凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

INDEX

 酒についての話  酒呑みの様々な与太話や薀蓄話
 都道府県見歩き      都道府県別の旅行の思い出話
 好きな歌心に残る歌   フォークを中心に歌の紹介と思い出話 
 歴史「if」  歴史ヲタクのもしもの話  
 プロレス技あれこれ  プロレスと技についてのくどい話
 旅のアングル  旅行にまつわるよもやま話
 このブログのINDEXです。
 クリックしていただければ、
 各カテゴリ目次が開きます。
    メールはこちら
    BBSはこちら
※捨てハンでのコメントはご遠慮下さい

黄昏のブランデー

2024年02月25日 | 酒についての話
 先般引っ越したときに、サイドボードを処分してしまった。
 サイドボードにももちろんいろんな種類があるのだろうが、我が家にあったのはつまり、おしゃれな食器棚である。飾り棚といっていいかも。横長で背は低め、装飾が多めの、大きなガラス戸がつく収納棚だった。
 僕は、家具の好みとしては基本的には質実剛健であればよく、飾り付けされたものとかはまず買わない。これは、貰い物だった。
 世はまだ昭和。就職で実家を出て、最初に一人暮らしをした某都市の某マンション。家具はほぼコメ兵でそろえたが(何が某都市だ)、まだまだ部屋の中はスカスカの状態だった。そんなにモノも無かったしね。
 しばらくして、隣のご主人が訪ねてきた。「これ要りませんか?」
 見れば立派な装飾棚だった。なんでも転勤なのだという。そのご主人と会ったのは最初の挨拶以来二度目だった。
 「いいんですか?」と思わず言った。いや貰っていただけるなら寧ろありがたい。うちじゃもう使わないもので、と。
 いま考えれば、引越の処分品を体よく押し付けられたのだ、とも言える。まあそこまで悪く考えずともいいが。人に貰ってもらうほうが家具も喜ぶというもの。エコともいう。そうして、このサイドボードは我が家にやってきた。
 しかし何か目的があって入手したものではないため、困った。最初は入れるべき何物もない。寂しいので、何でも入れるようになる。当初は模型や置物、土産品などが並んだ。そのうちに、のんべであるためにそこには洋酒が何本か並ぶようになる。さらに、当時は気前がいい時代だったせいもあり、酒を買ったときにおまけで貰う景品グラスがずらりと並んだ。メーカー名が入った安物ばかり。ともかくも、酒専用の家具へと進展した。
 そうしているうち僕も引っ越しし、結婚し所帯を持ち、また引っ越しし…世は昭和から平成、令和とうつり、それでもこのサイドボードとは一緒にやってきた。中身も、ことあるごとに入れ替わってきたが、酒棚であることは変わりがなく、21世紀以降はPC机の隣に位置した。
 これはPCを買ったときに、サイドボードの隣にしかスペースがなくそこに台を置かざるを得なかっただけで意図したことではないのだが、以来ネットと酒が一体化した。僕が最もネットに出没していた時代は40代前半だったと思うが、夜更けにサイドボードのガラス戸を開け、気分の蒸留酒を取り出してはグラスに注ぎ、それを舐めながらブログを書くのが日課になった。あまりよろしくない習慣だろうとは思うのだが、当時は愉悦だった。酒に関する話も、数多く書いた。 

 そうした日々にも、徐々に変化が出てくる。
 まず、生活が朝型にかわった。
 こうなるに至る話はとても要約して書けないので放置するが、つまり夜にブログ書きながらスピリッツ、なんてことはしなくなった。酒は、晩酌で終わり。
 外で呑んでもスナックやカラオケにはもう誘われても行かない。二次会なし。家では言わずもがな。そして早ければ10時台に寝る。朝は5時前に起きることも。PCに向かうのはその時間。
 今でいえば「朝活」というヤツだろう。いや、違うか。とくにスキルアップなど目的とはしてなかったしな。
 というわけで、酒を舐めながら夜更けのPC、という悪癖はなくなった。コーヒーを飲みながら、に替わったかな。
 そのうちに体調問題や様々な出来事もあり、歳もとって、早起きしても朝活すらしなくなったのだが、それはさておき。
 サイドボードは、形骸化した。
 サイドボードに並んでいたものは、棚の左半分は酒器。右半分は洋酒(蒸留酒)である。ウイスキー、ジン、ウオッカ、ラム、テキーラ、ブランデー、etc.。
 このうち酒器は、ほぼ飾りである。むかーし酒器の話で書いたとおり。僕は酒を呑むのに酒器は4つしか使わない。あとは、ただ置いてあるだけである。若い頃は来客もいたが、今は訪ねてきて酒を酌み交わす人なんていない。友人もみんな歳をとった。
 中には上等のもの、思い出が付随するものもある。世話になった人の形見の薩摩切子。結婚祝いに貰った九谷焼のワイングラス。義理の兄に貰ったビアマグ。沖縄で買った抱瓶やカラカラ。しかし大半は、貰い物や景品であり、ほとんど使ったことがない。アイスペールや水差しも、来客時だけのものだ。普段氷は、直接冷凍庫を開けて掴んでグラスに放り込む。いちいちアイスペールに入れてられるか。また洗って乾かしてしまわねばならない。そんなことがひとつひとつ面倒になってくる。二人の暮らしの中では登場の機会は失われている。
 しかし捨てる機会もなく放置していただけだったのだが、前回書いたように引っ越しを余儀なくされた。
 もうええわ。処分しよ。suntoryとか銘が入った6個セットのタンブラーとか、使こた事ないがな。こんなん並べてるだけやんか。
 そうやってカミさんと仕分けしていたら、置いておくグラス類はみな食器棚に入ってしまうことが判明。

 「どうする? もうサイドボードいらないんじゃない?」
 「そやなぁ…」

 実は、右半分に並べてあった酒瓶も、激減していたのである。夜更けの一杯をしなくなったため、新しく買い足さなくなった。今あるのは洋酒の瓶が6本だけ。これは一応、消耗品と考えられる。
 従い、サイドボードは洋服箪笥やステレオラックなどと共に、処分品リスト入りした。
 考えてみれば、このサイドボードは、既に中古品で入手以来35年くらいか。頑張ったと思うよ。底面裏にシールが貼ってあったのをこの度初めて発見した。なんかのキャラクターみたいだがよくわからない。おそらく隣の家の子供が貼ったんだろう。その子もおそらくはもう壮年…おっとこんなことを考えていてはいけない。何事にも感傷的にならないのが引越の掟である。

 さて…。
 引っ越して4ヶ月を過ぎ、もちろんグラス類は減らして食器棚に収まっている。
 さらに先ほど書いた「消耗品としての洋酒の瓶」だが…こんなの引越前にのんでしまえば良かったのだが、1本だけのんで5本は持ってきてしまった。うーむ。
 有体にいえば、のむ機会を失ったのである。それに相応しい場面を作れなかった、というか。
 内訳は、ウイスキーが5本。ブランデーが1本。だいたい750㎖くらいで量的には大したことはないのだが、かなり僕にしては上等の酒なのだ。ウイスキーはオールドパー12年が2本。シーバスリーガル12年。シーバスのロイヤルサルート21年。バランタイン30年。
 なんというか、えげつない。こんなの、成功者がのむ酒である。
 もちろん、買ったものではない。いただきものである。こんな高い酒買わないよ。
 これらを入手したのは、ずいぶん昔だ。僕が若者といっても差し支えない時代。詳細は書けないが、つまりは、こんな感じ。
 仕事上で、相当な社会的実力者に会いに行く。話がしにくいので休日、自宅へ行く。もちろん手土産は経費で買って持っていく。何度か通ううちに気に入られる。

 「君は酒はのむのかい?」
 「はい、ウワバミでございます(笑)」
 「じゃこれあげるよ。あちこちからもらってのみ切れないんだ。あんまりうちじゃのまないからさ」
 「いやいやこのようなものを(汗)」

 そうして頂いた酒である。社会的実力者には、中元歳暮はもとより、賄賂的意味合いも含めこういうものがダブつくほど集まるのだ。ふぅ。
 こういう機会が何度もあった。
 ロイヤルサルートをもらったときの場面を今も記憶している。君は独身かね。うちには君と同じくらいの娘がいるんだが…と言われた。その娘さんも出てきた。うわぁ(汗)。しかしここでロイヤルサルートを返すわけにはいかない…。
 今とは時代が違う。昔話である。そのロイヤルサルートをまだのみそびれている。結婚前のことだし、あれは30年以上前か。

 閑話休題。
 「酒は食べ物に奉仕する」と昔から僕は書いてきている。いちいちリンクは貼らないが、そんな話をずいぶん書いてきた。ウイスキーやブランデーも食事時にのむ。しかしそういう時にのむ酒は、極めて廉価なものである。まあペットボトル入りのヤツ(レッドとかトリスとか)。ウイスキーはビール代わりに。ブランデーは紹興酒代わりに。水割りでガブガブのむ。
 そういう場面で、バランタインをアジフライと共に水割りでのむわけにはいかないではないか。もったいない。僕だってそれくらいはわかる。こういう上質なものは、ストレートであるがままにのむのが正しい。なのでそういう酒は、だいたい夜半過ぎの酒としてストレートで消費していた。
 しかし、朝型となって、そういう「食事後に舐めるようにのむ」機会を封印してしまったため、残ってしまったのである。
 引っ越しに、割れ物は梱包が面倒臭い。だが近距離引越であるため、僕はこれらを全て消費するのを諦めた。業者さんの手を煩わせなくてももこのくらい自分の車に積めばいい。ただ、オールドパー12年は2本あり、昨年の夏以降精神が疲弊していたこともあり、1本封を切った。自分にご苦労さんの意味も込めて。
 
 うわ、美味ぁ

 当たり前であるが、普段のむブラックニッカとは違う。いやブラックニッカももちろん旨い酒ではあるのだが(いつも世話になっている酒なのでフォローしないと)、なんだか別ジャンルの酒に思える(フォローしきれなかった)。
 カミさんはウイスキーをのまないので、僕一人でのんだ。オールドパーといえば、田中角栄がのんでいた酒である。田中角栄と言えばすき焼きとオールドパー。まあ頂点の酒とも言える。今検索したら、吉田茂が愛飲して、それが田中角栄に受け継がれた、ということらしい。ひぇー。
 ボトルは、3日で空いてしまった。
 しかし、だいたい3日くらいで空くと予想していたのである。だから、引越の3日前に封を切った。
 家の中は既に段ボール箱だらけになってきていて、さらに台所用品も梱包を進めていてちゃんとした料理も出来ず、この日からテイクアウト的な感じになっていたため、食後酒の出番があると踏んだのである。
 それだけではなく、もちろん25年住んだ我が家への惜別の意味もあった。…なんか理由つけないとのみにくいやないの。

 以来、しばらく経った。ここからリアルタイムっぽくなる。
 カミさんが帰省する。コロナ禍以降、盆と正月の里帰りは止めて、シーズンオフに動くようにしている。今回は10日間ほど。で、2月某日。カミさんを伊丹空港まで送った。
 さー何をのもうか。
 
 うちの食事形態が一般的なのかどうかはよくわからないが、まず何品か料理が出てきて、それで酒をのむ。僕が「料理は系統を統一してくれ」と希望しているので、和食なら全部和食、中華なら中華に揃える。煮魚とポテサラと青椒肉絲みたいな組合せはしない。何のんでいいのかわかんなくなるから。
 で、のみ終わったらシメのメシ(回文)。ここまで統一感を持たせなくてもいいけど、だいたい流れで食べている。麻婆豆腐があれば半分は残してご飯と食べよう。この刺身の半分は海鮮丼にしよう、とか。麺類にすることもあるし、洋食ならパスタで〆ることも多い。もう30年二人で暮らしているので、流れが完全に出来上がっている。
 かつてはこのあとに更にスピリッツ系の酒、だったのだが、それはもう止めてしまっている。
 然るに、一人で食事となれば、こういう流れは無視していい。短い期間だから栄養バランスとかも考えない。一人前の料理を何品か並べるのも面倒だ。
 うちに帰る途中スーパーに寄ったら、総菜売り場でロースかつが半額になっていた。しめしめ。これを買って帰って今夜はカツ丼を食べよう。
 米を研ぎ、風呂に入ってしばらくして台所へ。カツを甘辛く煮て溶き卵でとじ、炊き立てのめしの上にのせる。むふふふ。
 なお関係ない話だが、僕はカツ丼に玉葱を使わない。葱を使う。これはどういうことかと言えば、経験値の問題かも。
 僕はカツ丼デビューは遅く、大学の学食が初めてだった。それまでは何故か機会がなかった。野球の試合を見に行く前、必勝祈願で注文したのだが、それが葱使用のかつ丼(しかも後のせ方式)。
 おそらくは、学食という回転重視店舗の関係上、玉葱を煮ていると時間がかかるからだろう。しかし初めてがそれで、そのあと何度もこの330円のカツ丼を食べ続けたので、刷り込まれてしまったのか。後に他の店で食べることももちろんあったのだが、何か違和感を感じるようになってしまった。洋食ぽくなるというか。
 僕が生涯で最も食べた、金沢は南町の「あさひや(再開発で今はもうない)」のカツ丼。ここは葱すらも無い。薄いトンカツと卵だけ。これは本当にうまかった。そば屋のカツ丼であり、やはり出汁の力なんだろうか。わしわしと掻っ込む。ひどい時は二杯食べた(若かった)。今でも食べたくてたまらなくなる。
 不思議と、今住む西宮のカツ丼の名店として名高い「たけふく」、また神戸の行列店「吉兵衛」、いずれも玉葱ではなく葱あとのせ学食方式である。客の回転の問題かな。で、僕はこちらのほうが好き。

 関係ない話を長く書いてしまった。そうして美味い自家製大盛りカツ丼を平らげ、腹もくちたところで、今夜の一杯をやろうと思う。夜も更けてきた。
 ブランデーが一本ある。これをのもう。
 何とコニャックである。ヘネシーV.S.O.P。これ買えばいくらくらいするんだろう。そりゃブランデー通になれば、ヘネシーはX.O.からだ、なーんて言うんだろうけどねぇ。僕からすれば、どっちも突き抜けてる酒ですよ。ひと瓶1万円以上する酒も2万超えも、いずれも上質。だってワシが普段のんでるブランデーって、ペットボトルやで。
 また関係ない話だが、邱永漢氏が昔、香港での飲食について書いていた。曰く、

「料理屋は料理を売るところで、酒を売るところではないという観念があるので、どこのレストランでも酒は自由に持ち込めるようになっている(中略)広東料理を食べに行く香港の人たちが一番好んで持ち込む洋酒はブランデーである。なかでももっとも人気のあるのがヘネシーのXOである(中略)日本のデパートで三万五千円で売られているXOも、免税店では八千円くらいで売られている」

