凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

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そして、今夜も旅の空

2009年09月26日 | 都道府県見て歩き
 人よりも多く旅をしているほうだと思う。

 いろいろなきっかけから旅行が好きになった。幼少時に冒険譚を読み漁った経験、自転車で遠出を始めたこと、また従来よりの珍しモノ好きの性格、ユースホステルとの出会い、人との邂逅の面白さ、歴史散策や文学散歩へののめり込み、食い道楽、また現実逃避癖、遁走の習性、などなど。
 若い頃は本当に旅ばかりしていた。
 そして、そのことを今になって書き残しておきたくなった。

 最初はHPを作る予定だった。いや、途中まで作成した。タイトルは「今夜も旅の空」。ところが、以前書いたように諸般の事情があって完成には至らず、負担のかからないブログで吐き出していくことにした。それがこの、カテゴリ「都道府県見て歩き」である。
 最初に書いた「旅心さそわれて」、そして北海道から書きはじめて、ここまでまる5年。あの頃はまだ30代だったことを思うと、感慨もあるし、またノロマであったとも思う。ただ、書いていて本当に楽しかった。追体験の悦びと言おうか。
 いずれにせよ、これが最終記事である。過去の旅行の話は、まだまだ書き尽くせてはいないので、また何らかの形で様々に顔を出してくるはずだが、とりあえずの中締めとしたい。

 もちろん、僕よりもずっと多くの足跡を残している人はゴマンといらっしゃるし、オマエ程度で旅を語るのはおこがましいと思う人も多いことだろう。けれども、これは数の問題でもない。強いて言えば濃度だろうか。
 今もあの時の、旅のひとコマひと場面を克明に思い出すことが出来る。時に怒涛の如く溢れ出る。郷愁に押し潰されそうになるほどに。

 旅の様々な思い出は尽きることがない。
 思いつくままに。
 白い蝶がまるで紙吹雪のように舞い降りたあの天塩の祝福のとき。
 北海道の羽幌で見た、天売島と焼尻島の間に焼けるように沈む大きすぎる夕陽。
 キタキツネに案内された雄冬の絶景。
 流氷迫るオホーツクの海岸で、夕焼けで真紅に染まった神々しい斜里岳と出会えた僥倖。
 十和田湖で見た天の川。
 本土最南端の佐多岬で野宿中、東から西へとブンと音がするように飛んだ流れ星。
 北アルプスの山々が朝の斜光線に包まれ、上高地が神河内へと姿を変えた瞬間。
 屋久島の限りなく澄み切った水と、森の力漲る巨木。
 波照間島の、初日の出と、西の空に架かる虹が同時に現れた光景。
 夜汽車を待つ人気のないプラットホームから見た、蒼い月が煌々と輝いていた夜空。
 自転車で峠を上りきったときの一杯の水の甘露。
 札幌の生ビール。釧路の燗酒。積丹の一升瓶ワイン。沖縄の泡盛。
 三春の桜。美瑛のひまわり。野尻湖の紅葉。浜頓別の吹雪。
 あのときの空。あのときの風。あのときの薫り。あのときの歌。
 そして、なにより沢山の人たちに出会えたこと。
 
 全てが、奇跡だったように思える。

 色褪せない思い出は、僕の財産であり、他に代替出来ないもの。いつまでも胸に焼き付いて離れない心の中の神話。もしもそんなよろこびを知らずにここまで過ごしてきたとしたならば、俺の人生なんてスカスカだったに違いない。
 そんな追憶の断片をこうしてネット発信で書き残すことが出来たのは幸福だった。昔であればただこっそりと大学ノートにでも書いていなければしょうがなかったであろうに。こんな時代に感謝している。

 まだ僕の人生は終わってはいない。また旅に出たい。思い出を積み重ねたい。そして、今夜も旅の空の下で幸せを噛み締めつつ眠りたい。



 「都道府県見て歩き」完結です。ここまで読んで下さって本当にありがとうございました。

コメント (4)
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僕の旅 番外編・韓国

2009年09月13日 | 都道府県見て歩き
 このブログでのカテゴリはもちろん「都道府県見て歩き」であり47都道府県へ旅行した思い出話に限るはずだが、前回の番外編カナダに続き、また日本以外の話をするのをお許しいただきたい。

 と書いて、いきなり本筋からそれる話だけれど、何で僕は日本ばかりウロウロしているのかと思う。世界はこんなに広いのに。
 もちろん海外旅行が嫌いなんて思っていない。そもそもほとんど海外経験がないのに嫌いになるはずもない。行きたいところは山ほどある。ツンドラの大なる風景を見てみたい。フィヨルドを見たい。モンゴルの大草原を見たい。マッターホルンも見たい。グアテマラのティカル、ペルーのマチュピチュ、ナスカの地上絵、イースター島のモアイ、ヨルダンのペトラ、エジプトのピラミッド、みんな見たい。インドのヴァラナシに佇みたい。パリを散歩したい。四川で麻婆豆腐を食べたい。等々。
 何が原因で飛び出さなかったのか。いろいろな要因があると思う。金がないからか? いや、今はヘタに日本を旅するよりも格安で海外に行ける。言葉が通じないのが怖いからか? いやそんなのなんとでもなる。もしかしたら面倒臭いからか?
 そうかもしれない、とも思ったりする。本質的には、日本を旅行することの深みにはまってなかなか抜け出せなかった、ということが第一義的だろうとは思うのだが、面倒臭いというのもやっぱりあったのではないか。僕は何かにつけ、手続きというものがズボラなので嫌いだ。旅の計画を立てるのは大好きだがそれはあくまで頭脳内計画であり、実際に何かに申し込んだり予約をしたり、ということはほとんどしない。なので、外面的にはいつも行き当たりばったり旅行と変わらない。
 自分がズボラだから外の世界へ飛び出さなかった、ということも遠因としてあるのではないか、とこの記事を書いていて思った。
 
 しかしズボラであっても、比較的思いつきで行動に起こせる国もある。グアムやサイパンもそうだろう。そして、なんと言っても韓国はその最右翼ではないだろうか。
 思えば、カナダに行ったときは面倒臭かった。様々な手続きもそうだが、例えばトラベラーズチェックなども作らなければならない(カードなどそんな頃は持っていない)。贅沢旅行のせいだが、スーツなんかも持たねばならない。ということは、旅行用トランクも借りなければならないし、小さな携帯用アイロンなんかも入手しなくてはいけない(Yシャツなんか着るからだ)。全てが、いつも適当な旅行しかしてこなかった僕にはうざったかった。
 隣の国である韓国に短期間ふらりと行くならば、そんな気遣いはない。ウォンなど日本円を持っていけば現地で簡単に両替出来る。小さなかばんひとつで、気軽に行ける。時差もない。
 というわけで、僕は韓国には何度か行ったことがある。

 ところで、実は最初に韓国に行ったのは、団体旅行だった。それも公的な付き合いであり、実につまらなかった。こんなことは本来記事にはしないのだが、行きがかり上少し書く。15年前くらいだったろうか。
 旅行に日頃の上下関係を持ち込むほど愚かなことはないのだが(だから職場の慰安旅行なんてのも嫌いだ)、2泊3日のスケジュールもお仕着せでしっかりと決まっている。メインは国境の烏頭山統一展望台だった。しかし霧で何も見えない。臨津江(イムジン河)が見られただけでも幸いか。それから民族村。李氏朝鮮時代の風俗を再現したテーマパークだが、こことて自由行動がきくわけでもなく、民族舞踊を見たことくらいしか印象にない。
 あとは概ねソウルにいたが、大部分は買い物の時間となっている。こちらは免税品など全く興味がないのだが、座っているわけにもいかず見ているふりをずっと続けなければいけない。なかなかに退屈な時間である。
 ただ、国立中央博物館にだけは行けたのは幸いだった。ここは、日韓併合時代の朝鮮総督府庁舎をそのまま活用してあり、李氏朝鮮の王宮である景福宮を遮るように建てられている。(これは立派な建物であったが取り壊され、その後博物館は光化門付近に移転され、のちさらに郊外へと移った)。ここにはあの広隆寺の弥勒菩薩に酷似した半跏思惟像をはじめ、数多くの名品が所蔵されている。これは値打ちがあった。
 夜は焼き肉でビール。そしてギャンブルや女性のいる店。団体旅行というものはこういうものなのだろうか。さらに最終日はロッテワールドである。遊園地は好きだが、何を好きこのんでおっさんの団体がわざわざ海外でゾロゾロとコースターに乗らねばならぬのか。

 人により感じ方はあるだろうが、僕にとってはこういうのはつまらない。なんとかしてリベンジをせねばならぬ。幸いにして当時僕は日本海側に住んでいて、韓国は近い。
 しばらく経ったある冬、うまく時間のやりくりが出来たので再びソウルへカミさんと二人で出かけた。廉価ツアーに乗っかってはいるものの、今度は泊まるホテルが決まっている以外はフリープランである。小松空港に集合し、着いたらホテルまでは送ってくれる。そこから先は自由。
 前回は、立派なホテルだったが郊外だった。今回は街の真ん中、明洞(ミョンドン)である。チェックインの後、僕たちは早速街探検に出かけた。やっぱり旅は歩かないと。

 ソウルには、観るべき場所が多い。景福宮。徳寿宮。世界遺産でもある昌徳宮、宗廟。ある程度李氏朝鮮の歴史は知っておいた方がより観光に深みが増す。
 そして、とにかく歩く。それも、出来ることなら裏道も行きたい。大都会ソウルもビルばかりではない。向こうの人にとっては何気ない道でも、こちらにとっては十分異国を感じさせてくれる。バスで通り過ぎては味気なさ過ぎる。
 観光客にとっては、市場が楽しい。こないだ焼けちゃった南大門の東に広がる南大門市場などどう歩いても楽しい。迷宮感がまたたまらない。
 ソウルだけでも書くべき名所は山ほどあるのだが、それより何よりこの街で最も楽しみなのは「食」である。韓国料理が嫌いな人を除いて、異論のある人は少なかろう。なんと言っても食い物が最高だ。
 
 韓国といえば焼肉とキムチ、と相場が決まっているようなものだが、試みに街の焼肉屋とおぼしき店に入ってみる。あまり日本語が店頭に書かれていない、しかも混んでいる店。注文は難しくない。「カルビクイ、チュセヨ(骨付きカルビ下さいな)」と頼む。タン塩だのハラミだのとあまり細分化していない。カルビが王様である。
 すると、それだけしか注文していないのにテーブルには副菜の皿が所狭しと並ぶ。これは、知らないとちょっと驚く。各種キムチ(カクテキやオイキムチ、水キムチなど多彩)や各種ナムル、ポックムと呼ぶ様々な炒め物、チヂミなどなど。これらはミッパンチャンと呼ばれ、基本的に無料で供される。中には焼いた太刀魚だのケジャン(ワタリガニの辛味漬)だの、日本で頼めばこれだけで千円くらいとられるんじゃないかと思われるものまで付いてくる。さらにサンチュやエゴマなどが生野菜として山ほど添えられる。これで包んで食べなさいということだろう。
 コンロにはカルビが広げられ、焼かれる。焼ければハサミで切り、野菜に包んで食べる。もう美味くてたまらない。ビールだビール。「メッチュ(麦酒)、チュセヨ」と頼む。ビールをグビグビ飲みつつ、ガツガツ食べる。野菜やキムチなどの小皿はおかわり自由である。無くなればどんどん補充。文化が違うのだ。僕などは食べ物を残すとバチが当たると言われて育てられてきたが、あちらでは皿がカラになると「満足していない」とみなされる。なので次から次へと運ばれてくる。うわーもう食べられないよ。
 ウォンの相場もあるし物価などは一概には比べられないが、勘定は安い。こんなことを経験してしまうと、日本でちまちました「和牛カルビ1200円(5切れ)」だの「キムチ盛り合わせ600円」だのと注文することが死ぬほど辛く感じられてしまう。

 飲みすぎ、朝は少し二日酔い気味で目が覚める。鍾路にある「里門ソルロンタン」へと向かう。ここは韓国には珍しい老舗であり、当時で開業90年を超えていた。今なら100年以上の店だろう。ここで「雪濃湯(ソルロンタン 牛肉スープ)」をいただく。その名の通り雪のように白いスープの中に、肉とごはん、ククス(麺。冷麦のような感じか)が入っている。以外にさっぱりとしたスープで、これを卓上の塩などで自分が好きなように味付けして食べる。しみじみ美味い。ネギも山のように盛られてテーブルにあり適宜加えるが、それより何よりここのカクテキがたまらなく美味い。これもどっさり盛られて登場、好きなだけ食べていい。キムチもカクテキも細かく切り分けられているわけではなく、勝手に置いてあるハサミで食べやすく切る。
 ソルロンタンだけでなく、トガニタンも注文する。これは、牛のヒザ軟骨を煮込んだスープで、軟骨はもちろんプルプルである。いわゆるコラーゲンたっぷりというやつ。このプルプルを酢醤油につけて食べるのだが、またこれがたまらん。どうしても酒が欲しくなり、朝なのに「ソジュ(焼酎)チュセヨ」とつい言ってしまう。二日酔いだったはずなのになぁ。韓国では焼酎はたいてい2合瓶で出てくる。これをストレートで猪口であおるわけだが、トガニのプルプル、そしてカクテキの滋味深い味に抜群に合う。二日酔いを牛スープで癒しつつ、さらにアルコールを摂取するというえげつない食生活がまた始まった。
  
 昼は市場を歩く。屋台が並ぶ。その中で、豚のアタマがディスプレイされているちょっとした店に入ってみる。指でさして注文すればいい。そのチャプチェ(春雨と野菜の炒め物)チュセヨ。チョクパル(豚足)も美味そうだな。そう言えば、デカい包丁で細かく切り分けて出してくれる。一口食べると、実にコクがあって美味い。またもや「ソジュ、チュセヨ(汗)」。
 スンデ(血入腸詰)や他に様々なものを食べる。寒かったのでスンドゥブチゲ(豆腐チゲ)もひとつ頼む。これがまたしみじみと美味いのだよなぁ。ごはんは付いているのだがキムパ(韓国風海苔巻)もつい頼んでしまう。もうおなかいっぱいだぁ。

 妻が言う。「身体が野菜を欲していないよ。こんなこと珍しい」
 旅行で外食が続くと、どうしても野菜不足になる。食べたいものを優先しているとそうなっちゃうのだろう。ところが、韓国ではそうではない。食事のバランスがいいのだな。ミッパンチャンの存在は大きい。一種類ではなく常にいろいろなものを総合して食べているので身体にいいのだろう。唐辛子もまた新陳代謝に大きく寄与していると考えられる。
 しかし、食事の量は常に多い。夕食は軽めにするか…とその時は思うのだが、まだまだこの地で食べるべきものは山ほどあるのだ。もちろん参鶏湯(サムゲタン)も食べなければならない。冷麺もビビンバも食べなければならない。サムギョプサルも、プルコギも、各種フェ(刺身類)も、各種チゲも…。胃袋がひとつなのが恨めしい、とはよく言う決まり文句ではあるが、韓国旅行では常にそう思う。あれも食べたいこれも食べたい。
 そうして、野菜もたっぷり食べ唐辛子で汗をかいているにも関わらず、体重を相当量増やして帰国するのである。いやはや。
 
 こんなふうに若い頃、数度韓国へ行った。韓国と言っても主体はソウルであり、あちこち回ったわけではない。釜山はもとより、扶余にも慶州にも行っていない。そのうち行こう、と思っているうちにバタバタしてしまい、行けずじまいだった。知らない間にパスポートも切れていた。
 先日新聞広告を見ていたら、韓国ツアーが驚くべきことに2万円台であった。こんなの国内旅行の比ではないほど安い。時間があればまたトガニタンを食べに韓国に行きたい、と思いつつ、全然実現していない。やはり面倒臭がらずにパスポートを取りにいかなければいけないなぁと思う。
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僕の旅 番外編・カナダ

2009年08月23日 | 都道府県見て歩き
 新婚旅行など、あまり真剣に考えていなかった。日が近づくまで。
 それより、結婚式とか披露宴の方に気をとられていた。僕は当時、転勤で北陸の街に住んでいたのだが、両親はもとより親戚も友人もこの地には居ない。僅かに上司、同僚がいる程度だ。なので普通なら地元の関西で、とすべきだが、結婚相手が東北出身で関東在住ときた。もうバラバラである。紆余曲折あって、結局は僕が今居るところの北陸でとり行うことになった。出席者はほとんどが移動を伴う。
 僕はそんな手配やら準備やらで、空いている時間は全て忙殺されていた。地元には手伝ってくれる人もいない。妻になる予定の人すらいないのだ。何でも一人でやらざるを得なかった。旅行なんてそのうち手が空いたときに考えればいいや、一年以内に行けばいいんだろ、くらいに思っていた。

 しかし、そういうものではないらしい。
 僕はあちこちから脅された。一生に一度のものを、そんなオマエがいつもやってるノープラン旅行と同列に考えるものではない。ハネムーンは夢がないと。適当にすれば一生言われ続けるぞ。等々。
 僕は妻になる予定の人に電話した。どうしようか?
 彼女は言う。やっぱり外国がいい。こんな機会でないと行けないから。条件はまず治安のいいところ。そして、ちゃんと旅行会社のツアーに乗っかった方が安心である。それから綺麗な風景が観たい、と。
 なるほど。僕は外国と言えばすぐ「深夜特急」みたいなものを連想してしまったが、それは確かにハネムーンらしくない。じゃもうこの際、普段は絶対にやらない大名旅行にするか。パスポート申請しておけよ、近々決めるから。

 新婚旅行の定番は、まだまだハワイだったと思う。しかしあまり興味が持てない。大名旅行と言えばヨーロッパだろうが、それは予算的に難しい。
 僕の頭の中には、候補地が二ヶ所浮かんでいた。ひとつはカナダのロッキー山脈。もうひとつはニュージーランドのマウント・クック。どちらも憧れる風景である。熟慮の末、カナディアン・ロッキーに決めた。旅行会社に行き、パンフもらって相談をしてきた。
 夜、妻になる予定の人に電話をする。
 「カナダにしようかと思うんやが」
 「いいわねー。当然ナイアガラの滝?」
 「いや…それは考えてへんかった…」
 「あんたカナダ行ってナイアガラ行かなくてどこ行くのよ!」
 どうも彼女はカナダと言えばナイアガラしか知らないらしい(汗)。ロッキーとナイアガラといえば東部と西部で時差があるくらい離れているのだが、こっちも譲れず、結局「デラックスホテルで旅するナイアガラとカナディアンロッキー・ビクトリア10日間」というとてつもなく長い名称のツアーに参加することになった。DXホテルですか。文字通り大名旅行になってきたな。

 さて、結婚式。とにかく疲れ果てた。もう二回はしたくないですな。
 式は午前中、披露宴は昼に設定したので(遠方の方に配慮して)、全ての出席者を見送って夕刻、一旦うちへ帰り(僕の住んでたマンションにそのまま妻になる人は転がり込んだのでラクだった)、休む間もなくバタバタと着替えて列車に乗る。成田発なので、とりあえずその日は東京まで行った。いつも旅と言えば小さなリュックを背負う程度だが、今回はデカいトランクなんぞ持っている(レンタルだが)。なんせデラックスホテルに泊まるので、夜はドレスアップもせねばならない。大名旅行も大変なのだ。
 
