9月27日は、米国の心理学者アルバート・エリスが生まれた日(1913年)だが、ロシアの革命家ブハーリンの誕生日でもある。
ニコライ・イヴァノヴィチ・ブハーリンは、1888年9月27日(グレゴリオ暦10月9日)に、帝政時代のロシアのモスクワで生まれた。両親は教員で、父親は数学者だった。
知的な環境で育ったニコライは、蝶や鳥の観察が好きな子どもだった。
17歳でロシア社会民主労働党に入党。レーニンが率いるボリシェビキ(多数派)に加わった。19歳でブハーリンはモスクワ大学に入り、法学を専攻したが、学生時代は政治活動に力を入れ、逮捕、投獄された後、23歳のころ大学を放校処分となった。
流刑罪を受けたが、脱走してドイツやへ亡命。オーストリア、スイスなどを転々としながら新聞投書や論文を発表して理論家として名を高め、トロツキーなどと親交を深めた。
29歳になる1917年に、ロシアで帝政を倒す二月革命(ロシア革命)が起きると、ロシアへ帰国し、革命指導者として加わった。同年の、共和制をひっくり返し、ボリシェビキ独裁へと移行する十月革命をへて、ブハーリンは党機関紙『プラウダ』の編集長となった。
彼が36歳のとき、レーニンが没した。たちまち党内に権力闘争が起き、ブハーリンは反スターリン側にまわったが、スタリーンに敗れ、役職をことごとく剥奪された。
スターリンが権力を掌握すると、ブハリーンは自分がまちがっていたと自己批判し、スターリン支持を表明して、46歳のころ、党の機関誌編集長となった。
48歳のころ、スターリンによる大粛清がはじまると、ブハリーンは日独伊のファシストの手先だと批判され、党を除名処分となり、逮捕された。ブハーリンは有罪を認め、1938年3月に銃殺刑となった。49歳だった。
高校時代の授業中、化学の教師の話がときどき、ソ連の大粛清の時代に及ぶことがあった。ロシア革命のリーダーだった人たちが、つぎつぎと裁判の被告になり、
「自分がまちがっておりました」
と自己批判した上で処刑されていったという話で、その代表格がブハリーンだった。納得して死刑になるとは、すごい人がいたものだと驚いたが、事実はすこしちがうと後に知れた。
これは、スターリンが、自分の敵となる可能性のありそうな者を片っ端から処刑しようとしたからのことで、ブハーリンが反革命的だったという証拠はスターリン側がねつ造したものだった。ブハーリンは不本意ながら、有罪を認めれば自分も家族も助けてくれるという裏取り引きをのんで有罪を認めた。でも、スターリンはもともと彼を有罪にし失脚させるのが目的でなく、殺すためにやっているのだから、約束など守られるはずがなく、目論見通りブハーリンは処刑された。これが実情だったようだ。
ブハーリンの公式な名誉回復がなされたのは、1980年代後半のペレストロイカ以降のことで、死後40年たってからのことになる。
スターリンの大粛清は大規模で、ブハーリンが処刑された1938年にはロシアで32万人以上が、前年の1937年には35万人以上が処刑されているというから壮絶である。ほとんどが政治犯で、もちろん殺されずとも有罪・刑を受けた者も同じくらいの数いる。
日本ではいま、右傾化、国民の無思考化、バッシングの集中、全体主義化が進んでいる。ブハーリンが没した「静かな生活の時代(沈黙の時代)」に近づいている。
(2016年9月27日)
●おすすめの電子書籍!
『つらいときに開くひきだしの本』(天野たかし)
苦しいとき、行き詰まったときに読む「心の救急箱」。どうしていいかわからなくなったとき、誰かの助けがほしいとき、きっとこの本があなたの「ほんとうの友」となって相談に乗ってくれます。いつもひきだしのなかに置いておきたいマインド・ディクショナリー。
●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.com
ニコライ・イヴァノヴィチ・ブハーリンは、1888年9月27日(グレゴリオ暦10月9日)に、帝政時代のロシアのモスクワで生まれた。両親は教員で、父親は数学者だった。
知的な環境で育ったニコライは、蝶や鳥の観察が好きな子どもだった。
17歳でロシア社会民主労働党に入党。レーニンが率いるボリシェビキ(多数派)に加わった。19歳でブハーリンはモスクワ大学に入り、法学を専攻したが、学生時代は政治活動に力を入れ、逮捕、投獄された後、23歳のころ大学を放校処分となった。
流刑罪を受けたが、脱走してドイツやへ亡命。オーストリア、スイスなどを転々としながら新聞投書や論文を発表して理論家として名を高め、トロツキーなどと親交を深めた。
29歳になる1917年に、ロシアで帝政を倒す二月革命(ロシア革命)が起きると、ロシアへ帰国し、革命指導者として加わった。同年の、共和制をひっくり返し、ボリシェビキ独裁へと移行する十月革命をへて、ブハーリンは党機関紙『プラウダ』の編集長となった。
彼が36歳のとき、レーニンが没した。たちまち党内に権力闘争が起き、ブハーリンは反スターリン側にまわったが、スタリーンに敗れ、役職をことごとく剥奪された。
スターリンが権力を掌握すると、ブハリーンは自分がまちがっていたと自己批判し、スターリン支持を表明して、46歳のころ、党の機関誌編集長となった。
48歳のころ、スターリンによる大粛清がはじまると、ブハリーンは日独伊のファシストの手先だと批判され、党を除名処分となり、逮捕された。ブハーリンは有罪を認め、1938年3月に銃殺刑となった。49歳だった。
高校時代の授業中、化学の教師の話がときどき、ソ連の大粛清の時代に及ぶことがあった。ロシア革命のリーダーだった人たちが、つぎつぎと裁判の被告になり、
「自分がまちがっておりました」
と自己批判した上で処刑されていったという話で、その代表格がブハリーンだった。納得して死刑になるとは、すごい人がいたものだと驚いたが、事実はすこしちがうと後に知れた。
これは、スターリンが、自分の敵となる可能性のありそうな者を片っ端から処刑しようとしたからのことで、ブハーリンが反革命的だったという証拠はスターリン側がねつ造したものだった。ブハーリンは不本意ながら、有罪を認めれば自分も家族も助けてくれるという裏取り引きをのんで有罪を認めた。でも、スターリンはもともと彼を有罪にし失脚させるのが目的でなく、殺すためにやっているのだから、約束など守られるはずがなく、目論見通りブハーリンは処刑された。これが実情だったようだ。
ブハーリンの公式な名誉回復がなされたのは、1980年代後半のペレストロイカ以降のことで、死後40年たってからのことになる。
スターリンの大粛清は大規模で、ブハーリンが処刑された1938年にはロシアで32万人以上が、前年の1937年には35万人以上が処刑されているというから壮絶である。ほとんどが政治犯で、もちろん殺されずとも有罪・刑を受けた者も同じくらいの数いる。
日本ではいま、右傾化、国民の無思考化、バッシングの集中、全体主義化が進んでいる。ブハーリンが没した「静かな生活の時代(沈黙の時代)」に近づいている。
(2016年9月27日)
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苦しいとき、行き詰まったときに読む「心の救急箱」。どうしていいかわからなくなったとき、誰かの助けがほしいとき、きっとこの本があなたの「ほんとうの友」となって相談に乗ってくれます。いつもひきだしのなかに置いておきたいマインド・ディクショナリー。
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