1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

5月21日・アンリ・ルソーの個性

2018-05-21 | 美術
5月21日は、物理学者、アンドレイ・サハロフが生まれた日(1921年)だが、画家のアンリ・ルソーの誕生日でもある。

アンリ・ジュリアン・フェリックス・ルソーは、1844年、仏国マイエンヌのラヴァルで生まれた。父親は配管工で、貧しかったため、家計を助けるためにアンリは子どものころから働かされた。高校生だったとき、父親は負債を負い、家を差し押さえられ、両親は立ち退く羽目になり、アンリは途中から寄宿生となって高校に通った。
弁護士事務所勤務、4年間の軍隊勤務などをへて、彼は27歳のとき、パリ市の物品税徴収係となった。以後ずっと税関に職員として勤めながら、日曜画家として絵画を描いては展示会に出品した。
49歳のとき、税関を退職して、絵に専念。「飢えたライオン」「眠るジプシー女」「蛇使いの女」「夢」などの傑作は退職後に描かれたものである。
1910年9月、肺炎のため、パリで没した。66歳だった。

ニューヨークのMoMA(ニューヨーク近代美術館)に、アンリ・ルソーの「眠るジプシー女」がある。ニューヨークへ行くたびにじっと見る。
おそらくかなりの日本人が目にしたことのある絵柄だろうけれど、夜の荒野に、肌の黒いジプシー女が眠っている。女のかたわらにはマンドリンのような弦楽器が置かれてある。大きなおすのライオンが女の上に鼻先を寄せて、女の匂いをかいでいる。夜空には白い月が浮かんでいる。という構図で、女もライオンも、布でこしらえた人形のようで、なんとも言えない童話的な味わいがある。

ピカソやアポリネールは認めていたが、アンリ・ルソーが生前はあまり評価されていなかったのは不思議である。
一目瞭然の、圧倒的な存在感と魅力。
個性とは、こういうものだ。
こういうものがほしい。
(2018年5月21日)


●おすすめの電子書籍!

『芸術家たちの生涯----美の在り方、創り方』(ぱぴろう)
古今東西の大芸術家、三一人の人生を検証する芸術家人物評伝。彼らの創造の秘密に迫り、美の鑑賞法を解説する美術評論集。会田誠、ウォーホル、ダリ、志功、シャガール、ピカソ、松園、ゴッホ、モネ、レンブラント、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチまで。芸術眼がぐっと深まる「読む美術史」。


●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.com

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5月20日・J・S・ミルの理想

2018-05-20 | 思想
5月20日は、文豪オノレ・ド・バルザックが生まれた日(1799年)だが、経済学者で思想家のジョン・スチュアート・ミルの誕生日でもある。

ジョン・スチュアート・ミルは、1806年、英国イングランドのロンドンで生まれた。父親は哲学者、経済学者のジェームズ・ミルで、父親は息子のジョンを学校に通わせず、自宅で教育した。ジョンは、3歳でギリシャ語、8歳でラテン語、11歳でローマ法史を学んだ。
彼は17歳で、父親が勤める東インド会社に入社し、以後35年間同社に勤めた。会社勤めをしながら、『論理学体系』『経済学原理』などを書いた。
プライベートでは、彼は20歳のころ、うつ状態におちいり、数年間そのままだったが、夫と子をもつ人妻だったハリエット・テイラーと出会い、うつ状態から脱出した。ミルはテイラー夫人と友人として交際をつづけ、夫人の夫が死んだ後、ミルが45歳のときに二人は結婚した。
東インド会社を退社後、ミルは選挙に出て一期だけ下院議員議員を務めたが、二期目に落選した後は著作に専念し『自由論』『功利主義』『自伝』などを書いた。
東インド会社時代、大学からの誘いを断りつづけていたミルは、59歳のとき、セント・アンドルーズ大学の学長を引き受けた。
1873年5月、滞在先のフランスのアヴィニョンで感染症により没した。66歳だった。

功利主義哲学者J・S・ミルは知能指数190だったと言われる。
彼は、父親の友人だったベンサムの、
「正邪の尺度は、最大多数の最大幸福である」
という功利主義を、発展させ、修正を加えた人である。ベンサムの「量」の理屈だと、
「大勢が幸福になるのなら、少数の者はそのために犠牲になってもかまわない」
ということになるが、ミルはそこに「幸福の質」を加えた。そして、
「おのれの欲するところを人にほどこし、おのれのごとく隣人を愛せよ」
という道徳律を提唱した。理想主義的な思想家だった。