 翌日、成田へ向かうのだが、フライトは実は夕刻に近い時間であり余裕がありすぎ、しばらく東京に居た。なんだか久しぶりにゆったりとしている。
 二時間前には集合ということで、昼には成田へ行く。国際線に乗るのはなんせ初めてであり勝手がわからない。税関を通り出国審査、さまざまな検査の後やっと搭乗となる。
 このまま8時間半雲の上を飛んで、バンクーバーに降り立つ。初めての外国だが、日付変更線を超えたため、なんと当日の午前中だ。体内時計はもう真夜中を指しているのに時間が逆戻りした。モーローとしてくる。ここからフェリーでジョージア海峡を越えビクトリアへ移動する。
 このフェリーから観た風景が忘れられない。岸辺に、いかにもヨーロピアンで瀟洒な家がいくつも見える。映画を観ているようだ。なるほど、英連邦なのだな。ようやく外国にいる実感がわいてきた。ただ、ちょっと小腹が空いたので、船内でサンドイッチを求めたら、パンに薄切りハムがどさっと大量に重ねられて挟まれたものが供された。うーむ、これは英国風じゃなくてアメリカンだな。そういえばここはアメリカ国境に隣接している。
 
 そうしているうちにビクトリアに着いた。街並みが美しい。気品がある。いかにも英国風のたたずまいである(イギリスなんぞ行った事ないけど)。
 州議事堂、クリスタルガーデンなどを経て、バスはホテルについた。ビクトリアが誇るエンプレス・ホテルである。確かにデラックスホテルの名に恥じない。こんな感じなのだが、重厚感溢れるその姿に思わず気後れする。こんなホテル泊まったことないぞ。
 夕食は、きちんとしたレストランなので正装せねばならない。まあ盛装までしなくてもいいのだが、ネクタイなぞを締める。妻になった人は一張羅のドレス(風のワンピース)である。ワインなんぞ頼んで雰囲気を味わう。たまにはいいか。こんなの一生に一度だな、と言うと、妻になった人はえーっと文句を言う。一生に一度は確かに言い過ぎたが、以来15年を過ぎ、やっぱりこういう雰囲気の中での食事は数えるほどしかない。

 翌日は、ビクトリア観光。花の咲き乱れるブッチャートガーデン。ビーコン・ヒル公園。ゼロマイルポイント。その他あちこちへ行く。
 午後からは自由行動となる。ツアー客はみな時差ボケで昼寝らしい。僕たちは、目の前のインナーハーバーから住宅地へと散歩に出る。
 こうして歩くと、外国に来ている雰囲気がふつふつと沸く。ただの家々が並ぶ場所でも、家のつくりが違う。街路樹が違う。マーケットに入ってみる。これもまた楽しい。

 ビクトリアからカルガリーに飛行機で移動する。
 カルガリーという地名を聞けばついダイナマイトキッドとかを思い出してしまうのだが、カルガリーは素通りしてここからロッキー山脈へと向かう。バスに延々乗って、ホテル着。シャトゥ・レイク・ルイーズホテルである。ここも凄い。ロッキーの宝石とも謳われるレイクルイーズの湖畔に建つデラックスホテル(しつこいか?)である。
 ホテルからルイーズ湖を臨む。湖面は深い蒼碧色にきらめく。その向こうには、ロッキーの山稜が聳え、その間を巨大な氷河が迫り来る。こんな風景を目前に出来るとは、全くのところ幸せである。

 翌日は雪が降っている。まだ10月初旬であるというのに。目の前の山塊が白く薄化粧をしている。これもまた良し、か。しかし寒い。 そうしているうちに雪がやみ雲が切れ、晴れた。
 終日、カナディアン・ロッキー観光。巨大な岩の塊である山脈、そしてその山々に囲まれた珠玉の湖たち。美しい。この世のものとは思えぬほど美しい。僕はここに来たかったのだ。
 ボウ・レイク、ウォーターフィールレイク、ペイト・レイク。この湖たちは、氷河の成分が流れ込んでいるため乱反射し、みなエメラルドグリーンに輝く。それらが、雄々しき山々の懐ろにひっそりと佇む。山たちは、天地創造の下、一斉に高く聳え上がり、乱暴に削られた断層もそのままに、以来ずっと静寂を保ち続け、荘厳かつ険しい表情を見せている。すげえ。そしてどこまでも続く針葉樹林。またそれらを切り裂くように降りてくる氷河。それらをぬってアイスフィールド・パークウェイは走る。スケールが尋常ではない。
 アサバスカ氷河に着いた。コロンビア氷原から流れ出している。コロンビア氷原は、北極圏を除くと大陸で最大の面積を誇る氷河である。雪上車に乗り換え、氷河の只中へ行く。クレバスが口を開ける。降り立つと、ひたすら氷の塊である。その氷塊から落ちる水をグラスに受け、ウイスキーを割って飲んでみる。旨い。この氷河の背後に広がる山脈は大陸の分水嶺にあたり、ここから北極海、大西洋、太平洋に水を注いでいる。 
 余は満足である。今日はバンフ・スプリングスホテルに泊まる。このホテルはまるで古城だ。こんな感じなのだが、さすがはデラックスホテルの旅(もういいって)である。実にエレガントだ。

 翌日は終日自由行動の日。僕はどうしてもやってみたいことがあった。つたない英語でコンシェルジュに尋ね、自転車を二台レンタルした。ロッキーのふもとをサイクリングしてみたい。これは夢だった。妻になった人も付き合うと言ってくれた(ここで拒絶されるようならお先真っ暗である)。
 颯爽に走り出す。街を過ぎればもう大自然である。気持ちいい。多少寒いが、時間が経つと晴天となり、すがすがしい。カナディアンパシフィック鉄道駅からバーミリオン湖へ。ボウ滝からトンネル・マウンテンへ。この風景の中を走れるなんて最高である。途中昼に街に戻ってアルバータ牛のステーキを食べたとき以外は、ただ走り続けた。ああなんて幸せだ。サイクリスト冥利に尽きた。目の前を大鹿の群れが横切っていく。
 妻になった人はバテたようだ。すまんすまん趣味につき合わせて。走りすぎて夕食の時間に間に合わなくなりそうになり、慌てた(なんせ食事は正装しなくちゃいけないのでね)。

 名残惜しいロッキーを後にして、カルガリーまで出てまたフライト(移動ばかりだな)。トロントに着く。大都会だ。自然いっぱいのロッキーから出てきたからそう思うのか。いや、ここは考えてみればカナダ最大の都市である。高層ビルが乱立している。その中に、トラディショナルな建物も点在し、緑も多い。そりゃ日本だって都会の中に神社仏閣があったりするから同じか。
 トロント・ウェスティンホテルにチェックインしたあと、街へ出る。
 CNタワーに上る。このタワーは当時、世界で最も高い塔だった(今は抜かれた)。553.33m。447mに展望台があり、足がすくむ。こえぇよぉ。また、スカイドーム(今はロジャース・センター)も覗く。世界初の可動式屋根付き球場であるが、あの頃は日本人大リーガーなんて居なかったもんな。野茂がドジャースに行くのはこの二年後である。
 このツアーは基本的に夕食つきであるが、今日だけは無い。なので食事をしなくてはいけない。ホテル内ではつまんないので、街のレストランに入る。もちろんガイドブックで調べて行ったのだが、こういうのも多少緊張するもので。メニューが英語であるしね。まあ僕のブロークンでも何とか通じたので安心する。もっとも身振り手振りの方が多かったか。チップをどう渡すか、などと悩んだりもしたな。帰りにタクシーに乗ったがそれもまた冒険チックであった。
 
 さて、いよいよナイアガラの滝である。
 トロントからの車中、紅葉が美しい。ロッキーはずっと針葉樹林だったが、やっぱりここまで来るとカエデだ。カナダはメープルの国なのだ。途中、ナイアガラ・オン・ザ・レイクという小さな町に寄る。北米で最も古い街並みを残した町と言われている。なるほど、なんとも美しくも可愛らしい町だ。しばし散策。
 バスは細かく停車してくれる。クルツ・オーチャーズというマーケット。世界最大の花時計。道端の八百屋(ハロウィンが近くデカいかぼちゃが並ぶ)。そして川が急角度で曲がり大渦巻が出来ることで有名なナイアガラ川のワール・プール。そしてバスはナイアガラの滝に到着する。
 大瀑布だ。ちょっとレベルが違う。妻になった人も歓声をあげている。テーブル・ロックまで行くともう水しぶきが凄い。あまりにも巨大すぎて何がなんだか分からないくらいである。そこから、ゴミ袋みたいなビニールの合羽が配られ、トンネルを抜けてジャーニー・ビハインド・ザ・フォールズへ。歩いて滝に最も近づける場所だが、シャワーかスコールか何かもうよく分からない。ただ、迫力は凄い。
 戻って、スカイロン・タワーでランチ。楼上からは滝が一望である。
 このあと、ついに遊覧船「霧の乙女号」に乗って滝壷近くまで行く。さっきみたいなチャチなゴミ袋カッパではなく、しっかりとしたフード付きレインコートが配られた。近づくにつれ、轟音が響き渡る。大声を出しても話も出来ないほど。そのうち目も開けられなくなる(じゃなんのために来たのか)。もはや、怖い。水が大量に落下するとここまで迫力があるものなのか。
 そして、よく見るとやはり美しい。虹がたくさん架かっている。やはり来てよかった。

 もう旅も終わりに近づいた。翌日、トロントからバンクーバーへと戻る。懐かしきロッキー山脈を見下ろしながら。
 着いて、市内観光。花が咲き乱れるクイーン・エリザベス公園。ギャスタウン。スタンレー公園。ライオンゲート・ブリッジ。プロスペクトポイント。ソフトクリームをなめながら散策する。ちょっとお釣りをチップとして残す。こんなスタイルも慣れてきたが、明日は帰らねばならないのが寂しい。ホテルはハイアット・リージェンシー。デラックスホテルも、着飾って食事するのも最後である。
 名残惜しいので夜の街へ出る。夜景が美しい。大名旅行は我々にはそぐわないのでは、と思っていたが、いや、楽しかったよ。

 帰る日の朝。ダウンタウンをぶらぶらし、雑踏を歩き、初めての海外旅行を惜しむようにうろついた。後ろ髪引かれる思いで、午後の便でカナダを離れる。帰りは日付変更線のせいで翌日の午後になっていた。なんだかソンした気分。

 あれからずいぶん経ってしまったな。遠い昔を思い出しながら、新婚旅行記を書いてみた。
 
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僕の旅 沖縄県

2009年08月13日 | 都道府県見て歩き
 「沖縄病」なるものの存在はよく知られていると思う。
 ある日、沖縄に2泊3日で旅行にゆく。誘われただけでそれほど期待していなかったのに、あまりにもかの地が素晴らしすぎて魅了されてしまった。帰って来ても、楽しかった沖縄のことだけが思い出される。毎夜沖縄の夢を見て、起きているときも沖縄のことばかり考えてしまう。また旅行に出る。帰ってきたら沖縄の夢ばかり見て、また出かけてしまう。この無限ループ。気が付けば毎月沖縄に行っている。もう住みたい。全てを投げ打って移住する。ざっとこんな感じだろうか。類似疾病に「北海道病」なるものがあるが、沖縄病の方がたいてい深刻な状況になる。

 僕も沖縄はかなり好きな方であると思うが、ここまでには至っていない。幸いというべきか。例えばもしも僕が億万長者になって一生遊んで暮らせるようになったと仮定しても、沖縄に移住することはないだろう。ただ、那覇に別荘は欲しいなと思う。ワンルームマンションでいい。んで、一年に四回くらい行く。トータルで一年のうち3ヶ月くらい居られれば満足だと思う。あくまで旅人のスタンスは崩したくはないし、泡盛とオリオンビールをこよなく愛する僕は、これ以上居ると確実に肝機能に問題が出てしまう。

 僕はこの程度の沖縄好きであるので、あまり偉そうには語れない。思い出でも書くことにしよう。
 最初に沖縄へ旅に出たのは20歳のときである。何故沖縄に行こうと思ったのかについては、ただ一点の目的しかなかった。
 大学に行って長期のモラトリアムを手に入れていた僕は、その大半を自転車による旅行に費やしていた。その自転車旅行の目的は、簡単に言ってしまえば「日本のはしっこまで自力で走ってみよう」ということに尽きた。観光旅行とは少し趣きが異なる。もちろんその時々で美しい風景や名所があれば通りすがりに立ち寄ることはあっても、あくまで目的は「宗谷岬」であり、「佐多岬」だった。
 そうして陸続きでの最北端と最南端に行ってしまった後、次の狙いとして浮上してくる場所がある。日本で行ける限りの端っこ。日本最西端の与那国島、そして有人島として日本最南端の波照間島。彼の地に立って、日本を感じてみたい。
 ただそれだけの気持ちだった。沖縄についての知識は全く持っていない。そうして、自転車もオフシーズンである2月、沖縄(というより与那国島と波照間島)に行こうと思い立った。自転車で行くわけでなし移動に何週間もかかるわけでもない。3月になればまた帰ってきて自転車旅行をしよう。まだ行けていない四国が宿題として残っているから…そんなことを考えつつ那覇行きの船の切符を学割で買った。
 この時点では、せいぜい10日くらいのつもりでいる。この旅が2月はもとより3月の末まで延び、僕にとって最長の旅行になるとはこのとき毫も思っていない。

 2月といえばまだ冬。雪がちらついていた。しかし行く先は南国と聞いているので厚いコートなど着るわけにはいかない。重ね着で寒さをしのぎつつ神戸の埠頭に向かった。夕刻出航。那覇新港まで約40時間の船旅のスタートとなる。
 船は悪天候のため少々遅れ気味ではあるものの、揺れに対する耐性があるのか酔うこともない。翌日2時頃には鹿児島佐多岬沖を通過。夏にここまで自転車で走ったことを思えばこんなにも早く…感慨もひとしお。南へ向かうにつれ、だんだんと暖かくなっていくのが体感出来る。
 2日目夜半過ぎから船は奄美の島へと順次寄港する。船は直行便ではない。名瀬、沖永良部、徳之島、そして与論を過ぎてようやく沖縄。朝に着くはずがお昼を遥か回って、那覇に入港。
 那覇に長く居るつもりは無かった。翌日の夜には石垣行きの船が出るので、その中継地点としか考えていなかった。しかし、港から街に出る途上で観る風景すら僕には珍しい。生えている木が違う。屋根が違う。古本で購入した文庫本サイズのガイドブックしか携行せず、あとは伝聞程度の知識しか無かった僕にとって、それは眩暈がするほどの異文化だった。これほど胸の高鳴りを覚えたことも記憶に無い。
 僕は、少し腰を据えることにした。これは観て廻らねば損だ。

 そして僕は、那覇を拠点として歩き始めた。
 首里。琉球王国の王都。まだ首里城が復元される前で、比較的のんびりしていた頃だった。園比屋武御嶽、龍潭、弁才天堂、円覚寺。本土で類似したものは無い。観るもの全てが珍しく強い印象を残す。守礼之門で記念撮影。この古都は、戦争で多くを失ったと聞く。金城石畳道はその中でもわずかに残った戦前を偲ばせる遺構であり感動する。玉陵の圧倒的な迫力には、古墳好きの僕も襟を正さざるを得なかった。この荘厳さは何だ。
 南部へ。バスを乗り継ぎひめゆりの塔。観光化されてはいるものの、胸が打たれる。健児の塔まで歩く。その荒涼とした世界に戦争の悲惨さを感ぜずにはいられない。摩文仁の丘からの美しい展望を見るにつけても、感じるものが多い。
 同宿者とレンタカーを借りてみる。嘉手納飛行場、ムーンビーチ、東西植物園へ。今にして思えばチョイスが実に沖縄ビギナーであるとは思うが、こういった経験が後に沖縄の歴史や文化を学びたいという欲を産み出したのだと思っている。だが、印象に残る場面もある。アメリカナイズされたコザの街。英語看板の氾濫にクラクラした覚えがある。今のコザよりもさらに先鋭的であったような。
 車は名護から今帰仁城へと向かった。当時は修復中であったのだが、「万里の長城を思わせる威容に圧倒」と日記に記している。僕は後年グスク廻りをするが、その第一歩となった。印象が今も鮮烈である。
 また、盛んに街を歩いた。農連市場や公設市場で、見たこともない食材を発見して驚く。そして、迷路のような小道にわざと入ってみる。土地の人が「すーじぐわ」と呼ぶ小道は、実に多くの発見がある。石敢當って何だろう。ウタキって何だろう。いろんな疑問を持つ。暇そうなおばぁに訊ねてみたりもする。しかし意思の疎通が出来ない場合も多く、書店に入って郷土本を何冊か買う。どんどんのめりこんでいくのが自分でも分かる。
 沖縄料理も食べに行く。20歳のビンボー旅行であってさほどの贅沢も出来ないのだが、安食堂も多いので助かる。らふてぇ。ゴーヤチャンプル。クーブイリチ。等々初めて食すものばかりであり、こんなに旨いものかと目を見張る。沖縄料理は口に合わない人も多く、行く前から「食べるものが不味くて…」という話をよく聞いていたのだがとんでもない。それに初めて呑んだ泡盛がまたしみじみ旨く、酔うにつれ沖縄の魅力の深さに埋もれていく。そばもたまらなく旨い。
 そうして、祭りを見たり、呑んだり騒いだりして幾日かが過ぎた。このままでは居ついてしまう。また帰りもあるからと自らを納得させ、夕刻、石垣行きの船にに乗り込んだ。

 揺れたが船旅は楽しい。船上で夜が明けると、天気は快晴でありかなり暑さが増す。宮古島に途中立ち寄る頃にはTシャツでなければ居られなくなる。日も落ちた頃、石垣島に入港。
 一泊した翌日、高速艇で西表島へ向かう。どこまでも透き通る輝く碧色の海。そして、亜熱帯の神秘の島。ああ八重山はまた違う世界だ。僕は興奮を抑えきれなくなっていた。
 この西表で過ごした日々のことを大いに語りたいのだが、話が長くなりすぎてしまう。それに、どこで話しても外したことがない大爆笑間違いなしの鉄板話も多く存在するが、それを書くには僕の描写力の欠如もあり、また登場人物に名誉毀損で訴えられる可能性もあったりしてうかつに書けない。惜しいが筆を抑えることにする。
 西表島は島全てが見所だが、ヒナイサーラの滝は特に印象に残る。是非行くべきところだ。西表版那智の滝、というべき瀑布。
 最近はカヌーで行ったり、ツアーも入っているらしいが、当時はそんなものがなく歩いて行った。干潮の時を狙って、膝下くらいの海の中を歩いてヒナイ川の河口へ。そこからはぬかるみの中草原のような地域を歩き、川にそってジャングルに分け入り、小一時間歩くと滝が見え、そのまま歩くと滝壷へと到達する。そして山を登って滝上へ。植生もマングローブからサキシマスオウまで亜熱帯の様相を呈している。頂で見る風景は日本とはとても思えない。密林と青い海が広がる。
 海で泳ぐのもいい。マスクとフィンを着けてシュノーケリング。熱帯魚やサンゴがことさらに美しい。出てきたときは雪が降っていたことを思えば信じられないが。
 この旅行で、西表島でやった僕の最大のイベントは、西表島徒歩縦断である。西表は周回道路とて無く、何かにチャレンジするにはうってつけの島である。
 同宿者と連れ立ち、まず浦内川を遡る遊覧船に乗る。植生といい雰囲気といいまさにジャングルの様相の中、船はゆっくりと川を遡り船着場に。そこからは遊歩道を歩いて、西表最大の景勝地であるカンピラ、マリウドの滝へと向かう。迫力のある滝を見て後、普通は引き返して船に乗るのだが、僕らはそのまま島の中心部に向かって歩き出した。山道はさほどでもないのだが、ルートを間違えれば遭難する。慎重に歩を進めて、約7時間をかけて山向こうの古見の集落にたどり着いた。徒歩縦断完成である。
 そうしているうちに瞬く間に日は過ぎ、様々なことを体験し、何もせず浜で寝ているだけの日があったりして、そろそろ先に進まねばと思い名残惜しい西表を後にした。八重山諸島は西表島が最大だが、それだけではない。そもそもの目的である最西端、最南端も行かねばならない。

