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凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

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僕の旅 徳島県

2007年02月19日 | 都道府県見て歩き
 僕のように兵庫県の瀬戸内がわに住む人間にとっては、明石海峡大橋が架かることによって本当に徳島県が近くなった。それまでは車で行こうと思えばフェリーか岡山周り瀬戸大橋経由、列車でも同様にまず香川県経由でなくてはならなかったため、一直線に行けるルートが出来て助かる。ただ通行料金がちょっと高すぎるのが難ではあるけれども。

 僕が初めて四国に足を踏み入れたときは、鳴門大橋ですらまだ無かった…と書こうとして、念のために調べたら、鳴門大橋は昭和60年開通だった。僕が徳島に初上陸したのは昭和62年だから…もうあったのだな(汗)。間違いを書かなくてよかった。
 そうそう思い出した。橋は確かに開通していた。当時は東洋一の吊り橋ということで話題になっていたのだったっけ。
 あの時は、自転車旅行だった。四国一周を思い立ち、春のまだ肌寒い頃徳島県目指して走り出した。早暁、当時住んでいた京都を発ち、その日のうちになんとか四国上陸を果たそうと思ったのだが、パワー不足と、夏と違って早く暮れてしまうことに阻まれて淡路島の南端までしか行けなかった。宿に泊まり、そこの同宿者と盛り上がって夜半過ぎまで話しこんでしまったために翌日少し寝坊した。遅い出発となったのだが、そのとき初めて鳴門海峡を渡るフェリーが異常に本数が少ないことを知って慌てた。明石海峡はまだ橋もなくフェリーが頻発していたので油断したのだ。急いで港へ走ると、もう船は今まさに出航しようとしているところだった。これを逃せばもう昼まで船便はない。「おーい待ってくれー! !」と叫び、ほぼ滑り込みのような形で乗り込んだ。そうだ橋は確かにあったのだ。
 渦潮で有名な鳴門海峡を、船は橋を見上げながらのんびりと行く。徐々に港が近づき、僕は四国第一歩をそのとき踏み出した。
 今はこんなのんびりした旅ももう出来なくなっている。あの時はまだ橋も出来たばかりで過渡期であり、本数が減ったとは言えフェリーもまだ運航していた。しかし利用客は当然の如く激減し、しばらくしてフェリーは廃航となった。
 鳴門大橋は当然の如く自動車専用道である。すなわち、淡路島から徒歩、自転車、原付で四国へ渡る、或いは逆のコースはもう不可能になった。徒歩旅行はバスに、そして自転車は…どうやって渡ればいいのだろう。もうこのコースは使えなくなったのだ。
 近年、「渦の道」という遊歩道が自動車道の下に出来た。ようやく徒歩や自転車に門戸を開放したのか、と喜んだのだが、これは渦潮を見るためだけに設置された道で、橋の1/4程度しかなく全通していない。そして、これが出来たために橋の下のスペースが埋まり、徒歩や自転車道が作られる可能性は無くなった。自力上陸にはもうずいぶん離れたしまなみ海道しか手段はない。いつの時代も少数者には行政らは優しくない。冒頭に「便利になった」と書いたばかりだが(汗)。

 さて、しかしながら自動車道の全面開通で四国が近くなったことは確かで、四国への旅が増えた。もっとも旅行の全てが徳島目的ではないが、香川に行くにも高知に行くにも愛媛にも、必ず徳島を経由する。なので、四国の旅の終わりは徳島に一泊するのが結構楽しみであったりする。必ず「阿波尾鶏」というダジャレみたいな美味い鶏のモモ焼きを食べスダチ酎を呑み、海鮮居酒屋にハシゴして新鮮な魚を食べ、徳島ラーメンで〆るのが定番となった。徳島ラーメンというのはこれまたコクのあるスープでたまらない。たいてい酔ったあとは街中にある「よあけ」という店に行くが、さんざん呑んで食べた後なのにこれだけは止められない。美味いのだ。スープのコクは天下一品だな。徳島には「いのたに」など有名店も多く、叉焼ではなく豚バラ肉がのり、タマゴを落すとさらに美味いこのラーメンの存在は本当に嬉しい。

 徳島に代表させて書くけれども、四国は地勢が険しくまた川が美しい。そして趣のある街々が点在する。
 徳島の真ん中を流れる川は「四国三郎」吉野川である。この大河は徳島を二分して滔々と流れる。美しい。その支流である穴吹川は、四国一の清流である。よく四国の美しい川と言えば四万十川を思い出す人が多いだろうが、この穴吹川は「四国一」の看板をもう10年も背負っている。その穴吹川が吉野川に流れ込む対岸には、うだつで有名な脇町がある。ホッとしますねこの町は。堂々たる観光名所だが俗でない気品がある。
 ただ道は険しい。三桁国道ともなると山間を縫う様にくねくねと走るため、同乗者はたいてい車酔いをおこす。未舗装のところもあり、国道というより林道と言ったほうが相応しい道もある。代表格に439号線(ヨサク)があるが、何度走っても疲れる。
 昔この道を、一部だが自転車で走ったことがある。高知県に入ってしまうのだが、道沿いに寺の経営するYHがかつてあった。そこには僕は何度も泊まった。この宿では修行と称して何パターンかの観光(?)コースを用意しているのだが、そのひとつにこの道を自転車で走るというものがあった。宿に泊まり合わせた何人かとその439号線を走ったのだが、それは修行というに確かに相応しい苦行である。宿は高知県側にあり、そこから徳島県へ抜けるのに「京柱峠(標高1130m)」を越えなければならない。僕は一応サイクリストだったのである程度の峠を上るコツというものを知っているが、レンタサイクルでこの峠を上るのは大変だっただろう。ただ、見晴らしは素晴らしい。実に絵になる美しさで、疲れも吹き飛ぶ(それは言いすぎか)。
 峠を越えてちょっと北上すれば、落人伝説の残る祖谷の村へと降りる。かずら橋が有名である。日本三奇橋の一つであるこの蔓を編んで架けられた、川底丸見えの原始的な怖い吊り橋を渡ってディスカバージャパン。そして北上し小便小僧が断崖に立つ祖谷渓を抜けて、山を降りるとそこは吉野川上流。大歩危小歩危で高名である。
 サイクリングコースとしては秀逸だが、今では無理だろう。

 ちょっと食べ物にも触れたい。僕は麺が大好きだが、ここ徳島には前述した徳島ラーメンの他にも美味いものが多い。かずら橋のある祖谷には「祖谷そば」という素朴な蕎麦がある。どちらかと言えば田舎風の、短く太い麺だが香りがいい。また吉野川沿いには半田素麺がある。伝統がある手延麺で、やや太め。コシが強い。また土成には「たらいうどん」が名物としてある。讃岐との県境に店が密集している。やはりうどん文化圏なのだろう。でかいタライで供される釜揚げうどんであり、やはり美味い。
 最近はじっくりと歩いていない徳島だが、とにかく僕の住むところからは近い。まだまだ歩く楽しみを残している。

僕の旅 山口県

2007年01月09日 | 都道府県見て歩き
 山口県に最初に行ったのはやっぱり修学旅行だったかなあ。中学のときである。広島と抱き合わせだった。
 そのときは萩と青海島、秋吉台、そして下関に泊まったかと思う。錦帯橋にも行ったか。
 下関は泊まっただけしか記憶が無い。メインは萩だった。班ごとに自由行動ということだったので、中学生のくせに歴史マニアだった僕は様々な計画を立てた。松下村塾、高杉晋作、木戸孝允旧宅はもちろんのことだが、ガイドブックに載っていない場所(例えば久坂玄瑞や品川弥二郎ゆかりの場所とか)を計画に盛り込んだりしたが、友人達の反対で(そんなん知らんがな、と言われて)そういう場所に行くことが出来なかった。心残りだった。
 そのため後々まで未練が残り、その後萩にはまた足を運ぶことになる。幕末ファンであれば当然のことだろう。萩だけではない。山口市や下関、長府、防府などは歴史ファンにとってはたまらない場所で、一回の旅行では回りきれない。なのでテーマを決めて旅をしなくてはならない。今回は高杉晋作に絞る、とか。それだけでも下関の街中から長府、東行庵、そして周防大島と歩かないといけないのでまたこれが回りきれない。人物は高杉晋作だけではない。大村益次郎は? 伊藤博文は? はたまた山口県出身じゃないけれども坂本龍馬はんは? となるともう歩ききれないほどの史跡が残る。従って何度も何度も行かなくてはいけない。一時期山口がマイブームだったときがある。

 旅は歴史散策だけではない。山口を訪れたいと思う時は他にもある。
 ガラではないと思われるかもしれないが、僕は中原中也が好きである。

  音をたてると私の心が揺れる、
  目が薄明るい地平線を逐ふ…
  黒々と山がのぞきかかるばつかりだ
   - 失はれたものはかへつて来ない   (黄昏)

 若い頃はこういう胸に突き刺さるような詩を読んでいた(今はこのテイタラクだが)。中也が生まれたのは山口県吉敷郡、今で言う湯田温泉である。山口市内にある温泉地。県庁所在地に温泉が湧いているのは珍しくないけれど、温泉街まであるのは少ない。
 ここには中原中也記念館がある。温泉にゆっくりと浸かり(共同浴場がないのが残念だが)、しかるのち中也に思いを馳せるのがいい。

  これが私の故里だ
  さやかに風も吹いてゐる
  
  あゝ おまへはなにをして来たのだと…
  吹き来る風が私に云ふ           (帰郷)

 山口県が生んだ詩人は中也だけではない。あの漂泊の詩人、種田山頭火もそうだ。

  ほろほろ酔うて木の葉ふる
  酒はしづかに身ぬちをめぐる夜の一人 
  おもひでがそれからそれへ酒のこぼれて
  酔へなくなつたみじめさはこほろぎがなく

 山口は詩人を生む土壌があるのかもしれない。そういえば高杉晋作も詩人だった。
 長州閥のせいで政治家ばかりが目立つところだが、感受性豊かな人も数々あらわれている。山口の実力なのか。

 山口は日本海と瀬戸内を併せ持つ。そんなところは兵庫県とここだけだ。冬は雪も降る山陰と、温暖で陽がさんさんとふりそそぐ山陽。同じ県内でも風景が様々に移り変わる。秋芳洞という日本一の鍾乳洞もある。そんな場所で歴史が育まれた。源平合戦の終結地となり、大内氏が京にも引けをとらない街を作り上げ、ザビエルもやってきた。巌流島もある。伝統が脈々と生きている感じがする。

 さて、その響灘と周防灘のおかげで美味い食べ物も多い。代表格はフグだろう。このなかなかに手が出にくい高級品の代表とされる食べ物は、比較的現地では食べやすい。しかしその地でも清水の舞台から飛び降りるつもりで注文しなくてはいけない(ちょっとタイソウかな)。いや、安く居酒屋でも食べさせてはくれるのである。しかし一度だけ、お大尽さまになった気持ちで下関の料理屋に上がりこみ、フグ刺し、フグちり、白子焼きなどを注文したことがある。ふっふっふっ。庶民とて一度くらいは経験してみたいではないか。
 フグは薄造りで、大皿に菊の花のように盛り付けられて(貼り付けられて?)出てくる。綺麗ですよね。こんなに薄いのに歯ごたえがある。誠に結構なものを堪能した。
 なお全然関係ない話だけれど、よくTVのグルメ番組でタレントが大皿のフグ刺しを、箸を立ててぐるりと円を描くようにザバリと取って一口で食べている様子が映される。金満食べだ。アホかいな。せいぜい2、3枚同時に、くらいがいいところだろう。あの歯ごたえと香りがあれでは味わえない。あんなふうに頬張ったらフグが泣くというもの。自分の金で食べていないからあんなもったいないことが出来るのだ。丁寧に引かれたフグ刺しの真髄があれでは味わえない。小市民と言うなら言いなさい。
 さて、フグ刺しのあとは白子(あぅぅトロけるぞ)、そして唐揚げ。美味いですのぉ。そしてフグちり。もちろんヒレ酒を呑みながらである。最後に雑炊。誠に結構でございます。
 なお、こんなことは何度もしなくてもいい。生きている間にもう一度くらいは、とも思うけれども、今は居酒屋や唐戸市場の食堂で気軽に食べる。それでも美味いですよ。フグの唐揚げ定食なんかは安い。

 もうひとつ書いておこう。川棚温泉の瓦そば。僕はこれが好きで、山口に車で来ていれば必ず食べに走る。これは、焼いた瓦の上に茶そばを盛り、その上に錦糸玉子や牛肉などの具を乗せて供されるもので、そばの瓦に面するところはカリっと焼け、中ほどは熱々に蒸される。もみじおろしとつゆで頂くのだがこれが美味い。詳しくは有名店である「たかせ」のHPを見て欲しい。

 また格調低く食い意地の張った話で終わった。


 
 なお、萩市内の歴史散策の記事を作りました。僕にしては珍しい画像付き記事なので合わせて御覧いただければ幸いです。
 →僕の旅番外編・萩のマニアック歴史ポイント

僕の旅 広島県

2006年11月11日 | 都道府県見て歩き
 広島に初めて行ったのは10歳くらいだったと思う。家族旅行だ。しかも新幹線利用の日帰りだった。
 今にして思えば、山陽新幹線が全線開通したのが1975年、まだ開通したての頃だった。父親に「一度乗ってみよう」という考えがあったのかと推測できる。また家族旅行となれば五人家族であった我が家はいろいろ物入りで、日帰りできるとなれば助かったのかもしれない。
 では何故そうまでして新幹線開通を待ちかねたように広島行きだったのか。

 新幹線で京都~広島間は当時もだいたい2時間くらいだったと思う。子供連れのこととて、早朝発、深夜帰宅というわけにもいかない。記憶では朝食を食べてから出かけ、日のあるうちに帰りの列車に乗った。広島滞在時間は短かったように思う。そんなにあちこち歩いてはいない。確か、まっすぐに平和公園へと向かった。
 夏の原爆ドーム。ちょうど戦後三十年、とにかく人が多かった。今は戦後六十年を超えてしまったことを思うと、僕たちは「戦争を知らない子供たち」であったが、父親達の世代にはまだまだ生々しかったに違いない。ちょうど僕は今、当時の父親の年齢に差し掛かっているが、三十年なんてあっという間だ。