「人間の能力は、知覚、判断力、識別感覚、知的活動、さらには道徳的な評価さえも、何かを選ぶことによってのみ発揮される。何事もそれが習慣だからという理由で行う人は、何も選ばない。最善のものを識別することにも、希求することにも習熟しない。知性や特性は、筋力と同じで、使うことによってしか鍛えられない……世間や身近な人びとに自分の人生の計画を選んでもらう者は、猿のような物真似の能力があれば、それ以上の能力は必要ない。」(山岡洋一訳『自由論』光文社)

「満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよく、満足した馬鹿であるより不満足なソクラテスであるほうがよい。」(井原吉之助訳『功利主義論』『世界の名著38 ベンサム J.S.ミル』中央公論社)
こうした文章を高校生のときに読み、やせ我慢でもソクラテスでありたいと志を立てたが、人生は時の流れに流され、それていく。
(2018年5月20日)


●おすすめの電子書籍!

『思想家たちの生と生の解釈』(金原義明)
「生」の実像に迫る哲学評論。ブッダ、カント、ニーチェ、ウィトゲンシュタイン、フーコー、スウェーデンボルグ、シュタイナー、クリシュナムルティ、ブローデル、丸山眞男など大思想家たちの人生と思想を検証。生、死、霊魂、世界、存在について考察。わたしたちはなぜ生きているのか。生きることに意味はあるのか。人生の根本問題をさぐる究極の思想書。


●電子書籍は明鏡舎。
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5月19日・マルコムXの看破

2018-05-19 | 歴史と人生
5月19日は、ベトナムの革命家ホー・チ・ミンが生まれた日(1890年)だが、黒人活動家マルコムXの誕生日でもある。

マルコムXは、1925年、米国ネブラスカ州オマハで生まれた。出生時の名はマルコム・リトル。父親はバプテスト(浸礼派)の牧師だったが、地域のKKK(クー・クラックス・クラン、白人至上主義の秘密結社)の標的にされた。マルコムが6歳のとき、父親は何者かにリンチを受け、頭が変形するほど殴られ、鉄道レールの上に放置され、車輪によって三つに切断された遺体となって発見された。これを警察は自殺として処理した。
マルコムの母親は精神病を発症し、精神病院に収容され、マルコムたち9人の子どもは里子に出された。マルコムは白人の上流家庭に引き取られたが、つねに人種差別がつきまとった。成績優秀だったマルコムは弁護士志望だったが、学校教師は彼に、黒人はどんなに努力しても無駄だから、あきらめて、大工を目指したほうがいいと諭した。
マルコムは高校を中退し、ボストンへ行き、靴磨などをした後、ニューヨークへ移り、ギャングになった。賭博、麻薬、売春、強盗を繰り返し、20歳のときに窃盗罪で逮捕された。
白人女性と性的関係をもっていたために、通常の5倍の懲役刑を宣告されたマルコムは、服役中に「ネイション・オブ・イスラム」に改宗。27歳で釈放されると、彼は同教団の広報係となり「マルコムX」と改名した。キング牧師の非暴力主義で人種差別に立ち向かおうという姿勢とは対照的に、抵抗と戦闘をあおる過激な発言でたちまち有名になった。
37歳のとき、教団の指導者が少女を強姦し、子どもを産ませていた事実を知り、これを告発したマルコムは教団から命をねらわれるようになった。
39歳になる年、マルコムはイスラムの聖地メッカへ巡礼の旅に出、帰国後、教団を脱退したマルコムは、アフリカ系アメリカ人統一機構を立ち上げ、
「アフリカへ帰れ」
と黒人たちに訴えるようになった。
もといた教団からの脅迫電話がひっきりなしにかかってきて、マルコムは、つねに護衛を連れて歩いた。
1965年2月には、マルコムの自宅に爆弾を仕掛けられた。幸い彼と彼の家族は無事だったが、爆発の一週間後、ニューヨーク市マンハッタンで舞踏場で演説中、聴衆にまぎれてい
た3人の暗殺者に銃の乱射を受け、没した。39歳だった。
この暗殺には、CIAやFBIも加担していたとする説も存在する。