 石垣島に戻って、まずは宮良殿内その他の市内観光。石垣島は見るところが多い。最南端の市はもはや夏で、歩くとじっとりと汗が滲む。昼過ぎにバスに乗り、島東岸のサンゴで有名な白保の向こうにあるYHに投宿。
 翌日は石垣の北部を徒歩で歩く。同宿者と連れ立ち、まずは北端の平久保崎へ。灯台を見た後徒歩で南下。東岸の石垣牛群れる牧場を縦断するような形で歩く。途中風葬跡などがあり、人骨も散乱している。独自の文化の片鱗だ。小高い丘に登るとサンゴ礁のリーフがことの他美しく、絶景と言えるだろう。約8時間歩いて、YHへと戻る。
 八重山諸島は、どの島へ行くにも石垣島を経由しなければならない。以後も、あちこちへ行く度に石垣港がお馴染みとなる。

 さて、いよいよ与那国島へと向かわねばならない。目的の最西端である。これについては以前記事にしたので参照してもらいたいが、ちょっと厳しい旅だった。
 もちろん与那国島は最西端の碑だけではなく歴史ある島で景勝地も多いのだが、どうしても最西端に立つと嬉しい。幾度も記念撮影をした。あとは、酒を呑んで過ごし、また石垣へと戻った。

 最南端も行かねばならぬのだが、他にも行きたい所がある。次は黒島へ。
 石垣港から約40分。人口200人に牛2000頭といえ牧場の島であり、最初上陸した時は殺伐としてなにもない島という印象を持ってしまったのだが、歩き出すにつれ徐々に良さがわかった。人も見ない真っ直ぐな道を歩くにつれ、その牧歌的な雰囲気が心に沁みるようだ。町は島の真ん中にあり、キレイな瓦屋根の素朴な美しさが今も脳裏に蘇る。東筋を過ぎて灯台へ。人気もない海を見ながら、様々なことに思いが巡らせる。旅の醍醐味だ。当時は観光化もされておらず、とかくいい印象の島だった。

 また石垣島に戻り遊んだ後、いよいよ波照間島への船に乗る。
 波照間は最南端の碑以外何も見るものはないと言われ、当時は日帰りで行く人が多かった。この出航する船が約4時間かけて島に行き、一時間半停泊のあとまた石垣に帰る、その停泊中に最南端まで走り、そして来た船に乗り込むパターンが多かった由。それでは島を何も観ずに終わってしまうので、泊まると3日後まで船便は無いのだが、島での滞在を選んだ。(現在ではもちろん高速艇が就航している)
 もちろん、結果的にはそれが良かった。「何もない島」という評価が多い波照間島だったが、そんな島に滞在できるほど贅沢なものはない。以前にも記事にしたことがある。
 島に着くと、まずはやはり最南端の碑へと行く。島の南端(当たり前)に位置する高那海岸は波が激しく打ち付ける人気のないところ。そこに、素朴な碑が建っている。与那国島よりも荒涼としていた為か、感傷的になっている自分を見つけていた。思いが駆け巡る。ほんの2年前まではこんなところに立つなど夢にも思わなかった。今現実として居る自分をどう解釈していいか判らないまま佇む。
 それにしてもいい島である。島には当時食堂も無く(今はいろいろ施設があるが)、民宿泊は1泊3食が基本だった。海岸に遊び、昼寝し、サトウキビ畑の中を彷徨い、数多くない道を散歩して日が暮れる。夜は宴会。同宿者と泡盛を酌み交わす。酔いがまわるにつれ皆解放的になり、うちあけ話をする人、歌う人、にぎやかな光景が広がる。南十字星が見える。
 そんな日々。小さな悩みや抱えているものはみんな彼岸のことのように思えてくる。
 それ以上やることはない。波照間はサトウキビが特産であり、他のどこよりも糖度が高いと聞く。製糖工場に遊びに行き手伝ったら、土産をいっぱいもらった。
 島に遊んで4日目、船が来て名残惜しい波照間を去った。

 八重山の真珠、竹富島へも行った。星砂の島。
 石垣島からはあっという間の距離であり、小さな島で日帰りが相当だが、もう波照間でのんびり旅にすっかり馴染んでしまい、4日ほどをぼんやりと過ごした。美しく保存された街並みは、ある意味博物館的ではあったがそれはそれ、滞在するうちにどんどん素朴な良さが伝わる。観光客が多いがそれも昼間だけであり(石垣日帰り客が多い)、コンドイ浜で波と興じ、夜は泡盛、また時間を忘れたゆたうように過ごした。

 徐々に、僕は何もしなくなってきた。石垣島でまた遊び、さらに西表島に再び帰ったりした。これは、下手をすればもう旅行ではなく放浪に近い。そのことにはたと思い当たり、沖縄本島行きの切符を買った。これが本土内の旅であれば、例えば周遊券などの期限などもあって旅を終了せざるを得ない外的要因がある。しかし、ここでは自分の意思を強く持たないと旅を終わらせることが出来ないのだ。
 翌日、買い物をして午前の船で石垣島を後にした。

 翌朝、那覇に到着。2月に始めた旅も、そろそろ4月の声を聞く。大学も開講する。帰らなくてはいけない。なに、また来ればいいではないか。
 土産物を物色し、本土にはその頃殆ど売っていなかった泡盛を大量に買い込み、大阪新港行きの船に乗る。たくさんの思い出を抱えて、遠ざかる那覇の街を見ながら再訪を誓い、旅を終えた。

 以来四半世紀。再訪の衝動は常に襲ってくる。そしてまた出かける。もう何度足を運んだことか。後に社会人となり所帯も持ったが同じことである。いつも沖縄の空を思う。
 もはやこんなのんびりと船便で行くことも叶わず、飛行機でビュンと行ってしまうが、行けば、そこで流れている空気は同じである。街も以来変貌を遂げ、外見は変わってしまった場所や島もあるが、そこに沖縄があってくれる限り、肩の荷物を下ろせる地であることには違いがない。また空港に駆けつけひとっ飛び、那覇の空港に着いてA&Wでルートビアのイッキ呑みをして一息つく自分を今も夢想している。
 

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僕の旅 鹿児島県2

2009年04月29日 | 都道府県見て歩き
 鹿児島県は広い。沖縄本島に接する与論島までが鹿児島県。ところが奄美には僕は残念ながら行った事がない。つい沖縄まで行ってしまうためであるが、今後機会は訪れるだろうか。機会と言えば喜界島もあるな(オヤヂ)。
 鹿児島の島々で足を踏み入れたことがあるのは、種子島と屋久島だけである。
 ちょっと旅行記風に書いてみたい。

 ある長い休みの前日の夕方。僕は妻を乗せ、鹿児島に向けて車を走らせた。夜行バスでも一夜で到着するのだから行けないことはないだろう。しかしなかなかにこれは疲れる。今では無理だろう。1000kmくらいあるからなぁ。ほとんど休まず走り続けて朝の屋久島行きフェリー出航にギリギリ間に合う。出航と同時に泥のように眠る。
 屋久島には一度行ってみたかった。若い頃からそう思っていたのだが、機会を逸するうちに世界遺産登録、さらに「もののけ姫」の公開によってかなりメジャーな旅先となり、一度は躊躇したのだが、ここで行っておかないとさらに開発が進み後悔するのではと思い、重い腰を上げたのだ。今から8年くらい前になる。
 フェリーは約4時間で屋久島宮之浦港に入港。曇り空だが、ひと月に35日雨が降ると言われる屋久島では上等だろう。結局この旅では、5日間屋久島に滞在して雨は1日(正確には半日)だけだった。運がいいと言うべきだろう。
 手始めに屋久杉に逢いに行こうと、ヤクスギランドへ。屋久島では樹齢千年以上の天然杉だけを屋久杉と呼び、それ以下は「小杉」である。なんとも豪勢な。ヤクスギランドとはまた遊園地みたいな名称だが、山深い森の中にある大木密集地に歩きやすいように遊歩道を設置した場所である。車を走らせ、標高約1000mまで上る。
 指定園内に入る前に、もう巨木が姿を現す。紀元杉。推定3000歳だ。でかい。そして雄雄しい。高さは20m程か。太い幹の上部には他の植物が着生して、木の上にひとつの庭園があるようだ。バベルの塔か、ラピュタを彷彿とさせる。
 歩き出す。千年杉、仏陀杉、母子杉、天柱杉と屋久杉の中でも巨大なものには名前が付けられている。いずれも原始の風景の中に神々しく聳え立つ。僕は言葉を失っていった。
 車ではるばるやって来ているので、夜はパーキングキャンプとなる。これは正解だった。
 屋久島は、基本的には登山がメインとなる。宿に泊まれば、朝5時に出発して登山口までバスかタクシー。これは大変だ。車で寝起きすれば、登山口に泊まって夜明けと共に行動が可能。非常に有効だった。
 夜は漁港や町の魚屋、スーパーでとれたての魚を購入する。包丁も俎板も持参してきているので、魚をおろし刺身で。名高い首折れ鯖も地元では廉価だ。飛び魚は小骨が多く難渋したが、これも新鮮で美味い。カメノテは味噌汁にする。酒は、屋久島の芋焼酎「三岳」。これを屋久島の天然水で割る。屋久島の水は、山の中の小川や湧き水はほぼ飲料可能。美味い。至福という言葉はこういう場面で使用するのではないか。

 白谷雲水峡へ行く。ここは、弥生杉などの巨木もあるが、渓谷に存する原生林として名高い。照葉樹や常緑樹が混在し、川と豊富な降水によって苔が繁茂し、全てを緑色に覆いつくす。倒れた杉も、岩も木々も皆深緑色を纏う。5時間程度の山歩きだが、全てが湿った場所であり足元はあまり良くない。
 森に深く分け入ると、その緑がさらに色濃くなる。森が生きているのが分かる。幾重にも植物が重なり合い深い静けさを形成する。ただ森が呼吸する音だけ。こんなところは今まで見たことがない。ふと、来てはいけない場所に来てしまったのではと錯覚する。神秘とか神聖とか、そういう言葉では表現しにくい、人を拒絶するかのような深まり。どう例えればいいのだろう。かつて西表島を縦断したときに見た密林とも違う。ここを知れば、他のどこの森林も乾いて見える。それほどウエットな空間。
 その深い緑のクライマックスは、山小屋を過ぎてさらに上ったところに広がる。分かってはいてもやはり驚く。この光景はいったいなんだろう。視界に入る全てのものが濃い緑色で埋めつくされる。深遠な静寂と美。だがその美しさには畏怖感を伴う。
 妻がいつもの赤いキャップをかぶって森の前にぽつねんと立っている。その赤がこの緑だらけの空間に異様なアクセントとなっている。なんだこの色彩は。圧倒的な緑に襲われる。呑み込まれてしまうのではないか。僕はなんだか徐々に怖くなってきた。しかしこの場を離れがたい。
 この場所は、僕たちが訪れて後、「もののけ姫の森」という立て札が立った。宮崎駿氏が映画のモデルにしたのだという。ただそのネームバリューのために、旅行者はこの場所だけを目指してしまうようになり荒廃を誘発し、結果立て札は外されたと聞く。確かに緑が最も濃い場所ではあるが、ここだけを見て引き返すようでは確かにもったいない森であり、賢明な処置だろう。白谷雲水峡にキャッチフレーズなど必要ない。
 その先の辻峠を経て、太鼓岩と呼ばれる景勝地で素晴らしい眺望を満喫し、楠川歩道を経由して引き返す。

 屋久島の象徴と言えば縄文杉だろう。昭和41年に発見されたこの古大木は、推定7000歳とも言われる。屋久島はそれが全てではないが、やはり見に行かざるを得ない。
 その日は縄文杉への表玄関である荒川登山口で車中泊をしていた。バスの終点であり登山客が居なければ人っ子一人居ない深い山の中。夜は恐ろしいほどの静けさだったが、明け方になれば次から次へと車が到着する。みんな縄文杉を見に行くのだ。当時でもこの人出だったのだが、現在ではその頃の三倍も登山客が訪れ年間10万人にもなると言い、車両乗り入れ規制も行われるとの話。
 せっかく登山口で泊まったのに、ゆっくりと朝食を食べていたら多くの人が先に行ってしまった。僕らもそろそろと歩き出す。往復約22kmであり急がずともいいが日が暮れるまでには戻らねばならない。
 ただ登山と言っても、前半はトロッコ軌道を歩く。かつて屋久杉搬出のための森林軌道で大正時代に施設されたものらしい。軌道はまだ現役であり、線路上を歩く。平坦でStand by me気分であるが、これが約8km続く。その先は軌道を離れて本格登山となる。
 ここからは屋久杉も数多く登場する。翁杉を過ぎしばらく行くと、ウィルソン株に到着する。周囲14mという巨大な切株。
 これは、秀吉の命によって伐採されたという。方広寺建立のためと言われる。その方広寺は何年も経たぬ間に倒壊し焼失したが、切株は今も残っている。内部は空洞化し、祠がある。水が湧いているため中で寝転がるわけにはいかないが、10人くらいなら余裕で寝られる広さに見える。トトロでも大丈夫だろう。
 登山道は整備され、歩くのに苦にはならない。標高を増す毎に、大いなる屋久杉たちが目前に出現する。大王杉が姿を現した。縄文杉発見以前は屋久島最大の杉とされていたかつてのシンボル。その名の通りの威容。仰ぎ見るととてつもなく大きい。
 そして、クライマックスとしての縄文杉の下へ到着。
 この巨木についてはもう言い尽くされているのでそれ以上の言葉を見つけ出せないが、とにかく圧倒的だ。また形がいい。25mもの高さを誇っているのだが、それに負けないほど幹が太いため、いかにもどっしりとしている。他の杉よりも木肌がゴツゴツとしてすらりとしてはいないため、いかにも老木の貫禄がある。なんと言うか、人格を感じさせる。ここは屋久島最大の観光スポットであるためぽつねんと一人で見ることなど叶わないが、一人きりで対峙すれば言葉を発してくれそうな錯覚に陥るだろう。
 心ゆくまで拝謁し、山を降りる。
 
 合間合間に屋久島を観光してまわる。
 屋久島は、一島全てが世界遺産というわけではない。島内のおよそ20%の森林がそのように指定されている。西部林道は、その中で唯一世界遺産の範囲が海岸線まで伸びている場所である。ここはその名の通り林道であり、道も狭く観光バスなどはやってこない。なので、ヤクシカやヤクザルがどんどん下りてくる。ヘタにスピードなど出せない。ゆっくりと動物と戯れながら行く(と言ってもちょっかいを出しては生態系が壊れるので眺めるだけだが)。このあたりは実に峻険な地形で、屋久島の最大の特徴である植生の垂直分布が色濃い場所なのだが、学者ではないのでよくわからない。ただ、ここにはガジュマルなどの亜熱帯植物もいる。沖縄みたいだ。山の中はあれほど杉が勢力を持っていたのに、ここから見上げれば屋久島の特色でもある照葉樹林が繁茂する。垂直分布とはこういうことか。
 いくつか大きな滝もある。大川の滝は実に巨大である。また、千尋の滝の迫力は凄い。あちこち滝は見てきたがこれはその中でも白眉と言っていいだろう。
 フルーツガーデンに寄って果物を食べたり、漁村を歩いたり、栗生浜(どうバカは知ってますね)で遊んだり、楽しいことは山ほどある。また温泉もあちこちに湧く。楠川温泉、大浦温泉、尾之間温泉。日替わりで堪能する。泉質は尾之間が好ましかったが、最も好きだったのは湯泊温泉である。海岸にある露天風呂で、オープンすぎて女性にはどうかと思うが、ぬるめでいつまでも入っていられる。開放感は抜群だ。海岸にある露天風呂は平内海中温泉の方が高名だが、干潮の前後2時間しか入浴できない。潮が満ちれば海中に没してしまう。僕が入ったときには、逃げ遅れた魚たちが茹だっていた。

 そうして疲れをとりながら山歩きを続けていたのだが、妻がとうとうギブアップしてしまった。実はこの時妻はちょっとした病気に罹ってしまっていて体力が続かなかったのだが、それは後に分かった事で、この時はただ疲れが溜まったとしか思わなかった。いかんともし難いので僕は半日だけ自由時間を設定し、一人で登山を敢行した。
 本来、屋久島最高峰(つまり九州最高峰)である宮之浦岳に登るつもりだったのだが、それは丸一日を要してしまうため、目的を屋久島第三峰の黒味岳に切り替えた。これなら、急げば5時間くらいで制覇出来る(これは当時の僕の体力が勝っていたのでこの時間。今なら8時間くらいかかるかも)。
 例によって登山口で泊り、夜明けと共に歩き出す。まだ誰も登山道には居ない。迷わないようにだけ気をつけて駆け足で飛ぶように登る。空気が澄み渡り呼吸が心地いい。
 しばらくすると山小屋が見えてくる。ようやく人の姿があった。誰も居ない山道は多少怖い。この小屋近くに、淀川という清流がある。何故淀川という名称なのか解せない程に美しい川だ。あちこちで川を見たけれども、間違いなく僕の中では美しさ1位。まるで絵のようだ、と書いてしまえば陳腐に過ぎるが、この澄み切った清さをなかなかに表現するのは難しい。もちろん直接すくって喉を潤す。美味い。
 しばらく淡々と山道を歩くと、急に視界が広がる。小花之江河だ。ここは日本最南端の高層湿原である。湿原好きの僕を十分満足させるに足る山上の庭園。少し歩くともうひとつの湿原である花之江河に到着する。
 ここは登山道の分岐点であり、混雑とまではいかずとも他の登山口から来るハイカー達も増えてきた。皆一様に最高峰である宮之浦岳を目指すのだろう。僕もその人々に紛れて登山道を行く。が、しばらくすると黒味岳分岐が。ここで折れるのはどうやら僕だけのようである。一人敢然と登りだす。
 ここからは黙々と登るのみであるが、高山のため木々も姿が減り剥き出しの岩が多くなる。足場はさほど悪くないものの十分な注意が必要となる。堕ちても誰も助けてはくれないだろう。後続のハイカーは居ないようであるし。
 傾斜が厳しくなり、植物も見えなくなった頃、山頂に着いた。標高1831m。山頂は巨大な岩の塊だった。居るのは僕一人。遥か下に先ほど通った花之江河が箱庭のように見える。振り向けば宮之浦岳の威容。口永良部島まで見える。晴れてはいないが霧もなく恵まれた。山頂に一人というのは始めての経験である。天上天下唯我独尊という言葉が何故か浮かぶ。満喫して下山する。
 満足して屋久島を後にする。この後は種子島へと渡る。