 「安らかに眠って下さい/過ちは繰返しませぬから」

 原爆慰霊碑に刻まれた言葉が子供の心に刺さった。想像を絶する惨状がこの地で起きたのだ。深く刻まれた三十年前の叫びを胸に、僕たちは平和記念資料館へと入館した。
 数々の悲惨な展示物。被害の状況を一つ一つ伝える遺物や写真はもとより、子供の目に飛び込んだのは目を覆いたくなるような復元模型だった。爆心地のジオラマ。そして、生死をさまよう人々の、皮膚の焼けただれた等身大模型。
 父親が言った。

 「あれな、おじいさんが作ったんやぞ」

 驚いた。祖父は模型技師で、資料館その他に納入する模型作成の製作会社に勤めていた。小さい頃、よく祖父は蝋(だったと聞いていたが多分樹脂だったのだろう)と熱ゴテ一本でバラの花などを目の前で瞬時にして作っては驚かせてくれたものだった。
 父親の言う事は今にして思えば誇張で、祖父の居た製作会社が作成したものなのだろう。ただ、祖父の手は入っているはずだ。
 当時は怖くて凝視できなかったその展示物だったが(夢にも出てきた)、父はそれを孫に見せんがために日帰り広島旅行を強行したのだろう。
 祖父も亡くなって久しい。僕はその後も数度、平和記念資料館には足を運んだ。それだけでなく、北は礼文島から南は種子島まで、祖父が残した模型やジオラマを訪ねて歩いた。僕の旅の目的のひとつにそれは挙げられるのだけれど、広島の話からは外れるので措く。

 その後も、広島にはよく訪れた。次の機会は中学生の修学旅行だ。そして次は時間をおいて大学時代の自転車旅行の途中。この時は平和公園で野宿をした。爆心地であっても特に怖いと思うことはなかったが、酔っ払いのおっさんに絡まれて閉口した。なかなか平和に眠らせてくれはしない。
 その後は、幾度訪れたのかもう定かではない。旅の途中で広島に一泊ということもあるし、出張絡みもある。最近は兵庫県に住んでいることもあって、青春18きっぷで日帰り、ということもよくある。ちょうどいい距離なのだ。
 お好み焼きを食べるためだけに広島に行く、というのも洒落ているではないか。今はどこにでも「広島風」お好み焼きを食べられる店は存するが、かつてはそうではなかった。特に関西では大阪式でないと認められないという風潮もありなかなか食べることが出来なかった。初めて広島でお好み焼きを食べた時は美味かったね。キャベツがこんなに甘みがあって美味いということを知ったのは広島式でお好み焼きを食べてからではなかったか。砕いて入れるイカ天もナイス。また広島では麺を入れて焼く場合が多いが(大阪にも「モダン焼き」があるがそれとはまた別物)、たいていはそばを入れる。しかし広島で見ていると地元の人はよく「うどん」を入れている。あれが真似したくていつも注文しかけるのだがつい「そ、そばで」と言ってしまう(笑)。人間は冒険できないものだと痛感した。はじめてうどんを入れたのを食べたのは結婚してからで、「そばとうどんでひとつづつ」と言う注文が可能になってから。またうどんはボリューム感があって美味いのだ。しかし、その後一人で「うどんで」と言って食べた後、どうしてもそば入りも食べたくなって悶えたこともある。なかなか悟りを開くことなど出来ないのだ。人生迷い迷って生きている。

 宮島は日本三景の一つで是非訪れる価値のある場所だが、ここに行く宮島航路は今日本で唯一JRが運行している航路である。かつては青函、また四国への宇高連絡線そして仁方航路などいくつも国鉄切符で乗れる船があったのだが、今はこの宮島航路を残すのみである。
 ということは、18きっぷでも渡れるのだ。これは気分がいい。なので延々鈍行を乗り継いで宮島に行くこと数度。世界遺産厳島神社はそれはもう荘厳で言うことなしである。
 ただ、宮島へ行くのは他にも目当てがある。JR接続駅の宮島口で販売する駅弁、うえのの「あなごめし」である。これを買い求めて連絡船の中で食べる。これは駅弁としてはちょっと値が張るが美味い。駅弁界の西の横綱ではあるまいか。もちろん駅前に店があってそこで丼を食べることも可だが、船上で食べるとまた旅情を感じる。包装紙が何パターンもあってそれをついコレクションしてしまう。
 そして宮島に着いたら「もみじ饅頭」だ。何をしに宮島に行っているのかとも思う。

 話が進まない。広島も見どころが多くて困る。
 山に分け入っても三段峡や(可部線は縮小廃線で行けなくなっちゃったなぁ)三次、庄原、帝釈峡。毛利関連で歩いても見ごたえがある。また海際にも行かなければならないところが多い。広島から西に、呉、江田島、倉橋島(音戸の瀬戸…清盛ですね)と続く。
 県東部(備後方面)も歩くと楽しい。西条や竹原はまだ安芸だけれど、町並みがいいのですなあ。西条は酒どころでもあるし。鞆ノ浦は足利義昭とか龍馬はんファンならもう飽きないのではないか。魚も美味いし。
 そして尾道。ここは何度訪れたか。初めて来たのはまだ学生のときで、その頃は林芙美子などもちろん読んではいなかった。もう20年以上前のことだけれども、その頃から尾道は「映画の街」として知られていた。
 もちろん大林監督の映画くらいは僕だって観ているので、その場面場面を辿り歩いた。あの頃はもちろん向島に行くのに橋など渡らない。しまなみ海道など想像もつかない頃で、映画と同じように渡船を使った。雰囲気がなんとも言えずにいい。まだ「ふたり」や「あした」も公開されていない頃。御袖天満宮の石段を転げ落ち(といいつつ痛いので途中まで)、ラストシーンの場所に立ち車を見送った。まあみんなやるだろう。絵になる風景が多い。なんだかホッと出来る場所だ。
 今は、尾道にも「立ち寄る」という形が多くなって残念だが、本当は一日ボーっとしていたい。短い滞在時間の間に商店街をぶらつき、蒲鉾を買い缶ビールを持って海際に座り、尾道水道をゆく船をぼんやりと見ながら憩う。至福のときだ。雑念が払われる。そしてラーメンを食べ(朱華園の行列は凄いね)、喫茶こもんでフランボワーズカスタードクリームワッフルを食べる。いつも混んでいるけれども、なんとなしに尾道にいるなぁという感じがして落ち着く。なんだろうなこの感じは。ノスタルジーというものがあるのならこれなのかな。もちろん僕は尾道には縁もゆかりも無い人間なのだけれども。先日尾道を「小京都」と紹介していたところがあった。そんなアホな。尾道は尾道じゃないか。この雰囲気は京都とは全くの別物だ。

 そんな感じでまた広島で遊んでいる。

僕の旅 岡山県

2006年10月10日 | 都道府県見て歩き
 岡山県は住みやすそうなところだと本当に思う。住みやすさ指数は全国平均ではあるが、都市の規模も適正であるし、気候温暖、災害も少ないように思われる。静岡もいいなと思うけれども地震が怖い。岡山が震源地の大きな地震などというものは近来無いのではないか。大きく揺れたのは戦後でも阪神大震災と鳥取西部地震くらいだろう。芸予地震もあったか。いずれにせよ岡山のせいではない。
 なのでこの地は古代から栄えた。吉備王朝の痕跡を訪ねるとそのことを本当に実感する。造山古墳のデカさと言ったらない。仁徳、応神、履中天皇稜に次ぐ全国第4位の規模を誇る前方後円墳で、350mもある。相当な勢力を持った豪族が跋扈していたに違いない。岡山と言えば桃太郎伝説が有名だが、鬼に奪われるだけの財宝が多く存した証しでもある。

 豊かな岡山県で、見どころ満載の地ではあるのだが、案外と若い頃にはこの地を旅していない。近畿地方に住んでいて近かったのに。むしろ近いと言う事が「いつでも行ける」でちゃんと歩かなかった原因なのかもしれない。学生のときはいつも遠くを目指し、「通りすがり」でしかなかった。岡山目的でうろうろし始めるのは長い休みがとれなくなってからだった。
 初めての岡山では、やはり倉敷に足を運ぶこととなる。このかつての「アンノン族の聖地」である白壁の街倉敷の良さというものはその「街の誇り高さ」であろうかと思う。かつて天領として栄えた倉敷の文化民度の高さが美観地区を歩くとすぐ実感できる。君達の住んでいるところにこんなにいいところはないだろう、と語りかけてくるような矜持がある。この市民のプライドが倉敷紡績の大原孫三郎を生み、私財を投じて大原美術館を創設しアイビースクエアを造らせた要因となっている。もっとも昨今は土産物屋が増えすぎて、そこに目を瞑らなくてはならないのだが。
 しかし人の少ない時期の、早朝か黄昏時にこの情緒のある街を歩き、大原美術館で心の洗濯をして喫茶「エル・グレコ」で珈琲を喫するのは至福と言ってもいい。旅の者からすればちょっとした異空間がそこにはある。この空間を日常として守り続ける倉敷の市民に敬意を表せざるを得ない。

 美しい町並みが残るのは倉敷だけではない。例えば倉敷から北へと山間を進むと高梁へと出る。ここも武家屋敷が並ぶ。紺屋町筋を歩くとなんともいえない風情がある。また、さらに山を分け入ると吹屋集落にたどり着く。ここへ初めて足を踏み入れた時には本当に驚いた。町が赤いのだ。ここは日本屈指の銅山があったところで、三菱岩崎家の隆盛の発端となったとも言われる。その銅山では、副産物とも言える硫化鉄鉱も産出した。つまり紅殻である。このベンガラに町が染められているのだ。こんなに山深いところにこれほど気品ある町並みが残されているとは。岡山の懐の深さを思い知った。

 もともと「吉備王朝」の中核であった岡山には、かつての栄華の跡が色濃く残る。総社市を中心としたあたりの様々な遺跡を歩くとその佇まいに様々な空想が広がって止められなくなる。この佇まいというのは、もう日本では奈良とここにしか残されていないのではないか。徒歩がとにかく合う。
 吉備津彦神社、吉備津神社の荘厳さはまた格別で、この地の英雄と言われ桃太郎のモデルとも言われる吉備津彦に思いが飛ぶ。そのライバルとされる鬼のモデルとも言われる「温羅」と呼ばれる怪人は百済の亡命王子ともされるが、その根拠地である「鬼ノ城」が今も残っているのが凄い。この城は調査によっていわゆる「朝鮮式山城」であることが明確になっているが、とにかくここは必見であると思う。日本に残る城としてはおそらく最古級だろう。この圧倒的な威圧感というものは比類がない。かつて朝鮮半島ではこの山城が威力を発揮し、高句麗はこの城を連ねて隋の大軍を破り隋滅亡のきっかけとなった。この山城は白村江の戦いに敗れた日本が百済の亡命者と、唐と新羅の進軍に備えて築いたとも言われるが、そうなれば百済王子とも言われる温羅は何故鬼の役回りとされなければいけなかったのか。ここから様々なことが考えられるが、旅の話とどんどんずれていくので止める。

 さて、ここまでの話は主として備中国のことになる。岡山は旧国分で言えば備前、備中、美作に分かれ、それぞれに文化も言葉も違うと言われる。こういうところを体感するのがまた旅の面白さだ。
 備前の中心と言えばもちろん岡山市であり、県庁所在地、そして岡山城と後楽園がある。日本三大庭園のひとつである後楽園に訪れたのは、兼六園、偕楽園を訪れたあとのことだった。最後になってしまったのを詫びながら入園すると、これがまた広々としている。段差の多い兼六園とは一味違う。何か瀬戸内の大らかさを象徴している気がしないでもない。
 備前には、日本のエーゲ海とも言われる牛窓、そして日生など海を感じさせてくれる観光地が多いが、山手でも閑谷学校などは絶対に訪れたい。立派である。また歴史の話になってしまいそうなのでこのくらいにして、近くには和気町もあり、ここは和気清麻呂の…おっとまたそっちに話が行った。

 美作は山の中で、中心は津山である。津山と言えば最近はB'zの稲葉さんの出身地として有名になり、僕もイナバ化粧品店で写真を撮ったが、ここは津山鶴山城を中心とした城下町で風情がある。衆楽園という庭園もあって入場無料でなかなかいい。ゆっくりと歩くのに最適かもしれない。

 岡山県は温泉もいい。山あいにいくつか情緒のある温泉街があるが、その中でも湯原温泉には「砂湯」という共同露天風呂があって(別に砂蒸し温泉ではない)、僕は以前「温泉街混浴丸見え温泉のベスト」と書いたことがある。なかなか足を運べないが、岡山に車で行ったときには寄るようにしている。開放感がたまらない。
 また食べ物の美味さでも白眉で、瀬戸内の新鮮な魚が最高だ。代表格は「ままかり」であろうか。僕はこういう背の青い小魚が大好きで、どちらかと言うとままかりと言うより「酒かり」になってしまうのが問題ではあるのだが。また、広島県境の笠岡で食べた「しゃこの天丼」は忘れられない。甲殻類には目が無いのだが、これは美味かったねぇ。ああ涎が…(下品で申し訳ない)。
 岡山限定の食べ物もたまらない。「祭りすし」は岡山独特のもので、魚介たっぷりのちらし寿司であるが、その具は飯の下に隠れている。かつて、庶民が贅沢禁止の時代に、寿司ダネを隠して食べたという名残であるが、岡山の豊かさの証明ともなっている。魚介が見えようが見えまいが食べれば同じ、美味いものは美味い。瀬戸内の実力を思い知る。
 岡山は魚介だけではない。他にもいろいろあるのだ。「ドミカツ丼」はカツ丼のドミグラスソース仕立て。美味いよ。うう食べたい。また「えびめし」、そして「ぶっかけうどん」と個性的なラインナップ。どうしてこういう食文化が岡山で花開いているのだろう。これらを考えただけでも「旅をする価値」また「住む価値」というものが出てくるかと思われる。ああおなかが減る。先日行ったところなのだが、またぞろ旅の虫が動き出す。