スパイク・リー監督の映画「マルコムX」は、ショッキングだった。緊迫した状況が積み重ねられ、アメリカ合衆国という巨大な帝国の組織体制に、無情に押しつぶされていくマルコムXの姿が鮮やかに浮かび上がる映画だった。

暗殺される1年ほど前、マルコムXは「投票権(ballot)か弾丸(bullet)か」と訴えた。
「白人の精神を変えようとするな。そいつは無理だ。アメリカの意識は破綻している。とうの昔にアメリカは道徳意識を失っている。アンクル・サム(合衆国政府のこと)にそんな意識はない。」(荒このみ訳「投票権か弾丸か」『アメリカの黒人演説集』岩波文庫)
「白人」「アメリカ」を「自民党」「官僚」に置き換えると、理解しやすい。「王様は裸だ」と公言した少年が無事でいられるのは、ファンタジーのなかだけのようだ。
(2018年5月19日)


●おすすめの電子書籍!

『コミュニティー 世界の共同生活体』(金原義明)
ドキュメント。ツイン・オークス、ガナス、ヨーガヴィル、ロス・オルコネスなど、世界各国にある共同生活体「コミュニティー」を実際に訪ねた経験をもとに、その仕組みと生活ぶりを具体的に紹介する海外コミュニティー探訪記。

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5月18日・フランク・キャプラのドラマ

2018-05-18 | 映画
5月18日は、哲学者バートランド・ラッセルが生まれた日(1872年)だが、映画監督フランク・キャプラの誕生日でもある。

フランク・キャプラは、1897年、イタリアのシチリア島で生まれた。誕生時の名はフランシスコ・ロサリオ・キャプラ。生家は果樹園を経営していて、フランクは7人きょうだいのいちばん末っ子だった。生活が苦しく、彼が5歳のとき一家は米国へ渡った。移民船がニューヨークに近づいたころ、あたりは暗かった。船が自由の女神像の前を通りかかると、父親は女神が掲げたたいまつの光を見上げ、フランクに言ったという。
「あれは自由の灯だ。よく覚えておくんだよ。自由だ。(That's the light of freedom! Remember that. Freedom.)」
米国に入国した一家は、大陸を横断して、西海岸のロサンゼルスに住みついた。父親はオレンジ畑で働き、フランクも子どものときから新聞売りをして家計を助けた。父親の希望で、フランクは工業のカレッジに進んだ。酒場のバンジョー弾きなどさまざまなアルバイトをしながら苦学してカレッジを卒業した。
卒業後間もない21歳のとき、徴兵され陸軍に入った。彼が従軍中に、父親が没した。
インフルエンザにかかり除隊したフランクは、23歳のとき、米国に帰化し、フランク・ラッセル・キャプラとなった。
除隊後は、家に帰った。すると、きょうだいのなかで唯一カレッジを出ていて、かつ、唯一定職についていないのがフランクだった。
彼は家を出て、サンフランシスコへ行き、農場で働いたり、映画のエキストラをしたり、ポーカーゲームをしたり、本のセールスをしたりして生活費を稼いだ。
そうして生活に窮しかけたとき、新聞でサンフランシスコに新しい映画の撮影所がオープンするという記事を見かけた。キャプラは撮影所に電話をかけ、ハリウッドからやってきた者だが、と自分を売り込んだ。キャプラの映画経歴などないに等しかったが、撮影所側は彼に興味を示し、フィルム1巻のドキュメント映画を撮るよう彼に依頼した。キャプラは素人のキャストでそれを2日間で撮り上げた。
それを出発点に、キャプラは映画の助監督、脚本家をへて、映画監督となった。
「或る夜の出来事」「オペラハット」「我が家の楽園」の3作ではアカデミー監督賞を受賞し、そのほか「スミス都へ行く」「素晴らしき哉、人生!」など、アメリカン・ドリームとヒューマニズムを盛った心温まる良心的な作品を撮り、ハリウッドを代表する監督となった。
1991年9月、心不全のため、カリフォルニア州で没した。94歳だった。

キャプラの作品では、クラーク・ゲーブルとクローデット・コルベールが主演した恋愛コメディ「或る夜の出来事」がいちばんよく知られているかもしれない。アカデミー賞の主要部門を独占したこの映画は、コルベールがヒッチハイクするクルマを止めるために、スカートの裾を上げて脚を見せるシーンが有名である。

キャプラ作品によく登場する女優ジーン・アーサーが好きで、キャプラ作品はけっこう観ている。
新大陸に希望を夢見て渡ってきたイタリア系移民の子どもは、自由の女神に迎えられ、ふと見かけた新聞記事にチャンスをつかみ、成功をつかんだ。キャプラの撮った映画より、キャプラ自身の人生のほうがずっとドラマティックである。
(2018年5月18日)



●おすすめの電子書籍!

