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チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「ツルゲーネフ 父と子 出版から150年(前篇)/ニヒリスト・バザーロフでござーる」

2012年02月20日 00時10分17秒 | 事実は小説より日記なりや?

ツルゲーネフ 父と子


["Отцы и Дети" Ивана Сергеевича Тургенева]
「父と子」(Отцы и дети アッツィー・イ・ヂェーチ)は1862年に発表されたイワン・ツルゲーネフの長編小説である。
1859年5月から始まる設定の、農奴解放令発布前の帝政ロシアの古い世代と新しい世代の一面を描いている。
主人公のひとりバザーロフは「ニヒリスト」の代名詞ともなった。
バザーロフの友人アルカージー(キルサーノフ)とその家族、
バザーロフが心惹かれたオジンツォーヴァなど、
ツルゲーネフお得意の「後日談」に、登場人物の「その後」が語られる。
とりわけ、ラストシーンを飾るバザーロフの両親の描写に
ツルゲーネフ文学の真骨頂が詰め込まれている。
ここでは死の床のバザーロフをオヂンツォーヴァが見舞いにきた場面と、
そのすぐあとにバザーロフが息をひきとり、
父親が息子をこんなにも早く召した神を罵る場面を、
ロシア語の原文、そのカタカナ発音、そして、私の日本語訳を、
並べて詳しくみてみることにする。

今年は、現在ではほとんど読まれることがないロシア人作家、
いわゆるツルゲーネフの小説"Отцы и Дети"
(アッツィー・イ・ヂェーチ=父(の複数形)と子(の複数形))、
邦題=「父と子」が出版されて150年めである。この小説は、
主人公のいわゆるエヴゲーニー・ヴァシーリイチ・バザーロフが
"nihilist(ニヒリスト=虚無主義者)"として描かれたことが
発表当時はたいそう話題になり、
物議を醸し出したということである。
虚無僧とコム・デ・ギャルソンの着こなしの違いも見分けれない
拙脳なる私には小難しいことは解らないし、
ところかまわずプップ・プップとオナラをしてしまう
屁ヒリストであり、キリストとニヒリストを聞き分けれない
拙脳なる私には正確な説明ができないが、ごく簡単にいえば、
ニヒリストは「キリスト教の神(の権威)」を認めない。つまり、
のちのコミュニスト(共産主義者)の思想に繋がる。現在でこそ、
欧米でも「キリスト教の神」を本気で信心してる者は
ずいぶんと減ってきてるようではある。が、
それでも底にはキリスト教の「唯一神」の思想が根づいてる。
大航海(植民地)時代のカトリックのスペイン以来、
どんなに布教活動をしても総人口の1パーセントほどしか
キリスト教徒にならなかった日本は、開国後50年ほどを経た
20世紀になってから、植民地戦争の勝者である米英蘭に
目の敵にされ、孤軍戦うはめになった。ニーチェが、
1885年に出版した「ツァラトゥストラはこう語った」で
「神は死んだ」とことさら"宣言"しなくてはならないほど、
現在の世界はキリスト教の「唯一神思想」、つまり、
「白人が世界を支配する」という選民思想で形成されてる。
まして、
19世紀の欧州で「神をないがしろ」にするなど、
狂気の沙汰だった。実際、
ツルゲーネフはその小説のタイトルを、
「父と子」として、
「聖霊」は除いたのである。大変なことである。私も
「カルビ丼」は嫌いだが、これでは
「カルケドン信条」を戴く主流派が黙ってはいない。
東方教会ではあっても、「三位一体」と同等の
"Святая Троица(スヴィャターヤ・トローイツァ=至聖三者)"
を戴くロシア正教も、カルケドン派であることに違いはない。
ともあれ、
「父と子と聖霊」であって、「父と子と母」ではなく、
キリスト教というのは女性蔑視の思想に裏打ちされてるのである。
それを糊塗するための方策が、昨今の流行りを演出した
「男女共同参画社会」運動なのである。その
「参画」という「3」が動かぬ証拠である(※)。
「三方一両損」である(どこが?)。
エチゼン食わぬは男の恥。ハマグリ桑名は女の味。
トリニテ、一件、らくちゃーーーくっ! である。

「初恋」でも考察したが、
(「ツルゲーネフ『初恋』出版150年記念/女王様ゲームと私」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/3310dbfa7cc41e740456166daa5dc98c )
この小説の登場人物の名にもツルゲーネフはそれぞれ
ヴァーグナーの音楽劇の中のライトモチーフのような
意味・性格を持たせてると私は考える。まず、
主人公のバザーラフ(いわゆるバザーロフ)である。この
Базаров(ラテン文字ではBazarovに相当)とは、
базар(バザール=市場)という普通名詞をもとに
ツルゲーネフが主人公のニヒリストに与えたサーネイムである。
「バザール」の原義は、「ペルシャ」の
♪ドー・ドー│ドー・>ラ>ソ│<ラ>ソ・>ミー│ミーー・ーー♪
「市場」にて「商品の取引価格が決まる場所」、
というものだった。市=バザールでは
民が集まり、そこに喧噪が生じる。そして、
базарという名詞には「(群衆の)騒ぎ」という意味が
生じた(これは英語のbazarも同様である)。そこから、
「論議」「口論」「喧嘩」「乱暴」
などの意味がさらに加えられてった。
喧嘩が大きくなればそれは
まあ決闘にもなろうというものである。ともあれ、
Базаров(いわゆるバザーロフ)という男は、
キリスト教の旧態依然とした迷信・固定観念に縛られた
旧世代というマジョリティの中で、
それを否定して喧嘩を売る者、がしかし結局、
敗残者、というマイノリティとしてキャラクターづけされてるのである。
ツルゲーネフの小説にオキマリな余計者ということである。いっぽう、
バザーロフを信奉し、その思想にかぶれてたが、結局は
オヤジの農奴と農場を引き継いで大領主となる
アルカーヂー……ツルゲーネフは1883年に死ぬので、祖国
ロシア帝国の末路を知らない……と、その父と伯父のサーネイムである
キルサーナフ(いわゆるキルサーノフ)は、
Кирсанов(ラテン文字ではKirsanovに相当)。これは、
スコットランドや北欧などに現在も残る
KirstinあるいはKirstenという女性名が意味する
Christのことであり、キリスト教(ロシア正教)の思想に凝り固まった
旧体制派を示すものである。他方、
バザーラフがその魅力に惹かれ、思わぬ恋心を抱いてしまった相手、
Анна Сергеевна Одинцова
(アンナ・セルギェーェヴナ・アヂンツォーヴァ)の
Одинцова(アヂンツォーヴァ、いわゆるオジンツォーヴァ)は、
数詞の1を表すодин(アヂーン)から作られてる。
один(アヂーン)は形容詞としては「唯一の」という意味であり、
バザーラフにとって「かけがえのないただ一人の女性」だった
ことを暗示してるのである。