 僕はちょっとプリン体の摂取に気を付けなければダメだと医者に言われたことがあり、痛風は怖いので、のむ酒のかなりの部分を蒸留酒にシフトしたときがあった。中華を食べるときにブランデーをのもうとしたのは、こういう邱永漢氏の影響がある。しかし料理にXOを合わせるのは無理なので、極めて廉価のブランデーを水割にしてのむようになった。ブランデーは廉価であってもブランデーであり、もちろん芳醇とまでは書けないが独特の甘い香りはするので、紹興酒の代わりにはなるような気がした。
 そりゃ僕だって、上質のブランデーを水割りにしたりはしませんよ。薄めたら香りがたたなくなるしもったいない。
 けれども、メーカー側が水割りを煽った時代があるのである。「ブランデー 水で割ったら アメリカン」というコピーをご記憶の方は多いと思う。→CM
 シェリル・ラッドのポスターを酒屋で貰ってきて壁に貼っていた青春時代。懐かしい。シェリルは今でも憧れの大人の女性である。この頃まだブランデーをのんだことは無い。
 メーカーとしては、ブランデーを売りたかったんだろうなあ。割ってでも。
 ブランデーという酒は、当時は高嶺の花。かつては舶来品であり、高級イメージが強かった。
 サントリーは、かつてウイスキーを売るために一大イメージ戦略を打ったことがある。そして「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」という山口瞳のコピーは柳原良平のアンクル・トリスというキャラクターとともに流行語となった。そして後年には、小林亜星の「夜が来る」という最高のBGMを擁してCMを打ち、ボトルキープという新しい文化(これもサントリーが仕掛けている)も背景にして、酒場にずらりとオールドのボトルが並んだ。
 ウイスキーに続いてブランデーも、という戦略だったのだろうかとは思う。詳しいことは別に掘ったわけではないからよくわかんないけど。
 '70年代末から80年代初頭にかけて、今にして思えばブランデー販売のイメージ戦略がやっぱりあったのかな。石原裕次郎の「ブランデーグラス」という曲が流行ったのもこの頃か。
 VSOPという言葉すら、流行っていた。これをVery Special One Patternだとすぐにわかる人は、いったい何歳以上だろう。本来のVery(非常に) Superior(優れた) Old(古い) Pale(澄んだ)というブランデー等級よりもずっと人口に膾炙していたのではないか。
 しかしながら、日本文化として「居酒屋でのむ」「小料理屋でのむ」という、食事と共に味わう酒になりきれなかったところがブランデーにはあるのではないか。70年代は、割烹にすらオールドがずらっと並んだのだ。だからこそ「水割りにしてのんでほしい」とサントリーはシェリルに託したのだろうけれども…結局中華料理にブランデーの水割りを合わせてる僕のような奴は珍しい部類じゃないだろうか。シェリルより邱永漢をCMに出していればよかったのでは…なわけはないか。

 話がどんどんへんなところへ流れる。いよいよヘネシーを開けることにする。
 封を切り、栓を抜く。ああぁ開けちゃった。
 そして、スニフターを一脚、処分せずに持ってきている。いわゆるチューリップ型のブランデーグラスのこと。このために持ってきたのだ。そのスニフターに、丁寧に注ぐ。そして、手のひらで包むように持つ。

 うわ~いい香りだ。

 ブランデーの身上は何といってもこの豊かな香りである。ヘネシーのV.S.O.P.だと、だいたい30年の熟成を経たものと言われる。そうして瓶詰されて、おそらくさらに30年の時を経ている(汗)。瓶に入れば熟成されることはなく劣化していくのみだが、アルコール度数の強いスピリッツは有難いことになかなか悪くならない。
 この香りを満喫するために、スニフターはある。手のひらで少しだけあたためられたことにより揮発していく成分を籠らせ、逃がさない。
 やっぱりこれは、冷やしたり水割りにしたり氷を入れたりしちゃダメだな。シェリルには悪いけど。
 よく考えてみれば、このヘネシーは僕より年上なのだ。そう思うと、なにやら悠久な気分になってくる。この歳月を経た芳醇な美酒は、やはりあるがままに味わうのが正解であり本道だろう。
 ひとくち、含む。そしてしばらく抜けていく香りを楽しみ、ゆっくりとのどに流し込む。

 はああぅぁぁぁ

 至福とはこういう状況を言うのか。僕は今、幸せなのだ。


 翌日。休日でもある。
 朝からブランデーがのみたい。誰も止める人はいない。
 しかし、それはいかになんでも人として何か失ってはいけない何かを失うような気もする。自重しよう。
 昨晩はボトル1/3ほど空いてしまった。700㎖瓶だから、230~250㎖くらいのんだか。40度の酒だから、僕にしては結構のんでしまったな。しかし、二日酔い要素も全くなく、すっきりとした目覚め。上質の酒ってこうなんだな。
 そうしてなんやかやしているうちに、夕刻となった。冬のことであり、夜が来るのが早い。
 ちょっと早いような気もするけど、始めるか。

 だいたい、ブランデーというものは、食後酒としてのまれる場面が多いはず。いわゆる、ディジェスティフとして。
 確かに、あの度数と強い香りは、食後酒に相応しいと思われる。「食後は3C」なんて言葉もあった。僕はこの言葉を森須滋郎氏の著作で知ったが、それはフランスでの食後の定番であるコーヒー(Café)、葉巻(Cigare)、そしてコニャック(Cognac)。
 まあヘネシーはコニャックだが、コニャックでないブランデーは相応しくないのかといえば、そんなこともあるまい。語呂合わせだけのことだろう。語呂合わせならケーキでもいいのかな。だいたい葉巻なんて喫しないよ。ジャイアント馬場さんじゃないんだから。シガール(フランス語)ならヨックモックでもいいのか?
 戯言はさておき、コニャックが食後に最もふさわしいということが常識であるとした上で、今日は食前酒(アペリティフ)としてのもうと思う。普通食前酒はシェリーやカクテルだが、別にフレンチ食べるわけじゃなし。

 ブランデーをのむときに、何をつまめばいいのか。もちろん食後酒なら何も食べなくてもいいし、それこそ葉巻の一本でもあればそれで事足りるだろう。ただ空腹時は、チェイサーとしての水以外に、何か口にいれたい気もする。もちろん邱永漢式に中華料理ではなくて。
 普通言われるのは、チョコレートだろう。昔はよく酒場で、グラスに氷を満たしてそこにポッキーをたくさんさして供されたものだったが、今でもそういうことやるのかな。松田聖子が「ポッキーオンザロック」を歌っていたのはいつだったか…あれも'70年代末から80年代初頭だったような気がする。ブランデー戦略の一環と考えるのは穿ちすぎだが。
 今日は、いいものがある。林檎クリームチーズ。
 これは、妻の叔母さんが送ってくれたものだ。細かくしたリンゴのコンポートとクリームチーズを和えたもの。カミさんはこれを最初トーストにのっけて食べていたが「あんまりあわないなー」と言っていた。どれどれと一口舐めてみると…うまい。「うまいじゃないかバカヤロー」と言って、僕はその瓶を冷蔵庫に即座にしまった。その時から僕は「これはブランデーだな」と思っていたのだ。
 うししし。いよいよその日が来た。
 ブランデーを先ずはひとくち。ふぅぅ。そして林檎クリームチーズをひとなめ。ああ、やっぱり相性抜群である。美味い。さらにブランデー。至福とはこういう状況を言うのか(昨日もそう言った)。
 バレンタインの義理チョコも、まだ残っている。こうして、夕刻から天国へと向かうのであった。


 そして、今日。ブランデーも残り1/3となった。
 池波正太郎に、「夜明けのブランデー」という随筆集がある。池波さんのエッセイは読み込んでいるほうだが、この作品は晩年のものである。書いているのは60歳代に入ったころだと思うので、普通にまだまだ盛りであるようにも思うが、しかし池波さんは67歳で亡くなったので、やはり晩年か。
 
 「午前一時から明け方の四時までが私の仕事の時間だ。朝のうちに、今日はこれをやろうときめたことは必ずやってしまう。以前は、その後でウイスキーをのんだものだが、この夏からは少量のブランデーにした。そのほうが体調がよい。何といっても、私の一日は、この三時間にかかっている」

 池波さんはその晩年、明らかに老けていた。もともと老け顔の方ではあるが、それにしても60歳そこそこでこれか…と思ってしまう。小説を書くのは、やはり激務なのだろう。僕も、還暦がみえてきた。なのに僕なんぞは、こうやってブランデーをのみながら阿呆な長文のブログを書いている。この差に愕然とする。
 だいたい、池波さんが仕事終わりに「ブランデーをなめているうちに、頭へのぼった血も下ってくるので、それからベッドへ入る」と、クールダウンで夜明けのブランデーをのむのに対し、僕はもはや夜更けのブランデーでもなく、夕暮れのブランデーだ。宵の口のブランデー。薄暮のブランデー。黄昏のブランデーだ。なんたることか。
 そのブランデーも、もうすぐ終わる。せっかくうまい酒をのんだのだから、せめて何か書いておこうと思ってPCに向かったのだが、酔っているせいかもう10000字を超えた。ここまで誰も読む人はいまい。しかし、つかの間の幸せだったとは言えよう。

 ああもう最後の一杯だ。こんな機会がまた来るかなあ。まあ来ることを楽天的に信じて、終わるとするかな。黄昏のブランデーを。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

酒呑み初めし頃

2013年11月30日 | 酒についての話
 初めて酒をのんだのはいつか、という話をすれば、それはおそらく正月の屠蘇である。何歳のときだったかは記憶にない。
 それ以外、となればどうか。これは語ると必然的に未成年者飲酒禁止法違反の話となってしまう(屠蘇ももちろんそうだが)。自分勝手な言い分だが大目にみてもらうことにしよう(匿名で書いていて良かった)。

 しかし、僕は少年時代、酒の経験はそれほど多くなかったといえる。それは、なにより両親が下戸だったからだ。したがって、家に酒がない。せいぜい貰い物の梅酒か、親父が趣味で作った果実酒、さらには親戚の集まりなどでビールをひとくち飲まされた、くらいのものである。これでは習慣性など生じないし、うまいとは思わなかった。ビールはおきまりの如く「何て苦いものだろう」という感想しか持ち得なかったし、赤玉ポートワインはそこそこうまいと思ったがやはりジュースのほうが望ましかった。
 こういう人間が、のちに酒のみになるのだから、大人になるということは摩訶不思議だ。
 親の監視下を離れて酒を口にするのは、高校時代くらいだったか。友人の家などで「背伸びをして」「いきがって」酒をのむようになる。のむ酒は、極めて廉価なウイスキー(トリスなどではない。Qとか21とかNEWSとかコブラとか…懐かしい)をコーラで割ってのむ。所謂コークハイだ。口当たりがよくのみやすい。
 もうコークハイなどは30年ものんでいない。子供だったと思う。あんなのは、ただ酔うためだけのシロモノであり、酒のうまさなど全く考慮されていない。しかしこの頃が、酒を酔うためにのんだ嚆矢だろうと思う。最初は、酒はやはり麻薬だったのだ。味わうためではなくただ酔うためにのんだ。

 これは、大学へ行ってもかわらない。大学生になれば、酒をのむ機会が飛躍的に増える。何人かで集まれば、まず酒だ。そしてコンパなどで「居酒屋」に入ることも多くなった。
 酒をのませる店に入るというのは、新鮮だった。のめば楽しくなり放吟する。人との垣根も取っ払われる。だが、とくに酒をうまいと思ってのんでいたわけではなかったと思う。ビールの苦味には抵抗がなくなっていたけれど、だからと言って「今日は暑いな、こういうときにはビールだ」なんて考えにはまだ至らない。あくまで、皆で騒ぐ手段であり、味わいは二の次だった。

 いつから酒をうまいと思ってのみはじめたのだろうか。そんなことをぼんやりと思い出しながら書いている。
 
 これはうまい、と思って酒をのんだ最初の記憶は、ある。
 まず清酒だが、これは初詣のときにある神社で振舞われたお神酒である。まだ大学へ行く前で、少年時代と言ってもいい。巫女さんが銚子でかわらけに少し注いでくれたものを口にしたときに驚いた。うまい。樽酒だったのだろう。ほのかな木の香りがしみわたった。
 また、大学に入ってのち、教授の家に遊びに行って、そこで無銘の瓶に入ったよく冷えた清酒をのんだ。品評会用のものだと先生は言っていたが、これもまた驚いた。非常に上質の吟醸酒だったのだろう。香りが全然違う。
 しかしこういうのは、特例である。これをもって、清酒に目覚めたというわけではない。樽酒や吟醸酒だけしかのまない大人になったのでもない。
 同様に、ビールは札幌の出来立てのビールであろうし、ワインはまた大人に少しだけのませてもらった貴腐ワインだろう。ウイスキーやブランデーにも、同様の経験がある。だが、やはりこういうのは特例。酒が嫌いな人だって、うまいと思うはずだ。
 ただ味わいだけではない。極めて上質のものから大衆的なものまで「酒」というそのものを愛するようになったのは、いつだったか。 

 酒をのむという場合。最初は、常にまわりに人が居た。皆でのむのが楽しいからのんでいた。そうやって酒に慣らされてきたのだけれども、人を介さずとも自発的に酒をのむようになったときは、いつだったろうか。背伸びやいきがり、また潤滑剤としての役割ではなく、純粋に酒をのみたいと思ってのんだときは。そのときが、酒との人生が始まったときではないかと仮定してみる。
 そうすると、いくつか思い出せる場面がある。 

 高校を卒業してのち飛躍的に酒をのむことが増えたけれども、それでも自宅でのんでいたわけではない。親が下戸のため、父親の晩酌に付き合うという場面もない。また、そこまで僕が酒を必要としていたわけでもなかった。あくまで酒は、友人等と機会を設けてのむものだった。
 同時期に僕は、旅をするようになった。交通手段は自転車。
 最初は、大学一回生のときに北海道の宗谷岬を目指して自宅から走り始めた。初めての一人旅だったが、思い返してもほとんど酒をのんでいない。
 もちろん日のあるうちは自転車を漕いでいるわけで、酒をのむはずもない。また夜は、宿泊施設としてはユースホステルが主であり、基本的に飲酒ご法度の場所だった。野宿をすることもあったが、ひとりで酒をのむ習慣がないため、単純にめしを食べて寝袋にくるまって寝るだけ。酒が介在する機会がない。
 京都を出発して青森まで到着したのが10日後。本州最後の日ということで、今の僕なら当然乾杯をしていただろう。だが、のむ予定は全くなかった。思いもしなかった。
 だが、青森市に着いた夕刻。その日は、ねぶたまつりの最終日だった。予定していたことではなく、偶然だった。僕は初めて遭遇する熱狂の祭りに、思わず飛び込んだ。ラッセラー・ラッセラーと激しく踊るはねと(ねぶたの踊り手)の姿を見て、観客だけでは我慢できなくなったのだ。そして、あるはねと集団に紛れ込んで一緒に跳ねた。こっちは衣装など持ってないので上半身裸だ。有難いことに受け入れてくれて、見ず知らずの同世代の若者達と一緒に跳ねた。
 「どっから来た?!」「京都や!」「おう、鈴つけねばまね(ダメだ)、これ腰に!」鈴までもらった。
 そして、振舞い酒。僕はガブのみし、踊って跳ねて、知らない人たちと肩を叩きあい、酩酊した。記憶を失ったわけではなかったが、べろべろだった。そのあと、よくフェリー埠頭まで行けたなと自分でも思う。青函の深夜便に乗って、函館へ渡った。