『映画監督論』(金原義明)
古今東西の映画監督30人の生涯とその作品を論じた映画人物評論集。監督論。人と作品による映画史。チャップリン、溝口健二、ディズニー、黒澤明、パゾリーニ、ゴダール、トリュフォー、宮崎駿、北野武、黒沢清などなど。百年間の映画史を総括する知的追求。

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5月17日・エリック・サティの家具

2018-05-17 | 音楽
5月17日は、アイルランドの音楽家、エンヤが生まれた日(1961年)だが、作曲家エリック・サティの誕生日でもある。

エリック・サティは、1866年、仏国の英仏海峡に面した街オンフルールで生まれた。父親は海運業を営んでいた。母親は英国生まれのスコットランド人だった。
エリックが4歳のころ、父親は事業をたたみ、一家はパリへ引っ越した。父親はパリで役所の翻訳仕事をした。エリックが6歳のとき、母親が没し、エリックは弟とともに、オンフルールの祖父のもとに預けられた。そして6年後にパリの父親のもとへもどった。
13歳でパリ音楽院に入学したエリックは、20歳のとき音楽院を退学し、酒場のピアノ弾きになった。
22歳のとき、ピアノ曲「3つのジムノペディ」を作曲。
24歳のとき、秘密結社「薔薇十字団」の創始者と出会い、入団。ピアノ曲「薔薇十字教団の最初の思想」「バラ十字教団のファンファーレ」などを作曲した。
29歳のころピアノ曲「ヴェクサシオン」を作曲。
48歳のころ、ふたまわり年下のジャン・コクトーと知り合い、彼らは画家のパブロ・ピカソを加えて、脚本コクトー、美術・衣裳ピカソ、音楽サティというトリオを組み、前衛バレエ劇「パラード」を作った。上演すると、非難ごうごうだった。
ラヴェル、ドビュッシーに強い影響を与えたサティは「貧しき者の夢想」「(犬のための)ぶよぶよした前奏曲」「自動記述法」「気むずかしい気取り屋の3つの高雅なワルツ」「官僚的なソナチネ」「不愉快な概要」など、変わった題名の曲を多く発表した後、1925年7月、肝硬変のため、入院先のパリの病院で没した。59歳だった。

サティは演奏会用の楽曲を作る一方で、「家具の音楽」ということを提唱した人でもあった。家具のように、日常にふつうに存在していて邪魔にならない音楽ということで、これは後のブライアン・イーノの環境音楽に通じる。

サティの「ヴェクサシオン」は「嫌がらせ」「しゃくの種」という意味で、1分程度の部分を840回繰り返すという指示が付いていて、世界一長い曲とされる。
こういう曲がめったにコンサートホールで演奏されないのは当たり前で、はじめて「ヴェクサシオン」が演奏されたのは、サティが没して約40年後、沈黙の音楽「4分33秒」の作曲家ジョン・ケージによってだった。演奏に18時間40分かかった。
でも、ジョン・ケージは演奏すると約639年かかる「ASLSP(As SLow aS Possible)」を発表していて、さらに、ショパンのマズルカのなかにも永遠に繰り返す楽曲があって、永久に終わらない曲もあるというから、上には上があるものだ(サティも、永遠に繰り返す曲を書いている)。

サティはこう言った。
「肝腎なのはレジオン・ドヌール勲章を拒絶することではないんだよ。なんとしても勲章など受けるような仕事をしないでいることが必要なんだ。」(曽根元吉訳「サティ万歳」『ジャン・コクトー全集第四巻』東京創元社)
この思想は、現代の資本主義社会の思想ともっとも遠いところにある、現代人が黙して傾聴するべき命題である。
(2018年5月17日)


●おすすめの電子書籍!