さて、
全28章のこの小説の第27章の終わり近く、このようなスィーンがある。
(以下、""内=原文、()内=拙カタカナ発音、「」内=拙大意)

"---Евгений Васильич, я надеюсь..."
(イェヴギェーニィ・ヴァスィーリイチ、ヤー・ナヂェーユシ……。)
「エヴゲーニー・ヴァシーリイチ、わたくし、望みを……。」
"---Эх, Анна Сергеевна,
станемте говорить правду."
(エフ、アンナ・セルギェーィヴナ、スターニェムチェ・ガヴァリーチ・プラーヴドゥ。)
「ああ、アンナ・セルキゲーエヴナ、忌憚なくいきましょう。」
"Со мной кончено. "
(サ・ムノィ・コーンチェナ。)
「私はもうお終いです。」
"Попал под колесо."
(パパール・パト・カリソー。)
「車輪に轢かれてしまったんですよ。」
"И выходит,
что нечего было думать о будущем."
(イ・ヴィハヂーチ、
シトー・ニチヴォー・ブィラ・ドゥーマチ・ア・ブードゥシシェム。)
「つまり、
これから先のことなど考えたって意味がない、ってことです。」

チフスで死んだ村人の遺体解剖に立ち会ったバザーロフが
誤ってメスで指を切り、感染して死の床にいる、という状況での場面である。
ここでいう「車輪に轢かれた状態」とは、ロシア語で
"колесование(カリサヴァーニエ)"、ドイツ語で
"Raedern(レダーン)"と言われる
「車輪刑(八つ裂きの刑)」のことであり、
キリスト教への反逆者に対して執行された凄惨極まりない死刑である。
20世紀のハーマン・ヘッセの小説
"Unterm Rad(ウンターム・ラート=車輪の下に)"
のタイトルにも採られてる。キリスト教に楯突いたバザーロフは、
自らのミスでその命を絶ちきられることになる。が、
最期をその「極刑」に処せられた反逆者として喩えてるのである。

バザーロフは恋心を抱いたオヂンツォーヴァが見舞いにきてくれたすぐあとに
意識がなくなり、翌日に息を引き取る。

"Когда же, наконец,
он испустил последний вздох
и в доме поднялось всеобщее стенание,
Василием Ивановичем обуяло
внезапное исступление.
---Я говорил, что я возропщу,
...хрипло кричал он,
с пылающим, перекошенным лицом,
потрясая в воздухе кулаком,
как бы грозя кому-то,
...и возропщу, возропщу!---
Но Арина Власьевна, вся в слезах,
повисла у него на шее,
и оба вместе пали ниц."

(カグダー・ジェ、ナカニェーツ、
オーン・イスプスチール・パスリェードニィ・ヴズドーフ・
イ・ヴ・ドーミェ・パドニャーラシ・フシオープシシェー・スチェナーニエ、
ヴァスィリーェム・イヴァーナヴィチェム・アブヤーラ
ヴニザープナエ・イストゥプリェーニエ。
ヤー・ガヴァリール、シトー・ヤー・ヴァズラプシュー、
...プリープラ・クリチャール・オーン、ス・プィラーユシシム、ペレコーシェンヌィム・リーツォム、
パトリサーヤ・ヴ・ヴーズドゥヘ・クラーカム、
カーク・ブィ・グラジャー・カムータ、
イ・ヴァズラプシュー、ヴァズラプシュー!
ノ・アリーナ・ヴラーシエヴナ、フシャー・フ・スリザーフ、
パヴィースラ・ウ・ニヴォー・ナ・シェェ、
イ・オーバ・ヴミェースチェ・パーリ・ニーツ。)

「ついに、
彼(エヴゲーニー・バザーロフ)が最後の息を吐いて
家じゅうにすすり泣きの声があがったまさにそのとき、
ヴァシリー・イヴァーノヴィチ(バザーロフの父)の胸中に
不意に怒りの感情が込み上げ爆発した。
『私は言ったぞ、私は許さんぞ、と』
……しゃがれた声で、彼は怒鳴り散らした。
顔を紅潮させ、 大きく歪め、
威嚇するように空に向かって拳を振り、
あたかも何者かを脅すかのように、
『許さん、許さん!』と。
すると、アリーナ・ヴラーシエヴナ(バザーロフの母)は、顔じゅう涙だらけにして、
夫の首にすがりついた。
そして、二人は供に前のめりに崩れ落ちた。」

キリスト教の否定は、無神論というよりはむしろ、
若くして死んだ倅のまやかしを見抜く目を
その父が逆に受け継いだ形である。
善良なる町医者である父親は、かけがえのない息子を
理不尽にも召した「神」に対して
拳を振り上げて憤りをぶちまけ、
キリスト者なら絶対に許されないはずの
「神への口答え」をして、罵ったのである。
仮に神などというものがもしも存在するとしたら、
そんなやつはこの私がぶち殺してくれる! という勢いである。
神=キリストなど我々善良な者に何の恩恵もあたえるどころか、
こんな酷い仕打ちをして平気でいるのだ、
と、まさに倅が息を引き取った瞬間に、
父親は悟ったのである。が、
覆水盆に返らず。死んでしまった者は
キリストの嘘話のようには生き返らない。
時間の流れは不可逆なのである。

(「息子の墓参をする老夫婦の哀れな姿/ツルゲーネフ『父と子』出版から150年(後篇)」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/f4c686dd1c9725a302025eb74bf2a7e9
に続きます)
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「エリス女史とは誰ぞ/森鴎外生誕150年」