僕の旅 島根県

2006年09月03日 | 都道府県見て歩き
 鳥取県の旅の続きになる。朝、大山に登った後、島根県へと入った。

 島根県に訪れるのもむろん初めてではない。最初に来たのは20年以上前の自転車旅行の際だったが、そのときは松江で時間をとり、松江城や小泉八雲旧宅などを観光し、少し走って出雲大社へ。そして傍にある出雲の阿国の墓などに詣で、日御碕まで行った。この日御碕には白亜の東洋一とも言われる灯台が聳え、一級の景勝地である。ここまでは自転車で訪れた。しかし、その後は出雲から山口県の萩まで一気に走ると言う愚行をやってしまい(人力移動の旅 3)、あまりあちこち見てはいない。
 その後、津和野へピンポイントで出かけたり(この城下町は本当にいい。西周と森鴎外の旧宅が残るが、この津和野藩が明治の言語発信基地を担ったということがわかる)、また結婚してから妻と同じような足跡を辿ったりで、いまいち深め切れなかったとも言える。あとは通りすがりとか、そんなことばかりだった。もう少し出雲の国をしっかり歩きたい。そんな望みをずっと持っていた。

 今回は、もう少し細かに歩きたいと思う。テーマは「神話と金属」である。
 島根に入ってまず訪れたのは安来の「和鋼博物館」である。良質な砂鉄を産した出雲は鉄の文化圏。古来から製鉄が連綿と続けられていた。その歴史は、神話時代まで遡ることが出来る。大陸と近いこの出雲の地は、古くから製鉄技術が発達した。あるいは良質の砂鉄を求めて大陸から技術者が渡来したとも考えられる。その「たたら製鉄」は、素盞嗚尊に天叢雲剣(草薙剣)を与え、大国主命率いる出雲王国を造り出した。国譲り神話は鉄を求めてのことであったかもしれず、出雲製鉄を少しでも垣間見たい。
 「和鋼博物館」はなかなかに凄い展示物が多い。もちろん古代の製鉄のことなどは分からないことだらけらしいが、近世の「たたら製鉄」については実に詳しく解説してくれる。砂鉄採取法である「鉄穴(かんな)流し」や、原始的溶鉱炉である「たたら吹き」の手法。近代以前の製鉄法がよく理解できる。そこにある「天秤ふいご」はそれは見事なもので、この仕組みを大掛かりにして表現したのが「もののけ姫」に登場する。
 すっかり勉強になって製鉄にグンと興味がわく。

 その後、ちょっと寄り道して広瀬の月山富田城へ。テーマとは逸れるが、山陰の覇者、尼子氏の本拠となった城は是非訪れておきたかった。ここは一見の価値がある。なかなかにすごい。
 さて、その後「八雲立つ風土記の丘公園」へと行く。このあたり一帯は出雲文化の中心地。ここの資料館には、様々な興味深い遺物が展示されている。
 早速、銅鐸や銅矛、銅剣に目が行く。荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡から出土したもの、その他である。鉄ではなくてここでは銅である。
 熱心に見ていると、ボランティアガイドのおじさんがやってきて、あれこれ解説してくれる。こっちもある程度は勉強してきた。なので話が弾んでしまう。
 「これはどうもこの地で作られたものではない可能性が高い。畿内から持ち込まれたのでしょう」
 「いやそう決め付けるのはどうでしょう? 出雲王国は銅も産出するし、この地で作られたかもしれないじゃないですか」僕は食い下がってみる。出雲王国を過小評価したくない。
 「しかしここは銅鐸文化圏じゃないこともあるし」
 「いや、ここから畿内へ伝播した可能性もあるのでは? 」
 おじさんと話が弾むが、それをここにいちいち書くわけにはいかない。
 ここには例の「景初三年」の三角縁神獣鏡や、「額田部臣」銘の刀もある。国宝、重文だらけだ。すっかり堪能すると、おじさんは敷地内にある岡田山1号古墳の鍵を開けるから見て行けと言う。それは重畳、と有難く拝見する。
 石室に入ると、実に小さい。石棺は子供用のようだ。おそらく、もがりを済ませて骨だけ収めたのだろう。
 「石室が畿内に比べて狭いでしょう」おじさんはどうも卑下する。
 「いや、そんな石舞台などと比べてはいけませんが、この時代なら立派ではないですか。天石も3つで出来ていたし。だいたい前方後方墳なんてすごいと思いますよ。さすが出雲だ」
 出雲を誉めるとおじさんは喜んでくれる。礼を言って資料館を辞す。
 ここのまわりは遺跡と神社だらけだ。神魂神社や八重垣神社、また出雲国庁跡や国造屋敷跡、そして山代二子塚古墳などあちこち回る。楽しい。

 しかし、朝には山登りをしているのである。さすがに疲れて、玉造温泉に行き一浴し、松江泊。
 ここでまた美味い魚で一杯やるわけであるが、ちょっと食べたいものもある。それは「鯛めし」。松江の老舗旅館、皆美館では、鯛めしを供してくれる。これは鯛を炊き込んだものではなく、また刺身を飯にのせる「鯛茶」でもない。鯛のそぼろを、温かいご飯の上にのせて、ゆで卵のみじん切りや海苔、山葵などの薬味をのせ秘伝の出汁をかけて食べるもので、これはなかなかに美味い。泊まらなくてもレストランを併設しているので、そこへ行き何杯もおかわりした。いやあちょっとこれはイケますよ。

 翌朝、今度はまず加茂岩倉遺跡と荒神谷遺跡を回る。昨日の風土記の丘資料館で出土したものを見たばかりだ。
 加茂岩倉遺跡は、全国最多39個の銅鐸が出土した場所。そして荒神谷遺跡は、全国最多358本の銅剣と、そして銅矛・銅鐸が同時に出土したところである。
 何故こんなところから、ということはさておき、よくぞ発見したものだなと思う。重機で掘り返して見つかった岩倉遺跡はともかく、荒神谷遺跡は、ふと拾った土器から発想して、考古学的にトレンチを入れて発見されたのである。その慧眼。洞察力。感嘆する。出雲の国の実力を知る思いがする。
 荒神谷の博物館はまた充実している。訪れるに値する。

 さて、ここまで来れば出雲大社に行かないわけにもいかない。もう4度目か5度目ではあるけれど。
 以前訪れた時から変わったことと言えば、あの「雲太」32丈とも言われる高層建築であった神殿の心御柱が発見されたことだろう。もう既にその発掘現場は埋め戻されてはいるが、神殿の前に「ここで心柱が発掘されましたよ」という解説があり、その跡はここであると、石畳上に色をかえて示してある。分かりやすい。
 稲佐の浜にも寄る。ここは「国譲り」伝説の当地だが、特にそれを伝えるものはない。しかし、遥かに見える三瓶山は、何か浜に神々しさを与える効果がある。
 大社前で「出雲そば」の昼食。この出雲そばは、割り子と呼ばれる器に盛られ重なって供される。新潟の「へぎそば」と並んで僕が日本で最も愛しているそばと言っていい。ああ美味い! 思わず割子をお代わりする。

 昼からは、ちょっと出雲を離れて石見の国へ。進路を西にとる。目当ては「石見銀山」である。
 この石見銀山、世界遺産指定に王手がかかっているらしい。行った事がないのは残念なので一度訪れようと思っていた。鉄・銅に続いて今度は銀である。
 さすがに世界遺産目前ということもあり、よく整備されている。江戸時代の街並みを残す大森地区を歩く。代官所跡が資料館になっていて、ここでしばし涼みながら資料を鑑賞。石見銀山が初期の頃、いかに力を持っていたかがわかる。歴代代官を見ると、初代が大久保長安である。またこの人か。佐渡金山も長安だった。この、武田領の鉱山開発者をルーツとする彼の生涯は実に数奇だ。
 長安について語る場ではないので、次へ進む。この奥には、間歩(まぶ)と呼ばれる坑道が到る所に残されている。穴だらけだ。その中で龍源寺間歩というのが入ることが出来るので、覗いてみる。この坑道を人の手で掘ったのか。実に恐れ入る。
その他長安の墓や、吹屋跡(精錬施設)などあちこち歩いて、銀山を後にする。
 歩いて疲れたので、すぐ近くにある温泉津(ゆのつ)温泉で一浴。いいお湯ですなあ。出雲市に戻って泊。

 さて、最終日。出雲の鉄関連の史跡を見て回る。
 まずは細い山道をクネクネ行き、菅谷高殿へ。ここには、近世に行われていたたたら製鉄の跡が唯一、現存している。高殿とは、たたらを吹くと炎が高く上がり、建物に燃え移ってしまうため屋根を高く上げた建造物である。ここの山内(たたら村のことを山内と呼ぶ)には、高殿だけでなく元小屋や水車を付けた大銅場、様々な製鉄に関わる建造物が残されている。たたら製鉄の一級の史跡である。ここは大正時代まで稼動していたという。
 その菅谷山内の持ち主だった田部家屋敷(蔵がずらりと並ぶ)、そして鉄の歴史博物館、可部屋集成館などに車を走らせる。みんな山の中だ。斐伊川とその支流に沿って、緑があくまで豊かな山々。この山々の森がなければ、炭も作れず強い火力を必要とする製鉄は出来なかった。弥生式農業と違う文化を持ったたたら人が、古代からこの山々に跋扈していたのだ。それが、出雲の力でもあり、神話を担った人々なのかもしれない。

 途中、出雲湯村温泉に寄って一浴。ここの共同浴場は趣がある。露天風呂もいい。その後、JR亀嵩駅による。この松本清張「砂の器」で高名な亀嵩の駅は、蕎麦屋を兼業している。ここで割り子そばを食べたのはもう10何年前だったか。久しぶりに立ち寄る。
 以前、この駅の蕎麦屋には映画「砂の器」の写真が多く飾られ、丹波哲郎や松本清張の顔が目立ったものだが、今は渡辺謙一色だ。時代が変わったなと思う。
 出てきたそばもまた以前とはちょっと違う趣だった。以前は太打ちで、蕎麦の香りが強い、どちらかといえば蕎麦掻きを連想させたそばだったが、今回食べたのは包丁捌きも鋭い細麺だ。職人さんが変わったのかな。しかし香りは相変わらず高い。

 さて、旅も終わりに近づいている。金屋子神社、奥出雲たたらと刀剣館と回り、最後に、昭和になって昔のまま復元され開設された日刀保たたらへと行く。現在唯一、日本古来のたたら吹き製鉄法で玉はがね鋼を生産しているところである。見学などは叶わなかったが、その前に立てたことだけで十分である。
 ここは、県境である船通山のふもと。砂鉄を運び続けた斐伊川の源流でもある。遥か船通山を仰ぎ見る。この山はかつて鳥髪山と呼ばれた。神話では、素盞嗚尊が降り立った場所でもある。ここで、あの八岐大蛇と戦った。素盞嗚は鉄とどういう関係があったのか。八岐大蛇とは何物か。
 空は少し曇り加減だったが、その厚い雲の切れ間から幾筋も光線が延びてあたりを照らす。神々しい風景だ。山も川もみんな神さびて見える。船通山に光が差す。神話の世界の人々も同じ風景を見ていたに違いない。

 僕は莞爾として、帰路につく事にした。山を越えれば、中国自動車道で一気に帰れる。名残は惜しいが、これで旅を終わる。

僕の旅 鳥取県

2006年08月31日 | 都道府県見て歩き
 先日、鳥取を旅行してきた。

 むろん初めてのことではない。幾度と無く足は運んでいるのだが、まとまって旅行するのはもう10年振りくらいだろうか。いつも通りすがりやピンポイント一ヶ所などが続いていた。今回もさほど長くはない。まる一日だけれども、少し歩いてみた。

 さて、金曜の夜に僕は車で鳥取に向けて走り出した。鳥取に行くにはさまざまな方法があって、もちろん高速道路で行くのが常套ではあるのだけれども、僕は兵庫県在住であり、なんてことない隣の県だ、という意識もあり地道を走り出した。
これにはむろん「節約」という意味もあるが、高速だと距離感が感じられない。なので西宮から宝塚、三田、篠山というルートで北上、9号線に出ることにした。
 鳥取県の話からはずれてしまっているが、兵庫県は広いのである。夜間で交通量は少ないが、それでも距離があり、結局鳥取県に足を踏み入れられず浜坂(現新温泉町)で仮眠。県内で寝ることになるとは(笑)。でも、端から端なのですが。

 しかし、夜が明けてから鳥取に入れたのはよかった。やはり明るいうちでないと。
 僕は海岸線にルートを取っていた。旧兵庫県浜坂町から鳥取県岩美町へ向かう海岸線の道178号線は、一種の峠である。かつて岩礁で道がないところに設定されているため、かなりの急坂を行く。
 かつて、自転車でこの峠を越えたことを思い出す。あのときは浜坂YHに泊まり、粗野な地図しか持っていなかったため「海岸線ならいい道だろう」などと勝手に解釈して走り出したら山道だった。朝から大汗をかき、やっとの思いで上りきった。
今は車で走っている。やがて峠が見え、県境の道路標識が現れた。約20年前、この道路標識の前でガッツポーズの写真を撮ったな。あのころとあまり風景は変わっていない。それがちょっと嬉しい。

 さて、下っていけばまもなく鳥取市に入る。鳥取市は町村合併で広くなった。岩美町を過ぎればすぐに鳥取市とは。
 さて、鳥取と言えば鳥取砂丘である。合併で砂丘全域が鳥取市となった。鳥取県は日本で最も人口が少ない。「鳥取ってどこ?」という人が居て哀しくなったりもする。しかし「砂丘」と言えばみんな知っている。この砂丘が鳥取の知名度を上げていると言っても過言ではないだろう。
 何度も来ているのでパスしようかとも思ったが、道すがらなのでちょっと寄る。さすがに広い。高温多湿の島国である日本人は「砂漠」というものをなかなか体感出来ないが、ここはそれを少し感じさせてくれる。
 歩いたりするのはもう大儀なので一瞥にとどまり、市街地へ入る。県庁所在地であるが、かつて夜にここを歩いたとき、あまりの明かりの少なさに寂しさを覚えたことがあった。今日は昼間であり、鳥取城址や岡野貞一(「ふるさと」の作曲者ね)歌碑などをまわる。
 その後は旧鹿野町へ。ここは亀井茲矩の本拠地で、山中鹿之助の墓もある。もちろん司馬さんの「街道をゆく」のとおりに歩いているのであるが(笑)、なかなかに趣のある町だった。