『大音楽家たちの生涯』(原鏡介)
古今東西の大音楽家たちの生涯、作品を検証する人物評伝。彼らがどんな生を送り、いかにして作品を創造したかに迫る。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパンから、シェーンベルク、カラヤン、ジョン・ケージ、小澤征爾、中村紘子まで。音の美的感覚を広げるクラシック音楽史。


●電子書籍は明鏡舎。
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5月16日・溝口健二の作法

2018-05-16 | 映画
5月16日は、ロックミュージシャン、ロバート・フリップが生まれた日(1946年)だが、世界的巨匠の映画監督、溝口健二の誕生日でもある。

溝口健二は、1898年、東京の浅草で生まれた。父親は職人で大工だった。健二は3人きょうだいのまん中で、姉と弟がいた。健二が5歳のとき、日露戦争がはじまり、父親は戦争需要をあてこんで軍用の雨合羽を作りだしたが、戦争が終わり、あてがはずれて破産。家は競売に出され、姉は養女に出され芸妓になった。
健二は小学校のとき、岩手、盛岡の親戚に預けられて転向していった。
小学校を卒業後、彼は15歳で浴衣の図案屋に奉公に出た。
その後、姉からの援助を得て、洋画の学校に通ったり、新聞社の広告部で働いたり、演劇や映画びたりの日々をへて、映画俳優と知り合い、そのつてで22歳のとき、映画会社に助監督として入社。
24歳で監督に昇進し「愛に甦る日」で監督デビュー。以後「唐人お吉」「瀧の白糸」「武蔵野夫人」を発表。
54歳のとき、ヴェネツィア国際映画祭に出品した「西鶴一代女」で国際賞を受賞。
55歳のとき「雨月物語」で同映画祭サンマルコ銀獅子賞を受賞。
さらに56歳のとき、「山椒大夫」でも同サンマルコ銀獅子賞を受賞。と、ヴェネツィアで3年連続入賞という快挙を成し遂げた。
世界的巨匠となった溝口は「祇園囃子」「赤線地帯」などを発表した後、1956年8月、白血病のため、京都で没した。58歳だった。

溝口の「瀧の白糸」「西鶴一代女」「雨月物語」「祇園囃子」などを観た。

溝口健二は撮影現場では暴君のように君臨し、スタッフや俳優たちに罵声を浴びせて威張っていたらしい。溝口作品によく出演した女優、田中絹代によれば、溝口は仕事場では大監督だったが、すべてを映画に注ぎ込む生き方をしたため、プライベートではユーモアに欠け、日常はおもしろくない人だったという。

溝口映画の特徴的な手法は長まわしで、カットの声をなかなかかけず、ずーっとカメラをまわしつづけて長いシーンを撮っていく。それで「演技は俳優の領分」だとして、俳優には演技上の助言はいっさいせず、演技者まかせにした。それで独特の雰囲気と緊張感のある映像ができあがった。
クロード・ルルーシュ監督も、せりふを俳優まかせにして、遠く離れたところから望遠レンズを向けるという独特の撮り方をするけれど、それにも通じる。

ジャン=リュック・ゴダール監督も、ローリング・ストーンズによる「悪魔を憐れむ歌」のレコーディング風景を撮った際、ゴダールはカット割りをほとんどせず、録音スタジオ内を舐めまわすようにずーっとカメラをまわし続けて、或る異様な雰囲気の映像を作っていた。
実際、ゴダールは、溝口の墓参りをするほどの大の溝口ファンで、
「好きな映画監督を3人あげると?」という質問にこう答えた。
「ミゾグチ、ミゾグチ、ミゾグチ」
(2018年5月16日)


