当のサービスは,内発的な動機に支えられる学びを重視しつつ,時に厳しい変化の要求であってもそれを敢えて行うことにある。「オレ様化」が進む子どもたちや学生の世界に,教師は商業行為と同様のサービスで「アナタ様化」する迎合を行ってはならない。

cf:諏訪哲二『オレ様化する子どもたち』中公新書ラクレ171,2005年
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優劣のかなたに

2006年07月06日 | Weblog
「優劣のかなたに」 大村 はま

優か劣か  
そんなことが話題になる、
そんなすきまのない
つきつめた姿。
持てるものを
持たせられたものを
出し切り
生かし切っている、
そんな姿こそ。

優か劣か、
自分はいわゆるできる子なのか
できない子なのか、
そんなことを
教師も子どもも
しばし忘れて、
学びひたり
教えひたっている、
そんな世界を
見つめてきた。

学びひたり
教えひたる、
それは 優劣のかなた。
ほんとうに 持っているもの
授かっているものを出し切って、
打ち込んで学ぶ。
優劣を論じあい
気にしあう世界ではない、
優劣を忘れて
ひたすらな心で ひたすらに励む。

今は できるできないを
気にしすぎて、
持っているものが
出し切れていないのではないか。
授かっているものが
生かし切れていないのではないか。

成績をつけなければ、
合格者をきめなければ、
それはそうだとしても、
それだけの世界。
教師も子どもも
優劣のなかで
あえいでいる。

学びひたり
教えひたろう
優劣のかなたで。
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※国語教育者として著名な大村先生は,昨2005年4月17日,横浜市で死去(98歳)。この詩は著者が亡くなるまで校正を続けたため,遺されたメモや下書き,校正稿をもとに,関係者によって一部が補完されたものです(NHKWebsiteより)。

優劣を判別することが決して本来の姿ではないのに,いつの間にかそうなってしまっているとすれば,教育とはそもそもそんな世界に迷い込ませる暗闇を持つのかもしれません。だからこそ,教師や指導者には暗闇を照らす高い専門性と強い意志が必要であり,その力によって教育を本来の姿に機能させる責務を負うのです。
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「も」としての言葉によらない指導のよさ

2006年07月05日 | Weblog
6月末の記事に対してnaporinさんからコメントを頂き,それに返事をしようとしていたら,こりゃ記事にしたほうがいいわ,と心変わり。こちらにアップすることにしました。

さて言葉によらない指導のよさ「も」あるというご指摘。まったくその通りです。言葉による指導のよさが圧倒的な力と支持を得ているこの時代,言葉によらない指導に対する眼差しを確かに持つことの重要性を改めて意識させられます。

それはnaporinさんがおっしゃるように,「意識的にすれば」,とても有効な手だてになり得ます。教育実習生は,しばしば語りたがり,教えたがります(naporinさんにも覚えがあるかな???)。子どもにとって自分で考えられるような場面,つまり必要でない場面でもしばしばそうなのです。なぜでしょう。

その理由を考えると,「教師にとって指導しない不安」といった心理に行き当たります。教師は指導するべきものだという考えを強く持っている人,教室における教師の権威(ホントは権力か?)に憧れてきた人に,この傾向は強いように思えます。また教えるという行為を行うことが教師の存在意義を確かなものにしてくれるといった,ある意味手前勝手な論理も無意識にあるのかもしれません。

またそれだけでなく,指導すべきときと突き放すべき時の見極めができないため不安になり,とにかく全て指導するという人もいるでしょう。勢いでやっちゃう先生ですね。

一方,短いけれど的確な言葉で学習のめあてと活動の見通しを子どもたちに意識させられる教師は,多くは語らず言葉によらない指導のよさを発揮します・・・よね。子どもたちの活動の時間を優先し,指導のなかで子どもたちをよく見て本当に必要な指導のみを行おうとするからです。naporinさんはきっとこんな教師になっているのでしょうねぇ。今度授業見せてねぇ。
コメント (2)
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