4月28日は、画家、東郷青児が生まれた日(1897年)だが、実業家オスカー・シンドラーの誕生日でもある。
オスカー・シンドラーは、1908年、現在のチェコのスヴィタヴィで生まれた。当時はオーストリア・ハンガリー帝国の一部で、父親は農業機械の製造工場の経営者だった。もともとドイツ・オーストリアの家系で、カトリック教徒だったが、オスカーは小さいころから近所のユダヤ人の子らと遊ぶ、宗教的な偏見をもたない子どもだった。
ギムナジウム(中高一貫校)を卒業したシンドラーは、会社勤務やチェコスロバキア陸軍で兵役についた後、20代後半のころ、ドイツ民族主義的な政党に入り、ドイツ側のスパイとなって働くようになった。それが発覚してつかまり、死刑を宣告された。しかし、彼がいたズデーテン地方がドイツにより併合され、死刑執行は中止された。
釈放されたシンドラーは、ナチス党に入党。
31歳のときに、ドイツ軍がポーランドに侵攻すると、自分もポーランドへ渡り、古い容器工場を買い取って経営をはじめた。彼の工場はドイツ軍から厨房用品の受注を受けて、経営を拡大し、しだいに兵器の部品を作る軍需工場となった。シンドラーは、ただ同然で使えるユダヤ人労働者を多く雇い入れた。
当時、すでにナチス・ドイツによるユダヤ人迫害、拉致ははじまっていたが、シンドラーの軍需工場は特権を与えられていて、彼の工場で働く熟練工のユダヤ人には、ナチス親衛隊やゲシュタポも手出しできなかった。
はじめは経済効率のためだったが、シンドラーはしだいにユダヤ人労働者たちの生命も守ろうと考えるようになり、親衛隊側に必要不可欠だとして熟練工リストを提出し、賄賂を渡して雇用を守りつづけた。彼のリストには学生や子どもの名前も含まれていた。戦争末期、ソ連軍が侵攻し、工場のユダヤ人労働者たちがアウシュビッツの絶滅収容所へ移送された際には、みずから収容所へ乗り込んでいって、賄賂をばらまいて労働者を連れもどした。そして第二次大戦中、ナチス・ドイツによるホロコーストから、ユダヤ人約1200人を救った。自分のもっていた全財産を投じてユダヤ人労働者を守ったシンドラーは、終戦近くに工場を離れたときには、1ペニヒももっていなかったという。
戦後、シンドラーは貿易商や工場経営の事業で失敗を続けた。生き延びたユダヤ人たちはそんな彼の救済に努めた。シンドラーはドイツとイスラエルを行ったり来たりして晩年をすごした後、1974年10月、ドイツのヒルデスハイムで没した。66歳だった。
シンドラーのユダヤ人救済は一歩まちがえば自分が処刑される、命を張った賭けだった。
スティーブン・スピルバーグ監督の「シンドラーのリスト」は、多くの映画関係者がハリウッド映画史のベスト・ワンに挙げる名作で、感動なしには観られない。映画中のユダヤ人虐待の凄惨さはすさまじいが、あれでもまだ水でうすめ味を薄くしてあって、実際のナチスの収容所所長はさらに残虐で、ユダヤ人をつかまえ、くいにしばりつけ、生きたまま犬に食わせることもしたらしい。
映画の終わりのほうで、工場のユダヤ人労働者たちが、金歯をぬき、溶かし、金の指輪を作って、シンドラーに贈る感動的な場面があるが、あれは実話である。まったくすばらしい、映画を観たその夜の夢で見てうなされそうな、苦々しい傑作である。
(2024年4月28日)
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