 種子島では、うって変わって観光旅行風に行く。
 もちろん種子島には千座の岩屋や馬立の岩屋などの景勝地、マングローブやアコウの大木、坂井の大ソテツなど、宝満神社、たねがしま赤米館と見所には事欠かない。車であるのをいいことに貪欲に観て回ったのだが、この島の目玉はやはり鉄砲と宇宙センターである。
 種子島と言えば鉄砲。鉄砲と言えば種子島。日本の戦国時代の様相を劇的に変え、織田信長、豊臣秀吉に天下を取らしめた当時の最先端の武器。その最新兵器が日本に最初に伝来したのがここ種子島と言われている。言われている、と書いたのは、もしかしたらもう少し以前にも鉄砲が日本に入ってきていた可能性があるからだが、史上ではここが最初であり、大量生産のきっかけとなったのは間違いないだろう。
 その伝来地とされる島の南端門倉岬に立つ。ここに中国のジャンク船が漂着し(漂着ではなくしっかりとした訪問であったかもしれないのだが)、そこに乗り合わせていた三人のポルトガル人が鉄砲を日本に伝えた、ということになっている。
 ところで、南蛮人など日本人にとってはほぼ接触の無かった時代、会話も出来るはずがない。この場の接触は、このあたりの主宰だった西村織部丞と、船に乗り合わせていた明の儒生との間で、筆談でなされた。織部丞に漢文の素養があったということも当時の種子島の民度の高さを伺わせるが、一方の、一般には通訳として解される明の儒生、名を五峰とされるが、この五峰は、「王直」のことだとする説が有力である。
 歴史好きであれば王直という名にピンとこられる方もあると思うが、もしも王直であったとすれば、これは漂着などではなく明確に鉄砲を売り込みに来たのではないかとも想像したりして。
 王直は、いわゆる「倭寇」の大頭目として知られる。倭寇は日本人が海賊化した者と一般には認識されているが、この頃は密貿易者の総称となっており何も日本人ばかりではない。王直は当時の大貿易商であり、長崎の福江島(五島列島)にも屋敷を持っていた。僕も五島に行った際にその屋敷跡を訪ねた事がある。
 海岸へ下りてみる。おそらくこのあたりに船が着き、西村織部と五峰(王直かもしれない)が、砂浜に杖で文字を書いて会話をしたと思うと感慨が深い。僕も流木を拾って砂に「鉄炮如雷光」などと書いては悦に入っていたが、隣で妻はやはり死んだ魚のような目をしている。興味無いかなぁ。
 船は西之表に曳航され、鉄砲が領主の種子島時尭に渡る。そこからこの二挺の鉄砲を複製せんがための研究が始まり、火薬の調合に苦労し、当時日本に無かったネジという螺旋のカラクリを会得するために刀鍛冶八板金兵衛が娘若狭を南蛮人に差し出すという悲劇も伝承として伝わる。
 僕たちも島一番の街である西之表に行き、種子島開発総合センター(鉄砲館)をまず訪れて勉強し、種子島氏墓地、赤尾木城跡、鍛冶屋集落跡、八板金兵衛屋敷跡、若狭の墓などを訪れた。種子島時尭の銅像が立っている。この第14代島主は鉄砲伝来の時にまだ16歳だったと言う。二挺の鉄砲を購入するのに二千両払ったと伝えられる。豪儀と言うか足元を見られたと言うか。ただこの二千両で日本の歴史が変わったことも確かである。というのも、時尭はケチ臭い人物ではなく、その苦労して複製したノウハウを簡単に外部に伝えた。したがって直ぐに紀州の根来衆や堺の商人がこれを学び、近江の国友鍛冶も翌年には生産を始めている。これがもっと隠蔽体質のある大名に伝えられたとしたらどうなったか。また、薩摩島津氏が鉄砲を完全独占していればどうなったか。ifの想像は尽きない。
 
 さて鉄砲はそのくらいとして、種子島宇宙センターへと向かう。日本最大の宇宙開発基地だ。
 ロケットの打ち上げは地球の自転速度をも利用するため赤道に近いほど有利とされる。建設計画時は、日本で最も赤道に近い沖縄や小笠原がまだ日本に返還されておらず、種子島に設置された由。広大な施設のため、車を走らせあちこちの発射場を見て回った。また宇宙科学技術館という施設があり、様々な模型や展示物で日本のロケット開発並びに宇宙について楽しく学習が出来る。
 僕はここに一つの目的があった。
 僕の祖父は模型技師だった。その事は以前にも書いたことがあったが(→広島県の旅)、ここにも祖父が作ったジオラマがあるはずである。しかも、そのジオラマの製作現場を僕は見ている。小学校に上がるか上がらないかくらいの頃、父に連れられて祖父の勤める会社に見学に行った。祖父はその頃定年間近で、おそらく孫に職人としての姿を見せたかったのではないか。
 祖父は、宇宙基地全景の縮尺模型を作っていた。盛り上がった基盤に緑色の粉を撒いて接着させ巧みに山を造形している。

 「何をふりかけてんのん?」
 「これはオガクズを緑色に染めたもんだ」

 そんな会話の記憶が僕の片隅にある。じいさんも死んでずいぶん経った。
 そのじいさんの作品を見るのを楽しみにしていたのだが、施設をずいぶんくまなく見てもそれらしきものが無い。僕は訊ねてみた。宇宙センター全景の模型があると思うのですが…。
 すると、何年か前に外され今は無いとのこと。そうか。確かに30数年前のもので、基地も開発がさらに進み古くなってしまったのだろうな。ぐずぐずせずもっと早くに来れば良かった。じいさんすまん。見損ねてしまったよ。

 そして、心残りはあるものの、充実した屋久島・種子島の旅を僕は終えた。
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僕の旅 鹿児島県1

2009年04月19日 | 都道府県見て歩き
 火山の噴火を初めて見たのは鹿児島においてである。もちろん桜島のこと。
 日本は火山大国であり、全部で108もの活火山があるとされている。しかしさほど実感としては無かった。それまでにも浅間山や阿蘇で煙のようなものが出ているのは見たことがあったが、噴火というレベルの話ではない。また雲仙普賢岳や伊豆大島、三原山の噴火のニュースが緊迫感を持って流れる以前のことである。僕が初めて鹿児島に足を踏み入れたのは四半世紀も前になる。
 鹿児島市内を自転車で走っていた。旅行の途中である。ドーンという音がした。振り返ると、海の向こうに聳える桜島から噴煙が、ちょうどきのこ雲の如く盛り上がり、天空に向かって大気を押しのけるように伸び上がろうとしていた。「鹿児島は火山灰が酷いよ」と人から聞いてもいたし、桜島は定期的に噴火するという知識はあったものの、その力強く上がる噴火雲(こんな言い方あったかな)を見て、これはおそらく普段の噴火ではないのだろうと思い恐怖感を感じた。今にも火山礫が飛んでくるのでは、と思い避難をしなければと辺りを見渡したのだが、街の人はさほど注意を払う様子も無い。左様か、と僕は思った。こんなことは普通の出来事なのか。
 その時に撮った一枚の写真を帰宅してから人に見せると一様に驚いてくれる。桜島はこんなに凄いのか、と。実際凄いのである。地元の人は「洗濯物が外で干せない」と困ったように言われるのだが、僕はそれどころではなく怖かった。
 鹿児島はそのため、洗濯物が干せないだけではなくシラス台地で稲作に不向きであり、昔は暖かいのに米が収穫出来ずサツマイモを植えたり、また水害も多い。住むのには厳しいとも聞く。だが、旅行者から見れば南国でいつも暖かく、食べ物も美味く温泉があちこちに湧いて実に羨ましく感じる。僕も、鹿児島はいつ行ってもいいところだなーと思っている。ギャップをお許し願いたい。

 鹿児島に最初に訪れたのは20歳の時。熊本から八代を経て日が暮れる頃県境を越えた。自転車旅行であり、日没を過ぎればもう走っても楽しくない。国鉄阿久根駅(現在は肥薩おれんじ鉄道)まで来て止まった。そしてそこの駅で寝た。夏であり寒くはなかったが、そこに居た今で言うホームレスのおっちゃんが、ダンボール分けてやるよ、と言ってくれた。こういうおっちゃんに親切にしてもらったのは初めてのことで(当方もみすぼらしかったのかなぁ)、僕は嬉しくなり一緒に酒を呑んだ。貨物列車の連結器に乗って移動するんだよ、などと様々に珍しい話を聞いたのだが、そんな話は全てここに書くわけにもいかないし鹿児島の旅とあまり関係が無い。
 鹿児島市内では台風に降り込められ、しばらく停滞せざるを得なくなった。ただ、強風であったものの雨がさほどでもなかったので、僕はあちこち観光して歩いた。軍服姿の西郷さんや大久保利通、小松帯刀の銅像。照国神社。鶴丸城跡。城山。そんなのがフィルムに残っている。
 台風が過ぎたので旅を再開し、僕は大隈半島の先端にある佐多岬を目指した。ここは九州最南端。その時は自転車日本縦断中であり、つまりは一応のゴールだった。その時のことは「旅の宿その8野宿」に詳細を書いたので繰り返さないが、この話は、大隈半島の最南端の岬を目指す為には「佐多岬ロードパーク」という有料自動車専用道路がその前にあり、自転車は通してくれないため、その道路の営業時間が終わる夕方以降にこっそり料金所を突破し、岬で野宿をして夜明けと共に出てくるという最南端踏破の苦労譚である。ところでこのロードパークは管理会社が破綻し、2007年には一般町道となって現在では無料化され、同時に自転車も徒歩も通行可能となった由。リンク先に書いたことは本当の昔話になってしまった。
 最南端制覇の後は、疲れたのでフェリーで対岸の薩摩半島へ渡り、指宿温泉。ここには有名な砂湯がある。熱い砂の中に首だけ出して埋まり、ゆっくりと過ごした。

 そんな鹿児島の旅だったが、思い出は尽きない。そして、また我慢できず追体験をしに、そして新たなものを求めて三度四度と訪れることになる。
 前述の旅では、ほとんど薩摩半島側は行かなかったので後悔が残った。吹上浜、長崎鼻、そして池田湖。知覧の町並み。枕崎でキャンプ。カツオを買い込んで痛飲。楽しいな。開聞岳に上ったことはないのだが、この山はおそらく日本で最も美しい。それは富士山よりも、である。こんなに均整のとれた円錐形の山を他に知らない。
 錦江湾の最奥部、加治木を過ぎると隼人塚がある。大和朝廷の支配を拒み戦い続けた薩摩隼人の源流がここだ。そこから北上し、国分を過ぎてさらに行くと霧島に着く。高千穂峰のことは以前書いたが(→宮崎の旅)、そのふもとの霧島神宮は鹿児島である。ニニギノミコトを祀った霧島神宮が荘厳に座っている。熊襲や隼人などの反朝廷側と、大和朝廷側の史跡がここには混在している。もちろん坂本龍馬像もあり(新婚旅行でおりょうさんと一緒ね)、いい温泉も湧いている。
 前述した、生きている地球を実感させる桜島も訪れなければならない。鹿児島港からフェリーであっという間であり、垂水側からは地続きだ。この地続きは溶岩によって繋がったのであり、島内は溶岩の塊たちが迫る。飲み込まれて頭だけ地上に出している鳥居もある。

 他にも歩くところは山ほどある。
 歴史好きであれば、鹿児島市内に何日居ても飽きるところが無い。昨今は篤姫ブームで観光客も増えていることだろう。僕はと言えば、今住んでいるところから鹿児島行き夜行バスが発着するようになり、一夜明けたら鹿児島天文館に居る、なんてことが可能になった。おかげで数回利用した。
 加治屋町を歩く。西郷、大久保をはじめ、村田新八、大山巌、吉井友実、篠原国幹、伊地知正治、東郷平八郎、黒木為禎らは皆この狭い区域内に生まれ、明治を担った。それだけでも震えが来る。
 城山に登り、西南戦争のクライマックスに思いを馳せる。爪痕は今も色濃く残されている。南洲墓地には薩軍2023名が眠る。正面に西郷、両脇を桐野利秋、篠原国幹が占める。
 仙巌園に立ち、また尚古集成館に島津斉彬を偲ぶ。細かく歩けば何日あっても足らない。歩いていると何かにぶつかる。おや、ここは森有礼生誕地か。あ、調所笑左衛門の屋敷跡か。街中の大きなデパートの前で「月照上人」なんて書かれた石碑があったりして、思わずドキリとする。高知や長崎と同様、歩いても歩いても史跡だ。

 夜は酒。やはり芋焼酎である。これはたまらない。また奄美の黒糖焼酎も捨てがたい。いずれにせよ大量に呑む。アテに食べるのはつけ揚げ(薩摩揚げ)。練り物大好きな僕はこれを愛してやまない。とんこつ(骨付き豚の味噌煮込)、地鶏刺し、きびなご。たまらん。
 鹿児島は黒酢や黒豚など黒い食べ物が目立つが(別に豚の肉が真っ黒なんてことはないのだが)、美味いですな。黒酢の生産地に見学に行って沢山買い込んだことがある。健康にいいので飲め、というわけだが、つい料理に使ってしまう。中華料理に使うと香りが全然違うのでね。豚も美味い。トンカツ、しゃぶしゃぶ…脂が違うのかなあ。
 呑んだ後にはラーメンがいいのだが、鶏飯も食べたい。これは奄美の郷土料理なので天文館で安直に、とはいかないけど、食べられる店は何軒かある。うまいねー。そういえば鹿児島には「酒寿司」なるものもあって、酢の替わりに酒を使うという豪傑の食べ物だが…。僕は一度だけ食べ、なかなかにその本当の旨さが分かるまでには到達できなかったことを思い出す。
 さらに、その後に白熊(巨大カキ氷)を食べる。酔っているとこういうことをしてしまうのだ。そして必ず腹痛を起こすのが慣わし。全くもって学習能力がない。

 これで終わってもいいのだけれども、もう少し書きたいので続く。
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僕の旅 宮崎県

2009年01月02日 | 都道府県見て歩き
 宮崎。今は名物知事のおかげでブレイクしているが、かつては新婚旅行のメッカとして知られていた。まだ外貨規制もあった昭和30年代、海外旅行など高嶺の花であり、沖縄も占領下にあり、宮崎は誰もが行くことが可能な「南国」だった。島津貴子さんが新婚旅行で訪れたことが追い風となり、ロイヤルな雰囲気も獲得した。ことに日南海岸は、鵜戸神宮、青島、堀切峠と景勝地が続き、フェニックスなど亜熱帯植物が繁茂する楽園。冬でも暖かい。そんなイメージが人々の足を向けさせていた。その希少価値は海外旅行に出やすくなった時代を迎えて少し陰りを見せたかもしれないが、僕が初めて宮崎を訪れた四半世紀ほど前にはまだ生きていたと言ってもいい。
 晴れわたる美しの国、宮崎。僕もそれを楽しみにしていた。だが、僕が最初に宮崎に足を踏み入れた時は、台風が直撃するさなかだった。

 あいも変わらず自転車旅行の話だが、この時の旅行は台風に悩まされていた。九州を反時計回りに走っていた僕は、鹿児島県内にもう一週間も居た。もちろん一箇所に留まっていたわけではなく、最南端の大隈半島佐多岬や、指宿や桜島など転々としていたわけなのだけれども、台風のせいで停滞も余儀なくされていた。自転車は雨風には弱いのだ。
 台風情報はあちこちで確認していたつもりだったのだけれど、野宿などもしているため少し天気予報を見損ねていた。二つほど大きな台風が通過し、それを鹿児島でやりすごした僕は、もう大丈夫だろうと宮崎に向けてペダルを踏んだ。実はその時の台風は三連続して日本を襲い、残されたもうひとつが刻々と近づいていたのを僕は全く知らずにいた。
 鹿児島の垂水、鹿屋と走るうちにどんどん雲行きが怪しくなり、風が強く吹き出した。そこで止めればいいものを、何故か僕は意地になって走り続けた。志布志に差し掛かる頃には風雨が強くなり、徐々に前方確認が出来なくなるほどに。合羽など役に立たず全身びっしょり。身の危険を感じるほどだったが、なんだかここまで酷いとヤケクソになってしまい(若かった)、コノヤロウ根性で駆け抜けた。そして宮崎の県境へたどり着いたのだが、雨でカメラが出せず(当時県境の標識は記念に必ず撮影していた)往生したことが記憶にある。当初予定では都井岬へ行き(「岬めぐり」の舞台と言われていた)野生の馬と戯れようと思っていたのだがそれどころではない。そのまま串間を過ぎて、日南海岸YHに逃げ込んだ。
 僕は翌日、さすがに体調を崩してしまいまた停滞。このことが、九州一周で大分県をすっ飛ばす原因となってしまった(→大分の旅)。何もすることのない昼、高校野球中継を見ていた。PL学園が東海大山形と対戦し、PLが29点も取り圧勝、最後には投手・清原まで飛び出した伝説の試合を観戦した。なのでこの日が1985年8月14日であると正確に記することが出来る。
 
 宮崎と関係ない話ばかりで恐縮だが、その翌日に走った、晴れ渡った日南海岸はさすがに美しかった。もちろん鵜戸神宮や青島、鬼の洗濯板等の景勝地を堪能し、サボテン公園で、当時旅行者の間で日本三大アイスクリームのひとつと言われていたサボテンアイスクリームを食べた(あとふたつは北海道弟子屈の硫黄アイスと信州安曇野のわさびアイス)。味の感想は書かなくてもいいだろう。
 この日投宿した宮崎市内のYHで、当時飲酒禁止の施設だったのに同宿のヤローどもとこっそり宿を抜け出し、怪しげな酒を買い込んで、別部屋の女の子たちも巻き込んで開いた宴会もまた忘れられぬ楽しい思い出なのだが、それもまた宮崎と関係ある話ではない。

 もちろんその後も宮崎には数度訪れている。呑み食いの話でも書こう。
 今は名物知事のおかげで宮崎の名産品は全国規模で知られている。なんでもマンゴーがすごい人気なのだそうな。昔は知られていたのは日向夏くらいだったような。
 これも20年くらい前の話になってしまうのだが、宮崎の街へ再びやってきたときに、地鶏の炭火焼を食べてみようと思った。某食通本で読んだことがきっかけだったのだが(森須滋郎さんの本だったと思うのだが記憶が…)、写真が載せられている書籍ではなかったために、鶏の腿の炙り焼きだろうと単純に思っていた。ところが、カウンターで調理を見ていると、鶏肉を一口大かもう少し小さく切り分けたものを直火で盛大に燃やしているではないか。あれには驚いた。「燃やす」とは過激な言い方だがそうとしか見えない。炎が大きい。そして炭化したかのように真っ黒になった鶏の欠片の山を「おまちどうさま」と供された。なんだこれは。
 しかし口に運ぶとこれがいける。鶏はさすがに地鶏であって歯応えが強烈であり、真っ黒焦げかと思われたものの中はちょうどいい火の通し具合になっている。さすがに煙臭は強いが、簡易燻し鶏のようにも思えた。鶏の力に自信がないと出来ない調理法だろう。ブロイラーでやれば食べられたものではないに違いない。そしてこれは実に焼酎に合う。
 ところで宮崎の焼酎の代表と言えば、そば焼酎だとずっと思っていた。類型的に、大分は麦、熊本は米、鹿児島は芋と言うように。ただ、歴史が長いのは宮崎においては芋らしい。「雲海」のイメージが強すぎるのか。
 鶏に戻るが、宮崎で鶏と言えばチキン南蛮だろう。鶏を揚げたものを甘酢にくぐらせタルタルソースで食べるこの料理は宮崎発祥であり、今やファミレスや社員食堂にも登場する。全国区と言える。美味い。
 そのうちに「冷や汁」も全国区になるかもしれない。味噌を焼き、出し汁でのばして白身魚を焼いてほぐし入れ、シソやキュウリなどの薬味を入れて冷やし、麦飯にかけて食べるこの郷土料理はたまらない。夏には我が家でも時々やる。
 宮崎はうどんも美味い。郷土料理は他にもたくさんある。僕がまだ未食で今一番食べたいのは肉巻おにぎりだ。これ、美味そうなんですよね。次に宮崎に行けば必ず食べるぞ。

 宮崎はまた、歴史の国でもある。例えば飫肥。堀割に鯉が泳ぐ実に美しい城下町である。この地を治めた伊東氏は、あの伊豆の藤原南家流伊東氏である。例の「曾我兄弟の仇討ち」で知られる工藤祐経の嫡男祐時が、この地の地頭職を賜ったのが始まりであり、また後、足利時代に伊東祐持が実際に下向して来て、その後日向伊東氏となり土着。島津氏との抗争を経て、江戸時代には所領安堵され飫肥藩として続いた。そしてこの一族からはあの伊東マンショが出ている。面白い。こういう目で飫肥を歩くと実に感慨深いが、町では小村寿太郎の出身地としての方がクローズアップされているようだった。
 さて、ここには名物「飫肥天」がある。簡単に言えばさつま揚げの一種なのだが、豆腐を混ぜ込んだ実に柔らかい仕上がりで、食べると甘い。黒砂糖が入っているらしい。僕は練り物大好き人間なので、揚げたてを幾つも頬張った。ふんわりとして美味い。これも焼酎だ。

