Hei!(「ヘイ」って読んで「やあ」って意味)~義務教育世界一の秘密

義務教育世界一の国の教師養成の実態を探る旅。フィンランドの魅力もリポート!その他,教育のこと気にとめた風景など徒然に。

作業と制作

2006年06月30日 | Weblog
美術教師にとって「作業」の指示は,ある意味簡単だ。それは,教師の負担を軽くする特効薬であり,麻薬のような効果を持つものなのかも知れない。教室における権威を背景に,生徒がやらなければならないことを,言葉を使って指示しさえすればよい。

対して授業で「制作」という行動をつくりだすことは非常に難しい。ただ単に何かをつくるために手指を動かすようにさせるのではなく,そこにつくり手である生徒の思考や意志を明確化させねばならないし,またその結果としてどのような形や色や材質感にするか等々の芸術的追求活動が行われるよう,さまざまな仕掛けを準備しなければならないからだ。

もちろん,仕掛けといっても,「行う」仕掛けと,「行わない」仕掛けがある。生徒の実態に応じて敢えて行ったり敢えて行わなかったり,それを判断することも,不断の観察によって可能になることであり,大変エネルギーの要ることだ。

美術教師にとって,授業を作業とすることも制作とすることも,両方可能であろう。ある意味「美術って私わからないから」「美術の才能がないから」といった,少し引き気味のスタンスで多くの人が接してくれるため,所謂「素人」からは大きな批判が起きにくい。

しかしだからこそ,そのような状況にある美術教師がどの様な授業を行うかが試されている。あなたはどちらを選ぶだろう。作業か,制作か。
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汽車の窓から

2006年06月26日 | Weblog
現職である高校教師のまま博士課程前期の大学院生として学んでいる10年後輩のH氏と一緒に,とある会議に出席した。会議後のJR西条駅からJR広島駅までの汽車の中でのこと。

定刻に汽車がホームに滑り込み,扉が開いたところで中に入り込んだ。そう込んだ様子ではない。4人が向かい合うボックス席がいくつも空いている。適当な一つを選び座ろうとしたその時,H氏がいつものにこやかな表情のまま,私が座ろうとしていた2人掛けの席ではなく,その向かいの席を掌で指し示した。

「どうぞ,こちらに座って下さい。」

「ん?」

「いや,進行方向に向いて座った方が気持ちが悪くならずにいいでしょう。」

その時初めて気づいた。私は進行方向に背を向ける2人席の方に座ろうとしていたのだ。窓から見える風景は,当然自分から遠ざかる方向に流れていく。自動車に乗った時には特にそうだが,進行方向の逆に向いて座っていると,気持ちが悪くなることがある。H氏はそのことに即座に気付いて,私に気持ちの悪くならない方の席を薦めてくれたわけである。

私が指導教員の立場にあるからなのか,先輩だからなのか,はたまた年寄りであるからなのか,その直接の理由は定かでない。とにもかくにも,確かにH氏は配慮してくれたのである。配慮するためには,その前にその事実に気付くことが必要である。それも瞬時に。それを可能にした彼の敏感さに脱帽し,「まぁ,体は彼の方が頑丈そうだ。」と自分を納得させて,ありがたく心遣いを受けることにした。

H氏がとったさりげない行動は,彼の教員としてのアンテナの敏感さをも示している。H氏の,状況から情報を収集し判断する感覚の鋭さと能力の高さがこの行動を可能にしたのだ。これは頭のよさとも言えるだろう。しかしじっくり考えて判断するというより,むしろある状況になった時に,自分の感覚のなかに何らかの「違和感」が生じることによって,「何か違うぞ」とか「○○しなきゃ」などと,わかったり気付いたりするものだろう。周りに心遣いすることが「当たり前」になっている者だけに与えられる特権としての違和感だ。

決して自分が配慮してもらったからうれしいというのではない(イヤイヤ,それもちょっとはある・・・)。このような心遣いを可能にする彼のスタンダードと感覚の鋭さは,一事が万事,あらゆる場所であらゆる人に対して発揮されるのだ。そんな人が美術教師にいることがうれしく,誇らしい。

雨が降ってじめじめした暗い道,汽車の窓から見えた風景を思い出しながら密かに軽いステップを踏んで帰途についたことは,私しか知らない。
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写真はスオミ共和国ヘルシンキ,デザインフォーラム。
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おもしろ&ミニミニ・フィンランド語講座