 酒がのめる人間で良かったと思った。
 けれどもその後、酒をのむようになったのかと言えばそうではない。札幌で帰省中の大学の友人と会ってのんだくらいで、目的地だった日本最北端宗谷岬に到達したときですら、乾杯もしなかった。そういう発想すらなかった。
 だいたい貧乏旅行で、余剰の予算が無かったということもある。結局その旅でのんだのは、ねぶた酒と札幌酒、そして旅の終盤で同宿の人に奢ってもらった缶ビールくらいのものだ。
 ただ、夢のように楽しい旅だった。いつまでもこんな時間が続いたらいいのにと思っていた。美しい山河、峠の汗と感動的な風景、抜けてゆく空とそよぐ風、燃える夕陽と煌く星、そしてたくさんの人々との出会い。
 小樽から船に乗って北海道を離れなければならないとき、僕は無性にのみたくなった。それは祝祭を終えなければならない寂寥感ももちろんあっただろう。町のスーパーでワインを一本買い、船上の人となった。
 そして、出航するデッキで、遠ざかる風景を見つつ、のんだ。
 それが、僕がひとりきりでのんだ最初の酒だった。そのときの酒は、旅の余韻を彩るにも、思い出を反芻するにも、寂しさを紛らわすにも格好の相方となった。もちろん、うまかった。

 振り返れば、以来酒を友と思うようになったと思う。

 それでも、いつも酒ばかりのむようになったわけではない。学生時代は、基本的に懐が寒い。もちろん様々な場面場面で酒をのんできたが、やはり基本的に「皆でのむ酒」の範疇を超えることはなかったし、自宅ではのまない。
 けれども、旅の空の下ではのむようになった。貧乏旅行には違いないが、宿泊する予算を削っても一杯の酒を選ぶことがあった。その頃には僕も成人し、誰にも見咎められることもない。
 各地でのんだ。それは主として野宿を伴うものだった。田舎の無人駅で終電が過ぎたあと。ワインが多かったが、月を見ながらシェラカップに注いだ酒をひとりのむ。旅では気分が高揚している。酒はそれをさらに助長させてくれる。ときに蚊に悩まされながら、煌々と照る月の下での一杯。ほろ酔いとなって、寝袋に入る。
 ときに桂浜で大酒したりということもあったが、概して一人でのむ酒はおとなしいものである。じんわりと酔いに身をまかせる心地よさ。
 自転車だけでなく、汽車旅も始めるようになった。さすれば、車窓を見つつのむ。傾けるのはウイスキーの小瓶
 だが、居酒屋には入らなかった。それは予算も心配だったし、一人で居酒屋というものも経験が無く、なかなか知らない店ののれんをくぐることが怖くて出来ない。

 結局、はじめて居酒屋に一人で入ったのも、旅の途中だった。冬の青森。
 この町は、夏のねぶたでの思い出が鮮烈に残る。だが季節は冬。吹雪いてこそいないものの、雪深く寒かった。駅前にほとんど人が居ない。その日僕は、やっぱり青函連絡船で北へ向かう予定である。しかし、あのときのような熱狂は今は無い。しんしんと冷え込む冬空。
 出航は夜中の12時。それまでまだ5時間もある。青函の待合室で暖をとりつつ待つのが貧乏旅行の常道だが、なんだか猛烈に寂しくなってきた。夏の楽しかったあの日を思い出したからだろう。
 どこかで酒を買おうか。けれども寒いな。
 今夜は宿に泊まらないので、少しくらいはいいか、と思い、駅近くの安そうな店に思い切って足を踏み入れた。もつ焼きを中心とした店だ。
 店の中は、暖かかった。その暖かさが有難かったが、お客さんは少ない。僕はまごつきながら「ここいいですか?」と聞いて、頷かれたのでカウンターに座った。こんな飲み屋のカウンターに一人で座るのも、また初めてのことだ。
 今でこそ初めての居酒屋だろうが何だろうがバリアフリーのようにすっと入り込みさも常連のような顔で酒をのむのが得意な厚顔人間だが、当時は緊張した記憶がある。入る前は「お酒ちょんだい、せから適当に焼いて」という漫画か何かで読んだ台詞を言おうと思っていたが、萎縮してとてもそんなことは言えない。お酒下さい、というのがせいいっぱいだった。
 まだまだ昭和の時代。お酒、と言えば自動的に燗酒である。冷蔵庫から出してくる吟醸酒などは一般的ではない。ましてや寒い冬。
 「で…カシラとレバーとタンを焼いてください」
 実は、僕は焼き鳥屋の経験はあるがもつ焼きの店に入ったのは初めてだ。当時、あまり関西ではもつ焼きを出す店は少なかったと記憶している。その頃からグルメエッセイなどを読むのが好きだったのである程度承知していたが「カシラ」などもちろん見たことも無い。
 酒が来た。
 少し熱めに燗がしてある。そりゃ当然だろう。それを一杯のんで、ようやく落ち着いた。ただ、まだまだ経験不足の若僧で酒さえのめば天下無敵になるほどヒネてはいない。やがて来たもつ焼きをかじりつつ、間の持たなさを実感した。今では一人酒も慣れたものだが、当時はゆったりとする余裕も無くただのみ食べるしかやることがない。酒もなくなり、もう一本と追加した。
 やがて「どこから来たの」という声がかかった。店の人だったかお客だったか記憶があいまいなのだが、駅近くなのでよそ者も来る店なのだろう。ただ、青森である。聞き取りづらい。今では津軽出身の妻がいてヒアリングには多少の自信もあるが、あの頃は戸惑った。
 しかし、徐々に慣れてきたのか、話も出来るようになってきた。「夏はねぶたに飛び入りして跳ねました。楽しかった」「おおそうか!」話題もある。そうして、約3時間くらいいただろうか。結構のみ食いしたのだが、勘定は1440円(当時の日記にそう書いてある)。店を出るときには、すっかり満ち足りた気持ちになっていた。
 以来、一人居酒屋が全く問題ではなくなった。
 
 こんなふうに酒に親しんでこれたのは、幸いだったと思う。失恋で酒をのみはじめたり、社会人のストレスで酒に逃げるようなのみはじめであったなら、酒は辛いものになっていたかもしれない。
 つらいときも楽しいときも、のむ。そんな人生となったことに、乾杯したい思いでいる。
 今は、病気などにならない限りは、365日のんでいる。酒なくてなんの己が桜かな。往時に比べ酒量は圧倒的に減ったが、それでものめることに感謝しつつ、今日ものもうと思っている。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

かぼすを搾って

2013年10月31日 | 酒についての話
 ちょっと前の話になるが、妻の実家から今年の初収穫となるりんごが大量に送られてきた。毎年のことなので恐縮なのだが、早生種のりんごは日持ちしない。かといって、冷蔵庫には入れにくい。りんごはエチレンガスを発するため、野菜などと一緒にしておけない(野菜が傷んでしまう)。
 そもそもダンボール2箱ぶんなど冷蔵庫に入りきらないので、あちこちにお裾分けしてまわった。しかしこれも恐縮な話なのだが、そうしてお分けするとたいてい「お返し」をいただいてしまう。こっちは別に自分で買ったものではないから、人の褌で相撲をとっていることになる。結構いいものも頂いたりするので、海老で鯛を釣っていることにもなる。いやはや。
 最後に持っていったお宅で、大量のかぼすを頂いた。30個くらいある。どう考えても海老鯛だが、途方にくれてしまった。
 ミカン30個なら軽く食べられるが、かぼすは皮をむいてパクパク食べるものではない。だがせっかく頂いたものをさらに他にお裾分けするのもまた無礼であるし、そういう知り合いのお宅は今まわったところ。もう一回行きにくいよ。「ジュースにすればいい」と先方はおっしゃるのだが、僕はジュースを飲む習慣がほぼ無い。コンビニや自販機ではお茶しか買わない。冷凍保存も可能なのだろうが、冷凍庫に隙間が無い(詰め過ぎだ)。
 妻は、秋刀魚を焼いたときに添えたり、様々料理に使ったりしていたようだが追いつかず、冬なら湯豆腐や鍋物にぽん酢で使うのに、とか呟きつつ「お酒に搾ってのんだら?」と僕に言ってきた。

 僕は、晩酌にそういう酒ののみ方は基本的にしない。酒に何か別の味わいのものを混ぜることは、積極的にはしたくない。
 そう言うと「カクテル全否定」みたいな話になってしまうので申し添えなければならないが、僕はカクテルもおいしくいただいている。そして、異なる味わいのものを混ぜて絶妙のバランスを見出す積年の技術は素晴らしいと思っている。
 ただカクテル(特にショートドリンク)は、晩酌時にのむ酒ではない。あれは食前酒だろう。別にアペリティフでなくてもいつのんでも良いのだが、いずれにせよ何かを食べながらのむ酒ではなく、単独で味わうべきものである。以前にも書いたので繰り返さないが、ショートドリンクはそうでないともったいない。
 そして、僕の場合においてはロングドリンクも、食事には適合しないのではないかと思っている。

 ちなみに、カクテルにおいてショートドリンクとはいわゆるカクテルグラスで供される強いヤツのこと。マティーニ、マンハッタン、ダイキリ、ピンクレディetc. ロングドリンクとはタンブラーやゴブレットなどで供される、たいていは強い酒を割った飲み物。ジントニックやフィズなどがすぐに挙げられるが、広義に考えれば水割りもロングドリンクと言えるかもしれない。ハイボールはもちろんロングドリンクの代表的なものであるから、つまりチューハイやサワーなども、ロングドリンクの範疇と言える。
 このロングドリンクの中で、僕が先程から「食事中にはほぼのまない」と言っているのは、酒に別の味わいを加えたものである。水割りや酎ハイは、酒をほぼ無味のもので割っているだけだから全く抵抗はない。あまりのみたくないのは、カルアミルクやスクリュードライバーはもちろんだが、酎ハイレモンやグレープフルーツサワーなどもそうである。そして、かぼすを焼酎に搾るのも、食事の際にのむのは二の足を踏んでしまう。

 アタマの中でこの嗜好について整理すると、これには、2つの理由があったりする。
 ひとつは「酒がもったいない」と思ってしまう場合があること。
 今でもそうなのかもしれないが、ひところ焼酎のお湯割りに梅干を入れることがよくあった。お湯割りを注文すると店側も「梅干入れますか」と尋ねてくる。
 それには「入れないで」と言えばいいだけのことなのだが、ある居酒屋での宴席。僕がちょっと席を外して戻ると「君の分の酒も頼んどいたからな。お湯割りでいいだろ」と。寒い日だったので異論はないが、その人は「梅干入り」で頼んでしまっていた。よかれと思ってのことだろうが、焼酎は鹿児島の上質の芋焼酎だった。ブランドもので、値も張る。
 芋焼酎はその香りが身上である。あちゃー。僕は芋のお湯割りは大好きなのに。ご丁寧に梅干はもうグラスの中で崩されている。注文した人の指示らしい。なんてもったいない。案の定、酸っぱい。これでは高い上等の芋焼酎が泣く、と僕は思った。この出来事は、僕にとってはオールドパーをコークハイにされたのと並ぶ痛恨の思い出である。
 うまい酒は、出来ればあるがままにのみたい。酒には酒の味わいがあり、それを殺すべきではない。芋焼酎はクセがあるから梅干でも入れなければのめない、という人には、そこまでしてのまなければいいのに、なんて考える。個人の嗜好だから人のことにとやかく言うべきではないかもしれないが。
 
 もうひとつの理由。こっちのほうが重要なのだが、料理と酒を合わせる場合は、できれば酒はプレーンなほうが料理を生かすのではないかと思っていることである。
 完全に個人的な嗜好なのだが、僕は「食事における酒は、料理に奉仕すべきである」という考え方を持っている。味わいとして酒が突出するのは望ましくない。料理をうまく食べんがために、酒が存在している。
 つまり酒は、ごはんみたいなものである。そしてごはんも、おかずをうまく食べるために奉仕してくれる。秋刀魚の塩焼きも鯖の味噌煮も、単体でそれだけ食べていては何だか物足りない。白いごはんがあって共に食べてこそ相乗効果が得られると思っている(異論はあるでしょうが僕はそう)。
 ところが、それが白いごはんでなかった場合はどうなるか。僕は炊き込みごはんが好きだが、トンカツと共に出されても困ってしまう。いくら鯛飯や牡蠣御飯が好きでも、定食のごはんはプレーンなほうがいい。そしてカキフライとともに牡蠣御飯を頬張れば、フライも牡蠣御飯も死ぬような気がする。双方の強い個性がバッティングする。牡蠣御飯を食べるならあくまで口直し程度の汁と香の物でいい。主と従の関係性は重要だと思う。
 この主従の関係性は、酒においても然りである。
 「味付け」した酒は、つまり炊き込みごはんと同じことだろうと思う。単体でのむ場合には、さほど問題は生じない。だが料理と合わせるのは難しいのではないのか。個性が喧嘩しないか。
 さらに。僕は酒にうるさいほうではない。第三のビールや普通酒だって喜んでのんでいる。だが酒と肴の合わせ方についてはある程度考えるし、選ぶ。塩辛なら燗酒を選びたいと思うし、ワインはのみたくない。相性というものは存在していると思っている。そういうことは、ずいぶん記事にしてきた。
 さらに酒がロングドリンクである場合は、ベースとなる酒と料理の相性だけ考えればいいわけではない。この料理には果たして梅干テイストは合うのか。ライムと相性がいいのだろうか。そういうことまで考えなければならない。これは、甚だ面倒くさいことである(自分で勝手に面倒にしているのは百も承知だが、そういう男なのですよ)。
 だから、かぼすを酒に搾り入れるのに二の足を踏むのだ。

 しかし、現実にかぼすが山ほどある。妻に「なぜかぼすを絞らないのか」について滔々と語ったら、阿呆かと一蹴された。みんなそうやってのんでるじゃないの。あんただけよそんな鬱陶しいことを言ってるのは、と。
 阿呆、偏屈、頭デッカチと言われればもうしょうがない。試しに絞ってみることに。
 
 かぼすと合わせる酒は、どうすべきか。
 一般に柑橘系は、酒と合わせやすいという声が多い。僕はやらないが、ブランデーやウイスキーにレモン、という組み合わせでのむ人もいる。テキーラにライムはもうつきものと言ってもよく、ジントニックやモヒート、さらにダイキリやギムレットなど、カクテルは柑橘類を多用する。 
 スピリッツだけではない。ワインは果実酒だからそもそも酸味を含み柑橘類は合わないと思うのだが、アメリカン・レモネードというワイン使用カクテルもあるらしい。まさかビールには泡を殺す果汁を入れることはない、と思えば、メキシコではコロナビールには当たり前のようにライムを入れると聞く。まさか清酒に…と思えば、昨今女性を中心にレモンを浮かべた清酒がのまれていたりもするようだ。おそらく日本酒が苦手な層に「口当たりよく」のませるためのものだろう。芋焼酎&梅干同様、何もそこまでしてのまずとも、と一瞬思うが、清酒の消費が冷え込む昨今は、何でもいいからのんでくれればいいのかもしれない。僕はやらないが。
 基本的には焼酎だろう。それも、芋などの個性の強いのではなく麦あたりがいいか。いやむしろ本格焼酎ではなく、甲種焼酎のほうがいいのかもしれない。
 我が家を探せば、ペットボトルに入った甲種焼酎が一本あった。いわゆる「ホワイトリカー」である。味に個性はほぼない、と言っていい。僕は焼肉や餃子のときは、よくこういうプレーンなアルコールをのんでいる。一時期ビールを止めたときからの習慣。