 さらに西へ。以前は「羽合(はわい)町」などという温泉町もあって、「ハワイへ行こうぜ」などと言い僕も泊まったことがあるが、町村合併で地名が消えた。なんだか寂しいな。
 そのあたりを過ぎると倉吉に至る。この土蔵の並んだ時代を感じさせる城下町は一見の価値があるが、以前にずいぶん細かく歩いたので今回はサラリと済ます。しかし、トイレには寄る。この街は何故か公共トイレに力を入れていて、清潔で木造和風や日本庭園風など様々な美しいトイレが点在している。トイレマップも制作しているくらいだ。トイレ巡りをする観光客も居る由。
 さて、そこから少し山に入ると三朝温泉がある。山間の落ち着いた温泉街だ。この山陰を代表する温泉に、僕は以前、首を痛めたとき「湯治」と称して10日ほど居続けたことがある。旅行で動き回るのも良いが、一ヶ所にじっくりといるのもまたいい。あの温泉に浸かる他は読書三昧の日々をふと懐かしく思う。
 共同浴場にて一浴。ラジウム含有量の多いこの温泉はやっぱりいい。

 さて、海岸線に戻ってさらに西へ。琴浦町、大栄町と合併で聞きなれない町を過ぎ、大山町へ。ここは旧名和町である。
 西を見ると、長く海岸線が北へ延びている。これは弓ヶ浜で、この先端に境港市がある。ここは漁港としても有名だが、観光的には水木しげるの「妖怪の町」として知られる。駅前から続く「水木しげるロード」には鬼太郎や目玉オヤジをはじめとする80体のブロンズ像が並ぶ。これは面白くて、かつて写真を撮りまくった。
その弓ヶ浜の根元は、米子市になる。旧城下町で趣のあるところだが、以前によく歩いたので今回は割愛。
 さて、名和町である。ここには名和神社や名和公一族郎党の墓がある。

 「あのな、名和長年っちゅう豪族が居てな、そんで隠岐に流されていた後醍醐天皇が彼を頼って、そんで復活したんや。南朝は楠木正成が有名やけど、名和長年も相当なもんやで」
 「縄?」
 「ちゃうちゃう、名和やがな。あそこに見える山が船上山と言うて、そこに後醍醐が立て籠もったんやがな」

 歴史ファンにはたまらない場所であるはずなのだが、女房は死んだ魚のような目をしている。さっきの亀井茲矩のときもボーっとしていた。結構僕は有能なガイドだと思うのだけれどもなあ。誰か僕の話を、目をキラキラ輝かせて聞いてくれる人はいないものか。

 さて、ここは「伯耆富士」大山の麓である。明日の朝、この山に登ろうとしているのだ。
 僕は、約30年前、「○○学区なんとか児童会」か何かで大山登山に参加したことがある。中腹の大山寺の旅館に泊まり、総勢50人くらいで登った。しかし、折悪しく天候が悪化し、8合目を過ぎた時点で「引き返し」となってしまったことがあった。当時5年生だったと思うが、ずいぶん悔しい思いをした。おまけに当時は僕は太っていて、フラついて帰路の下り坂で足を滑らせて捻挫した。今回はそのリベンジである。
 ところで、山登りなどずいぶんしていない。2年前に椎間板ヘルニアを患って以来、坐骨神経痛の影響で左足の筋肉が相当削げた。リベンジに加えてチャレンジでもある。どこまで僕の体力は戻ったのか。
 中腹にある登山口の駐車場に車を停める。ここまでくれば、もう標高差は1000mくらいか。頂上は雲に覆われている。それがちょっと気がかりだが、今夜はここで車中泊である。麓で美味い刺身を買ってきた。冷えたビールも、ペットボトルに入れてきた純米酒もある。まだ5時過ぎで明るいが、小宴会。そして日が暮れたら就寝。 

 翌朝、5時に起床。快晴だ。山は頂まで朝日に輝いている。
 靴を履き替え、5時半に登り始める。荷物は食料と水、それに雨具だけ。軽装である。
 この山はよく整備され、木製の階段が続く。これは歩幅が決められてしまうので実は辛い。しかも斜度があり登りっぱなしである。
 一合目を過ぎた時点で、もう足が重くなった。いつもの登山であると、息が上がっても足は軽いもので、気力で登ることも可能だったのだが、その足がついていかない。後ろから来た若い人たちに追い抜かれていく。
 考えれば登山は、5年前の富士山、そして屋久島以来だ。あの時はまだまだ強く、どんどん他の登山者を追い抜いたものだが、その間に僕はヘルニアで筋肉が削げ、妻は病気をした。そして今は逆の立場となった。喘ぎ喘ぎ登る。
 ちょっと登っては休み、の繰り返しだが、それでも高度はなんとか稼ぐ。ゆっくりとゆっくりと。無理はしない。それにしても急坂である。辛い。
 振り向くと、大展望である。全く雲がないからだろう。
 6合目で大休止。じっくり休んで少し身体も軽くなり、さらに登攀。
 ここを過ぎてもやはり急坂だが、高度を稼げることを喜ぶ余裕も出てくる。やがて植生が変わり周りは這松に。8合目を過ぎるとようやく緩やかになり、とうとう頂へ。

 展望が凄い。ここまでよく見えることはあまりない。隠岐こそは見えないが、素晴らしい景観である。
 時刻を見ると8時過ぎ。あれ、2時間半だとガイドブックに書いてある登山平均時間じゃないか。なるほど、普通の人並みには歩けているのだな。今まで若い頃は駆け上るように歩いていたため、ずいぶん体力が落ちた感じがしたのだが、若いときと比べてはいかんのだな。ちょっと安心し、自信を取り戻した。
 簡易バーナーでコーヒーを沸かし、本日二度目の朝食。山頂にはずいぶんと滞在した。なんだか降りるのがもったいなかったのだ。

 そうも言っていられないので下山。坂が急なので、ヒザを痛めないように注意をする。出来るだけゆっくりと降りる。それでも2時間はかからない。
 駐車場に戻って下山届けを出したのが10時過ぎ。疲れたが、まだまだ朝のうち。この後僕たちは、旅行を再開した。ただ鳥取の旅はここまで。次は島根に足を伸ばすことになる。

僕の旅 島根県

僕の旅 兵庫県

2006年07月30日 | 都道府県見て歩き
 兵庫県は、律令制下の旧国で言うと、なんと5ヶ国に分かれる。但馬国(県北部)、丹波国(京都府中部も含む。篠山市など県東部)、播磨国(姫路市を中心として西は赤穂、東は明石まで)、摂津国(大阪府北部も含む。神戸市、阪神地区)、淡路国(淡路島全域)である。こんな県は他にはない(明治初めに北海道に11国を設置したのは別)。他に多いところで三重県などがあるがそれでも4ヶ国である(伊勢、志摩、伊賀、紀伊)。
 また、海岸線が二つある(日本海側と瀬戸内)。こういうのも珍しい。他には福岡県と佐賀県があるくらいだろうか。しかも、そのために日本海側気候と瀬戸内温暖気候を併せ持つことになっている。冬に西高東低の気圧配置になると県内で気象条件にくっきりと差が出る。こんな県は他にはない。県の面積は47都道府県中12位で、広いように思えるが北海道の1/10であり、東北諸県などと比べてもさほどではない。
 実に、様々なものが交わった不思議な県だと言える。言葉も、県内で少しづつ違う。関西弁とひとくくりにも出来ず、山陰・山陽地方に少しづつグラデーションのように移っていくちょうど真ん中に位置する関係上、一概には言えない状況が生じている。県民性ももちろん一言では言えない。

 そんなバラエティ溢れる兵庫県に住民票を置いてもうずいぶんと経った。僕が住むところは、大阪にほど近い西宮という阪神地区に相当する場所である。昔で言うと摂津国。気候温暖で、海も近く実に過ごしやすい。かつて阪神大震災で相当にやられた地域であるのだが、僕が越してきたのは震災後であった。越してきた当初は、周りに更地が目立ちまだ仮設住宅なども存していたが、今ではすっかり甦って高層マンションの建設が進む。

 ここでは旅の話を中心にしているのだが、現住所に旅でもあるまい。
 もっとも、ここに住むまでには「旅先」として兵庫県にはしばしば訪れていた。バラエティに富んだ県であり、見所も多かったためである。

 県北部である但馬地方は、日本海側でもあるためにカニをはじめとして食べ物が美味い。城崎温泉や湯村温泉、そして皿蕎麦で有名な出石の古い町並みなど出かけるところは多い。
 丹波地方も、古い城下町である篠山を中心に、ゆっくり歩くと趣がある。ボタン鍋(猪)や黒豆、山椒など伝統的な食もまた楽しみ。
 播磨地方は、それこそ歴史好きにはたまらない場所で、姫路、赤穂、竜野をはじめとする城下町が多い。上月で山中鹿之助の姿を追い、三木で別所長治に思いを馳せる。歩くと尽きることがない。また明石で魚の棚市場を歩き、玉子焼き(明石風たこ焼き)を食べるのもまた一興である。
 淡路島といえば神話の故郷である。イザナキ・イザナミの国生みの物語。今はどこかはわからないオノコロ島もこの近くにあったはず。そんな神代の息吹を感じさせてくれる島でもある。今は橋が架かり行くのに容易になったのは隔世の感があるが、じっくりと歩くに値する島である。
 そんなこんなで旅人として兵庫を、若いときからうろうろとしてきた。まさかあの頃は県民になるとは思ってもみなかったわけで、いざ県民になるとなんとなしに積極的に歩くことがなくなってきた。これは旅行者の不思議な心理で、遠くにいかないと旅をしている気分になれない。行っても仕事の出張気分になってしまうのでつまらない(頭の切り替えが出来ない未熟さが残念)。まあ、様子を見ながらまた歩いてみようか…。

 なんとなしに筆が重い。近所の話でもしようか。

 僕が住んでいるところは、このブログないし別宅を読んで下さっている方はもうよくご存知のことだが、甲子園球場のすぐそばである。浜風にのって歓声がじつにやかましい。よく甲子園球場と言えば大阪にあると勘違いされている方も多いが、実は兵庫県にあるのだ。
 西宮市というところは、かつてはプロ野球の聖地みたいなところだった。市内にはもうひとつ、西宮球場がかつてあって、そこは阪急ブレーブスの本拠地だった。東京以外でフランチャイズ球団を二つ持っていた街などないだろう。しかも西宮は県庁所在地でもない。大阪だって、南海は市内だったが近鉄は藤井寺市だった。このことは以前に「夢と消えた日本シリーズin西宮」に書いたことがあったが、その西宮球場もなくなって久しい。
 やがて高校野球の季節がやってくる。高校野球は外野席はタダなので、休日にはフラリと徒歩で見に行く。郷土を背負ってやってくる球児はもとより、応援団の地域性溢れる声援が楽しい。
 プロ野球は、特に阪神ファンというわけではないのでたまにしか見に行かない。僕が子供の頃から応援しているチームが出場するときのみ、一年に一度くらいは行く。野球観戦はもとより、ナイターというのは実に見ていて美しい。緑のよく手入れされた天然芝がカクテル光線に映えてキラキラする。

 西宮市の地名の由来は、もちろん西宮神社からである。西宮神社と言ってピンとこない方々もいらっしゃるだろうが、つまり福の神「えびすさん」である。全国のえびす神社の総本山であって、商売繁盛を願う人々が集う。神社について話し出すと神話にまで行ってしまうので割愛するが、ここでは秋に「宮水まつり」という水と酒に感謝する祭りがある。これが楽しみ。西宮郷は所謂「灘」の酒の産地であり、銘酒蔵が並ぶ。それらの蔵が中心となって、祭りが「酒蔵ルネサンス」と称するイベントになる。まあなんと言っても呑み放題ですがな。神社で酩酊というのはこれまたオツなもの…でもないか。

 電車に乗ればすぐ神戸に着く。ここはいい街だ。
 神戸の街の中心部(三宮~元町)はさほど広くない。ミナト・コウベであり海に直面し、そして後ろにはすぐ六甲山が控えているのでスペースがあまりないのだ。そのことが、異国情緒漂う旧居留地や北野の異人館、また華僑の空気が濃い南京町、生田神社の門前、官庁街、そして地下街を含む繁華街を混在させ独特の雰囲気を出す要因となっている。歩きやすいのですね。そしてさほど狭さは感じないがみんな手の届くところにあるという感じ。全国有数の都市の中心でありながら、何故か余裕があり気品も漂う。実に居心地がいいのです。
 各論を話せば長くなるのでまた機会を改めたいが、高級感もありまた庶民的でもある。純日本的でもありまたハイカラでもある。日本屈指のお菓子の街でありながら酒も美味い、等々、多面的な魅力を持った街であると言える。

 だんだん何を書いているか分からなくなってきたし、旅の話でもなくなってきたのでこのへんで。



 ※追記:冒頭の「兵庫県は旧国で言うと5ヶ国」の部分について追加したい事柄があります。
  境の問題を参照して下さい。

僕の旅 和歌山県

2006年07月09日 | 都道府県見て歩き
 「熊野古道」が世界遺産に登録されてからしばらく経つ。
 正確には「紀伊山地の霊場と参詣道」が登録ということで熊野古道はその中の一部分であり、範囲も和歌山県だけにとどまらないのでちょっと外れた話になってしまうかもしれないけれど、このさまを見て「世界遺産ってなんだろうなぁ」という思いにとらわれる。
 ユネスコの世界遺産条約とその崇高な理念については賛同しよう。しかしながら、こと日本においては、世界遺産登録と言うことがそのまま観光事業のキャッチコピーとして使われていることも事実である。ことに自然遺産登録の白神山地、屋久島は、この登録によって明らかに荒廃が進んだと言ってもいいのではないか。知床も危ない。世界遺産というお題目を唱えつつ観光客がわんさと押しかける。多くの人に見て感じてもらうのはいいことだが、必ず裏面には利権が跋扈する。あの聖地である沖縄のグスクとウタキは、以前あれほど神秘性と素朴さを持っていたのに現状はすっかり整備され、例えば斎場御嶽(せーふぁーうたき)の惨状は目を覆わんばかりだ。今後が心配になる。現在日本では候補として鎌倉、平泉、彦根城、石見銀山がリストアップされているが、これにが本登録されたとして、明らかに俗化し荒廃しそうなところがある。また、沖縄のやんばるや西表島の名前も見え隠れする。そっとしておいてもらえないだろうか。勝手な言い分は承知しているのだけれど。