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5月15日・ジャスパー・ジョーンズの題材

2018-05-15 | 美術
5月15日は、俳人の西東三鬼が生まれた日(1900年)だが、芸術家ジャスパー・ジョーンズの誕生日でもある。

ジャスパー・ジョーンズ・ジュニアは、1930年、米国ジョージア州のオーガスタで生まれた。幼いころに両親が離婚し、ジャスパーはサウスカロライナ州にいる父方の祖母やおば、あるいは母親の家を転々としながら育った。サウスカロライナ大学で1年半ほど学んだ後、19歳のとき、彼はニューヨークに出てデザイン学校に入った。
当時は戦後間もないころで、米国にはまだ徴兵制度があった。ジャスパー・ジョーンズは徴兵され、折しも朝鮮戦争が勃発したため、極東に配置された。22歳から23歳までのころ、彼は兵士として日本の仙台に駐屯していたという。
除隊し、ニューヨークへもどってきたジョーンズは、同じビルに住む芸術家のロバート・ラウシェンバーグと出会い、二人は恋人となった。ジョーンズは、ラウシェンバーグと影響を与え合うとともに、同じようにゲイだった振付師のマース・カニンガムと、無音の楽曲『4分33秒』の作曲家ジョン・ケージのカップルにも強い影響を受けた。
ジョーンズは28歳のとき、はじめてギャラリーで個展を開いた。その個展で、MoMA(ニューヨーク近代美術館)が展示作品のなかから数点を購入し、館内展示をはじめた。
一躍有名になったジャスパー・ジョーンズは、30歳のとき、ブロンズ像の上に油彩をほどこし、本物そっくりの2本の缶飲料が並んで立っている「彩色されたブロンズ像(Painted Bronze)」を発表。また、31歳のとき、米国地図を油彩でゆるい感じで描いた「地図(Map)」を発表。世界の芸術シーンに大きな影響を与え、彼に続くロイ・リキテンスタイン、アンディ・ウォーホールなどのポップ・アートの先駆的役割を果たした。

はじめて見たジャスパー・ジョーンズ作品は「旗」だった。星が48個ある合衆国の星条旗が描かれたもので、彼の作品ではもっとも有名なものだろう。線や色に独特のゆるさがあって、不思議なおかしみがある。あれはエンカウスティークという古代の絵画技法で、ロウや樹脂を混ぜた顔料で描かれているらしい。

ニューヨークのMoOMAで、ジャスパー・ジョーンズの実物を見た。「旗(Flag)」「4つの顔のある的(Target with Four Faces)」「緑の的(Green Target)」「白い数字(White Numbers)」などなど。
ジャスパー・ジョーンズの作品の特徴として、取り上げた題材のおもしろさ、ということがまずある。合衆国の星条旗とか、ダーツの的とか、缶入り飲料とか、それまで芸術家が取り上げてこなかった、誰もがよく目にして知っているものを、取り上げ、それを芸術として見せ、みんなをあっと言わせた。

思えば、天下の名画、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」も、女神や天使、王女、貴族の子女のいずれでもなく、市井の無名の一女性を描いたもので、描かれた当時は題材としてはまったく新しいものだったのにちがいない。でも、誰も知らない女性だったから、題材の斬新さはほとんど評価されなかった。

ダ・ヴィンチのころに、キャンベルスープ缶とか星条旗とか、誰もが日常で目にするものがあったら、ダ・ヴィンチはそれを描いたろうか。題材の新しさ。ジャスパー・ジョーンズの提議した問題は、いろいろなことを考えさせる。
(2018年5月15日)


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5月14日・ジョン・フィールズの大西洋横断

2018-05-14 | 科学
5月14日は、社会事業家、ロバート・オーウェンが生まれた日(1771年)だが、数学者、ジョン・フィールズの誕生日でもある。数学のノーベル賞と言われる「フィールズ賞」を作った人である。

ジョン・フィールズは、1863年、カナダのオンタリオ州ハミルトンで生まれた。父親は皮製品店の経営者だった。
21歳でトロント大学を卒業したフィールズは、米国へ行き、メリーランド州ボルチモアのジョンズ・ホプキンス大学で博士号を取得した。彼は同大学で2年間教鞭をとった後、 ペンシルヴェニア州でも教えたが、北米の数学研究の状況に幻滅し、28歳のときにアメリカ大陸を離れ、ヨーロッパへ渡った。ベルリン、ゲッティンゲン、パリを歴訪し、フロベニウス、マックス・プランクなどの大数学者たちと交友をもった。
39歳のとき、乞われて母国カナダのトロント大学へもどったフィールズは、大学で教鞭をりながら、オンタリオ州(州都トロント)に働きかけて、大学への補助金を確保するとともに、研究会議や研究基金の設立をうながした。
晩年には、フィールズはすぐれた研究をした若手数学者を表彰する賞の創設を提唱し、運動していたが、その実現を見る前に、1932年8月、トロントで没した。69歳だった。