2006年06月23日 | Finland フィンランド
フィンランド旅行や短期滞在者に結構人気を得ているのが,青木エリナ著『旅の指さし会話帳35フィンランド』情報センター出版部,2002年,だ。久しぶりに引っ張り出して読んでみたら,おもしろフィンランド語があったのでご紹介。どんな意味か,考えてね。

①パー
②カニ
③シカ
④スシ
⑤ロウバ
⑥ハナ
⑦メ
⑧テ
⑨ヘ
⑩プータロ

実は,
①パー(pää)→頭
②カニ(kani)→うさぎ
③シカ(sika)→ぶた
④スシ(susi)→オオカミ
⑤ロウバ(rouva)→婦人
⑥ハナ(hana)→蛇口
⑦メ(me)→私たち
⑧テ(te)→あなたたち
⑨ヘ(he)→彼ら・彼女ら
⑩プータロ(puutalo)→木の家

その他,苗字としてパーヤネン(Paajanen)さんとか,アホ(Aho)さんとか,いますねぇ。
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よい教師の条件③

2006年06月22日 | Weblog
斎藤喜博氏が三つ挙げるよい教師の条件,今日はその最後だ。いったい何だと思われよう。
   ↓
   ↓
   ↓
実は意外や意外,「美人の先生」が挙げられている。原著の正確な記述は後日。
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③美人の先生
   ①頭が良く,②育ちが良く,そして優れた実践をする教師は,みな美人になるものであり,何より,頭とか育ちとか顔とかは,勉強したり実践を重ねていくうちに,いくらでも自分で変えていくことができるものである。
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よい教師の条件に「美人」とは何かと怒り心頭に発し,このあたりで読むのをやめようとする方が多いかもしれない。①頭がよいこと,②育ちがよいこと,と同様に,一見個人のレベルではどうすることも出来ないことのように思われる。また一般的な「美人」に対する世間の眼差しから考えると,さらに大きな顰蹙(ひんしゅく)を買っているかもしれない。

しかしながらやはり,これまた真実であると言わざるを得ない。もし美人という語が気に入らないのであれば,美人に対する認識を変えることだ。ここで言う美人とは,顔の造作を見たときに,例えば目が大きくて二重まぶたで鼻筋が通っているなどということを言っているわけではない。すらっと伸びた八頭身美人のスタイルを言っているわけでもない。顔の造作やスタイルなんて,どうでもよいのである。

顔立ち容姿が端麗でなくても,輝くばかりの魅力を放つ人がいるではないか。そう,あなたの周りにも。具体的な名を挙げると「その人って容姿がよくないっててこと???」なんて批判が来そうだからここではごまかして(^o^;おくが・・・。ぼかしながら例を挙げると,芸能界でも「いわゆる美人」という容姿ではないのに非常に魅力的で売れっ子な人がいるではないか。そんな人はやはり美人なのだ。女も男もそうなのだ。そういう人は結局のところ,表情がよい。仕草がよい。そして心がカチンコチンでなくしなやかなのだ。だから容姿という外見ではなく,内面から輝いて美しく見えてしまう。

教師は授業のエンターテイナーであるし,子どもたちの人生の演出家であるべきだ。教室をワクワクした時間と空間にすることができるかどうかは教師にかかっている。教師が教室で何に気付き,どのように仕掛け,どうやって演出するか。これらは結局のところ,教師の顔に表れているものだ。逆に言えば,教師がどのような顔,つまり心を映した表情を持っているかを見れば,その教室の質を見抜くことができるとも言える。斎藤氏が言うように「①頭が良く,②育ちが良く,そして優れた実践をする教師は,みな美人になるもの」だからである。

「美人」にはほど遠い私が言うのも何だが,教師や教員志望の学生には,やはり内面から輝く「美人」でいて欲しい。容姿端麗である必要はない。ファッション雑誌から抜け出たようなスマートさも必要ない(ま,ないよりあった方がいいが・・・)。日々創造的に学び,表現し,心をしなやかに保つこと,そしてその結果として魅力的な顔を持っていること。このようなあり方や生き方を選んでみませんか。
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フィンランド語をもう少し