2012年02月17日 00時46分18秒 | 事実は小説より日記なりや?
[淡路島。かよふ千鳥の、鳴く声に、いく夜寝覚めぬ。須磨の関守]
今日は金曜であるが、これは、
「金葉集」巻四・冬、#270、
[関路千鳥といへる事を詠める]
という源兼昌の歌である。
「関路千鳥(せきぢのちどり)」とは、
この歌が詠まれたときの御題である。が、中国の
「史記」にある「鶏鳴狗盗」という「函谷関の故事」を、インテリ女史の
清少納言がもじった「関路の鶏」をさらに借用したものである。
元の故事をかいつまむと以下のとおりである。が、あくまでも、
人から聞いた受け売りである。
伝聞(デンブン)である。
[春秋時代、函谷関は朝、一番鶏が鳴くまで開かないことになってた。が、
それでは孟嘗君は昭襄王の追っ手に捕まり殺されてしまう。そこで、
モウシヨウがないから逃げおおすには悪戦クトウしてでもいいと決意した。
狗盗(=コソドロ)を使って鶏の鳴き声を真似させたのである。すると、
本物の鶏もそれにつられて鳴きだした。そのため、関は開けられて
孟嘗君は難を逃れることができたとさ]
この故事の知識をひけらかして清少納言が詠んだのが、
[夜をこめて、鶏の空音に、謀るとも、よに逢坂の、関は許さじ]
である。ともあれ、
源兼昌の歌から採った芸名を使ってたのが、昨日亡くなった
淡島千景(1924-2012)女史である。当時は、
宝塚の団員は「百人一首」から芸名をつけてたらしいが、
故淡島女史と桂歌丸との顔の区別がつかない拙脳なる私には、
どの範囲までかは判らない。

鶏→千鳥、とくれば、さらに別の鳥の話題も
アル・カモメ。否、あるかもね。
今日2月17日は、
森鴎外(1862-1922)の生誕150年にあたる日である。
(以下、ここでは簡易慣用字体の「鴎」で代用させていだだく)
といっても、
鴎外が生まれたのは江戸時代最末期の文久2年正月19日であり、
それをゴレゴリオ暦に換算すると、1862年2月17日、なのである。
鴎外は石見国津和野亀井家の医師の倅として生まれた。
主君は亀井亜紀子現参議院議員の先祖である。ちなみに、
亀井家は江戸時代に大名となる前は尼子家の家臣だった。
藩祖亀井茲矩は途中で養子が入ってるために同女史とは血縁はないが、
「亀井踊り」という話が作られた人物である。それはともかく、
鴎外の最初の小説は、[石炭をば早や積み果てつ]で始まる
「舞姫」である。その中の
「エリス・ヴァイゲルト」というドイツ人女性は誰なのか、
ということが長らく謎だった。そもそも、
「エリス(洋式に綴ればElisもしくはEllis)」なんて女性名は、
現実には存在しないといっても過言でない。
漱石は造語で知られるが、鴎外も、
吾輩だって固有造語名詞を作れるんだぞ、
ということを誇示したわけである。実在の女性が
"Elise(エリーゼ/Elisabeth=エリーザベトの愛称)"であることから、
"Elsa(エルザ)"、"Else(エルゼ)"、"Lise(リーゼ)"、"Lili(リリ)"、
"Liesel(リーゼル)"、"Betti(ベッティ)"、"Bettina(ベッティーナ)"、など、
何にしようかな、といくとおりかの候補を挙げて、その中から
エリスぐりのひとつを選んだらそういう名になった、
ということはありえない(※)。なぜなら、
"Ellis"なんていう呼び名がないなんてことを知らないほど、
鴎外はそこらへんに転がってる無知な輩とは
対極の人物だからである。ともあれ、
横文字で表記するとなれば、「舞姫」の中の女性は、
"Ellis Weigert"ということになる。ちなみに、この
"Weigert(ヴァイゲルト)"というサーネイムは、実際の
"Wiegert(ヴィーゲルト)"というサーネイムのeとiを入れ替えただけ、
と普通は思うはずである。が、
私のようなダジャレオヤジはすぐさまに、その
「交替」に「意味がある」のではと勘繰ってしまう。果たせるかな、
ドイツ語にwiegertという語は固有名詞以外にはないが、
Weigertという語は動詞weigeren(ヴァイゲレン)の
単数2人称と単数3人称の変化形、
および複数命令形として存在する。そして、
その動詞weigeren(ヴァイゲレン)の意味は、
「拒む」「否定する」「従わない」なのである。
10年ほど前には植木哲なる人物が、
"Anna Bertha Luise Wiegert"(アンナ・ベルタ・ルイーゼ・ヴィーゲルト)
という実在の"16歳"だったと"突きとめて"る。それに乗っかった
元TBS職員で大手TV製作会社テレビマンユニオンの重役のひとり
今野勉が、おととしの11月にNHKBSで
「森鴎外の恋人、『舞姫』120年目の新事実」
を制作して放送した。そして、
その過程を本にまとめて上梓した。
「鴎外の恋人(百二十年後の真実)」(NHK出版刊)である。
"真実"などと偉そうなサブライトルを附したものだが、これは、
"写楽が消えて数十年後の「浮世絵類考」に
「俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州侯の能役者也」
と書かれてて、いっぽうで能楽師斎藤十郎兵衛が実在した"
ということだけで、
「写楽は斎藤十郎兵衛である」
と断定する以上に「金田一耕助」の等々力警部ほどの
いいかげんな決めつけである。
「エリーゼのために」は"悪筆のベートーヴェンのThereseという綴りを
ElIseと誤読した"という"推測"と同レヴェルである。