フィールズは数学者の賞ためにと遺言し、47000ドル(約470万円)の遺産を賞の基金に寄付した。これを原資として、1936年にフィールズ賞が創設されたが、初回に2人の数学者にメダルを授与した後、しばらくお休みがつづいた。その後、1950年になって、4年に一度の賞としてフィールズ賞は再創設され、40歳以下の2人から4人のすぐれた研究成果をあげた数学者に授与されるようになった。
日本の学者では、小平邦彦(1954年)、広中平祐(1970年)、森重文(1990年)の3人が受賞している。ここ20年以上、日本人の受賞者はない。

虎は死んで皮を残す。フィールズはフィールズ賞を残した。あなたは何を残せるか。

若き数学者フィールズが、北米の数学研究の状況を見渡し、がっかりしてヨーロッパへ脱出したという話には、感心させられる。
日本の若者の海外志向が衰えてきたと言われる昨今、フィールズのように、母国の状況が悲惨ならばもっといいところへ行けばいい、と自由に動く態度はまぶしい。
もちろん業種にもよるけれど、どこの場所で自分を生かすかでなく、どの分野で自分を生かすかを優先して考えるのは健康的である。ネットが進んだ現代社会では、なおさらのこと。
(2018年5月14日)


●おすすめの電子書籍!

『科学者たちの生涯 第一巻』(原鏡介)
人類の歴史を変えた大科学者たちの生涯、達成をみる人物評伝。ダ・ヴィンチ、コペルニクスから、ガロア、マックスウェル、オットーまで。知的探求と感動の人間ドラマ。


●電子書籍は明鏡舎。
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5月13日・ドーデーの草子地

2018-05-13 | 文学
5月13日は、女帝、マリア・テレジアが生まれた日(1717年)だが、作家アルフォンス・ドーデーの誕生日でもある。

アルフォンス・ドーデーは、1840年、南仏プロヴァンスの地中海に面した街ニースで生まれた。父親は絹織物を製造する事業家だった。アルフォンスが2歳のとき、二月革命が勃発し、父親の事業が倒産。彼ら一家は仏中部のリヨンへ引っ越し再起をはかった。
アルフォンスは子どものころから詩を書く文学少年だったが、彼が15歳、リセ(高校)の生徒だったとき、父親が破産。アルフォンスはリセを中退し、アレーの街の中学の代用教員になった。
教師の仕事が嫌いだった彼は、18歳のとき、教員をやめ、パリにいた兄を頼っていき、兄の部屋に居候として転がりこんだ。
パリでは詩集を自費出版し、貴族の秘書を務め、劇場上演向けの戯曲を書き、20代なかばのころには、ドーデーは新聞に短編小説を発表する作家になっていた。
29歳のとき、短編集『風車小屋便り』を発表。
30歳のとき、ビスマルク率いるプロシア(ドイツ)と、ナポレオン三世のフランスとのあいだで普仏戦争がはじまると、ドーデーは従軍。翌年、フランスの敗北で戦争は終結し、講和条約により、アルザス地方の仏系住民は追い出された。パリへ帰ったドーデーは、戦争のときの体験をもとに『月曜物語』を書いた。
1897年12月、脳出血のため、パリ郊外で没した。57歳だった。

はじめて読んだドーデーの作品は短編集『月曜物語』の冒頭の一編『最後の授業』だった。中学か高校の国語の教科書に載っていた。アルザス地方の学校で、いたずらっ子が、授業に遅れていくと、教室はいつもと様子がちがう。フランス語の教師は彼を叱らない。外からプロシア兵のラッパが聞こえる。教師は青くなり、黒板に大きく「フランスばんざい」とチョークで書き「もうおしまいだ……お帰り」と壁に頭を押しつけて動かない。最初読んだときは、なんのことやら、という感じだった。この短編に流れる情感を理解するようになったのは、何年も後のことだった。

ドーデーは大好きな作家で、一作を挙げるなら、迷わず『風車小屋だより』のなかの一編『アルルの女』をおすすめする。これはドーデーが、新婚旅行で訪ねた南仏プロヴァンスでの或る村で聞いた悲劇的な恋愛事件を小説化したもので、後にドーデーはこれを戯曲にし、それにビゼーが音楽をつけてオペラともなった有名な作品である。戯曲も読んだが、小説、戯曲と味わいがちがって、どちらもそれぞれに秀逸である。
小説は6ページほどの短い話だが、胸をしめつけられるその後味は忘れがたい。
もしも長編小説が結局スタンダールの『パルムの僧院』につきるのなら、短編小説は『アルルの女』に尽きるのかもしれない。