2006年06月20日 | Finland フィンランド
ミニミニ・フィンランド語講座だと言っても少なすぎたかなと,ちょっとだけ反省。調べていたら次のようなサイトが見つかった。なかなか使えると思う。フィンランドに行く予定のそこのキミー。プリントして憶えると重宝するかもヨー。左のフレームに,簡単なあいさつ表現とか,いろいろな場面での使い方がリンクされてますねー。

http://www2.ocn.ne.jp/~nobu0113/test/aisatsu/hajimeni.htm

写真は,ガレン・カッレラ邸。フィンランド国民が皆愛し誇りに思う叙事詩 カレワラ-KALEVALAを題材にした作品で有名。ヘルシンキから電車に乗って,そのあと湖沿いをてくてく歩いていきました。
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ミニミニ・フィンランド語講座

2006年06月20日 | Finland フィンランド
今日はふとした思いつきでミニミニ・フィンランド講座。このブログの最初に書いたように,フィンランド語を読むには次の2点に気をつければよい(ちょっと杜撰かもしれないが,まあ通じる)。

1.ほとんどローマ字通りに読む。
2.第一音節にアクセントをつけて読む。

である。今日はフィンランドで結構聞いたと思い出す語を,思いつくままに書いてみよう。

hei(ヘイ)やあ。こんにちは。
heihei(ヘイヘイ)バイバイ。さようなら。
huomenta(フオメンタ)おはよう。
kylla(キュッラ)はい。
joo(ヨー)ええ(→相づちを打つ感じでの返事)。
kiitos(キートス)ありがとう。
そうそう,一番大切な語を忘れてた。
Suomi(スオミ)フィンランド

今日はここまでしか思いつかない・・・。ではまた。

写真は久しぶりに引っ張り出したヘルシンキ大学。
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よい教師の条件②

2006年06月18日 | Weblog
斎藤喜博氏は,よい教師の条件として三つを挙げている。今日はその二つ目。それは「育ちのよい先生」である。原著をふまえた正確な文章は後日。
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②育ちのよい先生
   育ちがよいということは,別に家が金持ちであるとか,名門の子女だとかいうことを言っているわけではない。親に大切に大切に育てられてきたという意味だ。温かくのびのびと育てられた人たちは,みな素直な温かい心を持っており,また,まともにものを見ない心とか,ひねくれた心とか,意地悪な心とかを持っていない。
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何という差別的な考えかと,怒り憮然とする方々も多かろう。一般論とは言え,「育ちのよい」という言葉だけを見れば確かにそうで,反論の余地もなさそうである。昨日アップした頭がよいこともそうだが,育ちがよいこと,これも普通に考えると個人のレベルではどうにもすることが出来ないことのように思える。

しかし一方で,多くの教師を過去に見てきた者,現在も見ている者として,なるほどと思わされずにはいられない。教師は子どもを取り巻く環境のうち,保護者と並んで最大級の影響力を持つ。対象の子どもたちの年齢が低ければ低いほどその影響力は大きい。だから,教師がどのような心を持っているかは大問題である。

冷たい,萎縮した,意地悪な,ひねくれた,曲がった・・・これらの言葉群で表されるような心を持った教師であれば,子どもたちもそのように育つに違いない。というより,むしろあの生気に満ちた太陽のような子どもたちは,このような教師には寄りつきたくもないだろう。

逆に,温かい,のびのび,寛容,素直,まっすぐ,真理を大切にする・・・このような言葉群で表されるような心を持っている教師であれば,子どもたちもそのように育つに違いない。教師の周りは,笑顔に満ちた子どもたちであふれることになるだろう。

育ち。この語が多くの誤解を生む可能性はあるが,家に資産があるとか政財界につながりがあるとか有名人を輩出しているとかいうのではないことは改めて確認しておこう。金持ちで大きな家に住んでいても育ちの悪い者はいるし,逆に,家が貧乏で小さな家に住んでいても育ちのよい者はいるのだ。その上で周りを見回すと,手塩にかけて温かく育てられてきた者,ていねいな人の関わりを受けてきた者に多く備わる特別の才があることは認めざるを得ない(例外はもちろんある)。