 グラスに氷を入れ、25度のリカーを入れ、半割りにしたかぼすを上からぎゅっと搾る。
 うん…かぼすの味しかしない。無味に近いリカーに絞り入れたのだからこれは当然の帰結だ。そして、かなり酸っぱい。かぼすの実は大きい。半割にしても果汁はたっぷりある。加減が必要か。ただ甲種焼酎特有のアルコールくささは消える。のみやすくなるのは確かだ。
 何と合わせれば良いのかわからぬまま、そのまま一杯のみ干した。これは危険だぞ。アルコールをのんでいる感覚が薄まるため、度数にかかわらずすいっとのどを通ってゆく。

 その後。
 最近は、鶏唐揚げがブームのようだ。大分発のご当地グルメとしても高名になり、専門店が増えた。北海道の「ザンギ」も本州上陸している。僕は唐揚げといえば餃子の王将で出す「花椒塩」をつけて食べるものをすぐ思い出すが、昨今は下味をしっかりつけたものが多い。唐揚げというより竜田揚げに近いものも多いが、概してうまい。
 ところで、店で唐揚げを注文するとレモンがついてくることが多い。あれ、僕は好きじゃないのね。さっぱりと食べられるのだが、唐揚げは元来脂っこいものだと認識しているし、さっぱりさせなくともいい。持ち味を失うような気もする。また、果汁を掛けることによって衣がしなっとしてしまうのも残念。だから、多人数で食べるときに、何も問わずにレモンを上からじゃっと搾りかけてしまう人がいたりすると「何をする!」と思う。これは、唐揚げだけではなくフライなどもそうだ。レモンは食べる都度、また小皿に搾ってつけて食べるほうが料理のパリパリ感を失わずにすむと思うのだが、そんな細かいことを主張するわけにもいかずしばしば残念な思いをする。
 そんなことはともかく。近所でから揚げをごそっと買ってきた。
 これに、かぼすを搾った焼酎をあわせてみると、これがなかなかいける。
 唐揚げにレモンをかけることによって食感、また温度が変わってしまうのだから、柑橘味は酒のほうにつければよかろう。そう思って試したのだが、想像通り実に相性がいい。ビールは最初だけでいい僕のようなものには、実に適している。
 難点は、食べすぎかつのみすぎてしまうことか。唐揚げはしつこいのだが、酸味のある酒をのむことによって口中がリセットされ、いつまでたってもうまい。酒もまた、過ぎてしまう。ビールでないため多少のカロリーオフになっているが、食べ過ぎてしまってはなんにもなるまい。

 以降、かぼすを多用するようになった。つまり、単純に脂っこい食べ物にはそこそこいける。ジンギスカンのときにものんだ。羊肉に酸味はいいな。そのとき試しにウイスキーの安いやつを水割りにしてかぼすを搾ったら、これはあまり良くなかったかも。やはり酒自体に個性がないやつのほうがいい。
 そうしているうちに、かぼすも徐々になくなってきた。妻は「だから言ったのよ入れてのんだらおいしいはずって」と言う。確かにね。しかし何でもいいというわけじゃないのだよ。やはり、相性というものはある。
 それに、徐々に秋風が吹いて涼しくなってきた。燗酒やお湯割りが恋しい季節。お湯割りにかぼすは難しいよね。むせそうだ。ホットレモネードってのもあるけどさ。
 そろそろ鍋でもどうかな。かぼすをポン酢醤油にして。うまそうだよ。かぼすはそちらで消費して、僕は燗酒を。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

酒場のB.G.M.

2013年09月01日 | 酒についての話
 例年のことだが八月、妻が里帰りをしてしばらく一人暮らしが続いた。
 短い期間なら、なんら不自由は感じない。掃除などしないし(散らかり放題でいつも怒られるが馬耳東風)、洗濯は機械が勝手にやってくれる。柔軟剤を入れるのよ、とかいつも言われるのだがしゃらくさいので洗剤だけ投入する。我が家には乾燥機がないので干す作業だけが面倒くさいくらいか。あまり皺を伸ばさないのでシャツはいつもヨレヨレになる。弊害はそれくらいだろう。暑いのでアイロンなどかけない。A型のくせに、とよく言われるが、こういうことに几帳面さは全くない。血液型診断などだからアテにはならない。
 結婚する前は、何年か一人暮らしをしていた。そのときは、しょうがないので一応アイロンなんかもかけていたのだよな。今にして思えば信じ難い。加齢と共に全てが七面倒くさくなるのは、誰も同じだろうと(勝手な解釈)。
 食事は、半分以上は外で、ということになる。朝はモーニング。夜は、日ごろの不義理を解消すべく誘いには必ず乗る。だがそんなに人気者でもないので宴会が続くわけでもない。一人で駅前居酒屋のときもあれば、時間が早ければうちで一人で呑む。シャワーを浴びて適当につまみを作って一人で座って呑むのも、また愉悦である。ちょっと凝ったものも作ったりして。

 そんなときはTVを点けるのが常道だろうが、一人のときくらいはTVから離れたい。ナイターを見ることもあったが、それも中継が贔屓チームのときくらい。あとは、主として音楽を聴いていた。
 面白いもので、酒と音楽には相性がある。
 もちろんこれは僕だけの嗜好で他の人と共通理解は得られにくいとは思うが、例えばハードロックを聴くとウイスキーをガツンと呑みたくなる。ブラックサバスになると氷さえ入れずストレートで、サラミを切らずに齧りながらグラスを干す。これは酔いがまわって楽しい。
 また、するめの天ぷらを作って(暑いのに我ながらよくやるよな)、冷奴とともに焼酎を呑む。何故か南こうせつおいちゃんを聴いている。「君は僕の肩に~頬つけて~眠ってた~」とかつい口ずさむ。時は流れて風が吹く。なんともしみじみする夏の夜。
 そのうちに「今日は何を聴こうか」から始まってメニューを考えるようになった。小松菜を買ってきて、常備してあった車麩を戻し卵液に浸して膨らませ、ともにざっと炒め塩とかつお顆粒出汁、少量の醤油で味付け。麩チャンプルーの出来上がり。ゴーヤは天ぷらにして塩で。当然、泡盛。そしてりんけんバンドを聴く。というよりりんけんバンドが聴きたかったから、そういうメニューになったのだ。
 一人暮らしは、意外に楽しい。
 
 このように自宅なら、酒とB.G.M.を完璧にコントロールできるが、酒場だとそうはいかない。酒はチョイスできても、流れる音楽はほぼお仕着せになる。
 とある場所に、古めの居酒屋がある。数度入ったことがある。そこが最近、わざとスピーカーを外に向けて音楽を流すようになった。そういうタイプの酒場ではなかったはずだが、代替わりしたのだろうか。
 流れているのはチェッカーズとかハウンドドッグとか米米とか、ちょうど昭和から平成に代わる前後のヒット曲。おそらくそういう有線チャンネルがあるのだろう。ターゲットはアラフォーか。僕はもうひとつ上の世代なのであまり興味はなかったのだが、小泉さんの「GOOD MORNING-CALL」が流れていたので思わずのれんをくぐってしまった。
 驚いたことに、店の中でも外と同じ音量で流れている。はっきり言って、喧しい。既にバックグラウンドミュージックではなくなってしまっている。そのうちに長○とか○崎とかが聴こえてきたので甚だ面倒くさくなり、とん平焼きにビール一本だけで退散した。
 いろいろな考え方はあるだろうが、少なくとも酒場で流れる音楽は、B.G.M.であるべきだ、と僕は考える。もの思いや会話の邪魔になるような音量はいかがなものかと思う。

 もちろん、音楽を主体にした酒場はある(あるいは飲食店全てを範疇にしてもいいが)。それは、そういう目的があってその店を訪れるわけであって、音楽鑑賞が主体で飲食が従だ。それにまで文句をつけているわけではない。
 僕の知らない頃の話だが、名曲喫茶という場所が当たり前に存在した時代がある。かつてはオーディオ機器やレコードは高価なものであり、個人で所有が叶わなかった庶民が音楽を聴きに行った。もちろんそこで流れる音楽はB.G.M.ではなく、おそらくしゃべっていると「うるせー」と言われたはず。名曲喫茶はクラシック主体、他にジャズ喫茶もあった。
 酒場に限れば、かつて大箱のキャバレーが一世を風靡していたころ、多くは生バンドが演奏していた。歌手が営業で歌いに来ていた。これはB.G.M.に近いものであったかもしれないが、ホステスさんとチークを踊るためだけに存在するのではなく、音楽を聴かせたいという意図ももちろん酒場にはあっただろう。ラウンジの生ピアノはB.G.M.だったかもしれないが。居酒屋の流しさんはどうだったか。
 鑑賞だけではない。うたごえ喫茶なるものも存在した。客に歌集を配り、みんなで声をそろえて歌う。今の時代、全くニーズに合わない店と思われ、ほとんどは衰退したと思われる。
 こういう形態は、おそらくライブハウスなどに受け継がれているのだろう。ライブハウスなら僕も何度も行った。ドリンクを注文して演奏を聴く。コンサートより廉価でバーボンを呑みつつ好きな音楽を生で聴けるのは有難い。また観客参加型の、フォーク酒場なども存在している。
 全て、酒は従である。音楽とは異なるがスポーツカフェなどもその一形態だろう。もっともこちらはパブリックビューイングや街頭テレビがそのルーツだろうが。

 あとは、カラオケか。
 僕は、カラオケボックスという発明を非常に評価している。評価していると書けば偉そうに聞こえるので、ありがたいと言い換えようか。
 カラオケボックスが発明(?)された正確な時期は知らないが、僕は'90年代初めにその存在を知った。当時住んでいた町の、自宅近くの焼肉屋が閉店した場所にあるときコンテナがいくつも運ばれ、カラオケボックスと称して営業を始めた。
 通信カラオケが客の選曲セルフサービスを可能にし、ボックスが成立したのだろう。それまでは、カラオケは飲食店で歌うものだった。
 スナックが代表的だろう。通信などなく、機器にLDなどを入れていた時代は、カラオケは接客する人の介在を必要としていた。そしてカラオケに対する酔っ払いの需要は大きく、スナックのみならず、若者向けのカフェバーやおっさん向けのラウンジまで、カラオケが席巻していた。
 そうなると、喧しいと感じることも多かったのである。スナックは、カラオケを置かない店は少なかっただろう。店側も一曲いくらと勘定につくので積極的に歌わせようとする。さすれば、次から次へとリクエストが入り途切れることが無い。僕も歌っていたからもちろん人のことは言えないのだが、カウンターの向うのおねえさんを口説くことすらうるさくて出来なくなっていた。もう少し大きな店でも、せっかくホステスさんがいるのに会話すらしにくい。
 驚くことに、居酒屋にもカラオケがあったのだ。個室ではない。カウンターにマイクが回って、客は演歌をがなる。無線マイクではない店で、コードが燗酒の徳利をなぎ倒す事故も頻発した。
 酔えば、放吟したくなる。それはわかる。自分が歌うのは気持ちがいい。しかし、それは他の客にとって酒場におけるB.G.M.にはならない。プロが歌うならともかく、知らないおっさんの調子外れで大音量の歌など酒をうまくするわけがない。スナックはカラオケに特化していたからまだしょうがないとしても、居酒屋のカラオケは本当に困った。前述のアラフォーホイホイの居酒屋より酷い。僕もさすがに焼き鳥食べながら歌う気にもなれず、そういう居酒屋に入ってしまうたび、もう二度とここへは来まいと思った。
 それを思うと、カラオケボックスの普及は本当に有難かった。居酒屋とカラオケを分離してくれただけでも、功績はある。
 
 酒場にもいろいろあるが、例えば居酒屋なら、僕は無音が望ましいと思っている。居酒屋は、酒を呑み旨いものを食べることが主体であるべき。音楽は必要ないと言える。それが寂しいのなら、せめて従であるべきだ。B.G.M.に留まってほしい。何か鳴っているな、程度であれば邪魔にならない。
 そのB.G.M.の選曲だって難しいだろう。何か聴こえているな、程度の音量でも、酒に影響する。パンクロックは合わないだろう。郷土料理店なら民謡でもかまわないかもしれないが、ごく普通の居酒屋だとどうか。津軽三味線が聴こえてきたなら思わずじゃっぱ汁を食べたくなってしまうではないか。そんなものは普通の居酒屋にはない。以前、和楽器アレンジのB.G.M.が流れていた店があったが、琴による「世界にひとつだけの花」とか聴くとなんだか和風ファミレスにいるような気がしてしまった。天ざるとにぎりのセットを注文したくなるではないか。ややこしいのだ。
 万人に喜ばれる居酒屋のB.G.M.などなかなかないのだから、もう無しでいいではないか。居酒屋のB.G.M.は喧騒。あるいは、音楽ではなく野球や相撲の中継のほうがむしろ有難いように個人的には思う。
 
 こうやって考えると、僕はずいぶん音楽に気分を左右される人種であるなと思う。影響を受けやすいのか。だから、気になる。
 統一感があればいいのだろうと思う。ビアホールでアイスバインと黒ビールをやっているのに、岸壁の母が流れてきたらおかしな気分になる。それは市場食堂で新鮮な刺身と焼き魚でコップ酒のときのB.G.M.だろう。単純な話だが例えば洋酒主体の店では洋楽が流れていてしかるべきだ。
 しかし、ビアホールにはドイツの音楽がふさわしいと仮にして、メンデルスゾーンとスコーピオンズでは全く異なる。ワインにシャンソンがいいのかどうかもよくわからない。店の雰囲気にもよる。以前ポンドステーキでビールをガバガバ飲むという店でデキシーランドジャズが流れていたが、あれは良かったな。勢いがついた。

 カクテルを供するようなバーでは、静かなモダンジャズの頻度が高いような気がする。僕はモダンジャズはほとんど知らないが、たいてい心地いい。そういうB.G.M.として定番の音楽があるのは、結構なことだと思う。
 酒と音楽の一体感というのは、客の個々の好みがある以上正解は出せないものだろうとは思うが、店側もB.G.M.を流すのなら吟味してもらいたいとは思う。わがままかもしれないが。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お通し問題2

2013年08月03日 | 酒についての話
 前回の続き。子安大輔氏の「お通しはなぜ必ず出るのか」からもう少し引かせていただく。
 このお通しですが、「自分が頼んだわけではない」という点が問題となるケースがあります。
「必ずお通しが出るのは不愉快。押し売りみたいなもんだ」と思っている人もいるでしょう。実際に、頼んでもいないお通しが有料であることについては、外国人客などからクレームがつけられることもあるようです。
 そうだろうなと思う。頼んでもいないのに勝手に商品を押し付けて料金を請求するというのは、日本じゃこのお通しとNHKの受信料くらいか。外国人だけではなく、居酒屋に入り慣れていない人はみな戸惑うだろう。
 280円均一で全国展開を推し進めている焼き鳥居酒屋「鳥貴族」はお通しを出さない。それについて社長はブログで説明している(→鳥貴族 社長の焼鳥日記!!:居酒屋の【お通し】について)。
 大倉社長は自らの体験を語る。
勝手に出てくるということで、お店のサービス(無料)だと思い込んでました。
ところがある時、お会計でレシートをくれたお店があり(その頃は珍しかった)、内容を見ると、代金を取られてたことを発見したんです。
その後、行きつけのお店でも確かめたところ、やはり代金を取られてました。
【取られてた】・ ・・まさにそんな心境でした。
もっと厳しい言い方をすれば、【詐欺】にあったような気持ちになりました。
 確かに厳しい言葉だが、なんの説明も無ければその通りだろう。だから鳥貴族では「お通し」を出さないのだ、と。
 これは、法的に問題ではないのだろうか。
 木村晋介弁護士は、「居酒屋でお通しを有償で提供することが、社会的にみて商法第一条の商慣習として成立しているとは言いがたいのではないか」とされる。(PRESIDENT Online 「解決!法律教室」)
 確かにね、「お通しが出てないじゃないか!」と怒り出す客は少ないと思う。これが成立しなければ、客側に代金を支払う義務はなくなる。
 