 閑話休題。
 和歌山にはよく訪れる機会がある。京阪神に住む人にとっては、実に気軽な旅行先だからだろう。海岸線の長い和歌山は、海水浴場として認知度が高い。夏の白浜というのはそれこそ「芋の子を洗う」状況である。京阪神に住んでいると「海水浴」となれば悲しい色した大阪湾で泳ぐわけにもいかず、日本海側に抜けるか、神戸須磨の海水浴場か、和歌山しか選択肢がないからで、どうしても白浜その他の和歌山に集中してしまう。ここには温泉もありサファリパークなど遊興施設にも事欠かないからで、家族連れは和歌山を選択することになってしまう。
 かく言う僕も、自分の旅行の原点というのは、和歌山への3泊4日の家族旅行である。当時小学生。それ以前に東京旅行などもしているのだが小さすぎて記憶が断片的にしかない。
 朝早く京都を出たのだが、目的地である日置川町に着いたのは夕方近くだったような気がする。記憶によると、列車は向かい合わせの直角椅子に座り、途中乗り継ぎで長い間待ち時間があり、窓を開け放って母が作ったおにぎりを食べていたからおそらく鈍行で行ったのだろう。初めての汽車旅らしい汽車旅で実に気分が高揚していたことを思い出す。ちょうどチューリップの「心の旅」がヒットしていて、「ああ明日の今頃は僕は汽車の中…」というフレーズを聴くと真っ先に僕はこの旅を思い出す。
 国民宿舎に泊まり、波の強い海で泳ぐことは小さかった僕には叶わず、しおだまりに水中眼鏡をつけて潜った。ウツボと鉢合わせしたのもいい思い出である。ここには3年続けて家族で来た。黄金色した子供の頃の追憶である。残されている写真には笑顔しか写っていない。

 その後10年以上経って、僕は再びこの日置川の海水浴場を訪れた。自転車旅の途中である。四国を一周し徳島から有田へと渡って、紀伊半島をまわり東海道へと走るその途中だった。
 時が経てば風景も変わる。10年を過ぎて、状況は大きく変わっているだろうと僕は予想していた。黄金色した少年の頃の追憶がズタズタになるのではと危惧していたが…。
 見事にそこはあの時のまま残っていた。泊まった国民宿舎も同じ。僕はもうたまらず感傷的になって、自転車を止めて海へと飛び込んだ。あの頃波が強くて泳げなかったその海で、僕は沖まで泳ぎだした。青年となった僕だけがあの頃と変わっただけだった。

 そしてまた10年経った。今度は妻を伴っている。紀州旅行の通りがかりにまた寄ってみた。
 国道には道の駅も出来て、あたりは多少趣を変えている。だが、国民宿舎と浜はやっぱり昔のままだった。あまりにも懐かしい。ひとつひとつ説明する僕に、「子供みたい」と言う妻だったが、なーにかまうものか。確かにそのとき僕は子供に戻っていたのだ。
 そして、またそれから10年が経った。今はネットという便利なものがあって、かつて国民宿舎だったところには「リヴァージュ・スパ」とかいう洒落た建物が建っていることを僕はもう知っている。再び訪れた方がいいのか、幻影にしておいた方がいいのか僕はまだ迷っている。

 思い出話が過ぎた。
 和歌山は、もちろん海だけではなく前述した世界遺産の聖地があり、山々は気高く、温泉と美味い食べ物がある。見所満載である。
 高野山は、歴史好きにはたまらない地で、奥の院には戦国武将らの墓がずらりと並ぶ。空海が開いた金剛峰寺は密教美術の宝庫で、垂涎ものの仏像が多く鎮座している。ふもとの九度山は真田家ゆかりの地で古跡が溢れる。
 また霊場として名高い熊野三山。本宮、速玉大社、那智大社は荘厳で、実に霊気を感じる。背筋が伸びますね。こうしてみると、「世界遺産」の冠には全く異論はない。
 景勝地も多く、那智の滝や円月島はもちろんのこと、串本の橋杭岩など、どうしてこんな奇景が生じたのか本当に不思議になる。トリケラトプスの背中みたいだな。
 昔、潮岬のYHにただ酒を呑むためにだけ連泊して、昼間そこのヘルパーと大島に渡り、橋杭岩を反対側から見たことを思い出す。「ここが俺の一番好きな風景だ」と同行の彼が言う、大島の金山展望台から見た橋杭岩は正に壮大だった。よく晴れた空の下、絶景を見つつ持っていったビールの喉越しを忘れることはないだろう。その大島にも今では串本から橋が架かり、少し面影を変えてしまった。

 食べ物も美味く、黒潮洗う紀州の新鮮な海の幸、めはりすしなどの郷土料理、また有田みかんや南高梅など列挙にいとまが無いが、最近ではやはり和歌山ラーメンだろうか。このコクのあるスープはホントに美味いねぇ。最近は和歌山まで行かなくても「和歌山ラーメン」を名乗る店が増えて事欠かないが、やっぱり現地で食べたいもの。それだけのために足を運んでもさほど苦労とは思えない(笑)。

僕の旅 大阪府

2006年05月28日 | 都道府県見て歩き
 僕は京都生まれの兵庫県在住という、大阪とは微妙に距離を置いた暮らしをしている。大阪に住む、という選択肢もあったのだが、どうも大阪のパワーと言うか、おばちゃんのたくましさに後ずさりして一歩下がったところにいつも居る。大阪と京都の文化の違いについては何度も言及したし、どうもまだ異文化という意識を捨てられずにいる。こんなに近くに居ながら、ではあるのだが。

 このカテゴリは旅の話なので、大阪への旅行体験について書かなければいけないのだけれど、あまりに身近すぎていつも旅の意識などほとんど持っていない(当然だが)。今住んでいるところから大阪梅田(大阪駅があるキタエリアの中心地)まで電車で10分強、260円で着く。まあ買い物に行ったりメシを食べに行ったりの感覚か。旅行じゃないな。
 それでも記憶を辿ってみる。初めて大阪に行ったのはいつだろう。
 おそらく記憶もない幼時の頃から行っているはずなのだが、印象深い最初の大阪は万博である。当時僕は5歳だった。月の石を見るために長蛇の列に入って飽きて愚図ったり、太陽の塔の中に入って、生命の歴史を具現化したオブジェが怖くて無口になった、等の記憶が残る。親に尋ねると万博には5回ほど行った由。「人類の進歩と調和」という常に流れるアナウンスをよく憶えている。
 その後は、遠足で大阪城に行ったり、造幣局の桜を見に行ったり、といった普通のことを何度か子供の頃経験した。基本的には日帰りであり(そりゃしょうがない)、ある程度大きくなってからは、例えばコンサートを見に行ったりプロレス観戦をしたり、という「用事があって」大阪に行くばかりだった。

 それでも、一度だけ大阪旅行を試みたことがある。僕は一時期、北陸の街に住んでいたことがあって、そこで所帯も持ったわけなのだけれども、妻が「いちど大阪をじっくり見てみたい」と言うので、2泊3日で大阪を訪れたことがあった。その時は出来るだけ"ベタ"な大阪を体験してみようと、「るるぶ」を参考にして、道頓堀を歩きくいだおれ人形の前で記念撮影をし、吉本新喜劇を見て笑い、ジャンジャン横丁を歩いて串カツを食べ通天閣に上った。これは案外面白くて、大阪在住の人はこういうことはまずしないだろうが、たまには観光客然として歩くのも悪くはない。
 今で言えば、大阪観光の目玉はUSJなのだろうけれども、僕はまだ行ったことがない。近いのだけれどもなぁ。ハリウッド映画に馴染みが薄いと言うこともあるのだけれども、例えばディズニーランドやハウステンボスには行っているのに。他にも、例えば海遊館なども未踏である(妻は友達と行っている)。子供でも居ればそういうところにはまず率先して行くのだろうけれども、中年夫婦二人だけではなかなか腰が重い。ちょっと反省。
 けれども、大阪は歴史も古い街で、「大人の遠足」だって出来る。近松門左衛門や井原西鶴の文学散歩も可能だ。歴史散策も、例えば大阪夏の陣の旧跡を巡ることだって出来る。ここが真田の出城か、ここが家康の本陣か、と歩くだけでも歴史好きには楽しい。もっと遡れば、四天王寺どころか聖徳太子の墓所もある。堺から河内を行けば、仁徳天皇陵から応神天皇陵まである。奈良歩きと同様の感覚でフラフラすることも可能だ。大阪は小さな面積の県(府か)であり、交通網も発達しているのでいくらでも細かく歩くことが出来る。もう少しじっくりと歩いてみたいような気もする。
 (余談だが、僕の子供の頃は日本で最も小さな都道府県は大阪だと習った記憶がある。しかし、最近は埋め立てが進み、面積を広げてなんと二番目に小さかった香川県を抜いてしまった由。すごいですねぇ。)

 さて、今の僕が大阪に行くのは、もっぱら食べるためであることが多い。何らかの用事があってそのついで、ということも多いが、大阪は食の都、美味いものが多い。さらに重要なことは「安い」ということである。
 大阪の食べ物についてはあちこちで語られていて、僕も何度も書いたし、また改めて章立てして語るべき事柄も多い。ただ、特徴として、安くて美味いだけではない部分がある。
 大阪の象徴と言えば「粉もん」であろう。これにはうどんも含まれるが、主力と言えばやはりお好み焼きにたこ焼きだろう。大阪文化の一翼を立派に担っているとも言える。
 たこ焼きなど、下町の自宅玄関を開放しておばちゃんがやってる店や、駄菓子屋兼用の店など、一個10円のものまである。異常に安い。むろん高級なたこ焼きも存するだろうが、子供が簡単に小遣いでパクつくことが出来るようになっている。大阪では、ガキでさえ美味くて安いものを探すので、子供相手の商売でも油断が出来ない。またガキはガキで、あっちが安いだのこっちが美味いだのと言いながら、舌を鍛え経済観念も身につけていく。恐るべし大阪。
 このたこ焼きを2、3個大きく薄いえびせんに挟んで、ぐっと潰して食べる「たこせん」という食べ物もある。これがまた美味いのだよなぁ。
 いか焼きなる食べ物もある。これは焼きイカではない。粉生地にイカのゲソを混ぜ、熱した鉄板でジュっとプレスして作るという、まあ大阪以外にはない食べ物であって、100円+αで食べられる。美味いねぇ。阪神百貨店地下の店が有名(行列店)。
 お好み焼きはもう全国に轟いているが、大阪には「ねぎ焼き」というネギを大量に使ったお好み焼きもある。スジ肉煮込みが入ると絶品。また「モダン焼き」とは焼きそばを混ぜ込んだお好み。美味いんだな。広島風お好みとはちょっと違う。そして、大阪でのお好み焼きの食べ方の最大の特徴は「お好み焼きをおかずにメシを食う」ことにある。僕もさすがにこれはやらないが大阪では常識。また大阪ではいわゆる「もんじゃ焼き」は食べない。極度に目の敵にする御仁もいる。

 粉もんについては他にもいろいろあるのだが、大阪の食文化のもうひとつの特徴として「ソース文化」があると思う。たこ焼きいか焼きお好み焼きと、ソースが決め手ではあるが、他にも串カツなどの「ソース無しではいられない」食べ物が隆盛だ。串カツの「二度漬け禁止」はよく知られるところであると思うが。
 この「ソース文化」、他県の人には結構意外に映るだろう。なんせ豚まん(大阪では肉まんではない)にソースをたっぷりつけて食べる。え? と思われる方多いだろう。シューマイにもソースだ。チャーハンにソースをかける。目玉焼きにもソースの割合が高い。てんぷらにもソースをつけたりする。鯨のベーコンにソースをたっぷりつけて…。ちょっと僕でさえ驚くが、「これじゃなきゃダメ」という人が多い。かなり特徴的な食文化だと思う。東京その他の均一化した世界を排除し独自路線を貫くところが実に大阪らしいと言えるかもしれないなぁ。

 なんだかとりとめのない話ばかりになったが、そんな話ついでに。
 僕は旅行好きなので、絶景の夕陽を見る機会も多い。北海道羽幌から見る天売島と焼尻島の間に沈む夕陽なんてのは美しさの極みで、他にもクッチャロ湖の夕陽、知床の夕陽、屋久島の夕陽と印象に残る夕陽は数ある。ただ、僕が今まで見てきた中で最も美しいと思った夕陽は、何故か大阪南港の夕陽なのである。
 約20年前のある晴れた日。僕はフェリーに乗って沖縄からの帰路についていた。2日かけてようやく大阪南港へ入港しようとした船上で、驚くほどに赤く燃えている夕陽を僕は見ていた。
 その頃もやはり大阪の海は「悲しい色」をしていて決して美しくはなかったのだけれど、沈む夕陽はあまりにも巨大に映じ、全てを燃やし尽くすかのようにギラギラと赤く燃え続けてジュッと音を立てて海に沈んだ。目を離すことなど出来なかった。大阪のこととてその後の夕映えは鈍色に染まっていったけれども、今まで見たどんな夕陽よりも印象が強い。圧倒的な迫力だった。これも大阪のパワーの成しうるひとつの奇跡だったのかもしれない。

僕の旅 奈良県

2006年04月07日 | 都道府県見て歩き
 やまとは国のまほろば たたなづく青垣 山籠れる やまとしうるはし

 ヤマトタケルの絶唱は今も心を打つ。以来2000年、奈良はずっと日本の「まほろば」で在り続けた。古代の栄耀栄華を秘め、日本人のふるさととして確固たる位置を占めている。桓武天皇の平安京遷都によって日本の都市としての発展を止め、主として興福寺の門前町としての機能でしかなくなり、土地開発が進まなかったことが幸いしたのだろう。いにしえの空気をそのまま残している。京都がその後も都市として発展し、現在かつての面影を見るのに相当の想像力を必要とするのとは対照的である。平城京遺跡を見るにつけ、この広大な土地の上にビルが乱立することなく保存されたことは誠に僥倖であったと思う。ホントよかったですよ。
 ただ、奈良は近年やはり都市開発がどんどん進んでいる。大阪のベッドタウンとして開発の魔の手が伸びている。とにかく奈良が好きな人は直ぐに行くべきだ。その面影を残しているうちに。僕が知っているだけでも、昔の奈良と今の奈良は違う。日本中が金太郎飴のように同じ景観になっていく状況が奈良にも降りかかって来ている。急いで奈良へと走り、記憶に留めておいたほうがいい。