この育ちのよさという語で表された中身は,昨日アップした頭のよさと同様,本人次第で改善可能であることが救いである。自分の心の持ちように改めて目を向け,素直な心を持つように,温かい心を持つように,正しいことを正しいこととするように,美しいものを美しいと言うように,世の中のあらゆる事を正視するように・・・こんなことを心に留めて子どもに向き合いたいものだ。
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よい教師の条件①

2006年06月17日 | Weblog
斎藤喜博氏は,よい教師の条件として三つを挙げている。何だと思われるだろうか。今日はその一つ目。
   ↓
   ↓
   ↓
実は,「頭のよい先生」である。原著が今見つからないが,次のような内容を述べている(はずだ)。原著がはっきりしたら,後ほど正確な文章を載せることにしよう。
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■頭のよい先生■
 頭の悪い先生は,理解力がのろくて因業で,自分の頭の範囲だけに頑固に閉じこもってしまい,他から入ってくるものをはねかえしてしまうことが多い。こうした頭の悪さというものは,その人自身が持つ能力にもよるのだが,何より勉強していないことや本を読んでいないこと,さらに実践における自覚と謙虚さを持っていないことに原因があることが多い。
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斎藤氏によれば,何より大切な条件は,頭のよい先生である。このように指摘されれば,小生自身,まさに身の置き所がないというか,穴があったら入りたい気持ちになりそうである・・・。しかしやはり,小・中・高教員の経験者として同じように思ってきたし,また,現在大学で教科教育で教員養成を担当し小・中・高の教育現場を観察する者として全く同感である。

頭がよいとは,もちろん自分が教える教科や子どもに関する専門知識が豊かで技能が高いということも含む。しかし,それだけではない。現代的に読み換えれば,情報処理能力や情報収集能力が高いといった側面を強調した方がよいかもしれないと思っている。教育現場における諸問題を発見し,最も適切な処理方法を見つけたり考え出したりすることができるといった,教育現場における判断力の高さである。

例えば,学習を進めるうちに明らかになる,あるいは生徒の実態から予想される様々なつまづきが何であり,どこのその原因があり,その解決手段が何であり,解決のタイミングはいつであるかを的確に判断することのできる力である。

また逆に,学習を通して生徒の優れた点を見抜き,それをさらに伸ばすためにはどのようなことを課題とすればよいかを判断することのできる力である。

教員が取り扱う情報とは学習だけではない。教室で起こっている,生徒同士の人間関係などの様々なトラブルを,表情や行動,言葉の端々から読み取ることのできる力もこの頭のよさによって決まってくると言っていいだろう。教室で起こっていることを的確に把握・判断するアンテナが敏感な教師は教室で起こっていることに素早く対処できるであろうし,また逆に鈍感な教師であれば,教室の中で問題が起こってもそれらに気付かず,教師にとっては存在しないも同様になってしまうだろう。

斎藤氏が指摘するように,こういった頭のよさは,何より勉強や読書,実践における自覚と謙虚さによってかなりの部分が改善される。これこそが我々凡人教師の救いなのだ。この事実を忘れることなく,情報を柔軟に採り入れられる頭と心を持ち続けたい。
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展示とレクチャー「手で見る美術の本」

2006年06月13日 | Weblog
前回に引き続きギャラリーTOM情報のアップです。展示とレクチャー「手で見る美術の本」の実施要綱として案内を頂いたものを転載します(ギャラリーTOMさんの許可を得ました)。アート教育に興味のある人には,大きな刺激になるはずです。ぜひ参加してアート活動の教員あるいは指導者としての力量を高めて下さい。※正確に転載したつもりですが,間違いがあるといけませんので最終的にはギャラリーTOMさんにご確認下さい。
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ギャラリーTOM 特定非営利活動法人視覚障害者芸術活動推進委員会

【レクチャー実施要綱】レクチャー「手で見る美術の本」

講 師:ホエール・コーヴェスト:フランス国立産業科学館主任研究員
日 程:2006年7月29日(土)午後6時30分-8時30分
会 場:こどもの城 3F 造形スタジオ(TEL:03-3797-5662)
受講料:2,000円
定 員:50名(申込先着順)
申込方法:氏名・住所・連絡先(電話・e-mailなど)を明記してファックスでお申込ください。
申込先:FAX O3-3467-8104

ギャラリーTOM 〒150-0046 渋谷区松涛2-11-1
電話03-3467-8102/tom@gallerytom.co.jp(全部半角小文字で)