案の定、
今野勉が「鴎外の恋人(百二十年後の真実)」を出した5か月後に、
六草いちか女史というベルリーン在住のライターが著者である、
「鴎外の恋(舞姫エリスの真実)」(講談社刊)
が上梓された。こちらもサブタイトルに「真実」という語が入ってる。が、
ここでは、今野勉の恣意的な決めつけありきの推論ではなく、
丹念な資料調査がなされてるのである。そして、
それまで"真実"とされてきた
"Anna Bertha Luise Wiegert"(アンナ・ベルタ・ルイーゼ・ヴィーゲルト)
(当人だとすれば、来日時、15歳10か月の子供)などではなく、
"Elise Marie Caroline Wiegert"(エリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルト)、
1866年9月15日、出生当時は露普墺に分割されてて
プロイセン王国領だった現在はポーランドのSzczecin(シチェチン)生まれの、
来日時21歳の女性を「探し当て」たのである。今野勉がこだわった
モノグラムの件も、きちんと考証に基づいた考察がされてる。
今野勉のれっきとした裏付けなしな恣意的な理念によるlinenの
"M(森の頭文字)"と"R(林太郎の頭文字)"型が
まったくの筋違いであることを暗に示してるのである。ともあれ、
こういう人物とその会社が莫大な収入を得て
いわゆる"教養番組"を制作してながら、
無垢な視聴者に誤った情報を与え続けてきたのである。のみならず、
出版という分野にまで図々しく出しゃばり、
対価を得て物を書いて文化人気取りかもしれないが、その実は
検証されてない他人の思いこみの受け売り程度の内容、
というお粗末なものを産み出させる素地があるのは、
TVの教養番組制作関係者の一般的な知的レヴェルに
合致してるのだとしか思えない。いっぽう、
こういう海外ロケをメインにしてるTV制作会社の
現地コーディネイターもしてるという六草いちか女史はその著書の中で、
この"エリーゼ探し"が「偶然」の産物であるということを、
くどいくらい強調・繰り返してた。が、
そのあまりに詳細な調査過程の記憶や記録と
上梓のタイミングを思うと、かなり入念に、
こういったいい加減なTV制作者の嘘を是正すべく
"真正なるエリーゼ探し"をしてたのではないかと、逆に思わせる。

ところで、
「鴎外の恋(舞姫エリスの真実)」の中で六草女史は
「鴎外」というペンネイムについても言及してた。
諸説ある中で「かもめの渡し=新吉原の外」説が主流である、
というのがwiki受け売りレヴェルの"認識"である。つまり、
「遊郭のようなところに通って身を持ち崩すことなく、
クルワの外である千住に住まう」というイシ表示をペンネイムにした、という。
"15歳の子供"に懐疑の念を抱いた女史は、それにも「疑問」を呈してる。
女史は「エリーゼ」との思い出深いベルリーンのシュプレー川に飛来してた
「鴎」を、「外」国から留学した自分とに重ね合わせたものだったのでは、
と推察してる。私も道灌山ではないが同感である。が、
別の推論を持ってる。

[以下は性的表現、変態性欲について言い及んでます。また、
鴎外を神格化されてるかたにもなじまない類の話ですので、
そういうことを不快に思うようなかたは、
以下にはけっして読み進まないでください]

鴎外は結婚後に現在の文京区千駄木、団子坂あたりに
居を構えた。そして、数年後に住居を新築した。
その2階からは東京湾が見えたとされてる。で、
鴎外はそこを「観潮楼」と名づけ、自らを
「観潮楼主人」と名乗った。が、
妻の話では実際には湾は見えなかった、という。
さて、
鴎外は東京帝大の医学生としてはドイツ留学を果たせなかったが、
陸軍に入ってその軍医として当時の医学先進国ドイツに
官費で留学した。日本のエリートだからといって、
白人から人種差別されないわけがない。所詮、
日本人など白人に相手にされないのである。
鴎外はそういう艱難をなめたことだろう。
英語で「無礼なこと」を"gall"という。
「苦々しい怒りと敵意」を持つ者の態度である。が、そこから派生して
"gall"には「胆汁」という意味もある。
医学は鴎外の本来の専門分野である。彼らにとっては、
自分は小賢しい「黄色い」人種なのである。別言語であるが同語源からは、
「よそ者」「外国人」という意味もある。が、
そんな中で"エリス"のモデルとなった女性と昵懇になることができた。

いっぽう、
私のように外国語のひとつも話せない拙脳なる者には、
"gall"も"gull"も区別がつかない。鴎外のような秀才は
そんなことはないが、それでも、江戸の
地口文化を受け継いだ明治時代の日本人文学者である。
"gull"は「鴎」なのである。そして、全面的に
「ケルト」=「ガリア」というわけでもなく語弊はあるが、「ケルト」を意味する
"Gallia(ガリア)""Galic"などの語はこの"gull"と同源であり、
英語の"yellow"とも源を同じくするのである。
それはひとまずさておき、
ドイツ語で「鴎」は"Moewe(メーヴェ)"という。明治時代的な日本語表記だと、
「メウエ」である。「目上」とは眉であり、その「外」側は、
「こめかみ」である。漢字で表記すると(ここではできないが)、
「耳みっつ」に「頁」という字と、
「需」に「頁」という字である。音読みは、
「ショウジュ」である。
[今よりその福を消受し給わん](即興詩人)である。ともあれ、
この二字はともに、「頁」という旁であるのは、その
「頁」が「頭部」を表すからである。そして、この
「頁」という旁の読みは、
「オオガイ」であり、「オウガイ」のダジャレなのである。また、鴎外は、
陸軍において小倉(第12師団軍医部長)に左遷されたことがあるが、
そのときに「ガルの学説」という「骨相学」への関心を示す小論文を認めてる。
この「ガル」というのは、
Franz Joseph Gall(フランツ・ヨーゼフ・ガル、1758-1828)というプロイセンの医師で、
「骨相学」の開祖である。トンデモ医学の一種ではあるものの、
一概に全面否定できない部分もある。また、
骨相ではなく人相であり信憑性は保障しないが、
フジTVの「ホンマでっか!?TV」では、
れっきとした評論家や学者さんらが、
[会社の代表の顔幅で業績が分かる]
[ヨーロッパでは人種の往来が多いために相手の家系がわかりづらいから、
顔を見て家系を判断する顔相の研究が発達した]
と発言されてた。

さて、
私は子供のときに風邪をひいて熱が出てお通じが悪いと、
往診にやってきた町医者に、
「おかんちょう、しましょう」
と言われて、左側を下にした側臥位をとらされた。そして、
寝巻きのズボンとパンツをお付きの看護婦さんにずり下ろされ、
尻まる出しの姿にされ、指で押しひろげられて弛緩したアヌスに
嘴管を挿し入れられ、グリセリン溶液を注入された、
という昭和な世代に育った。そういう恥ずかしい体験が
病みつきになるか拒絶感を催すかは、個人差である。ともあれ、
鴎外がその住居を「観潮楼」と名づけ、自らを
「観潮楼主人」と名乗ったことについては、ただそれだけでは、
それほど"妖しい"感じはしないかもしれない。が、
幾多の筆名を使った林太郎が
「鴎外」だけは生涯使い続けた、ということに、私のようなヘンタイオヤジは
"故意ンスィデンタル"なものをビリリと感じるのである。
「オウガイ」は医学を専攻したものなら日常に使う言葉である。
「横臥位」とは「側臥位」の別称なのである。
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「姉さん、ディケンズです! 手口、わかっちゃいました/チャールズ・ディケンズ生誕200年」

2012年02月07日 18時01分11秒 | 事実は小説より日記なりや?