 僕は、そこまで厳しく言うべきかは迷う。
 立ちのみなどを除いては、酒場はとにかく客回転の悪い場所であり、席料をとらなくてはやっていけないであろうことは、前回書いた。客側からすれば席料などないにこしたことはないが、もしもお通しが無くなっても他で料金に上乗せされるのであれば同じことだと思われる。
 難しいなと思う。居酒屋という場所は廉価であるから有難いので、だからしげく通うことができるのだ。これが底上げされれば困る。ただでさえ消費税を上げようと政府に企まれているのに。
 僕は前回「お通し」には否定的であることを書いた。しかし、席料まで否定的なのではない。仮に、今までお通しで補っていた分を値上げでまかなおうとするならば。また値上げでなくとも、例えばホテルのサービス料のように、料金の10%を席料として頂戴する、なんてことになったなら。
 同じ時間飲み食いしたとしても、品数を多く、また高価な品を頼んだほうが損になる。漬物盛り合わせでチビチビ徳利を一本なめるようにのむ客もガンガン注文してガバガバのむ客も、同じ2時間居たのに。なんだかそういうのは楽しくない。
 しかし時間制で席料が決められるのもイヤだ。酒をのむ時間を縛るのは終電の時刻とニョーボの角くらいで十分。もちろん飲み食べ放題2時間制とかは別だが、時間で料金がかわるのはなんだかせわしない。僕などはセコいので、あと5分でまた席料が別途かかる、と思えば何となしに腰が浮く。
 じゃ均一席料が最もいい方法か、といえば、それもどうなのかなと。
 バーなどにはチャージ料というものがある。そこには、ここは酒だけを提供しているのではない、時間と空間が売り物なのだ、という矜持もあるだろう。居酒屋だってもちろん酒と肴だけを提供しているわけではないが、居酒屋の売りを空間等に設定されると困るし、そういう店には行きたくない。実質的なのが居酒屋のいいところではないのか。
 席料の必要性を否定するわけではないが、やっぱりそう明示されると「今日はサク呑みなのに」「そんなに長居してないのに」とか考えてしまう。
 こういう話になると、「お通し」という存在はいい落しどころであるようにも思えてくる。

 けどなぁ…。
 若いときの話なのだが、とある休日、昼食をとろうとうどん屋に入った。そこで僕は、カツ丼とミニうどんの定食を頼んだ。それですませればいいものを、休日だったのでつい「ビール一本追加して」と言った。暑かったんだよ。
 そのビール(中瓶)に、お通しがついてきた。少量のヒジキか切干大根か何かが、刺身の醤油皿のようなものに盛られてきたと記憶している。いずれにせよ大したものではなかった。ビールも中瓶なのでカツ丼が供される前に飲み干し、そのお通しはしょうがないのでカツ丼の合いの手に食べた。食べ終わるまでに15分とかからなかったはず。
 はっきりと憶えてはいないが、カツ丼定食700円、ビール500円、お通し300円くらいだったと思う。あの一口で食べられるような小鉢にそんな値段がついていたので驚いた。一言いったら「お酒を召し上がる方にはお出ししております」と。この店、夜には居酒屋に変身するようだ。
 しかし釈然としない。昼間だよ。結局中瓶ビール一本800円か。外でロング缶イッキしてから店に入ればよかったよ。
 そしてこのお通し、全くもってコスパが悪い。お通しというものは席料込みとすればコスパが悪いのは当然のことだが、それにしても。

 話が堂々巡りになっているのは承知していて申し訳ないが、やっぱり変な気もしてくる。お通しのつまらなさについて、①順番と酒との相性を無視②好き嫌い無視という側面から書いたが、やはり③コストパフォーマンスへの不満もあるだろう。
 まず、値段が高い場合。
 僕が知る中でお通しの最高額は、1500円である。こうなると、お通しの概念を超える。
 なお、これをボッタクリというつもりは毛頭ない。この店のお通しが1500円であることを承知で、入店しているからであるが。
 1500円のお通しと書くだけで、あああの店だとわかる人はわかるだろう。杜の都のあの店である。そのお通しの内容といえば、僕が行ったときには鮪と牡丹海老と帆立の造り盛り合わせだった。相当に吟味された上質のものであり、1500円はサービス品であると判断することも可能だ。うどん屋で出された少量の惣菜お通しが300円だったことを考えると、五倍の値打ちどころではない。
 しかし、知らずに入ったらびっくりするだろうなとは思う。これは既にコース料理の一部だと考えたほうが適っている。
 かに酢を出してきた店のことは述べたが、こういうものをお通しと称しているのはどうなのかなと思う。コスパに合う合わない以前に。

 お通しは3~400円くらいにして欲しいのだが、その値段にすら全くみあわないものも、やっぱり出てくる。
 個人でやっている小さな居酒屋などで、例えば刺身の切り落としや前日の魚の残ったものをさらりと煮てお通しとして出してくる店がある。こういうのは個人的にはうれしい。お通しは席料込みだから原材料費を切り詰めないとその役割を果たさないが、こういう余剰材料なら何とかまかなえるのだろう。だいいち、美味い。やっぱり困るのは大きい店やチェーン店だ。お通し用に仕入れをするはずだから、どうしても業務用の惣菜になったりする。
 どうしてああいうものは、美味くないんだろうねぇ…。100円であっても値段にみあわない気がする。

 こうして考えていると、僕も文句ばっかり言っている。代案を出さねばいけないのだが、それが思いつかないのが困ったことだ。
 まず、改善してほしいこと。
 詐欺にあったとまで思う客もいるのだし、食習慣の異なる外国人客もいるのだから、まず「お通し」を最初に出すことについては事前に告げるべきである。勝手に出して勝手に勘定に入れるのなら、それは確かに問題点が多すぎる。
 これは、メニューに書くだけでは足らないような気もしている。
 大手の居酒屋チェーンではクレーム対策なのか、一応メニューには明示している。例えば「養老の滝」はこんなふうに。(→Web版メニュー)
 こういうのは、現状を考えれば良心的と言えるだろう。だが、メニューのかなり後部下段にしるされている。つぼ八は裏表紙だ(こちら)。やはり、申し訳ないがクレーム対処用にも見える。
 こうした大手チェーン店には、メニューの表ないしは1ページ目にお通しについて書くことを義務付けられないものか。「頼んでないぞ」「いや書いてあります」というのは、あまりにも客をないがしろにしてはいないか。
 僕が望む形は、店頭に張り出してもらうことである。「今日の突き出しは○○。315円」と。
 それを見て客は店を選ぶ。
 本来は、お通しに何種類か選択肢があるのが理想である。好みにしたがって、また酒に合わせて選べるようにせよ。それが居酒屋の楽しみじゃないか。
 だが、それはコスパの関係上難しい(1種類に絞らないと席料込みで採算がとれない)ならば、やはり店頭に明示しなさい。自信を持って。
 なかなか難しいのはわかりますけれどもね。けれども、メニュー表の最後に小さく載せておく、なんてのもちょっといやらしいやり方じゃないのかい。
 あるいは、お通しのメニューを固定化する、というのもいいかもしれない。うちは、春夏秋冬いついらっしゃっても煮豆です、とか(根岸の鍵屋)。これもうまくやれば、店の名物をつくることにもなり集客につながる。
 そして、拒絶されたら出さない覚悟を持つこと。あくまでお通しは、本音は席料であっても肴の一品であるのだから。僕はびしょびしょの酸っぱい春雨サラダなど出されても困るのだ。せっかく呑みに来てるんだもの、好きなものだけを食べたいよ。
 僕個人だけの都合でいえば、お通しは300円で今日は○○ですが、もしお好みでなかった場合はお出ししません、替りに席料200円別途とさせていただきます、でもいい。むしろそちらのほうが無駄がなく、食べ物を粗末にする罪悪感からも逃れられる。無粋だけれども。

 以上の話は、お通しが席料込みであるということを前提で書いている。だが、そうでない場合はもう「ふざけるな」としか言いようがない。
 全国どこにでもある大手チェーン居酒屋の話なのだが。
 その夜、気の置けない友人と夜半過ぎから呑んでいた。話が続いて夜も更け、終電も終わった。翌日は休日なので朝まで呑んでもいいと思っている。だが、店が次々と閉まってゆく。僕らは、朝まで開いているその大手居酒屋に入った。もう何も食べたくないし、酒呑んで話せる場所さえあればいい。
 店に入るとカウンターがあり、二人だからそこに座ろうとすると「空いていますのでテーブル席へどうぞ」と言う。確かにガラガラだったが、そんな10人くらい座れる席など話しにくくてしょうがない。
 その広い席で、二人で焼酎ばかり呑んで、2時間くらい居ただろうか。ここは、僕が支払うことにして勘定をした。
 レシートをくれたので、なんとなしにそれを見た。さすれば「席料105×2 お通し315×2」と書いてある。
 ん?
 酔っていたので、聞いてみた。何だこの席料というのは? と。
 さすれば、テーブルチャージだということ。おいおい、僕らはカウンターのほうが良かったんだ、それを無理にあんたらが連れてったんじゃないか。そのときに一言でも席料の話をしたか? 僕は酔いもまわっていたのでつい「店長を呼べ」と言ってしまった。
 でも、理不尽じゃないですかこれ。深夜料金10%というのも加算されていて、まあそれはファミレスだと思えばいいのだけれどもね。お通しに別途席料か。小さい話ではあるのだが…どうも釈然としなかったのも事実で。
 何でも、事前説明というのが必要だと思う。こんな小額でも、気分がよろしくない。「お通し」というものの存在を知らない人がサービスだと思っていて、代金を「取られていた」と知ったときの気分ってこういうものか、とその時に思った(ちょっと違うかしらん)。

 軽い気持ちで書き始めたが思わず長くなった。案外、難しい問題だったのかも、これは。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お通し問題1

2013年07月28日 | 酒についての話
 居酒屋に入る。座る。さすれば、注文を聞かれる。
 「とりあえずビール」でもいい。「おちょうし一本、あったかくしてね」でもいい。まずは、のむ酒を伝える。しばらくすれば、酒がやってくる。
 その酒が出される前に、目の前に小鉢が置かれたりする。或いは酒と共に何か運ばれてくる。もちろん、こちらはまだ酒しか注文していない。肴は、これから品書きを見て決めようと思っている。しかし何も言わずとも、そういう類のものは出てくる。中身は店によって違う。ちょっと気の利いたものから「え?」と思うものまでさまざま。
 決してサービスではない。しっかりと勘定はなされる。
 これが「つきだし」である。関東では「お通し」と言う。お通しのほうが全国的に通じるらしいのでそう書くことにする。

 これについては、いろいろ考えてしまった人も多いのではないかと思う。
 僕はつい「お通しはなぜ必ず出るのか(子安大輔著)」という本まで読んでしまった。これはビジネス書であり、お通しの話はほとんど載っていなかったのだが(こういうタイトルは何とかならんかね)。
 しかしせっかく読んだので引用する。かえって簡潔に書いてあったので。
 お通しの意味は、一般的には料理が出るまでの「つなぎ」と言われています。客が注文した料理を待つ間、お酒のアテとして気軽につまめるものを提供するという意味です。
 確かにそういう一面もありますが、本当の狙いは「席料を取る」ことにありそうです。
 客が頼んでもいないものをただ出すだけで、一人当たり二百円から五百円程度の売上を店側は自動的に計上することができるのです。客単価が三千円の居酒屋であれば、三百円のお通しは実に売上の十パーセントを占めることになります(ちなみに大きな声では言えませんが、それに対する原材料費は限りなく安いはずです)。
 モノを出さなくてもテーブルチャージやサービス料という名目で合計額の十パーセント程度を取る店もありますから、お通しの実態はやはり「席料」という見方が正しいと言えるでしょう。
 なるほどね。わかりやすいわ。
 ただ、ここに書かれていることが全てではない、と一応ことわっておいたほうがいいだろう。もちろん料理を出すまでの時間を考慮し客を待たせない手段として「お通し」に力を入れている店も当然あると思うし、個性を発揮しようとしている酒場も当然あるだろう。そういう店も、僕は知っている。
 だが、席料の一部としてお通しを考えている店が、やはり多いのではないだろうか。子安氏の見方はある意味においては当たっていると思われる。
 居酒屋という場所は、客の回転が悪い。これはわかる。ただでさえ酔っ払いは長っ尻で、しかも酔えば何も注文しなくなったりする。ただ笑ったり泣いたり、寝たりしている。さすれば、席料を取らないとやっていけない。その店側の事情だって、むろん理解できる。
 そういったことを踏まえながらも、僕はこの「お通し」については、肯定的か否定的かと言われれば否定的である。なんとかならんのか、といつも思っている。
 問題点を考えていこうと思う。

 お通しの何が好ましくないかについて、突き詰めて考えると、主として三点ある。
 ①頼んでもいないものを最初に出されるつまらなさ
 ②好みでないものを出されるつまらなさ
 ③コストパフォーマンスにあわないつまらなさ
 僕の場合は、こういったところだろうか。世間的にもこう思っている人はいるはず。

 まず、頼んでもいないものが最初に出てくる違和感について。
 僕の場合居酒屋の楽しみは、自分で段取りが決められるところにある。一人でのむならなおさらだ。まず、ビールが飲みたい。で、串モツ焼きを注文する。ビールは、瓶にする。生ビールもあったが、ジョッキで出されると、既に注がれているものだから直ぐに飲まなければ不味くなる。だから、瓶で頼んでグラスに一杯だけク~っと飲む。あとは、モツ焼きが来るまで待つ。
 そこまでは計画が立っているのだが、そのあとはどうしようか。豚足焼きと厚揚げで焼酎にするか。あるいはたこぶつと湯豆腐で燗酒にするか。ふたパターン考えられるがまだ決まらない。モツ焼きを食べたあとの気分で決めよう。こういうことを考えながら待つのは楽しい。
 しかし、そこに「お通し」としてポンとポテトサラダを出された。これは、困るのである。
 ポテサラが嫌いだと言っているのではない。
 僕の場合、組み合わせとして例えば串カツ+ポテサラ+ビールなら、○アリである。だが、モツ焼き(しかもタレ焼きを頼んでいる)+ポテサラ+ビールは、×ナシだ。この理由は人に説明できないわけではないが長くなるので割愛する。
 いやなら食べなきゃいいだろう。そのとおりである。だが、僕は母親に「食べ物を残してはいけない」としつけられている。三つ子の魂百まで。結局そのポテサラは残してしまったのだが、なんとも後味がわるい。

 「今日はアジフライでビールだっ♪」と昼間から考えていて(不謹慎をお許し下さい)、夕刻に連れ立ってざっけない居酒屋へ。そこのアジフライが美味いのを僕はよく承知していて、何度も食べたことがある。
 だがオーダーする前にお通しで「小鯵の南蛮漬」を出された。
 こういうの、実に気分が削がれるのである。
 それでも頑固にアジフライを押し通したのだが、「鯵好きなんですね~」とまわりから口々に言われた。なんでそんなことを揶揄のように言われなきゃならんのだ。ワシはアジフライにソースかけてビールと共に食べたかっただけなのに。南蛮漬さえ出てこなければ。