上記レクチャーにご参加できない方は、次の美術館でも開催いたしますので、お問い合わせください。
 * 7月23日(日)横須賀市美術館開設準備室 14:00~ 無料
       電話:046-822-8482
 * 7月26日(水)世田谷美術館 13:00~ 無料
       電話:03-3415-6011

このレクチャーは、次の展覧会の関連事業です
(1)「ぽくたちのつくったもの2006」全国盲学校生徒作品展
(2)「手で見る美術の本」展
2006年7月8日(土)-8月27日(日):ギャラリーTOMにて

 助 成:笹川日仏財団
 協 賛:花王株式会社
 協 力:こどもの城造形スタジオ.アート・バイ・ゼロックス
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全国盲学校生徒作品展覧会「ぽくたちの動物記」のご案内

2006年06月13日 | Weblog
全国盲学校生徒作品展覧会「ぽくたちの動物記」,及び展示とレクチャー「手で見る美術の本」が東京渋谷のギャラリーTOMで開催されます。アート教育に興味を持つ人には必見の催しです。せっかくのすばらしい催しですから広く見てもらいたいと思っています。ギャラリーTOMさんの許可を得ましたので,案内状を全転載します。(正確に転載したつもりですが,間違いがあるといけませんので,最終的にはギャラリーTOMさんにご確認下さい。)
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全国盲学校生徒作品展覧会「ぽくたちの動物記」
【同時開催】展示とレクチャー「手で見る美術の本」

2006年7月8日(土)-8月27日(日)
ギャラリーTOM(視覚障害者芸術活動推進委員会)

 今年も,“ぼくたち”の夏がやって来ました。
TOMでは開館以来,夏には「全国盲学校生徒作品展-ぼくたちのつくったもの」を開催してまいりました。TOMの空間だけでなく,国内の美術館や,アメリカ,イギリス,韓国などなど,数えきれないほど多くの場所で,多くの皆さんに感動の輪を広げてまいりました。それは障害の有無を越えた瑞々しい感性であり,見るものを惹きつけ問いかける強さでもあります。

 この「ぼくたち展」では,かねてから動物作品が多く出品されており,また,TOMで度々紹介している彫刻家の掛井五郎さんが,お孫さんから触発されて創られる近作群のすがすがしさが,思いがけずこの「ぼくたち」作品を想起させるものだったので,今回の作品選考のメンバーに,掛井五郎さんも加わっていただきました。そのことを各盲学校にお知らせし,いつもの「ぼくたちのつくったもの」ではなく,「ぼくたちの動物記」として作品の募集も行いました。

 この展覧会に加えて今年は,視覚障害者のための,空間や外界の仕組みを触って理解するための「触覚の本」の展覧会とレクチャーを同時間催することになりました。TOMの小展示室を展示会場とし,レクチャーは横須賀市美術館開設準備室,世田谷美術館,こどもの城の3箇所で行います。

 今回の展示はフランスからの出品を中心に,「手で見るピカソ」,古代彫刻鑑賞の手引きとなる「彫刻における運動」,建物や構造物を理解するための「建築の鍵」,地球の仕組みや天体の運行などを考える「大地」「星座」など,実に多彩なものです。これらは視覚障害者が触覚によって,外界をより深く広く認識できるように,フランスのルーヴル美術館をはじめとする欧米の公立の美術・博物館の専門家たちが,視覚障害者の方々と共に開発しました。そしてその専門家でもあり,自身も全盲である,ホエール・コーベストさん(フランス国立産業科学館主任研究員)をレクチャーの講師に招いて,本作りの経験や,障害者のための博物館アクセスなど,わが国では立ち遅れている取り組みについてうかがいたいと考えています。

 目で見て理解するということ,そして「手で見る」こととは,どういうことなのか。私たちはどのように理解し,どのような可能性を見出せるのでしょうか。それを考え,それぞれの現場での開発の大きな糧にしていただきたいと思います。

※次年度は,イタリアで開発された「触覚の本」を中心に,展示とレクチャーを予定しています。

開館時間=10:30-17:30月曜休館(7/17を除く)入館料=一般600円/小中学生200円/視覚障害者及び付添者300円

ギャラリーTOM 〒150-0046東京都渋谷区松涛2-11-1 TELO3-3467-8102 FAXO3-3467-8104 www.gallerytom.co.jp
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※レクチャー「手で見る美術の本」については,実施要綱として案内を頂いたものを次回アップします。
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古典ではあるが・・・③