 話がずれた。宮崎は歴史が古い。西都原古墳群などを見ると相当の歴史の古さを感じるが、そもそも日向国というのは、天孫降臨の地であるのだ。日本で最も古い歴史が息づく。
 前述の日南海岸だって、海彦山彦神話と関わる。山彦が豊玉姫と帰ってきたのは青島だ。どこにでも神話が転がっている。そして、その根本であるニニギノミコトがアマテラスの指令によって葦原中国を治めるべく天から降り立ったその場所は、高千穂の峰である。これは日向国とされている。
 ところが、宮崎には高千穂という場所が二つあるのだ。だから話はややこしい。どっちが本当の天孫降臨の場所だよ、と詮索などするだけ野暮というものではあるが。何よりどちらも素晴らしい場所であるのだから。
 ひとつの高千穂は、渓谷である。県北部に存する。
 この地は、まことに神さびた場所だ。中でも高千穂峡は僕が説明するまでもない高名な場所だろう。断崖の間を流れる清水。真名井の滝。差し込む光が織りなす聖なる幻想的空間。誰しも神を感じるだろう。僕の妻は、この地を日本一美しい風景であると断言して譲らない。
 近くには、アマテラスが岩戸に隠れて世界に暗黒が満ちたとき、八百万の神が善後策を相談したと言われる天安河原がある。そもそもこれは高天原の話であって何故地上にそのような場所が、とつい思ってしまうがそんなことは措いてしまおう。ここもまた神々しさを感じる場所なのだから。そして何と、天岩戸もこの地に現存するのである。これは天岩戸神社の御神体であり、みだりに拝観は出来ないが社務所に申し込めば拝謁させてくれる。
 高千穂神社では毎夜、お神楽が催される。そして神話が生き続ける。

 もうひとつの高千穂は、県南部にある。鹿児島との県境、霧島連峰に存する高千穂峰である。標高1574m。ある夏、僕と女房はこの山に登った。
 これは、何も天孫降臨の場所を一目見てみたい、と思ったわけではない。坂本龍馬はんの足跡を辿ろうとしたのだ。龍馬はんは寺田屋襲撃事件のあとお龍さんと夫婦になり、日本最初の新婚旅行と言われる旅の途中、この高千穂峰に登り、山頂に突き刺さる天の逆鉾を引っこ抜いたという逸話がある。その鉾を見てみたい。
 ルートはいくつかあるが、僕たちは最も易しい鹿児島側から登った。霧島神宮の傍、ビジターセンターのある高千穂河原の駐車場で一泊(Pキャンです)、夜明けとともに歩き出した。
 登山口は晴れているのである。だが、遥か見渡す山にはどうもガスがかかり、山頂は見えない。やっぱり「霧」島なのだな。しかしせっかく来たのに止めるわけにもいかない。トボトボと歩いていると、古宮址(かつての霧島神宮跡地)から登山道に入る頃にはもう視界が悪くなってきた。
 登山道は悪路である。火山なのだものしょうがないと言えるが、赤茶けた火山礫がゴロゴロで砂塵が積もり非常に足場が悪い。しかもどんどん霧が深くなる。これは遭難するかもしれんぞ、とビビりながら、慎重に歩いた。斜面は急になり、火山のせいで木が全然生えていないのでどこが登山道か分からなくなった。危険だ。しかし、引き返す道も既に霧の中。むしろ登った方が良いと判断して(良い子は真似してはいけないよ)、ガレ場を這いずるように前進した。夜明けと共に出てきているので他に登山客の姿は無い。
 不安一杯で登ること一時間半くらいだろうか。なんとか山頂に到着した。
 そこには、龍馬はんが乙女姉さんに手紙で図解して見せた逆鉾がにょっきりと立っていた。おおお。これだこれ。誰も回りに人が居ないので、僕も龍馬はんにならって引っこ抜いてみようかとも一瞬考えたが思いとどまった(当たり前です御神体なんだぞ龍馬はんが不敬なのだ)。しかし、感慨はある。ここまで来ましたぜ。
 しかし、この山は火山のため裸山である。夏ではあるが、吹きっ晒しでどんどん身体が冷えてきた。ヤバい。早く下山した方がいい。
 そこへ、別の登山者がやってこられた。実に軽装で、髭が印象的な、まるで仙人のような風貌の方だった。聞けば、毎日登っておられるという(!)。なるほどここは霊峰なのだな。
 山小屋の鍵をお持ちだったので、入れていただいた。ストーブで身体を温める。生き返る心地だ。妻は仙人さんに、貴方が神に見えます、と言っている。僕も同感。
 そうこうしているうちに登山客も増えてきた。まだ霧は晴れないが、僕らも旅行者、先があるので失礼することにして、来た道を降り始めた。ガレ場は足が滑るが、もちろん降りる方が楽。ただ、登りの時より風が強い。僕らは慎重に、落石をせぬよう歩を選んでいた。
 すると、一陣の風とともに急に霧が晴れ、視界が開けた。見ると、僕らが歩いているのは巨大なアリ地獄の縁なのだった。つまり火山口、御鉢だ。デカい。そして振り向き逆方向を見れば、霧島連山が一望ではないか。
 その風景を、何と表現すればいいのだろう。少なくとも日本では今まで見たことのない風景。岩壁連なる北アルプスとも、富士山とも、北海道の旭岳とも違う。樹木の確認できない荒涼とした山々は、日本の山というよりむしろ、日本どころか月とか火星とかを連想した方が近いような気もした。そしてこの雄大さも、また未経験である。天地創造の混沌というのは、もしかしたらこういう光景ではないのか。 
 そこに至って僕は思いついた。そうか、天孫降臨の地なんだ、と。そりゃ神話も伝わるはずだよ。この雄大な風景を目前にすれば。
 霧の晴れ間は僅かな時間しか保たなかった。感動で泣きそうになっている妻を後ろに、また荒れた登山道を僕らは降り始めた。

 
 
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僕の旅 熊本県

2008年10月13日 | 都道府県見て歩き
 僕たち旅行者から見る熊本の象徴は何といっても阿蘇山だろう。日本一のカルデラとそれを囲む外輪山の雄大さ、そして今でも噴煙をあげる活火山の風景は、僕らが小さな島国である日本に居ることを思わず忘れさせてしまう。
 初めて阿蘇に行ったときのことを思い出す。大分から久住山を経て遥かに望む阿蘇の山容。やまなみハイウェイから大観峰。教科書で学んだ「阿蘇の涅槃像」が視界に入りきらないくらいに広がる。なんという眺望か。米塚を経て草千里。当時は僕も子供で、あまり知識もなければもちろん北海道にも海外にも行ったこともなく、その風景は盆地生まれの少年にとって想像を絶した。これは凄いや。その時の阿蘇の強烈な印象は忘れない。

 熊本まで来ると、夏であれば、いや春でも強い緑の濃さを感じる。地熱が違うのだろうか、植生が異なって見える。何もかもが繁茂している。さすがは「火の国」であると思う。緑だけではなく全てが色濃い。
 濃いと言えばラーメンのスープも濃い。博多や久留米のラーメンも濃いが、熊本のそれはまた別種の濃厚さがある。その熊本ラーメンが食べたくて、以前僕は夜行バスに乗った。僕の住む最寄のターミナルから熊本行きが発着しているのは実に有難い。家を出て5分でバス乗り場に到着し、あとは寝ていれば朝には熊本の街に着いている。
 熊本ラーメンは、麺が博多などとは違い中太、そして濃厚豚骨。さらにマー油(焦がしニンニク油)が添加される。キクラゲも必ず入っているような。その時は五軒ほど食べ歩いたがいずれも美味い。濃厚なのにしつこくないのが特徴か。なので何軒もはしごが出来た(これは30歳頃の話であり、今では無理か)。

 もちろん熊本の街に来て、食べてばかりいるわけではない。あちこち歩く。
 熊本城は天下の名城であり西郷隆盛も陥とすことが出来なかった城だが、その城郭は実に迫力がある。石垣の武者返しを見ると、これは難攻不落であると直ぐに分かる。加藤清正恐るべし。
 水前寺公園にも足が向く。庭園にはほとんど興味が無い僕だが、ここは東海道五十三次の景勝を模して造園されていると言われており(中に富士山もある)、美術眼の無い僕でも楽しめる。また「古今伝授の間」が移築されている。流石は細川家のお膝元。
 昔、二十歳の頃、自転車旅行の途中で僕は水前寺公園のすぐ近くにあるYHに泊まり、早朝まだ人気の無い時間にここに入ったのが最初だった。あの時一緒に園内を歩いた驚くほどスタイルのいい女性とはその後もしばらく文通が続いたが(文通とはまた古臭い話だ)、お互いに配偶者も出来て途絶えてしまった。今も元気だろうか。
 またあちこち歩く。夏目漱石の旧宅もある。そういえば五高の教授だった。漱石は引越し魔であったので熊本市内だけでも6度転居しているが、そのうち五番目の最も長く過ごした家が残されている。そこを訪れたら、すぐ近くに宮部鼎蔵の寓居跡があった。これには驚く。そしてまたすぐに横井小楠の生誕地があった。歴史好きであれば震えがくる面子である。熊本は本当に奥深い。有名なところでは旧細川刑部邸、小泉八雲旧居、徳富蘇峰・蘆花兄弟ゆかりの地などがあるが、それだけではない。歩いていると「え、吉田司家か?」と思わず足を止めたりしてしまう。あちこちに史跡が点在している。油断出来ない。

 夜は球磨焼酎を呑み、まずは馬刺し。熊本の馬刺しは、信州のそれと違い霜降りでありまた濃厚な世界である。そしてコーネ(タテガミ)と呼ばれる首の部分。これはほぼ脂肪であるが、口の中であっという間にとろけてしまう。たまらん。そこで焼酎を口に投下。至福である。さらに、辛子蓮根や一文字グルグル(茹でた分葱をぐるぐる巻きにして酢味噌で食する)などの郷土料理。もちろん海の幸も美味い。
 呑んだ後は当然ラーメンを食べなくてはいけないのだが、熊本には太平燕(タイピーエン)もある。心は千々に乱れるのだ。

 そんな食い意地の張った話ばかりでもしょうがないのだが、熊本のラーメンと言えば熊本市内中心の前述した「熊本ラーメン」とは別に、県北部の玉名市を中心とした「玉名ラーメン」の系統も隆盛である。こっちが本家熊本ラーメンであるという意見もあって楽しいのだが、むろん濃厚さは負けていない。そんな語れるほど食べてはいないが、美味い。
 ラーメンはともかく玉名方面に向かえば、植木、木葉、山鹿といった地名に様々なことを思う。西南戦争の激戦地区である。田原坂と聞けば誰しもああ…と思うだろう。往時の跡を偲ぶものは一部残されているだけだが、例えば木留に立てば村田新八を思いだす等、思いを馳せる材料には足らぬことがない。陣形を調べてその地に立つ、ということは歴史ファンならよくやることで、関が原や川中島でも試みた人は多いと思うが、この地は近代だけに生々しさを感じる。

 天草諸島には橋が架かっているので簡単に行ける。この橋を繋ぐ道は天草パールラインと名付けられ、日本の道100選のひとつなので僕は行かないわけにはいかない。
 天草は風光明媚さもさることながら、やはり天草四郎時貞だろうか。この少年はどうも概念上の存在に思えて仕方がないのだが、観光の象徴になっている。あちこち史跡が目立つ。僕は以前切支丹の書籍に嵌っていたことがあって、五島列島や西彼杵半島同様、どうしてもそういうところへ足が向くのだが、マニアックな場所はともかく、風景として崎津天主堂は外せない。もちろん大江天主堂と同様昭和の建造ではあるのだが、この湾に面した小さな漁村風景の中に聳える尖塔は、調和しているようにも感じるが同時に違和感も覚える、そんな不思議さを持った風景であって、不意にこの稀な空間に出くわす瞬間などまさに旅の喜びとしか言いようがない。

 そんなこんなでこの熊本を、ある時は列車と徒歩で、あるときは自転車で、あるときは乗用車でと様々な手段で楽しんでいるのだが、ある夏に一度キャンプ仕様で訪れたことがあった。 
 その時は、「五木の子守唄」で有名な五木村や、宮崎県の椎葉村あたりをウロウロしていた。ここらへんはよく「秘境の山里」と呼ばれ、迫る山壁と渓谷に張り付くように村々が存在していて、その山深さは阿蘇とはまた異なった世界を見せてくれる。そんな風景の中で僕らはキャンプを楽しんでいた。
 ところが、夜半過ぎから同行のカミさんが何やら苦しみだした。熱があり、腹痛も加わっているらしい。明け方になりもうダメだと言い出したので僕は焦り、急いで撤収して妻を病院に連れて行こうとした。だがここは山の中。地図を見ると、最も近くで大きな病院がありそうな街は人吉市である。とにかく人吉へ車を走らせた。人吉は熊本で最も南にある街である。
 早暁ではあったが、町の真ん中にある総合病院が受け付けてくれた。様々な検査をした結果、命に別状はないとのことなので少し肩の力は抜けたのだが、多少衰弱が回復するまで入院が必要とのこと。幸い夏休みはまだ数日残っていたので、旅行はここで終わりということにして少しでも身体を元に戻してから帰ることにした。直ぐに移動は無理である。
 はからずも旅先で入院という運びになってしまったのだが、緊急事態はもう脱し、妻は点滴を打たれて寝ている。僕は病室で傍にいて座っていたのだが、女性ばかりの大部屋で男は実に居心地が悪い。完全看護が謳われていて、どうもおっさんがずっと座っていると邪魔のようである。妻も人目を気にしているようなので、僕は時々見に来ることにしてとりあえずその場を離れた。
 急に暇になってしまった僕は、あたりをうろついていた。人吉に来るのはこれが二度目である。球磨川のほとりに開けた盆地で、人吉城の石垣が中心に聳える。一通りの観光は以前にしていたが、なんせ時間を持て余しているので再び城跡などを歩いていた。
 歩いてみると、人吉は実にいいところである。病院のすぐ近くには武家屋敷が並び、なんとも雰囲気がいい。ここは相良藩の歴史が色濃く刻まれた、実に風情のある町並みを残す街だった。そういえば以前はポイントだけを押さえて足早に通り過ぎてしまったなと反省しつつ、ぼんやりふらふらと町を歩いた。見上げれば青い空。鎌倉以来700年以上も相良氏が治め続けたこの町には、何か落ち着きがある。為政者がコロコロと変わる日本で、こんな場所は他にそう多くはないはずだ。
 病院の近くには永国寺という古刹があり幽霊の掛軸で有名だが、ここは西郷隆盛が田原坂で破れ流浪の軍となった時、薩軍本営をおいた寺。そんなところには以前は来なかったな。入院中の妻には申し訳ないが、ゆったりと旅を楽しむ気分になってきた。明け方あれほど慌ててバタバタしていたことが嘘の様である。
 人吉はまた、街中に温泉が湧く。共同浴場も多い。その中のひとつに入ってみた。そこは、流行の言葉を借りればレトロと言えばいいのだろうか、まるで明治時代の湯屋のような浴場だった。足を伸ばしつつ、この時間が止まったような空気感はなんだろうかと思った。700年の歴史を持つこの町では、おそらくレトロなんて言葉は鼻先で笑われてしまうに違いない。
 病院をちょこちょこ覗きつつ、町をまた歩く。夜はさすがに呑み歩くことまではしなかったが、ホテルに一人で泊まって球磨焼酎を少し。そんなふうにして時間が過ぎた。そして妻は丸二日の入院ですっかり回復し、退院の運びとなった。僕は僕で、アクシデント絡みであったのが残念だけれども、結果的に人吉を堪能させてもらったようである。いい街だった。病院にも親切にしてもらえたし。
 元気になった妻を車に乗せ帰路に着くとき、妙に名残惜しかったことを今あらためて思い出すのである。
 
 
 
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僕の旅 大分県

2008年05月24日 | 都道府県見て歩き
 僕が初めて九州に上陸したのは大分だった。これは少年の頃の家族旅行の話である。
 そのときは父の運転する車で神戸からフェリーで別府へ。地獄めぐり。高崎山や水族館。サファリパーク。臼杵石仏や風連鍾乳洞。そしてやまなみハイウェイ。おきまりの観光だけれども楽しかった。
 家族全員揃っての旅行は、これが最後の機会となった。その後は兄や僕は思春期に突入し、友人との付き合いを優先させたり、また親となんか旅行してられるか、なんて年頃を迎える。両親もおそらくこれが最後の家族旅行であろうことは予測していたようで、旅行中にそんな会話を挟んでいたような記憶がある。今僕はちょうどその頃の父親の年齢と同じ。子供がいない僕などは、そのときの親の気持ちは類推するより術を持たないが、寂しかったのだろうか。それとも、子供の自立心みたいなものを頼もしくも思っていたのだろうか。

 次に大分県に足を踏み入れるのは大学のときの自転車旅行であったが、これはほぼ「かすめた」だけだった。学生には無限に時間があるように見えるが一応は有限である(アタリマエだ)。山陰路から旅を始めた僕は、九州を逆時計回りに一周し、鹿児島、宮崎を経て大分へと向かった。延岡から峠を越えてようやく大分県に突入したときにはもう黄昏時を迎えていた。佐伯市にある木造の無人駅で寝袋を広げて泊。
 ここまでの道程で無計画に遊びすぎた。残された時間はあと数日。せめて九州の外周は走りきろうと思っていたが、とてもそれでは地元京都へは帰りつけない。大分は九州で唯一、既踏の地である(前述)。なのでもうここはすっ飛ばしてしまおう。そして翌日、僕は別府まで走ってそこからフェリーに乗って広島へとワープした。船上から高崎山を遠望しつつ、僕のそのときの九州、そして大分県の旅は終わった。

 このことはのちに後悔を生む。九州を一周した、とは言えなくなってしまったからだ。
 僕は社会人になって金沢に居を移し、大分からさらに遠くなってしまったのだが、ある金曜日、矢も立ても堪らずに自転車を畳み福岡行きの夜行バスに乗り込んだ。なんとしても決着を付けなくてはいけない。
 バスは夜が明けたら小倉で一旦停車。そこで下車して自転車を組み立て、早暁一路南方面に進路をとった。僕にとってのミッシングリンクを埋めなくてはならない(そんな大げさな)。
 苅田、行橋を過ぎれば中津。いよいよ大分県突入である。中津藩といえば福沢諭吉を連想する人が多いが、城を見上げればこれはなんと言っても黒田如水である。稀代の策士に思いを馳せつつ、道は豊後高田を経て国東半島に入る。
 この国東半島を巡るサイクリングは忘れられない。風光明媚、と一言で言ってしまえば紋切り型に過ぎるが、キラキラ輝く周防灘そして伊予灘を見つつ、風にも助けられてなんとも心地いい気持ちでペダルを踏んだ。歴史ある杵築、そして日出をめぐり、夕刻に別府着。これで時間は開いたが九州外周の旅は完成である。僕は莞爾として酒を呑んだ。
 翌日はキツい道だが高名な湯布院へ。金鱗湖の下ん湯で一浴し(この開放的な風呂は楽しいな)、ミーハー的観光をしたあと、自転車を畳んで列車に乗り帰った。

 以来20年近く経つ。もちろん大分県はこれだけで済まされるほど浅くはない。それから数度訪れることになる。
 九重連山は素晴らしいし耶馬溪も訪れるに値する。そして荘厳なる宇佐八幡宮。なぜ神功、応神が主祭神なのか。比売大神とはいったい誰か。邪馬台国は大分なのか。なぜ大和朝廷は道鏡事件のときに、伊勢ではなくわざわざこの地に神託を仰ぎに来たのか。日本史の深部がそこにあるはずなのだが、僕もまだ自分の考えが確定できていない。
 大分には美しい町並みが数多く残される。歴史が息づく。前述した中津や杵築、日出の他にも、例えば天領日田。高山や倉敷と並ぶ美しさであり、往時の豊かな暮らしがすぐに連想される。
 また竹田。黄昏時に訪れた岡城阯。「荒城の月」として知られるこの城の堅牢さとその寂寞感は、ちょっと他では味わえないかも。
 さらに森町や臼杵。歴史が何かを飛び越えてやってくる。

