1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

3月1日・ショパンの心臓

2016-03-01 | 音楽
3月1日は、短編小説の名手、芥川龍之介が生まれた日(1892年)だが、「ピアノの詩人」フレデリック・ショパンの誕生日でもある(別の日とする異説あり)。

フレデリック・フランソワ・ショパンは1810年、現在のポーランドのジェラゾヴァ・ヴォラで生まれた。父親は仏国からやってきた家庭教師だった。フレデリックは4人きょうだいの上から2番目で、彼のほかはみな女のきょうだいだった。
フレデリックが生まれて間もなくして、一家はワルシャワへ引っ越した。父親はワルシャワの学校でフランス語教師になった。ショパン一家はみな音楽の才能があったが、フレデリックはとび抜けていて、彼は小さいころから姉にピアノを教わり、6歳からピアノ教師につき、7歳で作曲し、8歳のときには演奏会を開いていた。その神童ぶりはモーツァルト以上と言われ、ワルシャワに天才少年ショパンを知らぬ者はいなかった。
16歳で入学したワルシャワ音楽院を、19歳のとき首席で卒業。20歳のときにオーストリアのウィーンへ旅立ち、そこからフランスのパリへ渡った後、彼は終生母国ポーランドへもどらなかった。ショパンが母国を後にしたのが、ちょうどロシアの圧政に対してポーランド市民が武力蜂起した「11月蜂起」のときで、侵入したロシア軍によって蜂起が鎮圧されたニュースをパリで聞き、ショパンは胸を痛めた。
ショパンはパリでは、ロスチャイルド男爵夫人にかわいがられ、音楽家のリスト、詩人のハイネ、画家のドラクロワらと交友をもった。26歳でポーランドの伯爵令嬢と婚約した。しかし、彼の肺結核の病状悪化のため、婚約は破棄された。同じころ、ショパンは女流作家のジョルジュ・サンドと出会い、二人は恋に落ちた。28歳の彼は6歳年上のサンドと手に手をとって、スペイン領マジョルカ島へ旅立った。ショパンの健康のために温暖な地中海を選んだのだが、きびしい冬が到来し、彼の健康はかえって損なわれた。ただし、マジョルカ島でショパンの創造性は充実し、そこで数々の名曲が書かれた。
37歳でジョルジュ・サンドと別れたショパンは、38歳のときに英国へ演奏旅行に出た。英国の寒い気候とハードスケジュールは彼の病状をさらに悪化させた。仏国へもどったショパンは1849年10月、肺結核のためパリで没した。39歳だった。

「子犬のワルツ」「別れの曲」「舟歌」「幻想即興曲」など、永遠の名作を書いたショパンは、祖国ポーランドでは特別な存在である。
遺言により、ショパンの心臓は葬儀の前に取り出されてポーランドへ帰った。アルコール漬けにされて教会に保存された。
第二次大戦中、ナチス・ドイツの占領下にあったポーランドでは、民族意識を高揚させるとしてショパンの音楽は禁止されていた。それでも、人々はひそかにショパンを演奏したり、レコードをかけたりした。

ピアニストの中村紘子は、ショパンの左手をかたどった手の像をもっていて、それは男性ピアニストとはとても思われない、彼女の手よりも小さい手だそうだ。そんな小さい手の名ピアニストが、ずっと結核を抱えて生き、夭逝した。
友人たちが彼にあてた手紙には、すべてに病気のための注意が書かれていたという、はかなげな天才だった。
(2016年3月1日)


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