2006年06月07日 | Weblog
・・・今改めて,斎藤喜博氏の著作から。第3弾。
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 自己表現のできる人たちは,とうぜん創造的な教育実践ができる。渋沢さんや出月さんは図画教育をひらいていった。それは仲間の先生にも,全校の子どもにも影響していった。出月さんの指導した絵には,子どもの家庭生活や労働を材料にしたものが多く出てきた。子どもたちが自分の生活をみつめ,そこにある喜びやかなしみを,しみじみとリアルに表現するようになってきた。出月さんは図画と綴り方とを結びつけ,その両方から指導していったのだった。大きなボール紙に,布をはりつけてつくった絵なども,豊かな動きのあるものだった。

 学校全体の絵がよくなった。これは渋沢さんや出月さんがきりひらいた仕事があることと,各学級の先生が,それぞれ独自の学級づくりをやったということに原因があるのだった。ある美術教育家が「島小の絵はどの学級のもうまい。それも全児童の作品をみないとおもしろ味のわからない絵だ」といっていたが,全児童がうまいということ,どの学級の絵も,どの子どもの絵も,個性があり特徴があるということは,この学校の教育の特色であり強味だと私はいつも思っていた。

 泉さんの一年生の学級には,学校へはいってから,一度も口をきかないという男の子がいた。泉さんは,その子どもをないしょ話という作業で口をきかせるようにした。泉さんは学級のみんなの前で,「マサシさん,ないしょ話しょうね」といってふたりだけで話をする。「マサシさんは先生がすき?」「すきならいっしょに話しましょうね」こんな調子でないしょ話をしているうちに,だんだんとその子が口をきくようになった。そうすると泉さんは全体の子どもに「マサシさんは,もうナイショバナシしなくてもよいのです」といったのだった。

 井田美智子さんは,まだ若い先生で,はずかしがり屋だったが,運動会のとき,ひとりの子どもが欠席したので五年生の子どもといっしょに出ていってダンスをした。井田さんが,まちがっては,にこにこしているので,子どもたちも楽しそうにおどった。井田さんのまちがい方も,子どもたちの楽しそうな,のびのびとしたおどり方も,みていて気持のよいものだった。

 このときの運動会は,子どもたちに計画を立てさせ,その日の進行も子どもたちにさせた。開会も閉会も呼びかけと合唱でやるようにした。徒競走もいっさいやめてしまった。

 その運動会の反省会を母親たちとしていたとき「子どもがなごやかで,のびのびとしていてよかった」というのと「走りっこがなかったので,みていてつまらなかった」という二つの意見が親たちから出た。私は「運動会だから走りっこがあったほうがよいですね」といった。すると先生たちは無雑作に「走りっこがあるので運動会がいやだという子が,今でもまだ,どの学級にもひとりやふたりはいるのです。今年も,走りっこがなくてよかった,といった子どもがどの学級にもいたのです。私たちはそういう子どもがひとりでもいるうちは走りっこをさせたくないのです。努力して早くよい学級にして,誰でも楽しく走りっこのできる運動会にしたいと思っているのです」といった。

 私はそれをきいて,なるほどと思ったのだが,走りっこをいやがる子が,ひとりもいなくなるためには,びりになっても恥ずかしくないという雰囲気が学級や学校全体の中にできていなければならない。また,びりになるような子どもの心のなかにも,全力をあげて走ることの楽しさ,びりになっても誰も笑わないのだ,みんな自分を応援してくれているのだという,安心感とか自信とかいうものがなければならない。そういう考え方や人間関係がお互いの間につくられていなければならない。先生たちはそういうことを考えているのだった。

(「創造する先生たち 3.よい実践をする先生たち」『学校づくりの記』,斎藤喜博全集第5巻,国土社,1970年,263-265頁より)
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ここにでてくる全ての先生が,教職という専門職に誇りを持っていることがよくわかるだろう。専門職であり続けるために日々創造的に学んでいる。子どもたちが強制によらず自らの意志で学び高まる姿,そのような自分自身に誇りを持ち学びの友を尊重する姿は,教師のこのような姿によって生み出されるのだ。
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古典ではあるが・・・②