ディケンズ 生誕200年


第46回スーパーボウルは、ニュー・ジャーズィでもNYという
ジャイアンツが、ニュー・イングランド・ペイトリオッツを、
残り57秒で逆転して勝った。というと、
(アメリカン)フットボールを知らないかたは、
「たった57秒」と思うことだろう。が、実際には、
「57秒も」残してしまった、のである。
厳密には違うのだが簡単にいえば、
得点したら次は相手に攻撃権が移る。すると、
ファーストダウン獲得やタイムアウトで時計を止めることができる
(アウト・オヴ・バウンズに逃げることでもスナップまで止めれる)。
5点差内であれば、パスさえ通ってしまえば
いとも簡単に再逆転されてしまうのである。ともあれ、
(アメリカン)フットボールは……
自陣から敵陣までボールを進めて、最終的に
敵陣のエンド・ゾウンにボールを持って入れば(タッチダウン)、
敵陣のゴウル・ポウストの所定内に
規定どおりキックしたボールを通過させれば(フィールド・ゴウル)、
それぞれ6点、3点が加算される……
という、「陣獲りゲイム」なのである。

ソ連(現在のロシア共和国)は、
昭和20年8月14日に日本がポツダム宣言を受諾したのちに、
我が国の北方領土に侵攻し、以来、
今日に至るまで不法占拠し、実効支配してる。そんな戦時中、
東京帝大で事務員をしてた女優が、
菅井きん女史である。まだ市谷河田町にあった頃のフジTVの廊下で
同女史とすれ違ったことがあるが、いかに
万年おばさん・おばあさん役とはいえ、
ハッとするほどの存在感だった。女優というのは
「違う」のである。ときに、
今年ロンドンで開催される五輪のIOCの本部がある
ロザンヌで開催されてる"Prix de Lausanne(プリ・ドゥ・ロザンヌ)"、
いわゆるローザンヌ国際バレエコンクールで、日本の高校二年生、
菅井さんが金メダルを獲得した、ということが
さかんに報道されてる。本選の映像で見るかぎり、
技術はともかく、太い。将来を期待されてるようだが、
ダイエットに苦しみ、故障が心配される体型である。ところで、
ロザンヌには"Ecole hoteliere de Lausanne(アクソン記号は省略)"
(エコル・オテリエル・ドゥ・ロザンヌ=ローザンヌ・ホテル学校)という、
チャイコフスキーが死んだ1893年に創立された
世界最古のホテル業界人養成専門学校がある。といっても、
小説"Barnaby Rudge(バーナビー・ラッジ)に出てくる
"the Maypole Inn"のinnとhotelの違いも判らない拙脳なる私には、
"What the dickens is the school?"
(ワッ・ダ・ディキンズィズ・ダ・スクール?=それはいったいどんな学校なんだ?)
という感じで、その学校がどんなものかもまったく見当がつかない。
この"dickens"という名詞は、固有名詞
"Richard"のニックネイム"Dick"からきてる語で、
「強意」の副詞的用法らしい。"Barnaby Rudge"という小説の中に、
"but what the devil do you speak in such mysteries for?"
という一節があるが、その"the devil"も
「デヴィル」という意味ではなく、上記"dickens"と同様に、
あくまでwhatを「強調」する語なのである。

今日2月7日は、英国ヴィクトリア朝時代の作家
Charles Dickens(チャールズ・ディキンズ、1812-1870)の
生誕200年の日にあたる。同人は無学歴である。
いろいろな職を転々としたのち、新聞記者となる。
その頃に"Boz"というペン・ネイムでエッセイを書き始め、
作家となることを志したという。ときに、
NHKのEテレで放映されてる
「アンジェラ・アキのSONG BOOK in English」では、3曲めとして、
ボズ・スキャッグズの"We're All Alone"を採りあげてた。が、
キリスト教国に多いこのような"精神世界"を
観念的に詞にするものが私は苦手である。それはさておき、
いわゆるディケンズが1841年に書き始めた「バーナビー・ラッジ」と、
米国のEdgar Allan Poe(エドガー・アラン・ポウ、1809-1849)が
同年に書いた「モーグ街の殺人事件」が、
「推理小説」のハシリ、だとされてるらしい。ところが、
同年2月に"Master Humphrey's Clock"という雑誌誌上に
第1回分が発表された「バーナビー・ラッジ」をポウが読んで、
たちどころに「カラクリ」を「推理」してしまう。それは、

"The steward and gardener were both missing
and both suspected for a long time,
but they were never found, though hunted far and wide.
And far enough they might have looked for poor Mr Rudge the steward,
whose body...scarcely to be recognised
by his clothes and the watch and ring he wore
...was found, months afterwards,
at the bottom of a piece of water in the grounds,
with a deep gash in the breast where he had been stabbed with a knife.
He was only partly dressed;
and people all agreed that he had been sitting up reading in his own room,
where there were many traces of blood,
and was suddenly fallen upon and killed before his master."

という第1章の終い近く……
(ごく簡単に事情を加えて要約すると)
館の主が殺されて執事と庭師が行方不明になる。が、数か月後、
執事と思われる死体が庭の池底から発見される
……を読めば、
高島政伸とモアイ像の区別がつかない拙脳なる私にでさえ、
高島家の資産目的で近づいてきた女の魂胆も、
この小説のネタもわかってしまうくらい、
ミエミエなものである。それはともかく、
ポウは自分が発行してる雑誌に
そのネタバラシを載せてしまったのである。もちろん、
科学捜査が進歩した現在では通用しない"トリック"である。が、
この小説は"A Tale of the Riots of Eighty"という
副題が附されてるように、単に殺人事件を扱ってるのではなく、
18世紀英国の、つまりディキンズが母親の
胎盤に繋がってたときより数十年前の政情・社会情勢や
Tyburnの刑場送りになるような騒乱を絡めてるのである。
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「サバーキェ、サバーチヤ・スミェールチ(犬には、犬の死にざま)/レールモントフの死に場所(その弍)」

2011年07月29日 16時56分35秒 | 事実は小説より日記なりや?