 ある日は、3人でのんでいた。一軒目はビアガーデンであり、しこたまビールを飲んだ。ただそのビアガーデンは非常に騒がしく、落ち着いて話も出来なかったのでもう一軒行こうか、となって、居酒屋へ入った。
 小上がりに座ると、お通しとして枝豆が出された。
 「こりゃビールだな」と一人が言った。僕は正直もうビールは飲みたくなかった。さっき散々飲んだじゃないか。だが話はそういう方向性にゆき、場の空気もあるのでビールをオーダーせざるを得なかった。僕はビールばかり飲むと決まって悪酔いする。この日も、翌日に残った。枝豆さえ出てこなければ。
 お通しは、飲む酒の種類や体調にまで影響を及ぼすことがある。

 お通し、また突き出しというものが本音の部分では席料であるとしても、それが一応は、頼んだ料理が出てくる間の「しのぎ」の役割を果たそうとしていることはわかる。
 料理というものは手がかかるものが多く、酒はたいていはすぐに出てくる。店側も「まずお飲み物のほうはどういたしましょうか」などと言って酒を先に出そうとする。日本人は「最初はビール」派が多いので、瞬く間に目の前に置かれる。
 こうなると、何か食べるものもないと寂しい。それもわかるのである。
 けどなぁ。
 
 僕は、コース料理というのがあまり好きではない。そりゃ料亭の会席料理や旅館の夕食など、自由に注文できない場所で酒をのむ機会もそりゃあって、そこまでウダウダ言うつもりはない。でも、アラカルトが選択できるのであればそうしたい。
 僕は、そういう性格なのである。何でもいいから適当にみつくろって出してくれ、とは言わない。定食屋に入っても、どんな料理かを確認せずに「日替わり定食を下さい」とは絶対に言わない。日替わりが得なのはわかっていても、だ。
 ましてや、居酒屋。好きなものを「好きな順番で」食いたい。
 「おまかせコースありますお得です」と言われても「じゃそれで」とは言わず「品書きを見せて」と言う。鬱陶しい客かもしれないが、食事くらい好きにさせてくれ。ちょっと上等な店で「うちにはメニューはありません全ておまかせで承りますお客さんの顔を見てお出しします」あんたにワシの何がわかると言うのだ。だいたいおまかせで承りますって日本語はおかしいんじゃないのか。立ち飲みの串カツ屋を愛しおしゃれな「串揚げ屋」に行きたくないのは、たいていコースしかないからだ。大好きなウインナー揚げを5本とか頼めないじゃないか。「おなかがいっぱいになったらおっしゃってくださいそこでストップ致します」アホかと思う(暴言でした陳謝します)。
 ちなみに、店の常連になると時々「これサービスね」と一品ひょいと出されたりすることもある。好意はわかっていても、僕はそれすら好きではない。自分の心積もりを乱されるのは望ましくない。
 そういう偏屈な人間が、最初の一品をコントロールできないことは誠に残念なのだ。

 このことは、好みの問題にも大きく関わってくる。
 お通しはまずあてがいぶちであり、自分の好みが反映されることはない。
 勝手に出されるお通しだが、自分の好みに合致したものが出れば、不満の何割かは解消するのではないかと思う。しかし僕個人の経験だけで言えば、打率一割いくかいかないか、だろうか。
 お通しは最初にしのぎの一品として出されるのだが、それをすぐ食べるかどうかは客の勝手である。たいていは作り置きの品なので、これは例えばとりあえずのビールに合わない品だと思ったら、別にあとから食べてもいい。
 ところが、それすらその気になれないのもある。
 前述のポテサラもそうなのだが、例えばかつお造り、焼き茄子、若竹煮、子鮎天ぷらと注文をし清酒の杯を重ねる中で、最初に出されたもやしのナムル風小鉢をどこに組み込めばいいのか。別にもやしが嫌いだと言っているのではないのだが、このようにして呑んでいるとどうも箸をつけたくない。
 まして、本当に嫌いなものが出てきたらどうするのか。

 僕の知り合いで、どうしても生のオニオンがダメという人がいる。前述のポテサラは困るに違いない。生魚だけでなく、魚全般がダメという人もいる。そういう人にも本来居酒屋は優しかったはずだが、お通しにイカとキュウリの酢の物を出してきたりする。
 そういえばキュウリが駄目な人もいたなあ。
 僕だって、雑食に見えて苦手な食べ物はある(自らの弱点は晒したくないので何が嫌いかは書かないが)。そういうものを出されれば、困る。
 これ、取り替えてくれる店もあるだろう。だが酒を呑んでいるとそういうみみっちいことが面倒になるし、多人数で来ていればなおさら「これキライだからヤメて」とは言いにくい(格好悪いし弱点を晒すことにもなる)。しかし無理して食べるのも馬鹿げている。
 大人が好き嫌いを言うのはみっともないかもしれないが、アレルギー体質の人だっている。以前にも書いたことがあるがお通しに「かに酢」を出してきた店があった。これは600円であり、もしも席料込みの値段だとすれば、かなり頑張っている内容だったと思う。しかし、こういうのは危ないのではないか。
 
 しかしこういう頑張っているお通しはあるものの、多くはその値段に見合わないものを出してくる。お通しが席料だとすれば、それは当然の帰着と思われる。一品としてみればコストパフォーマンスに合わないのは当たり前だろう。
 この話は長引きそうなので、次回にまた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上代の日本酒

2013年06月02日 | 酒についての話
 ここまで神話時代の日本の酒の変遷についていろいろ書いてきた。その続きとなるのだが、以降は、日本の酒が麹で醸した酒となる過程について、古事記と日本書紀を読みつつ書いていく。内容は、ほぼ僕の覚書みたいなものなので、申し訳ない。

 本来この話は、ある鬱陶しいおっさんがきっかけなのである。酒場で遭ってしまうそのおっさんは、国粋主義者でワインなど毛唐の酒は飲む気がしない、などど乱暴なことを言いつつ、日本人は縄文の心を忘れておる、嘆かわしいことだなどと言い出す。そして酔っ払いは同意を求めるので困る。閉口しつつふと、日本書紀初出の酒はワインではなかったか、と論じていた書籍があったのを思い出し、もう一度本を読みなおそうかと思ったのが始まり。
 そして神話の深みにはまり、おっさんのことなどどうでも良くなってここに至る。

 閑話休題。
 ニニギが日向国に降臨し、コノハナサクヤと結婚して海幸彦・山幸彦を産み、山幸彦の孫が日向の高千穂を出でて東征し、大和を平らげて神武天皇となる。そして、神話の時代は終わり、ここからは史実扱いになる。
 史実といっても不可思議な記述が多いこの上代だが、この神武天皇が打ち立てた大和朝廷が、僕の考え方だと弥生人政権ということになる。そういう短絡的な見方はお叱りを受けるもとだが、あくまで私見。
 ここからは、酒の記述はいくつも出てくるので全ては挙げられないが、代表的なものを。
 第十代崇神天皇の世。天皇は、高橋邑の活日イクヒを、三輪大神宮の掌酒官とした、という記述がある。
 活日は、神酒を天皇に献じて歌を奉げた。
この神酒みきは 我が神酒ならず 大和なす 大物主おおものぬしみし酒 幾久いくひさ 幾久
 なんとも朗々とした歌でいいなーと思うが、いくつかわからないこともある。
 まず「大物主の醸(か)みし酒」とよまれる。かみし酒とは噛みし酒みたいだな。原文は「於朋望能農之能 介瀰之瀰枳」となっているので「かみし」で間違いはない。まだ口噛み酒かな?
 しかし崇神天皇といえば実質大和朝廷の初代とも言われる天皇。そのご時世にこの解釈は難しい。賀茂真淵のみならず、この酒を口噛みと解釈している学者もいないだろう。僕だってそう思いたい(イクヒさんって多分おっさんなのだろうし)。しかし、口噛み酒だった可能性もゼロではないかも。
 イクヒさんは今も杜氏の元祖と祀られているが、イクヒさんは「大物主が造ったのだ」と謙遜している。果たして大物主とは誰か。
 これが、難しいのである。
 酒と関係ないので端折るが、大物主は奈良の大神神社(三輪大神宮)の祭神で、祟り神1号と言ってもいい。崇神天皇の時世、疫病その他で祟り、天皇が困って大物主に聞けば、大物主は「わしの子孫を探して祭祀させよ」と告げ、そのとおりにしたらおさまったという。
 で、大物主の正体だが、どうも大国主命と同形らしい(もしくはその分身)。まずは国つ神であり、さすれば「大物主の醸みし酒」とはやっぱり口噛み酒か、とも思えてしまう。どうなのだろうか。

 話が少し横道でしかも神話に戻るが、大国主命が国造りをしたときの有能なパートナーに、少彦名スクナヒコナ神がいる。スクナヒコナは書紀によれば医薬とまじないの神であり人々を災厄から救った。今風に言えばスクナヒコナは技術者だったとも言えるが、ある日常世国へ帰ってしまう。
 古事記では、スクナヒコナが帰って途方にくれたオオクニヌシに「ワシの魂を祭れば国造りはOKだ」と言い、三輪山に祀られたのが大物主であるという。書紀ではオオクニヌシの幸魂・奇魂が大物主であるという。よくわからない。いずれにせよこの国は、オオクニヌシとスクナヒコナ(と大物主)が精魂込めて造りあげた。しかしその国(葦原中国あしはらのなかつくに)は、天つ神に譲らされた。
 スクナヒコナに戻るが、この神は同時に、酒の神でもあったらしい。
 この時より何世代か後で、そのことがわかる。書紀によれば、応神天皇が敦賀から帰った際に、おかあさんの神功皇后が宴会をした。その宴会のときの歌。
此の神酒は 我が神酒ならず くしの神 常世に在ます 石立たす 少名御神スクナミカミの 豊寿き 寿き廻へし 神寿き 寿きくるほし 献り来し御酒ぞ 余さず飲せ ささ
 先のイクヒさんの歌と対応している。ここで、少名御神が薬の神であり、同時に酒の神であったことがわかる。薬=酒だったのかも。
 現在、三輪にある大神神社は主祭神が大物主大神、配神にオオクニヌシとスクナヒコナがいて、醸造の神となっている。
 このテクノクラートとも言えるスクナヒコナが、日本に麹造りの酒を伝えたのであろうと推察する説もある(太田水穂氏「日本酒の起源」)。なるほどそうかもしれない。さすれば、その技術をイクヒさんが受け継いでいたのだろう。ならば、口噛み酒ではなく麹の酒であった可能性が高い。わざわざイクヒさんを召して造らせたのであり、技術を要した酒だったのだろう。口噛み酒にあまり技術は必要ないから。
 しかし実情は、よくわからないなぁ。
 崇神天皇のときは、酒はなんだかうやうやしく奉げられた感じもするので、生産量はそれほどでもなかったのかもしれない。これは、口噛みだったから大量に造れなかったのか、それとも米が酒に回せるほど余剰がなかったのか(材料不足)、あるいは、イクヒさんのような酒造りの技術者が不足していたのか。それもよくわからない。
 
 その後は、徐々に大量生産が可能になったようで、宴会の記述もある。前述の神功皇后と応神天皇の宴会の他にも、日本武尊ヤマトタケルノミコトが熊襲の首長の梟帥タケルを討つ際には、宴会で酔っ払っているところを狙っている。
 熊襲と大和の対立はずっと続いていて、ヤマトタケルの以前にも景行天皇は征伐を試みているが、このやり方がえげつない。
 熊襲八十梟帥の娘、市乾鹿文イチフカヤは「容既端正 心且雄武」とされていた。その美人の娘を何と天皇が籠絡するのだ。天皇は偽の寵愛を重ね、イチフカヤを手の内とする。彼女は一計を案じ、父親に酒をたっぷり飲ませて寝させ、その間に弓の弦を切る。あとは、天皇の兵が来て終り。天皇を愛して父を裏切ってしまったイチフカヤもまた天皇の命令で殺される。ヤマトタケルもそうだが、どうも大和のやり方は卑怯だ。戦前はどんなふうに教えていたんだろう。
 それはともかく、熊襲梟帥を酔わせた酒はかなり強い酒だと言われている。九州方面の男はたいてい酒に強いが、それを酔い潰す酒であるからして。原文は「以多設醇酒 令飮己父 乃醉而寐之」で、醇酒と表現される。「からき」と訓ずる場合も。醇と書けば濃厚なイメージがあるが、やはり度数も高かったのだろう。これは、麹酒でしかありえない。

 応神天皇は酒が好きだったのか、前述の宴会の他にもいくつか酒の記述が残る。吉野へ行幸の時には国樔人くずひとが来て、醴酒こさけを献じている。
 この国樔人とは、かつて神武天皇が東征の折、熊野から吉野に入った時に出あった「国栖くず人」と同じ人たちだろう。彼らは国つ神だった。
 その醴酒だが、国樔人はこのように歌っている。
かし横臼よくすを作り 横臼に 醸める大御酒 うまらに 聞こし持ちせ まろが父
 樫の木の臼に貯めたこの醴酒については、果実酒説や甘酒説などさまざま言われているが、上田誠之助氏は、口噛み酒ではなかったかとされる(「日本酒の起源」)。実は現在でも奈良県国樔村(現吉野町)では祭りで何と醴酒を造っているという。作り方は、水に浸したもち米を臼で砕いて布ごし、残りかすの粉砕、裏ごしを繰り返して「しとぎ」をつくり、それに清酒と砂糖を加えて温めるとか。当然1700年前と今では同じ作り方ではないだろうが(当時は清酒も砂糖もない)、その「しとぎ」の様子から口噛み酒を想定されている。
 日本書紀には国樔人の生活の様子が描写されている。どうも非農耕民らしい。木の実を採集し、また蛙を獲って食べるなどしている様子は、山間の村で古い縄文の様式を守っている様子が伺える。稲も焼畑の陸稲だったか。そうなれば、やはり僕も口噛み酒ではなかったかと思う。現在の醴酒を知らねば、果実酒説に一票だったかもしれないが。
 醴酒は延喜式の造酒司にも記されている。それは麹を用いている。ただし何百年も後の都でのことで、この国樔人が醸した醴酒と同じであったかは難しい。

 ともあれこの時期(応神天皇時世 3~4世紀)は、様々な醸造法が混在していた時代なのだろう。縄文以来の口噛み酒もあれば、またおそらくは大陸伝来の麹の酒もあった。そして水稲がますます盛んとなり、ある程度酒の量産も可能となって、麹の酒が徐々に席巻し始めたのだろう。しかしその麹の酒とて、幾種類もの造酒法があったことも考えられる。
 応神天皇はよほどの酒好きか、それともこの時期に酒が不自由なく出回るようになったのか、酒をのんでは歌を詠んでいる。そのひとつひとつを挙げてはいられないが、古事記に、応神天皇が百済に技術者を要求したことが記してある。このとき「論語」「千字文」を伝えたとされる和邇吉師(王仁)をはじめ鍛冶や機織職人等が海を渡ってきたが、酒職人も渡来したらしい。
及知醸酒人 名仁番にほ 亦名須須許理すすこり等 参渡来也 故 是須須許理 醸大御酒以献
 本名はニホさんで、またの名をススコリと名乗ったらしい。このススコリさんの醸した酒が旨く、応神天皇はまた歌を詠んでいる。
須須許理が 醸みし御酒に 我酔ひにけり ことなぐしぐし われ酔ひにけり
 ススコリさんの酒で俺は酔っ払っちゃったよ、というなんとも大らかな歌である。ことなぐし、えぐしというのがわかりにくいが、くしは薬であり=酒のこと。ことなは、事無し、心配いらぬ天下泰平、みたいな感じか。えぐしのえは笑だろうか。楽しそうな酒だなー。
 ともかく、この百済から渡来したススコリさんが、日本に麹で醸す酒を伝えたのだという有力説がある。

