八国山だより

ノーサイレントマジョリティ!ごまめの歯ぎしりといえど、おかしいと思うことはおかしいと自分の意思を発信しなければ

1985年 - 備忘録その4

2012-09-21 03:47:41 | ひとりごと
 大学卒業後勤務した在阪の音響機器メーカ、トネゲンはラジオのスピーカーメーカーとしては戦前は圧倒的シェアを誇っていたそうだが、戦時中軍需工場となり、戦後は再建の遅れもあり台頭してきた東通工(現ソニー)の後塵を拝することになったということだった。一時は松下電器(現Panasonic)の下請けもしたりしていたが、海外向けOEMメーカーとして活路を見いだしていた。商売の気風として東京系の企業がブランドを気にするというのか名もない企業を相手にしないのに対し、海外のメーカーはものがよければ無名の会社であろうと気にしなかったからだ。

 私が勤務していた頃海外の主要なオーディオメーカーとはほとんど取引があったのではないか。アメリカのJBL、今はなきインフィニティ、AR(Acoustic Research)、BOSE、Marantz、Fisher(旧三洋の子会社)、英国のTannoy、デンマークのB&O(Bang & Olfusen)などなど。

 1985年、私はアメリカ、ロサンゼルス州ガーデナー市にあった販売合弁会社に出向することになった。アメリカの会社は自分にとっては厳しくはあったが働きやすかった。地位、年齢を問わずまっとうな意見であればトップが耳を傾けてくれる。厳しいというのは売上高、目標達成率、それに要した接待費、交通費など費用対効果で年俸が決まること。

 このアメリカ滞在中の出来事で忘れられなかったのは御巣鷹山での日航機墜落事故。その日いつものように車でオフィスに向かっていると、突然音楽を中断してこの一報が入ってきた。当時NHKの午後7時台のニュース番組を見ることができたが2日遅れ!のものだった。ジリジリしながらその2日を待っていたものだった。

 日本の本社と比べたこのアメリカでの労働環境の快適さが翻訳業への転職の一因ともなった。その意味でこの年は自分にとって転機となる年だった。毎年、墜落事故何周年という報を聞くにつけ思い出す。

 私が在籍したこの会社も1986年、当時の社長が「生き残りをかけて」昭島市にある某大手ユニットメーカーと合併したが、実質取り込まれたようなもの。某社長は生き残ったかも知れないが会社は潰れた。目先のことしか考えない愚かな判断だっと思う。惜しむ声(集まれ スピーカー好き! 「接着剤」)もあったというのに。

 

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