レールモントフ 決闘 犬


"Tchaikovsky Research"というサイトの"Forum"に、
昔の米映画"The Turning Point(邦題=愛と喝采の日々)"の
エンディングに使われてたピアノ曲をチャイコフスキーの作品だと勘違いした人が
この曲のタイトルを知りたい旨の質問をしてた。
チャイコフスキーが大好き、というわりには、
ショパンとチャイコフスキーの曲の違いも判らないみたいで、実際それは、
ショパンの作品25の練習曲集のいの一番、
「エチュード変イ長調」である。シューマンがこの曲を
「エオリアン・ハープのように聴こえる」と言ったとされてることから、
"Aeolian Harp"というふうにも呼ばれてる。

風の便りにレールモントフが決闘死したという知らせを聞いた
ニコライ1世はこのように履き捨てたという。
"Собаке ― собачья смерть!"
(サバーキェ、サバーチヤ・スミェールチ!)
それぞれの語は、
"собаке(サバーキェ)"=「女性名詞собака(サバーカ)=犬」の単数与格=「犬にとって」、
"собачья(サバーチヤ)"=「形容詞собачий(サバーチィ)=犬の、犬のような」の女性形主格、
"смерть(スミェールチ)=「女性名詞смерть」の主格=「死が」、
といった内容である。で、全体の意味としては、
「犬には、犬の死(がある)」→つまり、
「チンコロには、チンコロにふさわしい死にざまなことよのう!」
「犬畜生はやっぱり犬畜生に似つかわしい死にかたをするものだ!」
みたいな感じである。ちなみに、
このロシア語のサバーカという語は古代の中近東の言葉で犬を指した
spakaが元であるという。英語のspeakとおそらく同源で、
「音を発するもの」→(吠える)犬→小うるさい野郎、→しゃべる、
とそれぞれなったものと推量される。

ツアーリ(ニコライ1世)から小うるさいチンコロ野郎と疎まれてた
レールモントフが現行暦換算1841年7月27日夕に決闘で死んだ
"Пятигорск(ピャチゴールスク)"という町は、
北カフカース(英語ではコーカサス)中央、すなわち、
2014年冬期五輪が開かれるСочи(ソーチ)から東に約250kmほどにある。
南に100km少しでグルジアとの国境である。
南東には北オセチア、その東にはチェチェン、というロウケイションである。
レールモントフが訪れる何十年か前に鉱泉が発見されて保養地として栄えはじめた。
「夜鳴きウグイス」の作曲者としてわずかに知られてる
Алябьев(アリャービエフ、1787-1851)が
冤罪をでっちあげられてシベリア送りにされたのち、
レールモントフが死ぬ10年ほど前に住んでた。その家は
レールモントフが死の前に住んでた祖母の実家のストルィーピン家の別荘のすぐそばである。
それらは標高933mのМашук(マシューク)山の南南西に現在は設置されてる
ケイブル・カーのある麓の駅から500m足らずのところである。現在、
博物館になってるこの家から東に約250mという近距離のマシューク山の南側に、
レールモントフが死ぬ10年ほど前にジュゼッペ&ジョヴァンニのベルナルダッツィ兄弟によって設計された
Эолова Арфа(エオローヴァ・アルファ=エオリアン・ハープ)という建造物が聳える。
エオリアン・ハープとは、元来は自然の風で音が鳴る、木箱に弦を張った楽器である。が、
愛下ろす、というよりは山頂から麓に風を吹き下ろす神が、
このピャチゴールスクのエオリアン・ハープの音を引き起こすかどうかは、
狆とチワワの区別がつかない拙脳なる私が知るはずもない。ともあれ、
レールモントフ博物館から北に3kmほどのマシューク山の麓が、
決闘の、つまりレールモントフの死の場所である。

さて、
レールモントフが死の前年、チャイコフスキーが生まれた1840年に書いた小説
"Герой нашего времени(邦題=現代の英雄)"
(ギローィ=主人公・ナーシェヴァ=我々の・ブリェーミニ=時代の→我らが世代の主役)
は、5部から成ってる。そして、
前2部はマクスィーム・マクスィームィチから主人公ペチョーリンの話を聞いた「私」が語り手であり、
後3部はマクスィーム・マクスィームィチが亡きペチョーリンからあずかった日記
つまり「ペチョーリン」が語り手である、
という粋な構成を採ってる。ともかく、
このペチョーリンという主人公は、「余計者」である。それはまさしく、
レールモントフ自身を映す鏡である。が、それはまた、
専横を憎む正義感を持つ複合された反社会性人格障害者だった
レールモントフとはまた違う人格である。
ペチョーリンには実は救いがある。が、レールモントフにはない。常に、
「英雄」=ナポレオンに憧れながら、
まったく正反対の惨めな生活に甘んじなければならなかった。
いろいろな女性と関係を持ちながら本当に惚れてた女性は
諦めなければならなかった。
ナポレオンも結局は失脚してはかない最期を遂げるのであるが、
それまでの過程では「英雄」である。
自分を活かす場もあり、何でも手に入れた。が、
レールモントフにはエリート社会の中で何もなかった。
政治面で叶わないならせめて文学面でプーシキンになりたかった。が、
それがまた自身の名声とともに立場を危うくした。
自分にはナポレオンやプーシキンのような才能があるのに、
あだ花でいなければならなかった。それはほとんど、
ベイブ・ルースがグラウンズ・キーパー(いわゆるグランドキーパー)としてのみ、
伊良部秀輝が饂飩屋としてのみ、白球ではなく
薄給で雇われてるようなものである。
屈辱以外の何ものでもない。
自滅への道しかなかったのである。

ともあれ、
「現代の英雄」の主人公のПечорин(ペチョーリン)という名は意味深である。
ロシア語でпещера(ピシシェーラ)、ウクライナ語でпечера(ペチョーラ)とは
「洞窟」のことである。洞窟とは隠棲者の棲家である。また、同源の語に、
"печать(ピチャーチ=刻印)"や"печь(ピェーチ=焼く)"
がある。печьからは数字の5を意味するпять(ピャーチ)が
すぐさまに連想される。レールモントフ終焉の町である
"Пятигорск(ピャチゴールスク)"という町は、
「5つの山の町」という意味である。それはともかく、
"печать(ピチャーチ=刻印)"というと、
レールモントフをガチで憎んでたニコライ1世の父アレクサンドル1世が容認してた
"скопцы(スコープツィ=去勢派)"というカルト宗教団体が信条としてた
「諸悪の根源は肉欲」という大義のもとに信者に行ってた
"печать(ピチャーチ=刻印)"が想起される。それは、
文字どおり「焼いて熱せられた鉄棒」で
乳首に傷をつける「刻印」から、それを切除する「小刻印」、さらには、
乳房まで切除してしまう「大刻印」、そして、
陰核切除が「小刻印」、小陰唇切除が「大刻印」となり、いっぽう、男性は、
睾丸切除の「小刻印」、陰茎まで切除の「大刻印」と、
ニューハーフ志望者ならいざ知らず、カルト教団にありがちな
狂信的な行為を特徴としてた。ちなみに、
この宗派はドストエフスキーの「罪と罰」の主人公
ラスコーリニコフ(分離派を意味する名)に示された
「分離派」に分類される異端である。