 ススコリさんについては鄭大聲氏の論文「須須許理について」があり、それを読むと、朝鮮語で酒はスと言い、コリ、コリが「漉す」であるらしい。マッコリのコリですな。つまりスコリで「酒を漉す人」、まあ酒職人の意だろうとされる。さすればニホが名前でススコリは職名ですな。ススコリ屋さんと言う方が適うか。
 で、ススコリ屋のニホさんが日本酒の祖かと言われれば、これも難しい。朝鮮半島は、中国と同じく主として餅麹を用いるが、日本は散麹だからである。バラ麹。
 麹と言うのはすなわち、でんぷんを糖化させるカビの培養体のことである。餅麹とは麦などを粉にして水で練って固め、それにカビを繁殖させたもの。固まりなので「餅コウジ」と呼ぶ。中国、朝鮮半島などは、この餅麹で酒を醸す。
 対して日本酒は、米を蒸してそれを固まりにせず粒のまま、カビを繁殖させる。
 材料の麦等と米、非加熱と加熱、塊と粒、それらが異なることよってカビの種類も違ってくる。同じ米で造る紹興酒、マッコリ、日本酒がここまで異なったものとなっているのは、むろん様々な要因があるが麹が違うことも大きい。
 ススコリ屋さんが造ったのは、マッコリのような酒であったかもしれない。朝鮮半島の酒の歴史を知らないと何も言えないことだが。

 ススコリ屋さんが日本酒の祖ではないとしたら、誰が日本にバラ麹の酒造りを伝えたのか。やっぱりスクナヒコナか。しかしスクナヒコナも外来神の可能性がある。大陸由来であれば、やはり穀物の粉をレンガの如く固めてカビを生やす餅麹だったかも。イクヒさんはどうやってデンプンを糖化したんだろう。
 バラ麹はどこから伝わったのか。それは定かではない。現在の文化人類学では東アジアにおけるバラ麹のルーツを長江下流などに想定されているが、決定的ではないようだ。
 或いは、日本独自に発明されたのか。
 「播磨国風土記」に以下のような記述がある。
庭音村 本名庭酒 大神御粮沾而生糆 即令醸酒 以献庭酒而宴之 故曰庭酒村 今人云庭音村
 播磨国宍禾郡にある庭音村の地名由来譚である。大神(播磨国宍粟郡の伊和神社。祭神は大巳貴命)に献じた御粮みかれひれてかびが生じたのでそれで酒を醸した。それが庭酒村という名の由来だ、と記するのだが、ここでカビを用いた酒の話が出てくる。
 粮というのは米とみていいだろう。供えた米なので蒸米だったかも。それが湿気てカビた。なのでこれで酒を醸した、と。
 これをもって、蒸米に粒のままカビを繁殖させる日本式麹は日本で編み出されたのだ、という説がある。確かにそうかもしれない。
 しかし、これでは庭酒村の人が米に生えたカビは酒造りに使える、と知っていただけの話ともとれる。裏返せばこの時代にバラ麹を使った米の醸造法が知られていたことになる。
 同じ頃、大隅国風土記では口噛み酒を造っていた。畿内に近い播磨と南九州ではずいぶん様相が異なっていたことはわかる。
 風土記は、奈良時代のこと。奈良時代には、大いに酒がのまれていた。正倉院文書に清酒、濁酒、糟、粉酒などの文言がみえる。
 「写経司解案」という文書があって、中身は写経生の待遇改善の要求である。その中に「三日に一度酒を呑ませろ」というのがある。
 
 そして、平安時代の延喜式には、14種類の酒が列記されているという。その酒を孫引きさせてもらえば、御井酒、御酒、三種の糟(三淋)、醴(桃の節句の白酒に同じ)、擣糟 頓酒、熟酒、粉酒、汁糟、搗糟、黒貴、白貴。
 柳生健吉「酒づくり談義」によれば、それぞれに蒸米、麹、酒造用水の配合歩合、そして醸造操作が異なるという。つまり、14種の酒が造り分けられていたということである。
 この時代の辞書である和名抄には、醰酒、醨、醇酒、酎酒、醪、醴の記載があるらしい。
 これらの酒の解明は醸造学者らによってかなり進んでいるが、全てが分かったわけではないだろう。
 これまでも、日本では様々な方法で米の酒が醸されてきた。コノハナサクヤの天甜酒。スクナヒコナが伝えイクヒさんが醸した酒。クマソのタケルを酔いつぶした醇酒。国樔人の醴酒。ススコリ屋さんが百済から伝えた醸造法。だがそれらが、この奈良、平安時代の酒造方にどれだけ繋がっているのかはわからない。そして、現在の日本酒にその技術の破片が残されているのかどうか。

 このあとも、日本酒の醸造法はどんどん発展していく。諸白(精白米)の使用。酛(酒母)を造る技術の向上。火入れによる殺菌。そして現在の醸造法の根幹を成す「三段仕込み」を編み出したこと。現在では、吟醸酒というバケモノみたいな酒も誕生している。
 そうなると、なかなか古代の日本酒というものを想像しにくくなる。もしかしたら甘酒や味醂などのほうが近しいのかもしれない。
 しかし、連綿と続いてきた歴史というものは紛れもなくある。想像力を逞しく保ちつつ、神話や上代に思いを馳せながら、幾久しく「われ酔ひにけり」と呑もうと思う。古代の酒の話はこのくらいにして。

関連記事:
 ヤマタノオロチが呑んだ酒 
 縄文はワイン? 
 くちかみ酒
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

くちかみ酒

2013年05月26日 | 酒についての話
 「ヤマタノオロチの呑んだ酒」「縄文はワイン?」と、有史以前にはもしかしたら日本列島ではワインが醸され、その痕跡が八岐大蛇退治であり縄文式土器であり、また酒船石ではないのか、という話を、主として柳生健吉氏著作「酒づくり談義」から引いて書いてきた。
 しかしながら、仮にワインが本当に米の酒に先んじて日本列島で醸されていたとしても、それは今は根絶してしまった。その後、日本では米から醸造された酒が主流となり、ただ「酒」と言えば米の酒を指すようになる。米の酒=日本酒、である。
 いったいいつから、日本では米の酒が主流となったのか。その過程については、考古学、文化人類学、醸造学などからそれぞれアプローチが出来るようだ。柳生健吉氏は、それが縄文から弥生時代へと移り変わる過程と一になっているのではと推測されている。
 僕の場合は、好奇心だけで詳しく研究などできないので、続けて神話を読んでゆく。

 スサノオの一幕の次に酒が出てくるのは、オオクニヌシの妻問い、そしてスセリヒメの嫉妬の場面である。この話は、日本書紀には出てこない。古事記の話。
 大国主命オオクニヌシノミコトの正妻は、須勢理毘売命スセリヒメノミコトである。ところが、オオクニヌシは越国の沼河比売ヌナカワヒメにも求婚する。現在の倫理観を当時に持ち込むことは出来ないが、まあ浮気か。そのためにスセリヒメは嫉妬した(スセリヒメだって実は略奪婚なのだが)。
 困ったオオクニヌシは出雲から大和に逃げようとすると、スセリヒメは杯を手に引き留める歌を読む。
爾其后取大御酒坏 立依指擧而歌曰
 スセリヒメが手にしている大御酒杯。中身はもちろん酒に決まっている。そしてオオクニヌシに寄り添うようにして詠むその歌というのが、実に艶めかしい。全文引用ともいかないのでちょっと意訳して書くと、
私の大国主神さん。あなたは男だから、先々どこでも若い妻を持つんでしょう。でも私は女、あなた以外に夫はいないのよ。綾織の帳がふわりと揺れる下、柔らかで白い夜具の中で、私の淡雪のように若やかな胸を、そして白い腕を、抱きしめ思うように愛撫して、私の美しい手を枕としていつまでも寝ていましょう。さあ御酒をどうぞ。
 エロい。ここまで言われてオオクニヌシはスセリヒメに負け、酒をのんで互いのうなじに手を絡めて寝ちゃうのである。後半部はやっぱり引こう。これぞ万葉仮名。
阿和由岐能 和加夜流牟泥遠 多久豆怒能 斯路岐多陀牟岐 曾陀多岐 多多岐麻那賀理 麻多麻傳 多麻傳佐斯麻岐 毛毛那賀迩 伊遠斯那世 登與美岐 多弖麻都良世
 あわ雪の 若やる胸を 栲綱の 白き腕(ただむき) そだたき たたきまながり 真玉手 玉手さし枕き ももながに いおし寝せ とよみき 奉らせ…原文でもエロいな。この「とよみき」が酒。「豊神酒」と解釈されている。
 艶話は措いて、この酒は、果たして何の酒だったのだろうか。
 スセリヒメは、スサノオの娘である。またオオクニヌシもスサノオの系列で、ともに国つ神である。さすれば、もしかしたらワインであったかもしれない、と推察もできる。しかし、美女であるスセリヒメが、盃を片手に誘ってきたのであれば、もしかしたら違う酒かも、とも思えるのである。

 その違う酒とは、の話の前に、次に神話で酒が出てくる場面を。それは、コノハナサクヤヒメの一幕である。木の花咲くや姫。桜の化身だな。名前からして美しい。
 話は、天孫降臨である。古事記、日本書紀とも骨子は変わらない。天照大神アマテラスオオミカミの孫である瓊瓊杵尊ニニギノミコトは、高天原から日向国に降臨する。そこでニニギは絶世の美女である木花開耶姫コノハナサクヤヒメと出逢い、求婚。一夜の契りでコノハナサクヤヒメは懐妊し、火照命ホデリノミコト火須勢理命ホスセリノミコト火遠理命ホオリノミコトを生む。ホデリとホオリがつまり海幸彦・山幸彦であり山幸彦の孫が神武天皇になるのだが、それはともかく、日本書紀の「一書曰」は以下のように記す。
時神吾田鹿葦津姫 以卜定田 號曰狹名田 以其田稻 釀天甜酒嘗之
 神吾田鹿葦津姫カムアタカシツヒメというのはコノハナサクヤの別名。コノハナサクヤは、卜定田(占いで定めた田)を狹名田と名づけ、その田の稲で、天甜酒あめのたむさけを醸し、奉げたとする。
 これは稲で作っているので、明確に米の酒である。果実酒ではない。
 ニニギと言えばアマテラスの孫。スサノオとは三世代の差だが、神代の三世代とは何百年か何千年か。ともかく、米の酒である。
 この天甜酒とはどういう酒だったかについては、口噛み酒ではなかったかとの説がある。

 これは、酒をかもすという言葉が「かむ」と同語源であると推察されていることにもよる。後述する大隅国風土記逸文の紹介文に「酒ヲ造ルヲバカムトモイフ。イカナル心ゾ」とも書かれている。
 これには反論もある。賀茂真淵が「冠辞考」で「かむの語はかむだち黴立かびたちに通じかむではないといふ」と論じたのをはじめとして、カモすはカビすだろう、との説も強い。
 しかしながら、酒を造るのに噛んで造る方法は、実際に存在した。
 今まで書いてきたように、穀物から酒は簡単には作れない。果実に含まれる糖分に酵素が働いてアルコールが生成されるワインと異なり、穀物はまずそのデンプン質を糖化する作業が前段として必要となる。ちなみにビールは、大麦の種子が発芽する際に生じる糖化酵素の作用を活用する。麦芽糖というのは一般的に知られているかと思う。
 そして日本酒はその糖化のために麹を活用するのだが、麹というカビの培養体がデンプンを糖化させるという発見は、なかなかできることではない。
 米をもっと簡単に糖化させる方法は、噛むことである。
 炊いたご飯を口中で長い時間噛んでいると、だんだん甘くなってくるだろう。これは、唾液に含まれるアミラーゼがデンプン質を分解し糖化させるからである。そうして噛んで甘くなった米を、容器に貯めて放置すると、自然酵母が働いて醗酵しアルコールが生成される。口噛み酒とは、そういうものである。

 この口噛み酒を醸すのは、女性の仕事だったといわれる。
 かつて真臘(カンボジア)で造られていた口噛み酒は「美人酒」と呼ばれていたとの話もある。日本では、上田誠之助氏の「日本酒の起源」より孫引きさせていただくが18世紀末から編纂された薩摩藩の農事書に、
其法十三四より十五歳までの女子端正みやびやかなるをえらびものいみせしめ、甘蔗にて歯を磨き、清水にて口を洗い、粢を嚼しめて、醞醸つくりもろみの中に投れば、一宿も経て成れり…  「成形図説」
 とある。
 他に、沖縄や奄美の口噛み酒も女性が主体であったらしい。
 こういうものは巫女さんがなさるもの、という意識は、なんとなしに我々も持っていたりして。傍証ともならないが、酒造りの長である杜氏と、古来主婦を指す刀自という言葉は共に「とじ」であり同語源説もある。また妻を「カミさん」というが、「噛みさん」ではなかったのか、とも(相当怪しい説だが)。
 そのように思えば、艶っぽいスセリヒメの誘惑の酒や、コノハナサクヤヒメの天甜酒は、なんとなしに口噛み酒ではなかったかと思えてくるのだが(根拠希薄)。
 
 口噛み酒は、世界中に分布しているものではない。東アジアと、中南米にみられるだけらしい。
 アジアでは、台湾、閩(福建省)での記録、また前述の如く13世紀のカンボジアにも出てくるとか。さらに、北方の女真、韃靼での記録もあると(石毛直道「酒造と飲酒の文化」)。
 日本では、沖縄、奄美諸島での報告がある。そして古くは「大隅国風土記」にも口噛み酒が記されているという。やはり鹿児島だ。
大隈ノ国ニハ、一家ニ水ト米トヲマウケテ、村ニツゲメグラセバ、男女一所(ひとところ)ニアツマリテ、米ヲカミテ、サカブネニハキイレテ、チリヂリニカヘリヌ、酒ノ香ノイデクルトキ、又アツマリテ、カミテハキイレシモノドモ、コレヲノム、名ヅケテクチカミノ酒ト云フ
 「大隅国風土記」はもう原典は失われている。この文は、鎌倉時代の事典「塵袋」に引用されたもの。原文どおりではないだろうが、意は伝えているのだろう。
 風土記は、だいたい8世紀前半にかかれたもの。神話の世からは時代がかなり下るが、それでもその時代まで、まだ口噛み酒が存在した地域があるということだ。
 ただこの時代(地域)では、男も女も噛んでいる。うーむ。

 日本の稲作の歴史は、かつては弥生時代に始まるとされていたが、昨今の研究では縄文時代後期から始まっていたようだ。その縄文時代の米作りは、陸稲(熱帯ジャポニカ)だとされる。畔を作り水を引き入れて苗を植える、集団でなされる水田稲作ではない。籾を畑に直接蒔くやり方である。
 これは、南方から「海上の道(柳田國男)」を経由して持ち込まれたものなのだろうか。ならば南方モンゴロイドによるもので、すなわち縄文人に対応できる。
 後期縄文人は焼畑農業によって、陸稲の他に大麦や粟、小豆なども栽培していたらしく、稲に完全依拠した生活であったとは考えにくい。だが、この陸稲の伝来と同時に、南方から口噛み酒の製法も入ってきたのではないだろうか。口噛み酒の東アジアでの分布状況から見て、そんなふうにも思う。
 スサノオ時代にはまだ米はなく(あったとしても酒に転用できるほどではなく)、酒は果実酒だった。だがオオクニヌシの時代ともなれば、徐々に米の生産も増え、そのことで米の酒が登場し、果実酒を凌駕していったことが考えられる。しかし麹による糖化醗酵までは至らず、口噛みであった、と。
 麹の酒を持ち込んだのは、水稲栽培をむねとする弥生人であっただろう。
 大和朝廷成立の頃には、もう酒といえば麹を使った酒が主流になってきたのでは、とも考えられる。そして沖縄、奄美、南九州(大隅国風土記)、また北方のアイヌ民族など、弥生文化の伝播が完全に至らない地域に、口噛み酒が縄文の痕跡として残ったのではないか。

 神話と縄文・弥生の話からまたぼんやりと考える。
 この口噛み酒は、縄文文化の醸し方ではないかと仮に考えた。そして、今までのように国つ神を縄文人、天つ神を弥生人に対応させていく。
 さすれば、美女のほまれ高いスセリヒメやコノハナサクヤヒメは、やはり自らの口をもって酒を醸したのだろう。そして、オオクニヌシやニニギにのませた。これでは男はもう…イチコロである(言葉が古いな)。
 こうなると、やはり杜氏は刀自ではなかったのかと思いたくなる。

 次回、もう少しだけ蛇足を。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

縄文はワイン?