2006年06月06日 | Weblog
・・・今改めて,斎藤喜博氏の著作から。第2弾。
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 いままでの一般の授業は,自分の持っている一般的な解釈だけを,ただ常識的に子どもに教えこみ,記憶させるだけのものだった。子どもがそれを覚えなかったり,なっとくしなかったりした場合は,文化財とか学校とか教師とかの権威をつかって,もしくはテストとか通信簿とかでおどかして,無理やりになっとくさせ屈伏させるだけのものだった。だがそれだけでは教育とはいえない。学校でなくとも,どこでも,だれにでも,できることである。またそういう授業では,子どもの論理や思考や感情を明確に引き出し育て,子どもや学級に網の目のような論理の組織をつくらせ,それを否定したり拡大したり,変革させたりして子どもをゆるがすようなダイナミックな授業はできない。子どもの持つ論理の軌道と,教師の指導意欲とが,火花の散るような対決をし,その結果として無限に新しい論理の軌道を教師や子どものなかにつくり出していくような授業はできない。

 学習の場合でも、いつでも子どもは真理とか正しさとかを持っている。教育は,それを大事にし育てていかなければならないものである。授業を組織し,子どもたちの持っている真理とか正しさとかを,論理的に組織し,それをもとにして,教師と子ども,子どもと子どもとが,衝突し,教師が子どもをくみふせたり,豊かなにおやかなものをそそぎ込んだりして,子どもの持っている真理とか正しさとかを,さらに高いものへと,変革し拡大し発展させていかなければならないものである。それが授業の生命である。

 そういう授業のなかでだけ,教師や子どもは強じんな論理をつくり出し,追求力を持つようになり,自分を変革できるしなやかな精神とか豊かな感受力とかを持つようになり,相互交流ができるようになる。学校は,そういう授業や行事や芸術教育をすることによってだけ学校としての機能を発揮することになる。自分の意志で,自分の肉体や頭脳を自由に駆使することのできる子どもをつくり出すことができる。そういうことだけが学校教育であり,学習での訓練である。

 権威でおどかし,それによって一般的な知識や解釈だけを子どもに押しつけるような授業は,無風状態である。そういう授業では,子どもは授業の表面ではなんの反撃もしていない。押しつけの一方交通だから,教師が教壇で立往生するようなこともない。けれども,そういう場合でも,無言のうちにも子どもは自己の持っている正しさとか真理とかで抵抗し反発している。それは質の高い授業で教師と子どもとが壮麗に格闘している場合とちがって,陰うつな感情的な反発であるから,子どもの思考や論理や感情を花さかせるのでなく,子どもを押しつけ,子どもに不満を持たせ,子どもの人間全体を阻害してしまうものである。行事や芸術教育の場合も同じである。それらはみな,学校だけがやれ,学校がやらなければできない仕事はしていないわけである。

(「学校でしかできないもの 3.授業がつちかうもの」『授業』,斎藤喜博全集第5巻,国土社,1970年,384-385頁より)
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腹立たしさ

2006年06月06日 | Weblog
内に沸々とわき起こる腹立たしさ。統制を離れてただただ暴れ回る。解消するに要となれば愚痴をこぼすも良し,批判するも良し。ただ,果てに残るは,さらに大きな腹立たしさのみ。これまた因果。
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古典ではあるが・・・①

2006年06月05日 | Weblog
・・・斎藤喜博氏の著作から,優れた授業につながる知見について,今,改めて見直してみたい。教育実習を受ける諸君にとって,授業のマニュアルにはならないが,優れた授業を行う優れた教員になるための大きな礎になるはずだ。
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 芸術教育は知識や常識を教えることではなく,イメージを豊富に咲きみだれさせ,それを感覚として定着させることである。そういう仕事を芸術のそれぞれの分野での特質に応じて佳麗におしすすめていくことである。

(「芸術的要素を持った展開 5.豊かなイメージを感覚として定着させる」『授業』,斎藤喜博全集第5巻,国土社,1970年,333頁より)
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人のふり見て

2006年06月04日 | Weblog
人の非常識に腹立たしさを禁じ得ないことが時にある。

しかし人を見たその目をまんま己に向けてみれば,人以上に非常識な己に気付く。

人のふり見て何とやらだ。
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