11月14日は、プロレスラーの力道山が生まれた日(1924年)だが、「光の画家」クロード・モネの誕生日でもある。
クロード・モネは、1840年、仏国パリで生まれた。父親は雑貨屋を経営していて、母親は歌手だった。誕生した翌年、洗礼を受けて、オスカル・クロード・モネとなった。
彼の家族は、クロードが5歳の年に、イギリス海峡に面した港町、ル・アーヴルへ引っ越した。16歳のころ、彼は浜辺で風景画家ウジェーヌ・ブーダンと知り合った。彼は、日の光の下で描くブーダンに油彩画の技法を教わり、大きな影響を受けた。
19歳のころ、モネはパリへ出て、美術学校に入った。
既成の描き方を墨守する美術学校の授業を嫌ったモネは、画家シャルル・グレールの生徒になり、そこで知り合ったルノワール、シスレーたちと意気投合し、光を新しい見方でとらえ、色を壊し、早い筆づかいで描く描き方に取り組んだ。
25歳のころ、モネはサロンへ作品を出品して入選したが、当時の彼の作風は写実的なものだった。その後、20代の終わりごろには落選が続き、彼はサロンへの出品をやめた。
33歳のとき、モネは、仲間のピサロ、シスレー、ルノワールなどの画家たちと共同展を開催した。ここにモネが出展したのが「印象、日の出」で、展覧会を見た批評家たちは、モネの作品のタイトルを皮肉って、酷評した。
「ここにはデッサンも構図もない。あるのはただ印象だけだ」
ここから、モネたちは「印象派」と呼ばれるようになった。
モネは、パリ郊外のアルジャントゥイユ、もっと離れたヴェトゥイユなどに住んだ後、43歳になる年に、パリの西方あるジヴェルニーに引っ越した。
40代、50代のころ、モネは各地を旅行し、滞在して絵を描いた。畑に何枚ものキャンバスを広げ、畑の積みわらに当たる日の光が刻々と移り変わっていくのをとらえ、時間帯ごとに異なる光を複数のキャンバスに描き分けた「積みわら」の連作や、また同様に、ルーアンに出かけては「ルーアン大聖堂」の連作を、英国ロンドンに出かけては「国会議事堂」の連作を完成させた。やがて世界は、モネが追求している道が、ひじょうに重要なものだと気づきはじめ、しだいにモネは現代の巨匠として仰がれるようになった。
モネは50歳前後のころから、ジヴェルニーの自宅に、柳のある日本風の庭園を作り、蓮を浮かべた池を繰り返し繰り返し描いた。白内障と闘いながら、「睡蓮」の大作を描きつづけたモネは、1926年12月、肺ガンにより没した。86歳だった。
モネの「睡蓮」の絵を間近で見ると、とても厚く、いろいろな絵の具が塗り重ねられているのがわかる。それを見ると、試行錯誤を重ねながら、ものすごい体力と精神力でもって、ひたすら完成へ向けて前進しつづけた作者の姿が、絵の向こう側に見えてくる。
20世紀の美術界には、一方に、マルセル・デュシャンのように、工業製品である便器をひっくり返して置き、
「はい、これが芸術です」
と言って見せる行き方もあったけれど、モネの道は、まったくちがうものだった。
モネの「睡蓮」に引きつけられるのは、もちろん、その絵が美しいからだけれど、同時に、肉体的労苦をともなってそこに塗られた絵の具の厚さにもよる。
(2019年11月14日)
●おすすめの電子書籍!
『芸術家たちの生涯----美の在り方、創り方』(ぱぴろう)
古今東西の大芸術家、三一人の人生を検証する芸術家人物評伝。彼らがいかにして作品を創造したかに迫り、鑑賞者はその美をどうとらえるべきか解説する美術評論集。会田誠など現代作家から、ウォーホル、岡本太郎、ダリ、棟方志功、シャガール、ピカソ、上村松園、ゴッホ、ルノワール、モネ、レンブラントをへて、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチなどルネッサンスの作家までをたどり、通読するとおのずと美の変遷史が把握される「読む美術史」。芸術作品の見方がぐっと深まる目からウロコの書。
●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.jp
クロード・モネは、1840年、仏国パリで生まれた。父親は雑貨屋を経営していて、母親は歌手だった。誕生した翌年、洗礼を受けて、オスカル・クロード・モネとなった。
彼の家族は、クロードが5歳の年に、イギリス海峡に面した港町、ル・アーヴルへ引っ越した。16歳のころ、彼は浜辺で風景画家ウジェーヌ・ブーダンと知り合った。彼は、日の光の下で描くブーダンに油彩画の技法を教わり、大きな影響を受けた。
19歳のころ、モネはパリへ出て、美術学校に入った。
既成の描き方を墨守する美術学校の授業を嫌ったモネは、画家シャルル・グレールの生徒になり、そこで知り合ったルノワール、シスレーたちと意気投合し、光を新しい見方でとらえ、色を壊し、早い筆づかいで描く描き方に取り組んだ。
25歳のころ、モネはサロンへ作品を出品して入選したが、当時の彼の作風は写実的なものだった。その後、20代の終わりごろには落選が続き、彼はサロンへの出品をやめた。
33歳のとき、モネは、仲間のピサロ、シスレー、ルノワールなどの画家たちと共同展を開催した。ここにモネが出展したのが「印象、日の出」で、展覧会を見た批評家たちは、モネの作品のタイトルを皮肉って、酷評した。
「ここにはデッサンも構図もない。あるのはただ印象だけだ」
ここから、モネたちは「印象派」と呼ばれるようになった。
モネは、パリ郊外のアルジャントゥイユ、もっと離れたヴェトゥイユなどに住んだ後、43歳になる年に、パリの西方あるジヴェルニーに引っ越した。
40代、50代のころ、モネは各地を旅行し、滞在して絵を描いた。畑に何枚ものキャンバスを広げ、畑の積みわらに当たる日の光が刻々と移り変わっていくのをとらえ、時間帯ごとに異なる光を複数のキャンバスに描き分けた「積みわら」の連作や、また同様に、ルーアンに出かけては「ルーアン大聖堂」の連作を、英国ロンドンに出かけては「国会議事堂」の連作を完成させた。やがて世界は、モネが追求している道が、ひじょうに重要なものだと気づきはじめ、しだいにモネは現代の巨匠として仰がれるようになった。
モネは50歳前後のころから、ジヴェルニーの自宅に、柳のある日本風の庭園を作り、蓮を浮かべた池を繰り返し繰り返し描いた。白内障と闘いながら、「睡蓮」の大作を描きつづけたモネは、1926年12月、肺ガンにより没した。86歳だった。
モネの「睡蓮」の絵を間近で見ると、とても厚く、いろいろな絵の具が塗り重ねられているのがわかる。それを見ると、試行錯誤を重ねながら、ものすごい体力と精神力でもって、ひたすら完成へ向けて前進しつづけた作者の姿が、絵の向こう側に見えてくる。
20世紀の美術界には、一方に、マルセル・デュシャンのように、工業製品である便器をひっくり返して置き、
「はい、これが芸術です」
と言って見せる行き方もあったけれど、モネの道は、まったくちがうものだった。
モネの「睡蓮」に引きつけられるのは、もちろん、その絵が美しいからだけれど、同時に、肉体的労苦をともなってそこに塗られた絵の具の厚さにもよる。
(2019年11月14日)
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