美術教師にとって「作業」の指示は,ある意味簡単だ。それは,教師の負担を軽くする特効薬であり,麻薬のような効果を持つものなのかも知れない。教室における権威を背景に,生徒がやらなければならないことを,言葉を使って指示しさえすればよい。
対して授業で「制作」という行動をつくりだすことは非常に難しい。ただ単に何かをつくるために手指を動かすようにさせるのではなく,そこにつくり手である生徒の思考や意志を明確化させねばならないし,またその結果としてどのような形や色や材質感にするか等々の芸術的追求活動が行われるよう,さまざまな仕掛けを準備しなければならないからだ。
もちろん,仕掛けといっても,「行う」仕掛けと,「行わない」仕掛けがある。生徒の実態に応じて敢えて行ったり敢えて行わなかったり,それを判断することも,不断の観察によって可能になることであり,大変エネルギーの要ることだ。
美術教師にとって,授業を作業とすることも制作とすることも,両方可能であろう。ある意味「美術って私わからないから」「美術の才能がないから」といった,少し引き気味のスタンスで多くの人が接してくれるため,所謂「素人」からは大きな批判が起きにくい。
しかしだからこそ,そのような状況にある美術教師がどの様な授業を行うかが試されている。あなたはどちらを選ぶだろう。作業か,制作か。
対して授業で「制作」という行動をつくりだすことは非常に難しい。ただ単に何かをつくるために手指を動かすようにさせるのではなく,そこにつくり手である生徒の思考や意志を明確化させねばならないし,またその結果としてどのような形や色や材質感にするか等々の芸術的追求活動が行われるよう,さまざまな仕掛けを準備しなければならないからだ。
もちろん,仕掛けといっても,「行う」仕掛けと,「行わない」仕掛けがある。生徒の実態に応じて敢えて行ったり敢えて行わなかったり,それを判断することも,不断の観察によって可能になることであり,大変エネルギーの要ることだ。
美術教師にとって,授業を作業とすることも制作とすることも,両方可能であろう。ある意味「美術って私わからないから」「美術の才能がないから」といった,少し引き気味のスタンスで多くの人が接してくれるため,所謂「素人」からは大きな批判が起きにくい。
しかしだからこそ,そのような状況にある美術教師がどの様な授業を行うかが試されている。あなたはどちらを選ぶだろう。作業か,制作か。