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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

10月24日・松前重義の背骨

2018-10-24 | 歴史と人生
10月24日は、イタリアの芸術家、ブルーノ・ムナーリが生まれた日(1907年)だが、日本の政治家、松前重義の誕生日でもある。

松前重義は、1901年10月24日、熊本の嘉島で生まれた。細川家につかえた武士の子孫で、父親は村長、母親は医者の娘だった。
中学時代から柔道に熱中した重義は、医者になろうと考えたが、母親に医者になるのを反対され、東北帝国大学の工学部電気工学科に進み、逓信省に入省した。
逓信省の役人時代、松前はプロテスタントの内村鑑三の知己を得て、正しいと信じる道を突き進み、教育によって豊かで平和な国を作ろうという志を立てた。
逓信省の松前は、当時雑音の多かった装荷ケーブル方式の電話線を、みずから改良した無装荷ケーブルに変え、長距離電話も明瞭な音声でやりとりできるようにした。
日米開戦の直前、40歳で逓信省工務局長に就任。戦時下で、後の東海大学となる航空科学専門学校、電波科学専門学校を作った。
若いころ、米国フォード社のベルトコンベア式の工場を視察し、その生産性の高さを知っていた松前は、戦時下の日本工業の生産能力を調査し、政府が発表する数字とは雲泥の差の惨憺たる数字を得た。こんな日本には米国を敵として戦争をする能力がないと結論。米国の工業生産統計の数字を天文学的なでまかせだと言い張る東条英機首相と対立した。東条は、米国の工場でも、日本や中国と同じく管理の観念がなく工員たちが意味なく右往左往しているはずだと信じていたらしい。
松前は、日増しにデマゴーグを強めてくる東条内閣を早く倒し、戦争を終わらせなくてはと、官僚や政治家、軍人などに説いてまわった。賛同した倒閣派はみな弾圧を受けた。
松前にも尾行がつき、食事にチフス菌が盛られ、暗殺者が仕向けられたが、彼はなんとか生きぬいた。そこへ召集令状が届いた。松前は42歳の高等官。本来召集されないはずの立場で、彼はあらゆる手を尽くして召集解除の運動をしたが、東条首相の圧力に役人も軍人も逆らえず、松前は出征をまぬかれなかった。
松前は最下級の二等兵として配属され、わざわざ弾薬を積んだ船に乗せられ、玉砕必至の激戦地行きを命じられたが、機転と人徳によって彼は奇跡的に生きて帰国した。43歳のとき、敗戦の2カ月前にようやく召集解除となった。
戦後、松前は、公職追放、追放解除をへて、51歳の年に社会党から衆議院議員に当選し、政治家となった。生涯学習を奨励し、民間ラジオ放送局の立ち上げや、スポーツを通じた国際交流に尽力、ソ連のモスクワに野球スタジアム、オーストリアのウィーンに日本武道館を建設した。ロサンゼルス五輪で金メダルをとった柔道の山下泰裕は松前の愛弟子で、山下が高校生のとき彼を見出し、山下の祖父と相談の上、東海大学の相模高校に転校させたのだった。松前は1991年8月に没した。89歳だった。

海軍の試算によると、松前のように、東条英機個人の私怨を晴らすために無理な召集を受け、合法的な処刑を仕組まれた者は72名に及ぶという。

いま、日本に松前重義の生きた全体主義の時代が再現されつつある。デマゴーグと弾圧、そして合法的な処刑の時代である。集団狂気の時代である。それでも松前や彼の協力者たちのように正気を保ち、長いものに巻かれずに生きる、ブレない背骨をもちたい。
(2018年10月24日)



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