 仏像マニアにとって国東半島は宝の山だ。富貴寺、両子寺、無動寺。真木大堂の大威徳明王なんてのはもうそりゃあもう。また高名な熊野磨崖仏。こんなもん国宝指定であってもおかしくはない。
 磨崖仏と言えば臼杵である。おそらく日本一だろう。熊野磨崖仏と異なりこちらはほぼ丸彫り。僕が始めてこの石仏群を見たのは前述の少年の時だったが、そのときはまだ覆屋もなく、大日如来の尊顔が仏体から欠け、離れて仏前に安置されていた。これは後年修復されて現在では仏頭は元の位置に復元されている。これには相当の議論があったと聞くし、僕には意見は無いが、量感と言うべきか圧倒的な迫力は以前の方があったとも思う。尊顔が現在は少し遠く見上げる形になったからだろうか。

 大分は温泉の源泉数日本一。ちなみに二位は鹿児島だが、別府温泉だけで鹿児島を凌駕してしまう(2847本)。別府と湯布院は世界一、二位である。また湧出量日本一も別府。よく「お湯に浮かんでいる街」と言われるが過言じゃないようにも思えてしまう。温泉大好きの僕からすれば本当に羨ましい。街の人たちは毎日温泉に入っているのだろうな。昔、別府の竹瓦温泉(この唐破風造りの風格は温泉銭湯の王様)に僕が行ったときは60円(驚)だった。今は値上がりしたらしいがそれでも安い。さらに砂湯まである。天国ではないのか。別荘が欲しいなどと贅沢は言わないが、半年くらいここに赴任させてはくれないだろうか。ふやけて蕩けて仕事にならないかもしれないが。
 食べ物がまた美味いのだよなあ。豊予海峡の海の幸。関アジ・関サバは高級魚であるが、それだけのことはある。居酒屋で食べたサバのりゅうきゅう(刺身を醤油や味醂、胡麻のタレに和えて供される)は涙が出るほど美味かった。僕はこれで酒を呑んだが、熱いメシの上にのっけたらそりゃもうたまらんだろうなあ。城下かれいも食べたかったがそこまでは手が出なかった。庶民の悲哀(泣)。
 「きらすまめし」や「こねり」など珍しい郷土料理もあるが(ホントに名称からして珍しい。「りゅうきゅう」もそうである。僕は食べたことがないが、「うれしの」とか「たらおさ」とか「やせうま」とか聞いているだけで楽しい)、「だんご汁」はやっぱりその代表だろうか。しかし、所詮僕などは観光客である。本当は家庭の味として食べるのが最高なのだろう。以前ninngennmodokiさんが、「だんご汁はカレーと同じで一晩おいたものがおいしい」と書かれた時にはよだれが出そうになった。さぞかし味が染み込んで美味かろう。ああ…(垂涎)。
 大分には、まだまだ美味いものがある。例えばごまうどん(香ばしい♪)。例えば日田焼きそば。例えば別府冷麺。花盛り。
 ところで、僕が旅していて気になったものは「から揚げ」である。
 大分と言えば「とり天」。これは宮崎のチキン南蛮と並んで有名である。鶏をてんぷらにしてポン酢などでいただく名物であり美味いが、それとは別に、鶏唐揚。こんなものどこに行ってもあるものなのだが、なんせ数が多い。これはもしかしたら「大分」ということではなく「豊前」と言ったほうがいいのかもしれないが、北九州から車で海岸線を南下していたときのこと。あちこちに「からあげ」と書かれた赤いのぼりを妻が見つけた。「なんでこんなにからあげを看板にしている店が多いの?」確かに国道10号線のあちこちで目立つ。
 一軒に寄って(中津だったろうか)買い食いしてみた。美味いっ。
 その頃はネットもなくそれまでだったのだが、これを書くにあたって調べてみた。さすればこうである→@nifty どうも中津周辺は一大唐揚げ地帯であるそうな。なるほど。確かにからあげ専門店なんてあまり他所では無いものな。
 今はB級グルメ流行であちこちの名物が発掘されているが、地方にはこういう「隠れた名物」などがまだまだ数多くあるのだろう。足を運んでもっと発見してみたいものだと本当に思う。中津ではないが、そういえば以前湯布院で「日本一のからあげ」を謳う店に行ったことがある。ここは有名店で客も多く待たされる。さらに調理に時間がかかる店で、ありつくまでに相当の時間を要するが、出てきたものは鶏のもも一本丸ごとの巨大なから揚げで、これをじっくりと揚げていればそりゃ時間がかかるだろう。足を持ってガブリとやれば、パリッと香ばしくて肉汁がジュワっと溢れる。皿に敷かれている鶏の油が染みたキャベツまで美味い。幸せじゃのお。とり天といい中津のから揚げといい、鶏文化の深さをまざまざと知る大分の旅である。
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僕の旅 長崎県

2008年02月25日 | 都道府県見て歩き
 長崎県の面積は、日本の約1%である(一応計算した)。ところが、その100分の1の県が有する海岸線は、日本の約12%にあたるのである。北海道に次いで全国2位。北方領土を計算しなければ、長崎県は堂々の1位である。これにはちょっと驚く。
 なんでこんなに長い海岸線を有するのかと言えば、実に複雑に入り込んだ海岸線にある。リアス式海岸であり、県全てが大小の半島で成り立っていると言ってもいい。なので港湾が実に多く、日本の最も西に存在し大陸にも(世界にも)近いことから、この場所が「日本の窓口」として長く栄えたのも頷ける。
 さらに、島が多い。その数は全国一であり、瀬戸内の県や沖縄県を上回る。小さな島々から、壱岐・対馬、さらに五島列島までを含む。

 その対馬に、以前訪れたことがある。昔の話ではあるけれども。
 対馬には博多から船で渡る。飛行機の便は長崎空港からもあるけれども、船舶は博多からしか出ていない(かつては小倉からも出ていたが。なお、釜山からも出ているがそれはさておき)。何故かと言って博多の方が対馬よりずっと近いからである。なんで対馬が(壱岐も)長崎県に編入されたのかは本当に不思議である。共に国際的な場所であったという括りだろうか。しかし今となっては不便なことだろうと思う。
 船は、島で最も栄えている厳原の町に着く。僕は特に予定もなく町の中心に向かって歩き出した。そのとき目に入った町の風景は、実に威容であった。非常に特異な雰囲気を醸し出す町である。厳原は城下町であるのだが、その武家屋敷群が高い石垣塀に囲まれ、威圧的に聳える。道の両側をうずめるその石塀は荘厳とも言える。こんな風景は日本の他地域では見たことがない。強いて言えば、後にソウルに行ったときにこういう風景に近いものがあった。異国の香りがする。ここを訪れるだけでも価値がある。
 対馬の歴史は魏志倭人伝にも記載を残すほど古く、それについて言及するとまた長大に伸びるので控えるが、歴史好きにはたまらない場所である。僕は宗氏の菩提寺である万松院その他を訪れ堪能し、夜は対馬藩の朝鮮外交施設となった歴史のある西山寺に泊まった(ここはユースホステルとしても開放している)。

 五島列島にも行ったことがある。残念ながら五島全てを回ることは出来ず、最も大きな福江島だけであるが。
 この島は、遣唐使最後の寄港地である。ここから先は広大な東シナ海が広がる。対馬にしろ平戸にせよ長崎出島にせよ、この県が「国境」に存することを実感させてくれる。
 この島はキリシタンの島でもある。福江島に訪れたときはもう所帯を持っていたので、レンタカーを借りて島中を廻った。あちらこちらに教会と「隠れキリシタン」の足跡が残る。驚くほど自然の美しいこの島で、悲劇が繰り返された。

 僕は一時期、キリシタン関係の本ばかり読んでいた時期があり、関する場所にずいぶん足を運んだ。長崎市内や平戸はもちろんのことながら、西彼杵半島にはその足跡(爪痕)が数多い。外海地区には特に色濃い。またここには「沈黙」の作者である遠藤周作文学館がある。関係ないけれども、黄昏時にここを訪れた僕は、あまりにも美しいサンセットを見て鳥肌が立ったことがある。
 島原半島もキリシタン史跡は多い。ここに最初に来たときはまだ雲仙普賢岳の噴火からそう日が経っていない頃で、その被害の痕が実に生々しかったけれど、美しい島原の武家屋敷群は健在だった。教会も半島には数多くあるが、中でも原城址には足を止めざるを得ない。「島原の乱」の攻防戦が行われたこの場所に立つと、僕は今までの城跡めぐりで感じたことのない畏怖感を全身に浴びた。こう単純に書いていいのか迷うが、怨念のようなものをどうしても感じる。

 そんなことばかり書いていても筆が止まらないが、長崎には若い頃からよく訪れていると思う。7、8回は行ったのではないか。本当は何週間か貼り付いて旅をすれば楽しいのだろうけれどもそうもいかないので、足繁く行くことになる。前述の対馬などは金沢(当時住んでいた)から一泊二日で訪れたのである。自分でも無茶があると思う。しかし行かずにはいられない。行く度に発見がある。
 初めて訪れたのは二十歳の時の自転車旅行の途上であったが、その時は長崎市内に三泊したに過ぎない。学生の夏休みでもありもっと長逗留すればよかったと今になって本当に思う。
 そのときは、ベタに観光をした。グラバー園。オランダ坂。大浦天主堂。シーボルト邸跡。崇福寺。興福寺。眼鏡橋。出島(今のように整備されていなかった)。唐人屋敷。平和公園。浦上天主堂。坂本龍馬はんの亀山社中に行きたかったのだが、どこにあるかさっぱり分からず断念した記憶がある。20数年前はそうだったのだ。今は「龍馬通り」まであり観光案内がしっかりとしていて隔世の感がある。また、宿に泊まり合わせた旅人らと連れ立って野母崎にまで泳ぎに行った。その時の淡い想い出などもあるのだが、そんなことを書き出したらキリがないので措く。
 その後も、雲仙・島原半島に集中して、とか平戸に絞って、とかいう形で足を運んだ。ハウステンボスにも行ったことがある。確か僕は金曜まで名古屋に出張で居て、そこから直行夜行バスに乗り込んだのだったっけ。当時九州を周遊券で旅行していた妻(この人はダンナを放っておいて勝手に長期旅行に出る 笑)と合流して見物した。ここにもやはり異国があった。
 一番最近訪れたのは三年前の夏だっただろうか(→関連記事)。この時は久々に長崎市内を徹底して歩いた。どうしても亀山社中へと足が向く。ここには都合三度訪れたのだが、今は残念ながら邸内に立ち入りが出来なくなってしまったようだ。ブームの弊害かなあ。龍馬はんがもたれかかった跡が残る柱の前にもう座れなくなったのは実に痛恨である。

 長崎はまた美味い食べ物が多い。卓袱料理などは実に大層で、料亭に上がって食べるほどの根性もなく街中で「簡易卓袱」なる省略したコースを食べたにとどまるが、なかなかに個性的で美味い。ここは本当に世界と繋がっていると実感できる。料理までが中国、そして西洋とのクロスオーバー的なのだ。
 もちろん、長崎には冠たるちゃんぽん、そして皿うどんがある。名店四海楼でも、また新地中華街でも楽しめる。美味いんだなこれが。このコクというものはなかなか他ではない。中華街は神戸南京町よりまたひとサイズ小さな規模で、ここで東坡肉(豚の中国風角煮)を花巻(蒸しパンに似ている)に挟んで食べるともうそれは至福である。
 さらに個性的なものもある。「佐世保バーガー」などはもう全国を席巻しているが、「トルコライス」なる摩訶不思議な料理は長崎でしかお目にかかれないのではないか。また「ミルクセーキ」。これは、説明は省くが飲み物ではない。スプーンで食べるのである。
 しかしながら、僕が最も好む長崎の食べ物は実は老舗「吉宗」で供される蒸し寿司と茶碗蒸しのセットである。小丼で出てくる蒸し寿司。あなごと桜でんぶと錦糸玉子が乗ったこのトリコロールは実に美しくおいしいが、その同じ大きさの丼で茶碗蒸しが出てくる。僕は茶碗蒸しというのは末期の一品にしたいほど好きであるが、たいていは量が少ない。ここではたっぷりと供される。具も豪勢に入っていて実に幸せな気持ちになる。必ずここには行く。博多や東京にも支店があって入ったことがあるが(好きなのですよ)、なんで関西にないのか。そう思いつつ、また長崎への思いが募るのである(結局食べ物か)。

 なお、以前長崎市内の歴史散策の記事を作ったことがあります。僕にしては珍しい画像付き記事なので合わせて御覧いただければ幸いです。
 →僕の旅番外編・長崎のマニアック歴史ポイント
 
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僕の旅 佐賀県

2008年01月13日 | 都道府県見て歩き
 今でこそ、はなわの歌とか「がばいばあちゃん」などで佐賀県の注目度は非常に高いけれども、僕が20数年前に初めて佐賀県に行ったときは、さほどでもなかったと言っていい。九州の中では、最も地味な県として認識されていたのではないか。
 自転車旅行でうろうろしていた頃、さあこれから九州上陸だというときに、佐賀から来たサイクリストと同宿したことがあった。全く予備知識も無くガイドブックも所持していなかった僕は尋ねた。「佐賀はどういうところを見て回ればいい?」
 彼は言った。「佐賀はとくに何もないよ。ガタばっかりだ」
 ガタ? いったいなんのことだろう。よく分からなくてさらに聞いてみると、それはどうも潟のことらしい。干潟。有明海は日本有数の潮の干満の差を誇る湾であり、それにより広大な干潟を生み出す。佐賀には観るところなど何もないけどその干潟だけは一見の価値があるから、絶対に見てきてくれ。彼にそう言われて、僕は有明海を目指した。
 福岡の大宰府に僕は居たのだけれど、そこからまっすぐに有明海に出た。すると、目の前に広大な「ガタ」が、海岸から遥か彼方まで広がっている。海など遠くて見えない。どこまでも歩いていけそうだ。これは確かに今まで見たことがないもの。僕はしばし佇んでしまった。
 しかし、ガタはそう何時間も見ていられるものではない。これでシオマネキやムツゴロウでも追えば楽しいのだろうけれども、そんな準備もない僕は干潟を横目で見ながら自転車を走らせた。すると、しばらくして長崎県境に到達してしまった。考えてみれば最短距離で佐賀県横断をしてしまったわけで、宿泊もせずにその旅の佐賀の巻は終了してしまった。

 ガタを推奨してくれた彼には感謝しているが、もちろん佐賀はガタばかりではない。なので、また僕は佐賀へと数度訪れることになった。こうして何回も行く機会を与えてくれた彼には(皮肉ではなく本当に)感謝している。
 さて、佐賀でまず思い出すのが肥前鍋島藩。鍋島藩と言えば、化け猫騒動と「葉隠」がまず出てくるが、僕はやはり幕末、明治維新へと思いが行く。葉隠の有名な一文「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」から潔い精神主義が連想されるけれども、鍋島藩は実は学問の藩だった。藩校弘道館で若年の頃から学ばされ、学業成就が達成されないと家禄没収、藩士にも登用されないというえげつないノルマが課せられ、若者は血の滲むような勉強を重ねた。そうして鍋島藩は秀才を次々と生み出し、彼らが明治維新政府の重鎮となっていくのである。
 その弘道館跡には記念碑がひとつ立つだけだけれども、秀才たちの足跡は佐賀市内あちこちに点在している。大隈重信。大木喬任。副島種臣。そして江藤新平。彼らの生誕地や墓所に立ち、思いを馳せることが出来る。
 佐賀の街には秀才たちによって幕末時最先端の科学力を持っていた鍋島藩の底力の跡をいくつも辿ることが出来る。例えば日本初の洋式反射炉跡もある。彼らはこれでアームストロング砲の製造にも成功し、戊辰戦争に威力を発揮した。これら火力が明治維新を成し遂げたとも言える。この近くには、外敵を防ぐために作られたとも言われるジグザグののこぎり型家並みも残り、さらに近くには本行寺が在る。あの江藤新平が眠る寺である。
 内閣総理大臣も勤めた早稲田の創始者大隈重信は、生家も保存されしっかりとした記念館も建っているのだが、江藤新平の所縁のものは、非常に分かりにくい誕生地と、この墓があるくらいだ。出来たばかりの明治政府において、四民平等の精神に基づく近代化政策の先頭を走り、学校制度、警察制度の整備、裁判所建設、国法・民法編纂など日本国家の骨組みを作り上げ、大久保利通との政争に敗れなければ間違いなく憲法も作り上げて日本を世界に冠たる法治国家にしていたはずの人物。彼は佐賀の乱の首魁にまつり上げられて、最終的に大久保に殺され首を晒されてしまうのだが、民権主義者だった彼が近代国家建設をもっと引っ張ってくれていたなら…とどうしても思う。彼の魂はここ佐賀の本行寺に眠る。曲がったことが大嫌いだったこの清廉潔白な政治家を悼み、合掌を幾度もしてしまう。

 幕末よりもっと古くて有名な史跡が佐賀にはある。あの「吉野ヶ里遺跡」である。僕が初めて佐賀に行ったときにはまだ発掘されていなかった。今ではしっかりと整備され、往時の姿を再現しつつある。これは凄い。もしかしたら邪馬台国ではないか、とも言われるこの環壕集落(城郭か)は、古代の九州の実力をまざまざと感じさせてくれる。九州王朝説には僕は完全に賛同は出来ないが(否定的とも言うが)、確かに相当の王権がここには存在したのではないか。さまざまな可能性を考えてしまう。
 唐津には名護屋城跡が残る。秀吉の朝鮮出兵の根拠地となったこの城も、今では草生す廃城だが、その広大さにはハッとさせられる。じっくり歩くといい。傍には名護屋城博物館が建ち、これもなかなか立派なものである。

 歴史の話ばかりしていてもしょうがないのだが、僕は美術工芸に疎くて駄目なのだ。佐賀には伊万里焼などの陶磁器が盛んだが、有田や伊万里にも行ってはみたもののその価値がよく分からなくて申し訳なかった。柿右衛門と言われてもチンプンカンプンなので。
 虹ノ松原などの景勝地も多く見物には事欠かないのだが、一度僕は佐賀バルーンフェスタを見に行ったことがある。この国際的な熱気球の大会を、僕はその会場を流れる嘉瀬川にカヌーを浮かべて見物した。これはなかなかに凄い。色とりどりの気球が空に乱れ飛び、その壮大なイベントを川から見上げる。なかなかに出来ない体験で感動した。このくらいの美しさであれば僕にもよく分かる。

 佐賀は嬉野温泉や武雄温泉などいい温泉も多く、また食べ物も美味い。嬉野温泉湯豆腐も美味いし(このとろりとした湯豆腐は絶対に食べるべきだ)、小城羊羹も美味い(村岡総本舗の羊羹資料館も楽しい)。
 玄界灘に面し当然海の幸も豊富である。呼子の朝市はなかなかに楽しい。そして呼子の名物として、イカの活造りがある。有名なのでご承知の人も多いだろう。新鮮であるゆえ(活造りだから当たり前だが)身が透き通っている。ちょっと値は張るが、ここまで来たら食べなきゃ。盛られた活造りは、胴体に細く包丁が引かれ刺身となっているが、頭や足はそのまま。まだ動いている。口に含むと弾力があり甘い。活きの良さが口の中ではじける。美味い。残った動く足は刺身を食べ終わった後天ぷらにして供してくれる。
 佐賀には海が二つある。こういう離れた海岸線を二つ持つ県は、兵庫と隣の福岡だけだろう。そして、前述の玄界灘ともうひとつの海は、言わずと知れた「ガタ」有明海である。ここには、実に珍しい海産物がある。面白いので郷土料理店に入った。
 「エツ」「ワラスボ」「クツゾコ」「メカジャ」「マシャク」そして「ムツゴロウ」。面倒なので解説はしない。僕たち夫婦はこういう珍しい、ここでしか食べられないものに異常に興味を示す傾向がある。みんな注文した。見た目バケモノのようなやつもいるが、それはそれ。美味いものからちょっと首を捻るものまで(珍味は食べなれないとなかなか難しいものもある)様々だったが、こういう経験はめったに出来ないので酒を呑みつつ次から次へと平らげた。
 結構酩酊して、余は満足じゃ、と言っていたら妻が言う。「ワケノシンノス」がなかったね、と。
 ワケノシンノスとはイソギンチャクのことである。僕は壇一雄氏の愛読者であり、その著作の中にこの有明海のワケノシンノスのことが書かれている。「美味いらしいぞ」とそのことを妻に言っていたのをすっかり僕は忘れていたのだ。
 翌日、車を走らせていたら「魚屋に行こうよ」と妻が言った。どうしてもワケノシンノスに面会したいらしい。そこで漁港近くの「いかにも新鮮な魚ありますっ」という感じの魚屋さんに入ってみた。
 ワケ君は居た。ブクブクいう海水の中で棲息している。妻は我慢しきれず「下さいな」と購入してしまった。どうすんだよ。しかしまあいいか。僕らはキャンプ仕様で旅行していたので、調理道具も調味料も所持している。今夜食べてみよう。料理の仕方を聞いておけよ。

 「どうしよう。もうすぐに食べないとダメなんだって。夜までは持たないそうよ」
 なんですと!!