 僕は古代史好きでまた仏像好きなので、とにかく奈良には足しげく通う。何度も何度も行っている。全く飽きない。その度に新しい発見がある。
 初めて行ったのは幼稚園の頃だったと思う。社会見学だったか遠足だったか、とにかく園児達がバスを連ねて奈良へとやってきた。今考えれば奇特な幼稚園だったと思う。東大寺に行って鹿と遊んだ。大仏殿の柱に穴があり、それは大仏の鼻の穴と同じ大きさだということから「目から鼻に抜ける大人になれるように」と全員でその穴をくぐった。今見ればよくこんな小さな穴を通り抜けられたものだと思う。
 その頃はまだ奈良に興味を示す子供ではなかったが、学校へ行くようになり、そして歴史に興味を持ち始めて以来、奈良に行きたくてたまらない子供になった。

 やはり飛鳥は最高である。行ったきっかけは、TV番組「ペルセポリスから飛鳥へ」という松本清張プレゼンツのドキュメンタリーを見てゾロアスター教と「益田の岩船」の関係を知ったことと、手塚治虫の「三つ目がとおる」を読んで酒船石その他の飛鳥の謎の石造物に興味を持ったからである。松本清張と手塚治虫と同時期に吸収していたとは、いったい僕はどういう子供だったのだろうと理解に苦しむが、既にその頃は田辺昭三の「古墳の謎」も読んでいた。様々な好奇心が溢れ、親父にねだって飛鳥へ連れて行ってもらった。
 初めて行った飛鳥は衝撃的だった。もう謎・謎・謎! 石舞台も猿石も亀石も見るもの全てがたまらない。夢心地で飛鳥に何度も行った。それはもう夢中だった。
 当時の飛鳥は、本当にいい意味で「田舎」だった。農村風景の中に史跡が点在している。自治体としての考え方がしっかりしていたのであろう。食事をする場所も少なく、いつも弁当持参で行った。まだまだ「まほろば」の空気が残っていた。現在は高松塚古墳周辺などすっかり整備されて当時の面影は薄いのが残念だが、それでも他県の観光地と比べればまだまだ良心的とは言えるだろう。華美な建造物は目立たない。この風景をとにかく保存してもらいたいと思う。

 奈良盆地南部は日本にとっては宝のような場所で、葛城の竹内街道から入る奈良の風景は本当に文化遺産だ。生活に疲れたりすると、金曜の夜中に車を走らせて、阪神高速を堺で降り、東に向って山を越えて夜道を行く。当麻寺の近くの道の駅に車を止めてそこで一眠り。そして夜明けを迎えると、早朝の靄に霞んだ奈良盆地が浮かび上がってくる。コーヒーを沸かして飲みながら見るその風景が僕はたまらなく好きだ。古代へと気持ちがタイムスリップする。そして、一言主神社、高鴨神社へと参詣。もう古事記の世界だ。ここから、橿原、飛鳥を挟んで三輪山へ、そして山之辺の道へと続く「古代の国道一号線(司馬遼太郎)」は何度行ってもいい。その終着、布留の里石上神宮のなんと荘厳なことか。
 これらの地が日本の主役を担っていた時代はいまだに謎ばかり。様々な解釈が渦巻く中、その中に身を置いてあれこれ思うことは本当に至福と言える。
 これより南には聖地・吉野がひかえる。もう書ききれないので割愛するが、じっくりとこれらの地について語ってみたい欲求にかられる(誰も話を聞いてくれないので)。

 現在の奈良市の市街地は、古代平城京よりもずっと東にずれている。これは、前述したように遷都後は奈良は興福寺を中心に栄えてきたからであって、その門前がそのまま都市部になっている。奈良市はまだまだ大寺の影響下にあるのかとも思う。
 仏像マニアの僕にとっては、この奈良盆地北部は歩いても歩ききれないほどの見どころ満載の地だ。その中心に東大寺と興福寺がドンと聳える。以前に仏像の記事を書いたので繰り返さないが、この大寺を中心に新薬師寺や元興寺などを歩いていると実に幸せである。少しづつ西へ向って佐保、秋篠寺や法華寺、般若寺。また少し進んで西大寺、喜光寺。西ノ京へと足を進めて唐招提寺、薬師寺。そして斑鳩、法隆寺。こんなもの何度通っても見きれるものではない。春や秋は仏像の特別拝観の時期でありいつも気もそぞろである。いいなあやっぱり。

 現在、僕は関西圏に住んでいてよかったと本当に思う。奈良が近くにあるからだ。思いついて行けるのが本当に有難い。この幸せを出来るだけ享受したいといつも思っている。

僕の旅 京都府4

2006年03月04日 | 都道府県見て歩き
 前回からの続き。

 理屈が多すぎるので、ちょっと食べ物の話でもしよう。
 いわゆる「京料理」というもの。料理の基本のように言われ和食を学ぶ人は必ず通る道と言われる。しかし、京都人が毎日料亭に通っているわけでもなく、普段食べているものは家庭料理である。よく「おばんざい」という言葉を聞くけれども、こんな言葉は普段使わないなあ。まあ東京的家庭に育ったからかもしれないけれど、母親も使わない。なんだかブランド用語のような気がする。
 野菜は幸いにしてどこでも出来るので発展した。いわゆる「京野菜」と呼ばれるものはこれも現在ブランド化しているが、これは土地に応じて最も適した野菜を生産しようとした藤原氏の都市計画によって生まれたもので、賀茂なす・壬生菜・九条ねぎ・堀川ごぼう・鹿ケ谷かぼちゃ・伏見とうがらし・聖護院かぶらなど地名を冠した野菜は今も健在である。
 料理を決定付けるのは「だし」で、特に昆布だしは重要視している。僕の実家は決して裕福ではなかったが、昆布の消費量は凄かったと思う。たいしたものは料理しなくても「だし」で全てが決まるため、そこだけは母親も譲らなかった。どの家庭でもそうだっただろう。京都人はおかげでグルタミン酸には敏感である。

 しかしながら、京都の家庭料理を代表するもの、それは「保存食」の活かし方であるようにも思う。
 もちろんこれは京都市内での考えであって、実は京都には海もある。京都北部の「天の橋立」やカニで有名な間人(たいざ)も実は京都だ。こういうところではいつも新鮮な海の幸を食べていることと予想される。だが、京都南部、かつて山城国と言われた部分には海がない。しかし旨いものが食べたい。そういう欲求が「いかに保存食(乾物など)をうまく戻して食べるかに執念を燃やさせた。
 鮎などの川魚を除いて、最も新鮮な魚は若狭湾から届く一塩物である。これを京都人は珍重した。鯖街道という言葉が残っているが、昔は若狭湾から一日かけて魚を京都に運んだ。いくら急いでも腐敗が怖いので塩を強めにまぶす。それが運ぶ間にちょうど良い〆加減となり、鯖は「押し鮨」にして食べる。母方のばーさんが作ってくれたサバ鮨はもう最高で、〆て押した後に巻く昆布の加減が絶妙であり、また食べたいと切に思うのだが、明治生まれの100歳に近いばーさんにそんな大変な作業はお願いできなくなったことが寂しい。一味違うのですな。鯖だけではなく、若狭カレイ、グジ(アマダイ)などの一塩物は絶品である。これは短時間干して、生乾きのような状態で運ばれる。美味い。母親はいまだにグジの焼き物を魚の最高峰だと思っている。

 それ以外のものはない。あとは固い乾物ばかりである。例えば身欠鰊。このカチコチに固いニシンを時間をかけてゆっくりと戻し、箸でこぼれるほどに軟らかくして食べる。ニシン蕎麦は有名だ。また、棒鱈。この野球のバットにもなりそうなデカい乾物を、何日もかけてほとびさせ、ゆっくりと海老芋と一緒に煮含ませて食べる。これは美味い。妻の実家がある青森では身欠鰊や棒鱈を生産しているが、固い身欠き鰊をそのまま炙って味噌をつけて齧り、また鱈は金槌で叩いて軟らかくして食べている。それはそれで美味いのだが京都のやり方とは違う。青森の人に「よくこんなものを京都の人は日常食べているな。歯が丈夫だ」と感心されたことがある。あの、そのまま食べるのではなくてじっくり戻して軟らかくして食べるのですよ。そう言ったら、「面倒なことするなー」と斬って捨てられた。しょうがないのですよ。これも文化です。

 もう一つだけ言及しよう。京都はよく「薄味」であると言われる。素材の味を生かしていると言えば格好いいのだが、結局そんなのは、いい素材を惜しげもなく使う料亭の世界であって、庶民はちゃんと味付けして食べている。ただし、醤油に主として「淡口」を使うため色があまり付かず、見た目は薄味に見えるだろう。しかしながら、実は淡口醤油は濃口よりも塩分濃度が高いのである。
 だが、どうしても全国的には京都はさっぱりあっさり薄味の印象が強い。それは別に否定することもないのだけれども、ひとついつも首を傾げるのは「京風ラーメン」の存在である。
 巷にある京風ラーメン、よくショッピングセンターのグルメエリアなどに、甘味処と併設して店が出ているが、そのラーメンは確かに薄味でさっぱり風味である。なんでだ? 京都のラーメンというのは日本一こってりしているのに! ! 
 京都は、鶏がらスープをベースとしてじっくり煮出して作るコクのあるスープを旨とする。旨みが強くないと満足出来ない。決していわゆる「とんこつ」ではない。「天下一品」という店は全国チェーンになったのでご存知の方もいるだろうが、あれはかなりドロリとしたコラーゲンスープだ。あれが全てではないが、名店「天天有」や「第一旭」「横綱」「たか」「東龍」などかなりスープは濃い。また「背脂チャッチャ系」というのも京都の「ますたに」から始まったものと言う説もある。醤油味の強く見えるラーメンも多く「新福菜館」「夜鳴きや」などがあるがスープのコクは凄い。有名店ばかりではなく、僕の昔の実家近くの出前を取っていた店もそうだった。とにかく決して「さっぱり風味」ではないのである。このことはラーメン好きにはかなり有名な話(常識?)にはなっているが、興味のない人はいまだに「京風=薄味」だと思っている人も多いので、ちょっと書いてみた。京都のラーメンは美味いよー(郷土愛)。

 長くなりましたが「京都の旅」終わります。書き足らないことが多いので、機会を見つけて少しづつまた京都については語りたいと思います。


僕の旅 京都府3

2006年03月01日 | 都道府県見て歩き
 前回からの続き。

 僕は生まれも育ちも京都なのだが、ルーツは少し違う。
 父方の祖父は、戦前に東京から京都へ転勤でやってきた。しばらくして太平洋戦争が始まり、東京は焼け野原、そのまま祖父一家は京都に住み続けることとなった。父は東京生まれであり、それでも幼い頃に京都に移り住んだため馴染んではいるが、いまだに純粋な京言葉は話せない。死んだじーさんとばーさんは完全に江戸っ子であって、蕎麦を汁にちょいとつけて手繰っていた。飛行機のことを「しこうき」としか言えなかった。雑煮は関東風の鶏肉に切り餅。ばーさんは淡口醤油を使いこなせなかった。
 こういう家に嫁に来た母は、生まれも育ちも純粋な京都人ではあるが、舅と姑が健在であった頃は遠慮もあり、ある程度東京風に合わせていた様子がある。なので、我が家は完全な京都の家庭ではなかった。言葉も、アクセントこそ京風だけれども、例えば「沢山」という言葉を「ぎょうさん」とは言わない。小学校に行ってから知った「京言葉」というものがいくつもある。
 そのことから、僕は比較的京都を客観的に見る風になっていったのではないかと思う。京都の文化、習慣に興味を持ったりするのも、僕が「よそもの」をルーツに持っていたからに他ならないような気がしている。

 京都というところは、因習が強く、余所者をなかなか受け入れない土地であるとよく言われる。曰く「本音と建前を完璧に使いこなす」「腹に一物必ず持っている」等々。その代表としていつも例として出されるのが「京のぶぶ漬け」の話であって、詳細はリンク先に書いたが、つまり人の家に訪問した際、用件が済みその家を辞そうとしたときに「まあ、ぶぶ漬け(お茶漬けのこと)でも食べていっておくれやす」と引き止める。しかしそれは言葉だけの儀礼上のものであって、その言葉を真に受けて本当に「じゃあいただきます」とでも言おうものなら、「なんやあの人は」と礼儀知らずの代表のように言われる、という話である。エセ京都通が必ず言う話ではあるが、結構浸透している。
 これに類したことは京都人に限らずやっている。例えば引越しの通知を出す際に「お近くにこられましたら是非お寄り下さい」と必ず書く。ハガキを出した人全員に対してこう思っているとは到底思えない。これはやっぱり「儀礼的文句」であるように思う。親しい友人なら寄ってもらいたいが、仕事上の付き合いの人まで本当にみんなやって来たら大変だ。
 テレビ「笑っていいとも」のテレフォンショッキングで、ゲストに「じゃあお友達を紹介して」とタモリが言うと、観客が一斉に「ええぇ~!」と言う。これも本当に引き止めたいばっかりではないと思うが、「お約束」でありそう言わないとゲストが寂しいから必ず言う(ことになっている)。「ぶぶ漬け」とはそれと同様のことであり決して相手を礼儀知らずや否やと試しているわけではない。「帰ります」「ああそうどすか。ほなさいなら」では寂しいではないか。ちょっとは引き止めるそぶりを見せるのは人情というものである、と思うのだが。