ペチョーリンの名にはレールモニトフ自身の「心に刻まれた異端」、そして
直系の子孫を残せない「敗北者」の意図がこめられてるのである。
レールモントフが3歳のときに母親は死んだ。顔も知らないまま。
そして、その母の名は"Мария(マリーヤ)"。マリアさま、である。
レオナルド・ダ・ヴィンチの「岩窟の聖母」が想起される。
マリアさまは原罪(=性交)を犯さずにイエスを孕んだ。
2歳以下の幼児を殺す命をヘロデ王が下したため、
マリアさまはイエスを抱えて岩窟に身を隠した。よって、
「岩窟」はまた「聖なる場所=神殿」でもある。ウクライナの首都キエフの
"Печерська лавра"
(ペチェールシカ・ラーヴラ=ペチェールシク大修道院)には地下墓地がある。
そこがその修道院の起源だった。ために、
「洞窟大修道院」という名前なのである。
レールモントフを撃った男、
Николай Соломонович Мартынов
(ニカラーィ・サラモーナヴィチ・マルティーナフ、1815―1875)
は、実はレールモントフの茶番劇に付き合っただけだとか、
決闘は仕組まれた陰謀で木陰に隠れてた者が撃ったとか、いろいろな話が
持ち出されたが、軍事裁判にかけられ禁固3箇月を言い渡された。
出所後、キエフのペチェールシク大修道院で悔い改めることを義務づけられた。

ところで、
ニコライ1世はクリミア戦争中さなかの1855年にインフルエンザで死んだ。とされてる。が、
ベイブ・ルースや伊良部よりもデカい2.05mのこの巨漢ツァーリは、
兵力では圧倒的に上回るロシアの思わしくない戦況に悲観して
自殺したというのが真相らしい。ちなみに、
"собака(犬)"の複数形(主格)は"собаки(サバーキ)"という。
いかなる裁きがニコライに下ったのかは、宗教を信じず神などいないと考える
拙脳なる私には知る由もないが、ニコライにとって、
クリミア戦争の失敗は耐え難い屈辱だったに違いない。
"Баке, бачья смерть!"
ちなみに、
政治犯ドストエフスキーは死刑の判決を下され、
銃殺執行のほんの寸前でシベリア流刑に減刑というニコライの勅命をもらった。
シベリアから帰還後にはドストエフスキーは政治闘争という毒気は抜かれてて、
宗教と暴力と殺人を扱う小説を書くことが生きる目標となり、
二度めの結婚をしてニ女ニ男をもうけもするという凡人ぶりだった。
いっぽう、
プーシキンになりたかった男レールモントフは狙撃者が誰であれ、
シキン距離から撃たれて死んだ。
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「雷雨の中のレールモントフ惨死/プーシキンになりたかった男(その壱)」

2011年07月27日 00時51分58秒 | 事実は小説より日記なりや?
♪ゲェーーッ、ゲェーーッ、ゲェーッゲ、ゲェーッの、ゲェーーッ……
 ノルウェーにゃーーっ、しーけいも、しゅーしんけいも、ナイっ♪
という法に対して犯人は、
♪ありがとおぉーーーーーってつ、たーえーたーくーてぇー♪
オスロで爆破およびウトヤ島で銃乱射事件を起こしたかどうかは、
事故車両を土中に埋めて即運転を再開してしまう中国共産党の神経と、
北朝鮮と"連携して"日本の政治を行なってる菅直人以下
なりすまし日本人民主党員の性根とでは、
どちらがあくどいか判別がつかない拙脳なる私には判るはずもない。
日本を貶めるのが目的の民主党が政権を握って以降、
法務大臣には北朝鮮のシンパを就けてきた。そして、
自身の延命を図るために、頭の弱い反原発市民を煽って、
反原発に世間の目をそらす作戦を採ってきた。
今度はあのオウム真理教の理論の支柱である中沢新一のオトモダチである
左翼半日活動家坂本龍一に週刊文春が反原発の記事を書かせた。
自動車には乗らず電車を利用して省エネしてるそうで、
ごたいそうなことである。それなら、電気を使う
レコーディングもやらないほうがいい。ちなみに、
地対地ミサイルを日本に向けてるのは、
ロシア、中国、北朝鮮であり、
艦対地ミサイルでただちに日本を狙える国は、
上記の他にアメリカ、イギリス、フランス、南朝鮮(韓国)である。

7月27日は現行暦換算、いわゆる
ミハイル・ユーリエヴィチ・レールモントフ
(Михаил Юрьевич Лермонтов
=ミハイール・ユーリイヴィチ・リェールマンタフ、1814-1841)の命日である。
マリリン・モンロウ(1926-1962)同様に、生年と没年の下二桁の数字が
置き換えられた形になってる人物である。現在、
日本でほとんど顧みられないロシアの詩人・作家である。ただ、
浅田真央女史がまだ全盛だった頃に
ハチャトゥリャンの劇音楽組曲「仮面舞踏会」のヴァルスを用いたが、その
戯曲"Маскарад(マスカラート、1835-36)"の
「原作者」として一般にもわずかに知られてるだけである。
チャイコフスキーも歌曲においては
レールモントフにはただ1篇にのみ曲をつけただけである。
それはチャイコフスキーの歌曲の傑作の宝庫、弟アナトーリーに献呈された、
「6つのロマンス(op.38)」(1878年作曲)の第5曲、
"Любовь Мертвеца(リュボーフィ・ミィルトヴィェーツァ=死者の愛)"
であるが、この曲自体は凡庸である。ちなみに、
この詩はレールモントフ最後の年に書かれたものである。ともあれ、
レールモントフは退役陸軍大尉を父にモスクワで生まれた。
ロシアの貴族の多く同様に外国人の家系で、
Learmonthというサーネイムを持つスコットランド人を父方の祖先に持つ、
小領主の軍人貴族である。いっぽう、
母方はアルスィェーニエフ家という広大な領地を持つ地主貴族である。
レールモントフには帝政ロシア末期の首相を排出することになる名門貴族
ストルィーピン(いわゆるストルイピン)家の血も入ってる(母の母の父)。
レールモントフが3歳のときに母親が21歳で結核のために死んだ。
母の母(エリザヴィェータ・アリクスェーエヴナ・ストルィーピナ→アルスィェーニエヴァ)が
レールモントフを引き取ることになる。
エリザヴィェータと仲がよくなかった父はひとり、
自分の領地に行ってしまう。つまり、
レールモントフは母も、そして父の愛情も知らないで、
祖母のもとで育てられた典型的なおばあちゃん子である。