 なるほど。魚屋では活かしておけるのだがビニール袋に入れて小売した段階でもうどんどん鮮度が落ちてダメになるのか。しかし買ってしまったものはしょうがない。クーラーボックスに放り込み、とにかく走り出した。なんとかしなくちゃ。うーむ。

 「もうそのへんで食べちゃおうよ」
 え、そのへんでか?!

 ここは車がビュンビュンと通り過ぎる国道である。車を止める場所すらない。だが、町からは離れて人家はあたりにない。いいか、止めちゃおう。
 そうして、僕らは道の脇に車を止めた。駐車場とも言えない路肩の車だまり。旅の恥はかき捨てとも言うじゃないか。僕らは車の陰で、ピンポン玉よりちょっと小さなワケを包丁でいくつも切り開き、積んであった水で汚れその他を洗い落とし、コッフェルにワケと水をいれバーナーに点火した。沸騰したらアクを掬い取り、味噌を投入した。ワケノシンノスの味噌汁の出来上がり。
 強烈な磯の香りが漂う。かなりクセのある味わいだったが、決してまずくはない。いや、これは美味い。
 
 「珍味ねー。おいしいじゃない。やっぱり買ってよかったよ」

 妻はそんなことを脳天気に言っているが、ここは往来である。人里は離れているとは言え、車で走り去る人は我々のことを見て不思議そうな顔をしている。そりゃそうだよな。なんでこんなところに車を止めて二人してアスファルトに座り込んで味噌汁をすすっているのか。珍味は確かに珍味だが、我々のほうがもっと珍しい人種ではないのか。流れる車を見つつそんなふうに僕は思っていた。佐賀県での珍妙な思い出の一場面である。

 
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僕の旅 福岡県

2007年09月30日 | 都道府県見て歩き
 サラリーマンの単身赴任先で人気なのは札幌と博多が双璧なのだそうである。その気持ち分かるな。僕は子供の転校とかそういうことはないので単身赴任ということは今後ありえないのだけれども(まずカミさんは一緒に来る)、ここは本当に楽しそうな街だと思う。もちろん遊ぶのに、である。
 今はやっていないけれども、僕は何度も博多に0泊で遊びに行ったことがある。しかも廉価で。
 18きっぷ(春夏正月の期間限定発売JR普通列車乗り放題切符)のシーズンになると、つい日頃の鬱屈を晴らそうと、夜行鈍行列車ムーンライト下関(現在は廃止)の指定券をつい購入する。これは神戸発0:45分だったので一日乗り放題切符の使用者には実に都合がいい。そうして早暁に下関に着き、朝にはもう博多に居ることが出来る。
 せっかく乗り放題なので昼は佐賀や大宰府などに足を運び(長崎まで行った事もある)、夕刻の時分時に博多に帰ってくる。そうして、楽しい中州・天神ナイトを満喫するのである。
 ホテルなどには泊まらない。ここでは呑み明かすに限る。何軒も店をハシゴして遊ぶ。そして、始発電車が動くと同時に帰路につくのである。ゆっくりと寝て帰ってくる。
 遊ぶのに相当金を遣うが、大阪のキタで呑むよりずっと安い。それに地元でないことからなんだか浮揚感があり楽しい。遣うお金は呑み代を除けば往復の切符代(2300円×2)と指定券代だけである。これでよくストレス解消をした。もちろん一人で行く。金曜日の夜に「これから博多に行ってくるから」と妻に言うだけ。別に福岡に愛人を囲っているわけでもないので(そんな財力はない)、妻は「ああそう。気をつけて」と言うだけ。その代わり、5枚一組で購入する18きっぷの残り三枚は妻に進呈する。これでどうぞ讃岐へうどんでも食べに行ってらっしゃい。
 30代の頃は元気だったなぁ。こういうことも昨今ではご無沙汰である。

 初めて福岡にやってきたのは、毎度書いていることだが自転車旅行の折であった。京都から山陰を回り下関までやってきた僕は、壇ノ浦をウロウロとしたあと関門トンネルへと足を踏み入れた。自転車で九州に渡るにはこれしか手段がないのである。ここには有難いことに、自動車専用のトンネルや高速の関門海峡大橋以外に、人道トンネルも設置されている。エレベーターに乗って地下へと降り、海峡の下をチャリンコ押して歩くのだ。自力で行けるというのがいい。
 ちょうど真ん中へんに県境標識がある。その「福岡/山口」の表示の前で記念写真を撮り、またエレベーターを使って僕は九州第一歩を門司に踏みしめたのだった。
 博多までやってきたのは夜だったが、その日はちょうど大濠公園の花火大会の日だった。何千発も上がる華やかな花火の競演に僕は酔いしれた。個人的に、九州上陸の祝砲にも思えて堪能したことを憶えている。

 あれから20年以上も経つ。僕は前述したように時々は福岡へ旅行に行くようになった。もちろん鈍行列車で行くばかりでもなく、ちゃんと新幹線なども利用することもある。金沢在住時代は夜行バスも使った。ここは九州の表玄関であり交通至便の場所であるのでどうやっても行きやすい。
 本州側から言うと最初は北九州市であるわけだけれども、この殺風景な合併地名となってもう40年以上経つのだが、未だに頑なに門司は門司、小倉は小倉であるような気がしてしまう。それほどそれぞれ個性がある(もっとも旅行者の視点であるので、本当のところは知らない。また、戸畑には全然行ったことがないのでよくわからない)。
 門司はレトロの街として有名である。ちょっと映画のセットのような感じもしてしまうが、ここでの白眉は門司港駅であって、この駅ほど終着駅・始発駅の趣を残しているところは無い。比べるべきは函館駅や上野駅の13~17番線だと思うが、頭端式ホーム(櫛型)であることが大きい。また長崎駅や高松駅と違って歴史の重みを感じる。風情があるのだな。列車に乗っていると盲腸線であるため通り過ぎがちだが、0マイル標もあるので訪れる価値ありである。
 小倉はかつて僕は仕事で大失敗をしてしまったことがあり微妙に避けてしまうのだが、なんと言っても大都会である。旦過市場のおでん屋台は実に風情があるが、ここは酒を出してくれないのでちょっと寂しい。ただおはぎは美味い。

 博多に行けば、そりゃもう楽しい事だらけで居るだけで浮き立つ。どんたくや山笠には出逢ったことがないが、さぞかし凄い活気なのだろうな。そういうことが容易に想像される。
 歴史の薫り高い街であり、鴻臚館跡、元寇防塁その他歩くべきところも多い。あの金印で名高い志賀島にも船に乗ればすぐである(僕は最初バスで行ってえらい時間が掛かった)。
 また、能古島には三度ほど訪れている。何故この島に何度も訪れてしまうかと言えば、それは壇一雄終焉の地であるからだ。このひとにどうしても僕は昔から魅せられ、足跡を辿ってしまうのだが、能古島はなんだか格別のものがある。

  モガリ笛 いく夜もがらせ 花ニ逢はん

 この放浪の作家には何か惹きつけられて止まないものがある。その晩年を過ごしたささやかな旧宅を訪ね、素朴な島の道を歩く。また対岸を見れば大都会博多。死期を悟ったかの作家は、何を思いきらびやかな街を対岸から見続けていたのだろうか。
 (※追記:この旧宅は今はもう無い。関連記事→能古島で思う)

 歴史散策に大宰府は避けて通れない。菅原道真と天満宮のみならず、かつて「遠の朝廷」と呼ばれたこの地は、歩くべきところが多すぎる。政庁址や観世音寺、戒壇院、水城等々。ところで、国立博物館が2年前に開館しているのだがまだ行っていない。これは僕も由々しきことだと思っている。早く行かなくては。(追記:その後行った→博多の桜と大宰府と)
 また、糸島方面へ行けばそれは魏志倭人伝の世界である。また「宗像」という地名を聞くだけで腰が浮く。いずれも日本古代の謎を秘めた土地ばかりである。楽しい。実に楽しい。

 柳川へと行けば、ここは北原白秋と、水郷川下りで高名な情緒ある街であり、立花宗茂以来の伝統ある歴史ある城下町。そして、ここに壇一雄の墓がある。行く度に墓前へと立ち寄り手を合わせる。そして鰻の蒸籠蒸しを食べるならわしである(壇一雄風)。
 秋月の乱で知られる朝倉秋月や(ここは一度行く価値あり)、筑豊の町々などもう行くべきところは列挙に暇がなく、書きつくせないのでそろそろ記事も終えなければいけないのだが、もうひとつ書きたいのは、とにかく福岡は食べ物が美味いということである。

 福岡県は三都物語とも言える。北九州・博多・久留米だ。それぞれ独自の文化を持ち、また美味い食べ物が多い。
 ラーメンひとつ採っても違う。博多ラーメンと言えば、もう全国を席巻するトンコツで名店も多いが、初めて久留米のラーメンを食べたときには驚いた。それは郊外の「丸星ラーメン」で、やはりトンコツベースで濃い味だったのだが、ちょっとワンランク上であるように思えた。それから久留米ラーメンにはまり、あちこち食べ歩いた。いずれも美味い。僕は久留米を九州ラーメンでは最上位に押す。
 北九州地区はまた独自の文化圏で、ラーメンもトンコツであるのだが、見た目具が多い。ここは筑豊地区と繋がっているらしい。面白い。
 北九州地区といえば、うどんにも独自の世界がある。「かしわうどん」ってやっぱりここのものだな。甘辛く煮た鶏肉とうどんの相性が抜群。別に名店は知らないが、「資さんうどん」とか好き。博多のうどんと言えば「ごぼ天・丸天」なのだが。また、小倉といえば焼きうどんの発祥の地。独特だ。
 久留米のグルメ(オヤジギャグ)と言えば焼き鳥。これもまたまた愉しいものだ。特徴が多いのだが、なんと言ってもダルム。この牛小腸をカリカリに焼いた串はたまらなく美味い。焼酎が進んで困る。ダルムで一杯やってラーメンという取り合わせは止められないものだ。

 博多は「食都」である。そのことに異論のある人はいまい。
 僕は観光客であるので、どうしても最初は屋台に足を運んでしまう。屋台のハシゴもいい。某屋台で焼きラーメンとどて焼き、明太子入り卵焼き。そして某屋台でめちゃくちゃ安い天麩羅。ここには豚のてんぷらがあって美味い。そしてちょっと足を伸ばしてカクテルの屋台。
 屋台は火の入ったものでないと供されないが、美味い魚が食べたければ第三共進丸とかね。ここで天然伊勢海老造りをニ千円で食べたり、他にも無茶苦茶安い値段で新鮮な魚がわんさか(かまぼこも美味い)。最近は行ってないけれども、今でも焼酎一杯100円(自己申告制)なのか。
 白魚の踊り食いというのもやったな。これ、普通の居酒屋で食べた。こんなの普通料亭でないと出してくれないのじゃないのか。博多は奥深い。
 もう、博多はいろいろあって食べきれないのである。鳥の水炊き、モツ鍋、鉄鍋餃子、フグ、イカ活き造り…。どうしようかと思う。胃袋が四つ欲しい(それじゃ牛か)。もうあれもこれも状態になって、結局みんな食べきれずに未練タラタラで帰るのである。
 この未練というものが、次の旅への原動力となる。しかし食い意地だけのような気もするのだが。
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僕の旅 高知県

2007年07月15日 | 都道府県見て歩き
 高知県には若いときから特別の思いがあった。
 それは、高校時代に司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読んで以来のことで、その当時、10代後半の頃は僕にとって坂本龍馬というひとはアイドルであったと言ってもいい。その感情は今でも続いていると言ってもいいけれども、当時は「熱狂」に等しかったとも思える。
 今にして思えば浅薄な知識をもって「龍馬はんについては誰よりも詳しい」と勘違いも甚だしいことを思っていたが、そんな若いときの僕にとって土佐の地を踏むことは「聖地巡礼」的な趣きがあった。

 初めての高知県は大学生の時。もう20年以上前になる。当時自転車で四国一周中だった僕は、愛媛県を海岸線に南下し、宿毛市へと入った。そこが高知県第一歩となった。
 早く高知市入りしたかった僕は気がはやっていたのだが日が暮れて宿毛で一泊。翌日早暁、宿泊していたYHを出て、まっすぐ高知市へ向かおうと中村へ向けてペダルを踏んだのだけれども、そこで朝靄にけむる松田川を見て少し考えが変わった。松田川なんて名前はその時まで聞いたことがなかったのだけれども、ちょっと驚きの美しさだった。
 四国は川がきれいなことで高名である。有名な四万十川も高知県だが、そのころから名は知られてはいたものの「最後の清流」なんてキャッチフレーズは浸透していなかったような。後にカヌーイストの聖地となる四万十だが、僕は先入観が無かったせいか、四万十だけでなく見る川全てに感動した。高知は美しいな。僕は四国一周をしようと思ってやってきたことを思い出し、ショートカットのコースをとるのをやめて足摺岬へと進路を変えた。回れるところはみんな見ていこう。
 そしてゆっくりと海岸線に沿って走り出した。高知市へたどり着くのは三日後のことになる。

 そして、高知市。龍馬はんが生まれた場所である。やってきましたぜ。感慨も新たに、青春真っ盛りの僕は武者震いをしていた。
 しかし、当時はこっちもせいぜい小説を読んだ程度である。歴史散策、と言ってもどこに行っていいのか分からなかった。詳細な地図も持っていない。また受け入れる側の高知市にも、現在ほどの盛り上がりは無かったように思う。観光案内所も通り一遍のことしか教えてくれず、生誕の地に吉田茂揮毫の石碑が立つくらいである。坂本龍馬記念館もまだ無い。今、電話ボックスの上に銅像を乗っけ、「龍馬空港」まである時代から思えば彼岸のことのようだが、それはそれでいい時代だったのかもしれない。坂本龍馬で町おこしなんて実に違和感がある。
 僕は高知城に登り、鏡川に佇み「よばいたれ」の頃の龍馬はんに思いをめぐらし、そしてペダルを踏んで桂浜に向かった。後ろのキャリアには、町で買った清酒「土佐鶴」を括り付けて。今夜は龍馬はんと一杯やろう。それは僕が出発して以来ずっと思ってきた夢だった。

 桂浜に着いたのはもう黄昏時だった。僕は念願でもあった、海を見つめて遥か彼方を思う威風堂々とした「坂本龍馬像」の前に佇んでいた。ここまでやってきましたぜ、龍馬はん。
 あたりには人もまだチラホラと見えたがかまうものか。僕はシェラカップに酒を注ぎ、スーパーで買った「サンマの姿すし」を頬張りながら呑んだ。貴方は凄い人だな。僕はまだまだ若輩者だけれど、少しでも貴方に近づけるようにこれから生きていくよ。どうか応援して下さい。
 僕はしたたか酩酊し、桂浜にあるあずまやにシュラフを広げて寝た。
 翌日、朝日が昇り、龍馬はんの顔を照らす。またいつの日か参りますから。どうか見守っていてください。そうして、二日酔いの僕はヨロヨロと高知市を離れた。

 そんな若き日の青雲の志などは今はどこへいってしまったのかというテイタラクの僕であるが、その後も高知にはしばしば訪れるようになった。もう10回くらいは足を運んだのではないか。
 何年も生きていると、本もたくさん読む。それに従って知識も増える。坂本龍馬に関する書籍もずいぶん読み、そして得たものを現地に行って確認しまた陶酔したくなるのは人の習い。僕は龍馬はんとその仲間達の足跡を辿ってあちこちに出没するようになる。
 例えば北川村。高知市から遥か東に外れた室戸岬にも近いこの村は、龍馬はんの盟友中岡慎太郎さんの故郷である。生家が復元されていて、英傑・慎太郎さんを偲ぶことが出来る。そのまま海岸へ出れば田野村で、あの武市半平太の釈放を求めて斬られた二十三人の土佐勤王党殉死の地だ。奈半利川河畔には碑と墓があり、清岡道之助の生家も残る。高知市に戻るように行けば安芸市で、野球のキャンプで知られるがここは三菱の創設者である岩崎弥太郎の生家が残る。三階菱の紋も見える。
 高知市近郊、吹井には武市半平太の生家が残っている。武市さんはここから城下に通っていたこともあるのだな。少し行くと瑞山神社があり、その上の墓地に武市さんと奥さんの富さんが並んで眠っている。また薊野には岡田以蔵さんの墓がある。彼も辛い生涯だった。
 須崎の横波半島、あの明徳義塾で有名なこの地に武市さんの銅像が建ち、土佐勤王党血盟の各々の名前が刻まれている。これを見ていると思いが乱れる。さらに西、東津野村には吉村虎太郎の銅像が凛として建ち、虎太郎さんの生家も門と塀を残している。その東はもう梼原村だ。言わずと知れた「脱藩の道」である。龍馬はんと共に掛橋和泉や那須俊平、信吾親子、澤村惣之丞らの銅像が林立している(関係ないが、高知は銅像だらけだ)。

 高知市内はもう、歩いても歩いても史跡だ。ただ、道標や碑は龍馬はんに特化した印象があり、その他の仲間達は少し忘れられている感もある。
 朝は喫茶「さいたにや」でモーニング。龍馬散歩はここから始めたい。龍馬はんの本家である才谷屋跡にあるこの喫茶店のモーニングセットはボリュームがあって実に美味い。さらに史料も揃っていて、二階は龍馬研究会の事務局である。市内にある観光案内所などは散策にはほとんど役に立たない(申し訳ないけれども)。「池内蔵太の旧宅跡はどこらへんです?」と尋ねても「え、誰です?」と言われてしまった経験もあり、「さいたにや」の方がよっぽど詳しい。マスターも時間が空いていれば親切に教えてくれる。
 すぐ近くに龍馬はん旧宅跡があり、旅館「城西館」の裏には「龍馬の生まれた町記念館」なるものが最近建った。価値があるかどうかは人によるけれども。近藤長次郎さん旧宅跡もすぐで、ここには石碑が建つ。鏡川に向かえば日根野道場跡。ここには案内板等はなかったな。でもこのあたりを歩くといかにもご近所という感じがする。ここから歩いて永福寺(井口事件の場所ですね。幼い頃の龍馬はんの遊び場だったとも)を目指せば、池内蔵太、望月亀弥太旧宅跡が並ぶ。みんな近所なんだな。しかし碑などはなく、想像力を発揮せねばならない。その裏山が、坂本家墓所のある丹中山である。
 この墓所は、残念ながら市の開発によってずいぶんと様相を変えてしまった。僕も何度か足を運んだが、来るたびに山が削られ、もうかつての面影は無い。無茶苦茶である。詳細は書籍も出ているので譲るとして、墓石は整理されて一箇所にまとめられている。乙女姉さん達ご家族に手を合わせることくらいは出来るが。無念である。その北側に向かって歩くと、JR踏み切りの手前に平井収二郎宅跡がある。龍馬はんの初恋の人とも言われる加尾さんちだ。
 キリがないのだが、もちろん市街地を歩いても、武市さんの切腹の碑や吉田東洋暗殺の場所、後藤象二郎や板垣退助旧宅跡などがすぐに目に留まる。これらはちゃんと石碑も充実している。武市さんの道場跡や、中江兆民や河田小龍ゆかりの地など目白押しであるため、市内だけでも一日では回りきれない。