 ところが、ぶぶ漬けの話はこれでは終わらない。
 京都ウォッチャーによると、「どうぞぶぶ漬けでもあがっていって」にはもう一つ意味があるという。それは、婉曲に「帰ってくれ」と言っているのだということ。前述したのは帰ろうとしている客に対してだが、これは相手が長居している客。そういう人に、それとなしに帰って欲しい、との意向を伝えるものだというのである。それを間にうけて「ああご馳走様です」と言おうものなら、「ああこの人は田舎モノ」と陰口をたたく、という寸法である。どうにも評判が悪い。
 うーむ。これもよく僕には実感としてわかる。そもそも、お茶漬けなど客に出すものではないからである。
 京都人は、客が来たときに手料理でもてなすということをしない(これは一般論です。心づくしの料理を出す場合ももちろん今はあります)。客が食事をする場合は「仕出し」を利用する。「出前」「店屋物」と言ってもいいのかな。京都には「仕出し屋(店舗で食べさせない作って持っていくだけの店)」が充実していて、ケータリングが実に発達している。うどんの出前だけではない。きっちりとした「京料理」を自宅へと運んでくれる。僕の実家は普通の家庭で、よく食べる子供三人を抱えた決して裕福ではない家だったが、それでも懇意にしている仕出し屋がありちゃんとしたときには利用していた。
 こう書くと、「京都人は水臭い、手の内を見せない」と言われそうだが、それには理由がある。これは、手料理がもし口に合わなかった場合の予防線なのである。
 あまり親しくない客人の場合、好みもわからない。手料理を出して、それがその人にとって望ましいものではなかった場合、双方が気まずい。どちらも気を遣う。なので、確実な方法をとるのである。その仕出しがダメであった場合も、それは仕出し屋のせいであって当該家のせいではない。逃げ道を作っておくのである。
 そういう京都で、「お茶漬け」という粗末なものは絶対に客に出さない。これは「なんにもありませんよ」と同義語である。しかし、長居している客にお茶と菓子しか出していないのはいかにも心苦しい。なので、今日はこれ以上の準備をしていないので、もう今日のところはお引取り願えないだろうか、という意味も暗に含んでいるのである。
 「じゃあ最初からぶぶ漬けなどと言わずに帰ってくれと言えばいいだろう」京都人はそんなカドが立つ言い方は絶対に出来ない。なんとか婉曲に伝えたい。それが「ぶぶ漬け」という符牒になったのであって、決して客を試しているのではない。
 しかしこれは現在では京都の評判を著しく下げているのは否めないよなあ。この感覚をわかって欲しいとは思うのだが、今の日本では通用しない「気遣いと類推と約束事」の世界なのかもしれない(こういう言い方が既に「ぶぶ漬け」の世界か)。
 もっとも、昨今はこういうのはもう廃れた言い回しだと思うし、「ぶぶ漬け」という言葉が死語のようにも思う。今なら「ホンマは座敷に上がってもらわないかんのやけど、えらい散らかってますのや。いま片付けてきますよってに…」とでも言うのだろうか。そう言えば「いやもう今日はここらで帰ります」となるだろう。そんな感じなのである。

 この話と似ていることで、もう一つ京都を批判する事柄があるのは僕も知っている。例の「一見さんお断り」である。閉鎖的な京都の象徴になっている。
 これも書くと長くなっちゃうのだが、簡単に言うと、京都人は「一見さんが怖い」のである。京都は町衆が長い歴史を持って住み続けてきたせいで、料理屋にしても何代もの付き合いということもある。客の好みは熟知している。しかし「一見さん」はどういう人かわからないし、ヘタなものを出して問題を生じるのは怖い。織田信長が京に上ったとき、評判の料理人に料理を出させて「不味い。首を刎ねろ」と言ったのも、信長が「一見さん」だから生じたことである。この話は信長に「もう一度作らせてくれ」と料理人が頼み、二度目は美味かったので褒美を出した。後に「最初は京風に上品に作ったんで信長の口に合わへんで、二度目は田舎風に濃い味で作ったんで満足したんや」と笑うオチがついていて、京都人の底意地の悪さをまた示す逸話となっているが、意地悪も命がけなのである。このプライドが真似できるのか。この料理人はおそらく次回からは、信長好みの料理をビシッと出すだろう。
 ちょっと話がずれたが、「一見さん」も紹介があれば大丈夫である。それは、長い時代商売をしてきて、現金払いというのはごく最近の手法であり、かつては全て「後の請求」であった。今でもその手法は同じで、ちゃんとした料理屋はその場でお金を払わせるという不粋なことはせず、後から請求書を送る。そういう店では初めての客はいくら名刺を出しても怖い。だから紹介人は「保証人」なのである。その場で支払いをさせるような店は確かに安直な店であり、そういうところは一見も断らない。また紹介者から好みも聞けるので間違えることはない。「一見さんお断り」は、長年培った店を守りたい意識から生じる自己防衛策であり、決して「いけず(意地が悪い)」から生じているものではないと思うのだが。

 しかしながら、京都人は確かに、「一線を引いている」ところがあるのもまた事実である。すぐ隣の大阪と比べればその違いは明らかである。そんな文化の違いをよく感じることがある。以前に記事にした「自転車屋さんじゃないぞ^^;」或いは、「ちょっとそこまで」で書いたことのような事象。
 深部にまで踏み込まない。腹の内はいろいろ考えることがあっても、それを口に出すとカドが立つ。人付き合いは「ちょうどいい」ところを見極める。傷つけたくもないし傷つきたくもない。「物言えば唇寒し」ということを良く知っている特性であると僕は思っているのだが。
 これは、よく京都文化研究では言われていることだけれども、為政者が変わってもなんとか対応して生きてきた町衆の意識が反映しているという説がある。京都に桓武天皇が都を遷して以来千年を超える年月の中で、為政者が次々と変わってきた。それでも対応して生きていかなければならない。そうなると必然的に「生活の知恵」として為政者に合わせていく術が生まれる。そういう歴史が「約束事」を完備し、批判的言動をすればトップが替わったときに首が飛ぶ怖れに対応して「何でも言えばいいというものではない」文化を作り出した、と言う事である。
 これは一面真実であるとも思う。ただ、こうした文化に僕は「思いやり」のようなものも見て取れるのである。よく言えば、の話ではあるけれども(悪く言えば「用心深い」ですな)。以前に「僕の旅 石川県 」で触れたが、人間関係を円滑にする手段が「気遣い」だということを知っているのが京都人であろうと思う。これは自己弁護に過ぎるだろうか。

 次回に続く。

僕の旅 京都府2

2006年02月27日 | 都道府県見て歩き
 前回からの続き。

 京都に生まれ育って、案外京都のことは知ったつもりになっていてその実知らない人が多い。まだ他府県の人だとイヤイヤながらも修学旅行で二条城や清水寺に行っているのだけれど、京都人は京都に修学旅行にゆくことは絶対にないため、例えば清水寺の舞台に立ったことのない人は意外に多いのではないか。
 以前に栃木県のときにも書いたけれども、僕の父は金閣寺に行こうと思っていて、いつでも行けるやとタカを括っていたところ炎上してしまい見損ねて後悔したと今も言う。こういう人は多いと思う。
 そんな父の反省もあり、また僕は子供の頃から歴史が好きで神社仏閣も好きという珍しい感覚を持っていたので、あちこちの史蹟名勝にずいぶん足を運んだ。みんな家から自転車で行ける。結構な環境に生まれたものだと思う。
 母は嵯峨野の生まれであり、墓参ついでに嵐山に足を延ばす。天竜寺や二尊院、落柿舎、化野の念仏寺などはお馴染みだ。マイナーなところでも、例えば僕の住んでいたところ、学校区には牛若丸誕生井、紫式部の墓、光悦寺や血天井の源光庵なんかがあり子供の頃からよく知っている。上賀茂神社は集会所みたいなもので、名物焼き餅を食べながら合唱コンクールの練習をする。今宮神社は高校から目と鼻の先で、帰り道にあぶり餅を食べ、時代劇のロケがあるとカメラを持って授業をサボって見にいく。夏目雅子を見たときは感激したな。大川橋蔵はつっけんどんだったけれど、高橋英樹や田中邦衛はいい人で、ロケの待ち時間はよく話もしてくれてサインも厭わなかった…おっと話がずれた。 

 こんなふうに少年時代はあちこちに出歩き、京都を知ったふうに思っていた。「隠された史跡100選」などと言う本を持ち歩き、ここが岩倉具視の旧居か、ここが織田信長の隠れた墓か(寺町上立売の阿弥陀寺のこと)、ここが山中鹿之介の墓か、などと訪ね歩いた。そうして、結構マニアックに京都を知ったつもりでいた。
 しかし、京都は実はもっと奥が深い。

 大学を卒業して京都を離れ、京都には一年に1、2回、それも実家にだけ立ち寄るという年月を過ごしてしばらく経った。結婚して後も、ほぼ実家しか行かなかった。
 その後、両親も京都を離れ、京都に縁が無くなった。それと同時期に僕は転勤で兵庫県に住むこととなり、京都は身近になったのだけれども足を運ばないでいた。
 妻があるとき言った。「京都へ行きたいよ」と。
 妻は京都を歩いたのは修学旅行以来ないと言う。そういえば、京都には二人で何度も訪れているのに、舅と姑のご機嫌伺いに終始していた。なるほどな、悪かったよ。
 そうして、時間があれば阪神電車と阪急電車を乗り継ぎ、また近鉄やJRに乗って、週末しばしば京都を訪れるようになった。
 ある日は祇園から八坂神社、知恩院、高台寺、清水寺へ。ある日は建長寺から六波羅蜜寺、方広寺、三十三間堂へ。また嵯峨野釈迦堂、大覚寺から化野念仏寺へ。また銀閣寺から哲学の道、永観堂、南禅寺へ。また金閣寺から竜安寺、仁和寺へ。太秦蚕の社、広隆寺へ。東寺、西・東本願寺、そして壬生へ。二条城から神泉苑へ。下鴨神社から御所、廬山寺へ。伏見稲荷から寺田屋へ。宇治平等院から三室戸寺、万福寺へ。詩仙堂から赤山禅院、曼殊院へ。鞍馬寺、貴船神社へ。大原三千院、寂光院へ。神護寺、西明寺、高山寺へ。その他幾度も、僕が歩いてきた京都を見せるために訪れた。

 そうしたら、僕の方が夢中になってきた。おかしなものである。あれほど長く住んで、みんな歩いてきたつもりだった京都が実に新鮮にまた僕に入り込んできた。
 これは、一つには知識量が多くなったということがあるだろう。二十歳の頃の僕と今とでは、やはり20年の蓄積というものがある。その間、趣味である歴史の本もずいぶん読んだ。そういう目で見ると、今まで見てきたものとは違った、様々な視角が生じるのもまた自明のことである。
 僕は面白くなって、京都に行くのに予習をするようになった。今までは、勝手知ったる京都、ガイドブックはおろか関連書籍も読むことなしに来ていたのに。そうして、だんだん僕の知らない京都が目の前に現れてきた。
 今までは妻が誘っていたのだが、今度は僕が言い出すようになった。「おい、週末京都に行こうよ」

 しかしながら、そういう状態になると妻が閉口しだした。一緒に行くと、昔は「どうだ凄いだろう」程度しか言わなかったのに、今では、

 「ここはあの陰陽師のな、安倍清明が式神ちゅうてな、つまり妖怪を閉じ込めとった『一条戻り橋』や。橋の下にはまだ妖怪がおるんやで。あのな、渡辺綱という人がここで美人に化けてた鬼に引っ張られてな、そんで腕を切り落として助かったんや。渡辺綱っちゅうのは源頼光の四天王の一人で…源頼光と渡辺綱のことはこないだ羅生門址に行ったとき言うたやろ。憶えてるか? 源頼光は橋を挟んで安倍清明と向かい合わせに家があったんや。昔で言うたらここはちょうど御所の東北、つまり鬼門や。あ、今の御所は引っ越したんで、昔は今より西に内裏はあったんや。妖怪退治の頼光と妖怪封じの清明がちょうどここ、御所の鬼門に住んどったんや。二人して朝廷を守っておったんやな。おもろいやろ? ほんで四天王というのは他に坂田金時も居て、そりゃ金太郎さんのことなんやが…」

 なんの変哲も無いコンクリートの橋一つにこれだけウンチクをクドクドと言われてはたまらない。もはや妻は面倒になって

 「京都はもうあんた一人で行ってきてちょうだい」

 うーむそうだろうな。すまんすまん。

 そうして妻にも見捨てられた僕は、今は一人でちょくちょく京都を訪れる。
例えばこんな感じ。→「龍馬はんに逢ってきた」「秋の京都御所一般公開」「京都ぶらぶら歩き」「鞍馬・貴船行き」「等持院にて」等々。
 わいわい行くのも面白いが、一人歩きもまた楽しいのが京都である。誰にも遠慮なく好きに行けるのがいい。さらにいろいろ書籍を読めば、また京都に行きたい気持ちが募る。かつてはこの地に住んでいたのに、またこうして新しい「旅人」の視点で訪れることが出来るように自分が変わった事に喜びを感じつつ。

 次回に続く。


僕の旅 京都府1

2006年02月25日 | 都道府県見て歩き
 僕はこのブログで、自分が今まで旅してきた場所の記憶みたいなものを都道府県別に書き、思い出を整理してきた。北から順番に記事にしてきて、一年と3ヶ月が過ぎてとうとう京都の番がめぐって来たのだけれども、京都を書くにあたってどう書いていいのかちょっと屈している。
 それはもちろん京都が長い間僕にとって「旅の対象」ではなかったからである。生まれて大学を出るまでの22年間を過ごし、全ての痛切な追憶の対象となる旅行には京都から出発してきた。旅が非日常の空間と時間を享受するものだと仮定すれば、京都は僕にとって日常。なかなか京都を異空間として感じることが出来なかった。
 ただ、最近(ここ2、3年のことだが)、なんとなしに京都を旅の対象として見ることが出来るようになってきた。それはまず僕が京都を離れて相当の時間が経ったということがまず上げられる。京都で暮らした年月と、京都を出て暮らした年月がだんだん近づくにつれ、僕の京都での日常感覚が徐々に過去へと押し流され、「帰るべき場所」から「懐かしいところ」に変貌してきた。まだ「異空間」とまではいかないけれど、時は確実に意識を変えてくれる。
 両親が京都を離れ滋賀県に引っ越したということがいちばん大きな出来事だろう。京都に行く、ということがすなわち「実家へ帰る」とイコールであった時代は旅行感覚を持つことなど無理だった。それが、帰るべき実家が無くなったことで明らかに僕の心情に変化が生まれた。かつて実家があった場所に立ち、そこがアパートに建て代わっているのを見たときにはなんとも言われぬ喪失感が生じ、「デラシネ(根無し草by堀内孝雄)」の気分になったものだったが、そんな時期も過ぎ、今はなんとなしに「京都に行けばまず実家に」の枷のようなものが取れて自由になった気さえする。「外から見た京都」を少しづつ感じられるようになった。もちろん「内なる京都」の比重の方がまだ高いのではあるけれども。