1828年、14歳になる年にモスクワ大附属のペンション(寄宿学校)に編入して、
1830年、16歳になる年にモスクワ大の政治学部に入り、やがて文学部に移る。が、
1831年、17歳になる年に祖母と常に対立してた父が心臓発作で死ぬ。
1832年、18歳になる年に教授と諍い、退学する。そして、近衛士官学校に入学。
1834年、20歳になる年に卒業して少尉任官。近衛兵としてツァールスコエ・セロー勤務。
博打、酒、女、という放蕩生活の中に置かれる。いっぽうで、
詩作にも力を注ぐ。
1835年、21歳になる年、5年前の16歳の大学生だったときに恋して傷つけられた
Екатерина Александровна Сушкова
(エカチェリーナ・アリクサーンドラヴナ・スーシカヴァ、1812-1868)が、
本当に好きだった女性ヴァーレニカの兄と婚約したことを知る。
自尊心を傷つけられた復讐をするために、エカチェリーナに言い寄り、
その気にさせてモノにする。そして、その"尻軽女ぶり"の事実を
エカチェリーナの家に匿名で送りつける。が、
当然にレールモントフの仕業とバレ、出入り禁止に。
エカチェリーナはペテルブルクを去る(後年、回想録を執筆)。いっぽう、
レールモントフの最愛の女性ヴァーレニカすなわち、
Варвара Александровна Лопухина
(ヴァルヴァーラ・アリクサーンドラヴナ・ラプーヒナ、1815-1851、彼女も
生年と没年の西暦の下二桁の数字が置き換わった例)は、
17歳も年上の裕福な地主オヤジと結婚してしまう。

ここらへんの事情は、プーシキンの韻文小説、いわゆる
「エヴゲニー・オネーギン」における、友人レンスキーの恋人オーリガに対する
"ちょっかい"や、その姉タチヤーナの公爵との結婚、などを
なぞってるのである。まるで、
プーシキンが描いた作品の中の主役
=オネーギン
=ペチョーリン
=我らが時代の主人公
=Герой нашего времени
(ギローィ・ナーシェヴァ・ヴリェーメニ)
を自らが現実の中で演じみせてるかのようである。ともあれ、
この騒動の年の暮、
戯曲「仮面舞踏会」を完成させる。そして、
1837年、23歳になる年、プーシキンが謀られた決闘で死ぬと、
"Смерть поэта(スミェールチ・パエータ=詩人の死)"
という詩を書いて宮廷を非難し、一躍、時代の寵児となった。が、
それは同時に、プーシキン以上の"厄介者"として
ツァーリ「ニコライ1世」の不興を招くことになったのである。
逮捕され調査されたのち、ツァーリ自らの命令で最前線送りにされる。
この後、名門貴族の祖母らの尽力で最前線からリトアニアに転属となる。
次いで、ツァーリ自らの命によって近衛兵として復帰させられる。
その直後、外国に旅立つ最愛の女性ヴァーレニカと最後の再会をする。
1839年大晦日、25歳のとき、新年仮面舞踏会で、
ツァーリの長女と次女に対して不敬な言葉を吐き、
それが憲兵隊長に告げ口されツァーリに伝えられる。
1840年、26歳になる年、フランス公使の息子と決闘し、逮捕される。
これが決定的になってツァーリの怒りは限界を超える。
ツァーリの意向で、最前線中の最前線であるカフカースに送られる。
そこで「現代の英雄」を執筆しながら、
ロシアに対する憎しみが半端でない強敵チェチェンを相手に
手柄をあげ、昇進までするのである。そして、
またしても祖母の働きかけで年末に2箇月の休暇を与えられる。
そして、最後の年である1841年、27歳になるはずだった年、
モスクワ、そしてペテルブルグに戻る。
舞踏会に足を運ぶ。

執筆活動に専念すべく除隊を希望するも、却下。
4月、参謀本部に召還。任地へのすみやかなる帰還命令を受ける。
ペテルブルクを発つも、途中で寄り道。北カフカースの湯治場
ピャチゴールスクで古傷の治療と称して帰還を遅らせる。が、6月、
「いかなる理由があろうとも、レールモントフを最前線に就かせること」
と参謀本部からカフカースの軍事司令部に命令が下る。
7月、ピャチゴールスクで近衛士官学校の級友と口論、決闘を挑まれ、受ける。
7月15日(現行暦7月27日)夕、マシューク山麓で短銃による決闘が行われる。
レールモントフは決闘を申し込まれた側の権利として、
先に発砲する権利があった。が、
フランス公使の息子とのときと同様に、天に向けて発砲。
相手はそのあとレールモントフにしかと狙いを定めた。
弾はレールモントフの心臓を撃ち抜く。即死だった。当日は、
激しい雷鳴が轟いてて、介添人をはじめとする立会人はみな、
レールモントフの死体を置き去りにして逃げてしまった。
夜になってからやっと死体は運ばれた。が、
ツァーリを恐れたピャチゴールスクの教会は、
レールモントフの葬儀を執り行うことを拒否した。
こうして、レールモントフは26歳の生涯を終えた。が、
それはレールモントフが望んだことだったにちがいない。
仕組まれた決闘で殺されたプーシキンになりたかったのである。
母親を知らず、父と祖母の諍いの中で幼少期を過ごした多感な男は、
「余計者」「はみだし者」として消えるしか他に
選択肢はなかったのである。他に選択肢があったのに、
北朝鮮や中国、ロシアに国を売る輩に投票した
バカな日本人も同様の運命を辿るにちがいない。
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