 やはり土佐を歩くなら、じっくりと日程を確保したほうがいいだろう。後悔を残す。これは、僕のような歴史ファンだけに限らないと思う。それになにより一泊しないと酒が呑めない。
 夕刻、商店街を歩く。土佐の町は活気がある。観光客は「ひろめ市場」に行くのもいい。特産物が揃っている。酒場に行く前にここで蒲鉾などをちょいと買ってまずビール、というのは僕の定番。ちょいと一杯のつもりがあちこち目移りしてつい二杯、三杯となることも。それからいきおい居酒屋へと向かう。
 高知と言えば鰹のたたき。これは定番だが、高知ならではと言えば、僕にはやはりチャンバラ貝、そしてドロメ、ノレソレ、そしてニロギ。美味いのぉ。壇一雄氏のファンでもある僕は、教えに従ってこれらで一杯やる。たまらない。それでまだ呑みたらなれればハシゴ。楽しい豚料理の老舗に顔を出す。最後は屋台でラーメンでもいい。ああ高知の夜は楽しいな。

 居酒屋で呑んでいると、隣のおっさんに話しかけられることもある。豪儀な人も多い。土佐の人はよく、男は「いごっそう」女は「はちきん」と称される。豪快でしかも議論好きが多いとも。女性も「乙女ねえさん」に代表されるような強い人が多いらしい。しかし、なかなかに土佐弁の女性は素敵なのである。
 夜、呑んだくれてハシゴの途中、中央公園のベンチに腰掛けると、隣に若い女性が座った。ふと見ると髪の長いいかにも清楚な少女(に酔眼では見えた)。その子は彼氏と待ち合わせをしているらしいが、なかなか男が来ない様子。携帯で話し出した。聞くともなしに聞いていると、か細い声で「うん…うん…ええきに…」。土佐弁はいいなぁ。「うん…大丈夫…いつまでも待っちゅうきにね…」半泣きの声。思わずルパンの五右衛門のように「可憐だ…」と言いかけて呑み込んだ。あちきもオヤジですなぁ。
 

なお、高知市内の歴史散策の記事を作りました。僕にしては珍しい画像付き記事なので合わせて御覧いただければ幸いです。
 →僕の旅番外編・高知のマニアック歴史ポイント
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僕の旅 愛媛県

2007年05月02日 | 都道府県見て歩き
 市町村合併のことはもう何度か書いているが、愛媛県に「四国中央市」が出来てもう3年になる。愛知の「セントレア市」が流れ、「太平洋市」も考え直したことから、ここがおそらく全国一の珍名自治体であろうかと思われる(独断です)。奈良県葛城市や島根県吉賀町のように古い地名を生かした例もあることを考えると、かなり残念な地名選択であったと言わざるを得ない。道州制を見込んで道都となるべく、と言われているが、道州制議論もまだ煮詰まってはおらずしかもそれと地名は関係ない。旧郡名である「宇摩」の使用は馬を連想させるため無理があったにせよ…。川之江とか馴染みがあったのにな。
 しかしこの「四国中央市」は本当にイレギュラーであったと思われる。愛媛の人の言葉への鋭敏さは、あの正岡子規や高浜虚子を生んだほど高度である。ある意味、明治の日本語創成期に大いに寄与したと言ってもいいと思う。
 そもそも「愛媛」という県名の由来からにしてあまりにもみやびで、四国中央市のセンスと実にかけ離れている。
 都道府県の名前は、県庁所在地の都市名、或いはその所属する郡名から由来している(実際はそうでない場合もある。例えば埼玉は当初、県庁が岩槻に予定され、そこが埼玉郡であった、など)。その例外が北海道と沖縄、そして愛媛なのである。
 愛媛とは愛比売で、これは古事記に由来する。日本神話においては四国はそれぞれ四つの顔を持つ神に比定され、伊予国は女性神である愛比売とされた。意味は「愛らしい姫(女性)」といったところ。そこから県名を採用したわけで、

 「"いい女"などという行政区の名称は、世界中にないのではないか」(司馬遼太郎・街道をゆく)

 ということになったわけである。このセンスは素晴らしい。「四国中央市」は何かの間違いだろう。
 愛媛県、特に松山は「坊ちゃん」で知られるように文学の都として名高いが、それだけではなく街や人が皆文学的素養が高いように思えてくる。実際僕の知人で愛媛生まれの人は3人パッと出てくるが、みな詩人の雰囲気を持っている。不思議なものだがこれが土地柄というものだろう。

 愛媛に最初に訪れたのは学生のときの自転車旅行で、香川県側から入り、県境を過ぎて伊予三島(今で言う四国中央市)にあるお寺のYHに泊まった。ちょうど夕刻から雨が降り出し、ずぶぬれになってしまっていた僕に実に親切に出迎えをしてくれた。宿泊客が僕一人だったにも関わらず、そこのご家族の方にずいぶん暖かくもてなされたことは本当に印象に残っている。
 その旅行では、そのあと今治を回って松山で二泊、さらに内子へと行き大洲で一泊、そして八幡浜から宇和島へ抜け一泊、そして宿毛方面へと抜けた。内子や大洲、宇和町卯之町の町並みは印象深い。日本中でもかなり有数の美しい町々ではあるまいか。

 その後、幾度か愛媛は訪れている。松山では正月を過ごしたことがある。
 僕にとって正月の旅行というのは重要で、今は妻の実家で過ごすのが定番になってしまったのだが、独身時代は長い休みがとれるこの機会は間違いなくどこかで年末年始を過ごすのが慣わしだった。
 ただ、正月の旅行というものは難しい。街は店も休業が多いし、施設も変則的だ。大好きな居酒屋もたいてい開いていない。しかも年末年始であるから、僕自身も動き回るより滞在型にしたい。ということで、例年は仙台か沖縄で過ごすのが常だった。ここには常連化していた宿もあったので過ごしやすかったからだ。
 しかし、愛媛を訪れるうちに「松山でなら落ち着いて正月を迎えられるのでは?」と思い、ある年の暮れ四国に渡った。
 理由は街の落ち着きと居心地の良さである。
 行ってみて正解だった。いい宿に出逢えたのも幸運だったが、ゆったりとした滞在型の旅が出来た。僕は大いに酒を呑み温泉に入り、年が明けて2日は宇和島へ闘牛を見に行った。なかなか充実した正月だった。

 時々ふと松山へと出かけたくなる。ひどいときは青春18切符を使って日帰りで出かけたこともある。関西地方からは季節に「ムーンライト松山」という夜行快速列車が出ていて、僕の住んでいるところからは発が夜12時を過ぎるので、18切符一枚で行ける。早朝松山に着いたら、すぐに路面電車に乗って道後温泉へと向かう。そして、あの日本一の銭湯で一浴。たまりませんね。重要文化財の道後温泉本館は居るだけでも寛ぐ。二階の座敷で休憩。こういういい温泉が近くにある街というのは本当に羨ましいな。気分は額田王か聖徳太子か。
 傍には子規記念館がある。ここも入るとなかなか出てこれなくなる施設である。また、「坂の上の雲」の愛読者である僕は、道後に来れば秋山好古の墓にも参らないわけにはいかない。街へ戻れば、秋山兄弟旧宅跡もある。
 松山の街というのは、居るだけでなんとなしに落ち着く。大街道や銀天街といった繁華街でも然り。街の規模が適正だからだろう。住みやすそうなところだと思う。
 街の大きさで言えば、東京や大阪はどうしても大きすぎて落ち着かない。僕はかつて住んでいた金沢を最も適正な街の規模だと思っているが、松山は金沢と違って気候がいい。転勤と言われればホイホイと行くだろう。
 18切符だと昼過ぎまで松山に居られる。ブラブラしたあと書店に寄って文庫本を何冊か買い、ビールを飲みながら帰路につく。たったこれだけの小旅行でも満ち足りた気持ちになるのは我ながらおめでたい。

 さて、愛媛にはこうして幾たびか訪れた。車で行ったことも二度ほどあり、観光的にはかなりあちこち回ったとも言える。美味い魚もたくさん食べた。しかし、まだ四国最西端である佐田岬を訪れたことがない。これは「端っこマニア」の僕としては由々しきことであり、近いうちに行かなくてはいけないと思っている。
 しかし、こういう「未練」が旅先にあることはいいことで、そのことが次の旅への原動力になることも確かだ。そうしてまたチャンスをうかがっているのである。
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僕の旅 香川県

2007年03月17日 | 都道府県見て歩き
 香川県への旅行についてちょっと思い出話。

 僕は今から18年前(あれ、19年か? 昭和最後の年)、大学卒業の季節をそろそろ迎えようとしていた。12月に卒論を提出し、その春には就職で住んでいた京都を離れることが決定していた。まだ単位を全て取得したわけではなかったが、その時点ではもう安全圏にいた。
 その最後の自由時間くらい地元で過ごせばいいものを、旅行好きだった僕は、北海道旅行に費やそうとしていた。後期試験が全て終了すれば旅に出よう。そんなふうに思い描いていた。
 なんとなしに母親は寂しそうな顔をしている。別に外国に行くわけじゃなし日本に居る限り遠く離れるわけじゃないさ、と僕などは考えていたのだが、家を出て行く人間が居る、というだけで感慨があるらしい(兄が居るのだが彼はそのまま京都で就職した)。
 その時に僕は手元に青春18切符を持っていた。これは、年末に東北旅行をした際に出来心で購入したものだ。寒風吹きすさぶ中竜飛岬に行き、そこで北海道の姿を見たときに矢も立てもたまらなくなって三厩駅で18切符を手に入れてしまい、青森市に戻って夜行便の青函連絡船に乗った。大沼公園まで行って真っ白な駒ケ岳を見て引き返した。それで一枚使った。
 当時18切符は5枚つづりで切り離せた(今は切り離せない仕様になっている)。なので友人に二枚売った。残り二枚が手元に残っている。
 母親に僕は言った。「どこか日帰りで出かける?」
 母親は嬉しそうに「行く行く」と言った。考えてみれば母親と日帰りでも二人だけで一緒に旅行なんて初めてのことだ。僕はその夜から時刻表を眺め、二日後に香川のこんぴらさんまで行く計画を立てた。
 今は瀬戸大橋があって鉄道でも安直に四国へ行けるが、当時は宇高連絡船に乗り継がなくてはならなかった。ただ時間はかかるがこの一時間の船旅が18切符でも乗れるというのがいいところで、これを柱に行程を練った。

 さて当日。まだまだ夜明けには早い時間に家を出た。母親はなんだかウキウキしてかばんにお菓子やみかんなどを詰め込んでいる。一日中鈍行列車に乗り詰めの旅であるからして体力的に大丈夫なのかなと当時の僕は危惧していたが、よく考えるとこの頃母親はまだ50歳も前半だったのだ。今自分がその年齢に近づいていることを思うとさほど心配するほどのことはなかった。
 早暁京都を発した列車は、神戸にさしかかるところでちょうど夜明けを迎えた。これは偶然ではない。日の出の時間を調べて列車を決めたのだ。山陽本線は尾道くらいまではずっと内陸を走るのだが、その中で唯一、須磨あたりで海岸線に沿う。この海辺が見えるほんのひとときの時間に日の出を合わせようと時刻表を練り画策したのだった。当日はよく晴れていて海が赤く染まる。そしてゆっくりと太陽が顔をのぞかせる。ふふふ、計算どおりだ。母親は喜んでいる。細かい親孝行である。
 岡山で乗り換え宇野へ。そして連絡船である。この連絡船も3ヶ月後には廃止が決まっていた。一時間の船旅を名残惜しむように過ごした。そして香川上陸。僕は自転車旅行で一度四国には訪れているが母親は初めての四国。そのまま電車を乗り継ぎ琴平まで。
 金毘羅宮はよく知られるように長い石段である。しかし母親は元気でスイスイと昇っていく。当時は若かったのだなあ。ヒザを悪くした今では無理だろう。今後の健康と僕の単身生活の無事を祈願して駅に戻る。
 もはや帰らなくてはならない。日帰り鈍行で京都から行けるギリギリの場所だったのだから。再び高松に戻り連絡船へ。
 夕刻で海はまた夕陽に染まっている。これも計算どおりのことであって、船上で夕焼けが観られる算段にしたのだ。大小の島々が浮かぶ瀬戸内海。そしてもうほぼ完成した瀬戸大橋を見上げつつ船は進む。夕映えで染まったその風景を見つつうどんを食べる。天気に助けられてこの日帰り旅行は完璧になった。
 今でも母親はあのときの話をする。親孝行だったのか、それとも引きずり回して苦行を強いてしまったのかはそのときはよくわからなかったのだが、思い出に残っているのだから行ってよかったのだろう。

 さて、香川県というところは、日本で最も面積の小さな県である。本来大阪府が最も狭かったのだが、海岸埋め立てによって香川を抜いてしまった。なので観光であるとすぐに回り切ってしまう。前述のこんぴらさんの他に、小豆島、栗林公園、屋島、銭形の琴弾公園、丸亀城、善通寺、満濃池…さほど思いつかない。しかし僕は、旅行で最も訪れた回数が多いのはおそらく香川県なのである。
 何故にそんなに香川に行くのか。それはもう書くまでもない。うどんである。
 うどん!うどん!うどん! ああさぬきうどんは史上最強である。
 今はもちろん空前のさぬきうどんブームであり、僕が書くことなどもうないのだが、美味いので少しだけ書くことにする。
 僕もいわゆるブームに乗ったくちではあるのだが、最初にうどんを食べる目的だけで讃岐に上陸したのはもう8年くらい前である。それまで地方都市に居て讃岐のことなど彼岸のように思っていたのだが、あるとき書店で「恐るべきさぬきうどん」という本を発見した。この本は香川県のタウン情報誌で連載されていた県内うどん食べ歩き情報が本としてまとめられ発行されたものだったが、まずその本のタイトルに惹かれ読んでみて驚いた。「さぬきうどんは凄すぎる!」
 通常観光客が訪れるうどん屋ではない、地元限定のうどん屋探訪記が抱腹絶倒の筆致で書かれ、僕は完全に魅せられてしまった。セルフ方式のうどん屋、製麺所の片隅で箸とどんぶりと醤油だけ置かれて勝手に食べろと開放しているうどん屋、看板のないうどん屋、山奥でひっそりとやっているうどん屋…。どれもこれも美味そうである。ああ食べてみたい!しかしそれらのうどん屋はたいてい休日は営業してはおらず、土曜も午前中勝負のところばかり。えっちらおっちら地方から行くことは叶わないのか、と歯噛みした。そして憧れだけで終わるところだったが…。
 僕は僥倖にも関西に転勤となり、香川県を射程距離におけることになった。よーし行くぞー。金曜の夜に高速に乗りその日のうちに香川上陸。早朝営業のうどん屋の前で車中泊をして(汗)、打ち立てのうどんを即座に一杯。そして次の店へ。また次の店へ…という強行軍を何度も繰り返すことになった。食べても食べても美味くてたまらない。そうして、高速代と橋代でかなりの金額を使いながら一杯100円か200円のうどん屋を1日7~8軒ハシゴするというアホなことを週末に続けた。
 今はさぬきうどんのガイドブックもたくさん出ていて情報には事欠かないのだが、当時はその「恐るべきさぬきうどん」というコラム集だけが頼りであり、しっかりした地図がのっているわけではないので、住所と本に載る不親切な地図だけを頼りに探訪を繰り返した。住所ではここだと示されているのだがどう見ても普通の民家、迷って道を聞こうと扉を開けたらそこがうどん屋だったり、それでもわからずぐるぐると同じ場所を走り回って諦めかけたときに見つけたり、苦労を結構したが、それに見合う感動があるわけで、夢中になって食べ歩きをしているうちに訪れた軒数は100軒を超えた。美味いところには繰り返し行くので、もう延べ軒数は自分でも掌握できなくなっている。
 そうしているうちに本格的さぬきうどんブームが到来して、有名になったうどん屋には大行列が出来るようになった。「釜玉」で有名な「山越」には長蛇の列が出来、自分で葱を畑から収穫してうどんの薬味とする「なかむら」には大きな駐車場が出来たと聞く。映画にもなった。もう全国区どころの騒ぎではない。

 そうした中で、僕も一渡り食べ歩いた経験があるので、よく人に聞かれるようになった。「どこのうどん屋がお薦め?」
 これほど難しい質問はない。さぬきうどんの真髄は「製麺所」にあり、そこで作っているうどんを即座に食べる(それも非常に廉価で)ことにあるのだと思うが、それにはタイミングが必要であるということがわかっているからである。
 うどんは生き物である。打って茹でて冷水でキュッと締めたその瞬間がうどんの醍醐味であり至上のものであるからして、そのグッドタイミングの瞬間を狙い撃ち出来ればそれが最上である。ただ、そういう一杯150円程度で供されるうどんは、客の顔を見て茹でたりしてはもちろんしてはくれない。ベルトコンベアーに乗っているようなものだから、並んでいる僕までが20分前にあがったうどんで、次の人からあがりたてという可能性もある。この20分で味が決定的に違うことがある。
 僕が今まで食べた中で最高に美味かったのは、善通寺市にある某製麺所のうどんだったのだが、それはまさに「生まれたて」のうどんだった。麺はツヤツヤと光り輝きエッジが立ち、香りも歯ごたえも最高で、ああ生きていてよかったと思える至福のうどんだったが、その経験から即座にその店を推奨するのもどうかと思うのだ。現にその店を再訪したときは前回ほどの感動はなかった(もちろん美味いことは美味かったが)。うどんはタイミングこそが最も重要な要素であり、それは数をこなせば必ずめぐり合えるとも限らないがいつかは出会える。少なくとも午前中である。開店と同時に飛び込めばいいというものでもなく、開店前に打ちためたうどんが供されることもあり、ある程度人が増えて最初に打ったうどんが無くなり次のうどんの先頭に位置することが出来れば最高だがそんなの計算して出来ない。「今茹でてるからもうちょっと待ってねー」とおばちゃんが言ったらそれが最高である。思わず舌なめずりをしてしまう。そうして出てきたうどんは艶がありまさに生まれたて。それにカンバツを入れずにネギとショウガを乗せて醤油をまわしかけて一気に啜る。あー美味いっ。人生の幸せがあるとしたらこれである。

 こんなことを書いていたら止まらなくなってしまう。香川県旅行記がうどんだけで終わっては不本意なことで、小豆島の風景や平賀源内の墓のことや空海の足跡や、骨付き鳥とビールの相性の良さについてもっと書かなければいけないのだが、長くなってしまったのでこれで終わる。

 僕が訪ねたさぬきうどんの店一覧についてはこちら
 これは一覧表であって寸評はしていない。そもそも寸評など僕の手に余るので、他の方のサイトを参考にしていただきたい。
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