 グダグダと理屈を書いていますな。前置きが長すぎる。まあ思いつくところから書いていくか。

 京都に旅行で訪れる人は多い。まず修学旅行だろう。現在修学旅行というものは多様化しており、海外にも行くご時世で必ずしも修学旅行=京都ではないけれども、それでもまだまだ他の場所を圧倒していると聞く。そして年端もいかぬ若者達が金閣寺と清水寺を訪れ、記念写真を撮って莞爾とするのであろう。僕と同年輩以上の人と話をすると、「京都には一度だけ行ったよ。修学旅行で」が圧倒的だ。
 これは惜しいことであると思っていた。よく言われていることなのでここでわざわざ書くほどのこともないのだけれど、小学生や中学生が桂離宮や二条城に行って果たして楽しめるか。 「歴史」は学校の授業科目であって、たいていは押し付けて学ばされているもの。そういう歴史を具現化している場所に行っても、一部の人を除いてなかなか楽しめない。もちろん修学旅行で蒙を啓かれた人もいるだろうけれども少数派だろう。逆にこれによって京都を嫌いになる人もいる。嫌いとまでは行かなくても「京都は一度行ったからもういいや」と思う人が多いのではないか。
 不遜な言い方ではあるが、ガキに京都の真髄がわかるとは到底思えない。子供の頃は北海道や沖縄の素晴らしい風景を見て心に焼き付けた方が人間性が成長すると思う。それが現代の「修学」には相応しい。
 かくして、僕は「旅行に行きたいけど京都はもういいや。修学旅行で行ってつまんなかったし」という人に口を酸っぱくして「大人になってからの京都は見る目が変わって興味深いよ」とずっと言ってきた。郷土愛を持つ身としては、そんなふうに評価されてはたまらない。
 しかし、最近は達観して「つまんないよ京都は」と言われれば「ああそうですねぇ」と言えるようになった。これは僕が大人になったのかそれとも面倒臭くなったのか。ただ、前述した「修学旅行で京都を嫌いになるのは惜しいことである」という感覚から、「それでも京都がいいと思う人だけ行けばいい」に少しづつ変わってきている。真価をわかってくれる人だけで良いのだ。繰り返すが実に不遜であることは承知である。そんでも言うてまう。もうええねん。来たい人だけ来て。いやな人はこんでもええわ(←神経が捻じ曲がった)。

 それでも「京都が好き」と言ってくれる人がいる。好きな人は繰り返し何度も訪れてくれる。キッカケは様々だろう。歴史好きが居る。それも分化して、平安ファンから幕末ファンまで多岐に。また庭園が好きな人。神社仏閣マニア。美術工芸が好きな人。有職故実ファン。生麩と湯葉に魅せられた人から二時間ドラマの撮影場所めぐりまで様々。それぞれ結構なことだと思う。そういう人と話していると飽きない。僕より京都に詳しい人も居る。憧れてくれるのが嬉しい。そんな人と話をしているとつい僕も京都について語りたくなる。
 よく話をしていて、「いつ頃京都に行くのがベスト?」という質問を受ける。この質問にはいくつもの答えを用意している。
 まず「真夏はちょっとな」と言う。とにかく京都の夏は暑い。そんなことを言うと「夏はどこでも暑いもの」「沖縄の方が暑いよ」と言われるけれども、僕は沖縄の夏も知っている。確かに暑い。しかしながら京都の暑さは「イヤな暑さ」なのである。
 盆地特有の気候なのか。湿度も高いし風が吹かない。吹いても暖かい風で気持ちが悪い。肘をテーブルについていると接着面がネットリとしてくる。これは気色のいいものではない。それでも、みんな夏を避けて旅行にやってくるのであれば空いていていいのだけれども、学校や企業の休みが夏に集中しているせいか人出は多い。また祇園祭から大文字送り火まで様々な行事があるのでそれに合わせる人もいる。あまりプラス面は思いつかない。避けた方がいい季節であろう。もちろん暑い季節が最高に好き、という人にはこの限りではないが。
 「やっぱり紅葉の季節でしょうねぇ」と言われれば、そうですねと答える。京都の紅葉は確かに綺麗だ。これはさっきの「盆地気候」が影響している。夏はとにかく暑いが冬は急に冷え込む。なので温度変化が大きい。これは紅葉には多大に影響を及ぼす。急に冷えると色は鮮やかに映えるのだ。紅葉は京都を彩る必須アイテムではある。
 しかしながら、この時期は人が多い。団体旅行というのは10、11月に最も多く設定されている。ツアーも多い。嵐山などには全国各地からおばちゃんが集結している。かしましいことおびただしい。この中に紛れ込む恐怖というのは例えようが無い。
 紅葉は確かにいいのだが、マイナスポイントも多いのだ。それに、紅葉が本当に綺麗なのはせいぜい一週間である。その時期にピタリと合致すればまだおばちゃん攻撃にも耐えられるけれど、ちょっと時期を外してしまったらもう…。茶色に変わった葉っぱを見ながら土産物屋でおばちゃんが試食三昧している中を通り抜け、天竜寺の庭を背伸びして見なければいけない。リスクが大きすぎるのだ。なので積極的に薦めることはしていない。行くのならまだ平日がマシだが、それはいろいろ都合もあるだろうし。
 尋ねた人が旅行好きで、なおかつ本当に京都を好きな人だとわかったら、僕は迷わず冬を推奨することにしている。それも12月がことさらにいい。
 「京都の夏は暑い」と書いたが、残念なことに京都の冬もまた寒い。やはり盆地であるということが影響しているのだろう。「底冷え」という言葉がある。山々に囲まれた盆地の、器のようになった地形に冷気がたまるのだ。雪はさほどに降らないが、降ったほうがまだしも暖かい。街中に「比叡おろし」という冷たい風が吹く。肌が切れそうだ。例えば北海道のように徹底的に寒ければ暖房に力を入れるのだが、京都は古い建物が多く家屋の中でも寒い。それに重要文化財の建物に近代的暖房装置を導入するわけにはいかないのだろう。
 なのでこの時期、人が少ない。12月は慌ただしい季節でもあり観光している場合ではないからだろう。どの施設も空いている。いつもなら押すな押すなの竜安寺石庭も、ゆっくりと座って鑑賞することが出来る。ちゃんと防寒さえすれば、本来の京都の良さを堪能するのには最適だと言える。静まり返った堂宇。人気を感じない冬枯れの庭園。侘び寂びではないが、華やかな宴の後の雰囲気が心まで清浄にしてくれそうである。街に戻れば喧騒ではあるが、全て町の人たちで修学旅行生など居ない。慌ただしい古都の年の暮れを味わいながらにしんそばをすする。結構なことだと僕は思うのだが。
 旅の印象は季節によっても違う。ある人は、梅雨どきのしぐれた京都が最高とも言っていた。この人は僕よりレベルが高い。僕は雨が好きではない。足が濡れるし傘を持っていては写真が撮り辛い。共通しているのは人が少ないことだろうか。
 京都を訪れてくれるリピーターには、是非「自分の好きな季節」を見つけて欲しい。そうして、僕と「あの季節が」「こんな頃が」の話をして欲しい。楽しいだろうな。

 次回に続く。

僕の旅 滋賀県

2006年01月29日 | 都道府県見て歩き
 京都生まれの僕にとって、滋賀県はやはり馴染み深い。隣の県であるということだけではなく、「京滋」という言い方もあるように、一体感がある。比叡山、大文字山を連ねる東山三十六峰。その山々を越えれば滋賀県、というのは、大阪や神戸よりも近しい印象を与えてくれる。
 しかしながら、全国的に見ればマイナーな印象が強いらしい。滋賀県と聞いてどこにあるのかわからない、という人にも多く会った。しかし「琵琶湖」と聞けばみんな「ああ~」と言う。この県の面積の1/6を占める日本一大きい湖は県そのものよりも知名度が高い。
 僕たちは子供の頃、琵琶湖に泳ぎによく行った。京都市内から海水浴に行こうとすれば、最も近いところで神戸の須磨海岸、または和歌山の白浜、あるいは福井若狭の日本海であって、ちょっと遠い(そりゃ一番近い海は大阪湾だけれども、あの「悲しい色」をした海ではちょっと泳げない)。なので琵琶湖、ということになる。琵琶湖も汚染が進んでいると言われるけれどもそれは南部の大津や草津周辺のことであり、北までいけばかなり水は綺麗だ。北部琵琶湖だけをとってみれば、地下の湧水の量も多く常に浄化されていて、日本でも有数の透明度を誇った(今はどうなんだろ)。平均すると琵琶湖はあまり綺麗ではないが、北部はまだイケているのではないだろうか。
 それに琵琶湖の良いところは「水が目に沁みない」ことである。淡水で泳ぐのはベタつかなくていいのである。ただ、「海水浴」ではないけれど。

 司馬遼太郎の名著「街道をゆく」。その第一話が「近江路」で始まるように、歴史好きにとっては滋賀県を旅することは結構楽しい。この近江の国は歴史的にいつも要の地であり、蒲生野の万葉ロマンから始まり、百済移民の入植、大津京、また信楽(紫香楽)宮、延暦寺や三井寺、石山寺、そして姉川、安土城跡、坂本や長浜城、彦根城など見るべきところが多い。細かく述べればキリがないが、歩いて損はしない土地である。仏像も多い。

 しかしなんと言っても滋賀県を代表するものは琵琶湖なのだろう。この周囲約180kmの広大な湖は、「一周してみたい」という思いを誰しも喚起するらしい。
ちょっと思い出話を少し。
 話は中学生の時になるのだが、当時の友人の親戚が九州に居るという話から、「そこへ皆で自転車で行こうか?」という話が盛り上ったことがあった。13、4歳の少年というのはなんだか冒険をしたくなるもの。話していたのは仲のいい7、8人だったのだが、何人かで本気で行く気になった。「夏休みをみんな使えば行けるのじゃないか?」「とにかく片道でも行ければ、自転車は配送して国鉄でも戻ってこれる」「みんなでキャンプしながら行くと楽しいんじゃないか」話はどんどん盛り上がり架空計画を立て、わいわいと楽しく過ごした。みんな本気になって、何日かした後に「親の許可を得よう」と真面目なことを考えて、僕も両親に相談した。
 当然のことながら許してはもらえず、友人たちも揃って反対され、残念ながらこの一件はポシゃってしまった。友人達もそれで熱が冷め、「やっぱり行けるわけないよな」という論調に。しかし「危険。無理。」という親の説教に折れたものの、僕の中でずっと夢は大きくなっていった。熱が全然冷めなかったのだ。
 高校入学後の最初の夏休み、琵琶湖一周なら大した事はないだろう、と親を説得し、その時にまだ熱の冷め方が弱かった友人二人を誘って、綿密に計画書を作り、1981年の夏、僕は初めて自転車の旅に出た。
 前述したように京都在住の僕にとって、琵琶湖は実に身近で何度も行ったことがあり、ほとんど問題はないように思ったのだが、それでも初めてで相談する人など無く、2万5千分の1の地図を沢山買い込み道に朱線を入れ、行程約200kmを3日で走る計画を立てて臨んだ。親はそれでも不安だったらしく、2時間毎に電話を入れるように僕に命じ、僕の親から同行の友人二人の家に連絡してもらう、というという連絡網を作り、心配を軽減するようにした。

 さて当日、晴れやかな空の下、友人たちと朝5時に待ち合わせ、京都市内から大原、途中峠を越えて滋賀県琵琶湖へ。初めの日は状況がわからないので約70kmの行程だった。
 そして初日、張り切って走ったら、なんと計画した当日の目的地に朝の9時には着いてしまったのだ。当時は70kmと言えば果てしの無い距離に思えたものだったのだが、実際はいとも簡単にあっさりと走れてしまうものなのだった。友人からは「お前の計画はなんじゃ?」とアホ呼ばわりされたが、計画通りに実行すると親と約束している以上はそれより先にも行けず、その日は琵琶湖で泳いで過ごした。間抜けだと今に至っても思う。
 万事この調子で3日間なんの問題もなく走り終え、初めての自転車旅行は終わった。このことで、少し親も拍子抜けして「自転車もまあいいか」と考えるようになった。案ずるより生むが易しである。

 その後僕は何度も琵琶湖は一周している。もちろん一日で楽に一周出来る。大学に入って後、一人で長期の自転車旅行に僕は出かけるようになったが、出かける前に自分と自転車の調子をみる目的で「ちょっと琵琶湖一周してくるから」と言って朝早くに出て、夕刻日が暮れるまでに戻ってくる。
 歩いて一周したこともある。これはチャレンジであって、4日かかったがこれもまたいい思い出である。
 そうやって親も息子が旅に出ることに慣れ、最初は前述したように「2時間毎に電話をせよ」と言っていたのが「朝晩でいい」になり「いつでもいいから毎日電話して」に変わった。そのうちに電話に出てくれなくなった。
 というのは、携帯のない時代、公衆電話からだと電話代がかかるので、遠くにいるときには僕は「コレクトコール」をよく利用した。コレクトコールは、交換手がこちらの名前を聞いて、先方に伝え受けるかどうかを確認して繋げる。話が滋賀県からずれるが大学時代の夏、僕は北海道の東部、原野を走っていて、電話Boxが見当たらず探したあげく道からそれて町に入り込み、ようやく電話を親にかけた。夕方で、親が心配しているかなあと気遣っていたつもりだったのだが、

 交換手「あの、電話にお出になりません」
 僕「あ、留守ですか?」
 交換手「いや、コレクトコールは断られました」

 なんですと?!
 せっかく頑張って電話を探してようやくかけたのに断るとはなんということか。後に問いただすと「だって、北海道○○町より××様からコレクトコールが入っています。お受けになりますか? と聞かれたから、それでどこに居るかわかったからお金もかかるしもういいやと思って」と言う。確かに合理的ではあるのだが、息子の声を聞きたいとは思わないのかね(汗)。かつて2時間毎に電話せよ、と言っていた母親も、慣れればこんなものである。僕は親になったことがないのでよくわからないのだが、こんなものなんですか? わはは。

 話が滋賀県からそれた。
 その息子の心配をしなくなった両親は、父親の定年退職をきっかけに、滋賀県に小さな家を買い京都から引っ越した。今は田舎暮らしをしており、帰省となれば僕は滋賀県に向うこととなった。実家が滋賀県となったことで、ますます縁が深くなった。さすがにまだ故郷という感覚はないけれども、それに準じた感情を今滋賀県に対しては持っている。