小説『アルルの女』中にこんなフレーズがある。
「全く、私たちの心はみじめなものだ! だが、いくら相手をけいべつしても思いきれないとはなんということであろう!」(桜田佐訳『風車小屋だより』岩波文庫)
この草子地(作品中に作者が顔を出してものをいう部分)は、いまでも頭のなかでリフレインして離れない。
(2018年5月13日)


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『世界文学の高峰たち 第二巻』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。サド、ハイネ、ボードレール、ヴェルヌ、ワイルド、ランボー、コクトー、トールキン、ヴォネガット、スティーヴン・キングなどなど三一人の文豪たちの魅力的な生きざまを振り返りつつ、文学の本質、創作の秘密をさぐる。


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5月12日・武者小路実篤の理想

2018-05-12 | 文学
5月12日は、思想家、クリシュナムルティが生まれた日(1895年)だが、作家の武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)の誕生日でもある。

武者小路実篤は、1885年、東京で生まれた。藤原家の系統をひく子爵の息子で、実篤は8番目の子だった。
小中高と学習院をへて、東京帝国大学に入学。学習院のころから文学の同志だった志賀直哉と同人誌をはじめ、東大を中退して作家を目指した。25歳のとき、志賀直哉、有島武郎らとともに同人誌「白樺」を創刊。これにより彼らは「白樺派」と呼ばれる文学一派となった。
白樺派は青年らしい理想主義の文学一派だった。当時、文壇の主流派だった自然主義の作家たちから、甘やかされたお金持ちの坊ちゃんたちの遊びとからかわれ、この矢面に立って、もっともはげしく論戦をしたのが武者小路であり、彼は白樺派の大黒柱だった。
33歳のころ、理想郷建設を目指して、九州、宮崎県の木城村に「新しき村」を建設。
54歳のとき、「新しき村」は埼玉県の毛呂山町へ移転。現在も続いている。
戦後は一時、貴族院の議員になったが、戦時中に戦争協力したとして公職追放を受けた。文化勲章を受賞した後、1976年4月、東京都の入院先で、尿毒症のため没した。90歳だった。
作品に『お目出たき人』『幸福者』『友情』『愛と死』『真理先生』などがある。

「仲良きことは美しき哉 実篤」
米国のコミュニティーの研究していた関係で、以前、つてを頼って埼玉の新しき村を訪ねた。カレーをごちそうになり、90歳すぎの古株のメンバーのお宅におじゃまして、いろいろ話を聞いた。これくらい古株の方になると、生前の武者小路をよく知っていて、その方の奥さんは、
「武者小路さんは『新しき村』を作ったのだけれど、村にお金を入れるために街で原稿を書いていて、自分は村には住めなかったのよ」
と笑っていらした。

「新しき村」は、効率だとか競争だとかいう資本主義的なことを追求しないで、働きながら余暇を大事にして、文化的なたしなみをもち、生活を楽しむという理想的な生活を作っていこう、という理想主義のコミュニティーである。実際に住人の方たちと接してみて、その教養レベルの高さに驚いた。しかも、彼らは文化的な生活を楽しみながら、世の中のためにと、できる範囲で慈善奉仕を実行していた。

外国のコミュニティーの人たちに日本のコミュニティーを紹介するとき、もっともウケがいいのが、この「新しき村」である。
亡くなったキャット(キャスリーン・キンケイド、ツイン・オークス・コミュニティーの創設者)も生前、「新しき村」の説明を聞くと、
「それはいいわねえ」と笑っていた。

武者小路実篤は、文学者という肩書きからはみ出た、姿の大きな人だった。
(2018年5月12日)


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『小説家という生き方(村上春樹から夏目漱石へ)』(金原義明)
人はいかにして小説家になるか、をさぐる画期的な作家論。村上龍、村上春樹から、団鬼六、三島由紀夫、川上宗薫、江戸川乱歩らをへて、鏡花、漱石、鴎外などの文豪まで。新しい角度から大作家たちの生き様、作品を検討。読書体験を次の次元へと誘う文芸評論。


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