2013年05月19日 | 酒についての話
 日本酒というのは、造るのが実に難しい。
 穀物からは、勝手に酒は出来てくれないからだ。醸造、とは原料を発酵させてアルコールを得ること。しかしアルコールは、糖からしか出来ない。
 日本酒の原材料である米は、糖分を含まない。したがって、米から酒を造ろうとすれば、まず米から糖を生じさせなければならない。具体的には、麹の力によって米のデンプン質を糖に変化させる。そして、その糖化されたもの(つまり甘酒)に、酵母を働きかけさせて、糖からアルコールを生じさせる。そうして、酒が出来る。
 思い切って簡単に言えば日本酒造りの工程は、米を麹の力で甘酒にする→甘酒を酵母の力で酒にする、ということである。二重の工程が必要となる。
 これが、果実酒であればもっと単純である。果物は、そもそも甘い。糖分がふんだんに含まれているわけで、それに酵母が働けばもうアルコールになってしまう。
 そして、酵母は自然界に存在する。果物を瓶に貯めておいたら、自然酵母で醗酵が始まり酒が出来てしまう可能性も。おそらく、ワインの発明はそんなところから始まっていると思われる。
 対して日本酒は「麹菌というデンプンを分解し糖化するカビ」の発見から始まっている。そんな簡単じゃないのだ。
 さすれば、日本列島で米の酒が出来る以前には、果実酒が醸されていた可能性もゼロではないのではないか。縄文後期には米は伝来していたと思われるが、米が伝わる以前(あるいは水稲耕作によって大量収穫が可能になる以前)に、酒は存在していなかったと断言は出来ない。なんせ魏志倭人伝に「人性嗜酒」と書かれた酒のみ日本人である。
 もしかしたたら、彼らはワインをのんでいたのかもしれない。現に前回書いたように、スサノオたちは「あまたのこのみ」を使って果実酒を醸しているではないか(現に、とか言いながら神話だけど)。

 ここからは、いろいろなことが考えられる。
 日本の神は、天津神・国津神に大別される。天つ神とは、高天原にいる神。国つ神は土着の神。見方を変えると、天つ神は大和朝廷の神であり征服者側、国つ神は出雲その他の神であり、被征服者側であるとも言える。国つ神の大国主命は、頑張って治めていた葦原中国を、天つ神に譲らされた。
 これを日本歴史に当てはめて、縄文文化と弥生文化に対応させる見方もある。短絡的な見方を承知で書けば、日本列島においては、縄文人を弥生人が駆逐した。おそらくは大陸から、稲作技術をもつ集団が日本列島へ移住してきた。それが弥生人であり、それまでの先住民族だった縄文人を侵食していった。
 縄文人は、かつては狩猟漁労採集による移動生活を営む民と言われたが、現在の研究では三内丸山遺跡に見られるように村落を作り、縄文文化が花開いていたとされる。農耕も行われていたと考えられる。
 日本の先住民族である縄文人が、稲作をどれほど広く行っていたかはわからない。ただ大陸から来たとされる弥生人は、完全に稲作に依拠した民族である。米が生活の根幹だった。
 縄文時代から弥生時代へいつ移ったのかは明確には言えず、徐々に水稲耕作が浸透していく過程が時代の変遷過程でもある。ただ年代で言えば、紀元前10世紀から紀元前3世紀くらいが縄文から弥生時代への変わり目と考えていいようだ。
 スサノオの追放や国譲りの使者たちは別として、天つ神が日本列島に正式に足を踏み入れたのは、天孫降臨である。天つ神の女神である天照大神アマテラスオオミカミの孫である瓊瓊杵尊ニニギノミコトが日向国に降り立った。
 ではいつ頃、ニニギは日向国に降臨したか。神武天皇が45歳のときに「天孫降臨して百七十九万二千四百七十余年」という話があるが(日本書紀)、これはまああまりにも粉飾として。神武天皇の即位が紀元前660年、ニニギは神武天皇の曽祖父だから、まあだいたい100年サイクルとみて(神武天皇は127歳崩御)、降臨はだいたい紀元前10世紀頃か。弥生時代の始まりと一であるとも見える(強引かな)。

 素戔嗚尊スサノオノミコトという人物は、なかなか捉えどころがない。一応、アマテラスの弟だから天つ神のはずだが、罪を犯し高天原を追放され(神逐かんやらい)、以後国つ神扱いとなる。国つ神の総大将とも言える大国主命の祖でもある。これは、もともと国つ神だったスサノオが、神話構成上天つ神アマテラスの弟ということにされたという説もある。
 そのスサノオが高天原を追い出された罪というのが面白い。田の溝を埋めたり、畔を壊したり、用水路を破壊したり、とにかく稲作は敵と言わんばかりに水田に悪さを働いている。
 こうした側面から、スサノオはニニギ(水稲農業を旨とする弥生人)が日本に来る以前の縄文人の象徴と考えてもいいかもしれない。
 そのスサノオがヤマタノオロチ退治の際に造れと命じた酒は、果実酒である。ワイン。造ったアシナヅチ・テナヅチは大山祇オオヤマツミ神の子であり、オオヤマツミもまたイザナギ・イザナミから生まれているが、スサノオ同様国つ神とされている。
 
 「酒づくり談義」の柳生健吉氏によれば果実酒は、米から酒を造るより当然原始的であり、簡単であると言われる。そうだろうな。米から酒を造るのは前述したように難しいのだ。
 ことに葡萄酒は、ブドウが蔓に生っている時からヘタのところに酵母菌が群がりついていて、ブドウを容器に入れておくだけでこの酵母がブドウの糖分に直接働きかけ、醗酵して炭酸ガスの泡を発し糖分が分解され、アルコールが生成されるのだとか。こう聞けば、縄文時代にもワインくらいあっただろうと思ってしまう。
 それを証明する手立ては少ないが、状況証拠なら考古学上でいろいろ見つかっているらしい。昭和45年刊の「酒づくり談義」にさえ、青森県是川、また東京江古田の泥炭層からブドウの種子などが見つかっていると書かれ、大型のためどうも栽培種ではなかったか、とまで推察されている。
 さらに柳生氏は、縄文式土器を「酒器だったのでは」と推察される。口広で尖底、縦長、土に埋めて使用するこの装飾土器は、醗酵時に多量の泡が盛り上がる果実酒の醗酵容器として合理的だとされる。「酒屋が酒の専門家の立場として」考察されているので、説得力を持っている。
 面白い話である。この「酒づくり談義」は柳生氏の没後に遺稿をまとめて発刊されたものだが、その後の考古学は柳生氏の説を裏付けるような発見を続ける。
 有孔鍔付土器の発見。口縁部に小孔が列状に開く特徴には太鼓説もあるが、炭酸ガス抜きの穴という説も説得力がある。そして長野の富士見町の縄文中期にあたる井戸尻遺跡からは、出土した有孔鍔付土器の中にヤマブドウの種子が付着していたという。
 そして縄文後期になると注口土器が出てくる。ヤカンやキュウスのような形状をしたこの土器は、酒器という見方も有力になっている。また三内丸山遺跡からも、注口土器の他ニワトコ、ヤマブドウなどの種子、また醗酵液につきやすいミエバイが大量に出土しているという。
 短絡的には言えないが、興味深い話だと思う。

 吉田集而氏の「東方アジアの酒の起源」を読んでいると、古代日本の果実酒の存在については、考古学者や醸造学者らは存在説であり、文化人類学者は否定説になるのだそうだ。吉田氏や、他に篠田統氏、また石毛直道氏などによれば、①日本の果実は西欧産のように甘くなく酒の原料に不適である。②存在したとして、縄文以降根絶した説明がつかない。痕跡がない。③狩猟採集民で酒を造っている民族はいない。原料となる果実が食べる量以上の量を必要とし、そのため栽培が条件となる。などなど。
 確かに、アジアに葡萄酒ってないのね。
 葡萄ノ美酒夜光ノ杯
 飲マント欲スレバ琵琶馬上ニ催ス
 酔ヒテ沙上ニ臥ス君笑フコト莫カレ
 古来征戦幾人カ回ル
 王翰の漢詩「涼州詞」は僕も漢文の時間に習った。ただ、この葡萄の美酒は輸入品である。葡萄酒は西域のものだった。文化人類学者の言うこともわかるのである。
 これに対し柳生氏は、中国にも果実酒が存在していたかもしれないことを、唐宋時代の漢詩に「小槽酒滴真珠紅(李賀)」など紅酒、赤酒、さらに緑酒などが歌われていることから「酒の専門家の立場として」推測されているが、詩のことなので決定打とはいかないと思われる。

 しかしながら、さらに推測として柳生氏は、果実酒が縄文以降根絶したことについては、やはり弥生人の渡来によって、水田稲作と共に米の酒が入ってきて席巻されたのであろうとされる。そして、ある時を境に縄文式土器が失われたことを、米の酒の席巻によるのではないか、と論じられる。これは興味深い視点である。果実酒を醸す道具であった口広のこの土器は、米の酒を作りその貯蔵容器とするには確かに不適当であり、弥生式土器にとって代わられたと。
 縄文式土器が何ゆえ消えたかについては、しっかりとした説明がいまだになされていないと思われる。これについて、酒造の面からのアプローチは興味深い。またその様々な文様や「火焔土器」に象徴される華美な装飾も、酒造りの土器であり酒は祝祭、信仰、呪術などに関わっているものであるとすれば、説明もゆく。面白い。

 私見を書けば、なぜ米の酒が果実酒を駆逐したのか、ということについては、弥生人の圧力もさることながら、やはり米の酒が果実酒よりも美味であったことがあるのだろう。アルコール度数も果実酒より高かったのかもしれない。
 日本の野生の果実が、文化人類学者が言うように酒の材料としてそれほど適していなかったとすれば、造り方さえわかれば米の酒に飛びついてそれまでの果実酒が廃れていくのも不思議ではない。もしも縄文時代に酒造用果実が栽培されていたとしても、農地はどんどん水田に変わっていったことも考えられる。文字もなかった縄文時代。痕跡が残っていなくともそれは致し方ないことのように思うのだが。

 しかし、記録には残らずとも、人々の記憶には細々と残ったのかもしれない。かつては、果物から酒を醸していたということが。
 日本には「猿酒伝説」というものがある。猿が、食糧貯蔵のために木の実を、例えば古木のうつろや岩のくぼみに隠す。それが醗酵して天然の酒になったという伝説。
 柳生健吉氏によれば、この話は曲亭馬琴の「椿説弓張月」に書かれているもので、猿はそういう習性が無く事実とは言いがたいらしい。だが、猿酒というものが馬琴の創作とも思えず、それに類した話は伝説として伝わっていたのだろう。果物を貯蔵すれば酒になる、という知識が。
 それが縄文以来の知識であったのかどうかはわからない。しかし、少なくとも日本書紀には「衆菓を以て」酒を醸したと書かれている。これは、廃れてしまった縄文の酒造りの記憶ではないのか。その記憶を、縄文人の代表たる国つ神のスサノオに託して「一書」は記した。天孫降臨に始まる弥生人の列島席巻以降は、酒は衆菓を以ては醸されなくなる。果実酒用の酒器であったかもしれない縄文式土器も、急に歴史から消えた。

 柳生氏は、ひとつ非常に面白い指摘をされている。それは、飛鳥に残る謎の石造物である「酒船石」についてである。(→wikipedia)
 この酒船石、用途が全くのところ不明であり、薬調合台説から油絞り台説、庭園施設説、はたまた宇宙人の痕跡説まで諸説紛々だが、名が酒船石と伝わっているにもかかわらず、酒造りにはほぼ関係性は見出せない。こんな石に窪みを穿って溝で繋げたものなど、日本酒造りには全く用途が思いつかないからだ。
 これが、果実酒造り用であれば話は別となる。季節に狩り集めた果実を持ち寄り、各々の石の窪みでそれを潰せば、果汁は溝を伝って流れ出る。それを縄文式土器で受けて、醗酵させる。さすればこれは、酒工場の中心器具ではないのか。
 もちろん、真相はわからない。ただ、この石に窪みを穿ち溝で繋げた石造物を「酒船石」と呼び慣わしてきたことこそが、古代縄文のワイン造りの記憶の痕跡であるようにも思われる。
 そのように夢を見てみるのも、悪くは無い。 

 次回に続く。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヤマタノオロチが呑んだ酒

2013年05月12日 | 酒についての話
 以前、郷土史のサイトを作ったときに、酒造りについての本も何冊か読んだ。
 それは、自分の今住んでいる街が、古来より清酒を特産として造り続けている街だからである。酒造りの歴史から、街の歴史を見ようと思った。
 その中で、柳生健吉氏の「酒づくり談義」という古い書籍を手に取った。著者は、長く西宮の老舗で酒造業に携わった叩き上げの方である。
 酒造りの歴史を研究した興味深い内容だったが、その中に日本における酒の起源についても言及がなされていた。

 日本の「酒」というものの存在について、最も古い記述は魏志倭人伝である。これは3世紀であり、日本のどんな歴史書よりも古い。
 魏志倭人伝は邪馬台国論争で注目されるが、当時倭人と呼ばれた民族(おそらくは日本人)の習俗についても詳細に書かれている。酒についても多少の記述が。例えば人が亡くなった時。
其死 有棺無槨 封土作冢 始死停喪十餘日 當時不食肉 喪主哭泣 他人就歌舞飮酒
 喪主哭泣し、他人就いて歌舞飲酒す。つまり葬送のときは、弔問客らが酒を飲んでいた様子が伺える。
 酒についての記述の中で面白いなと思うのに、
其會同坐起 父子男女無別 人性嗜酒
 とあって、その会同、坐起には父子男女別なしというのは、儒教的な習俗に欠けるという意味だろうとは思われるが、「人性嗜酒」というのが興味深い。人の性として酒を嗜む、と記されるのは、日本人は当時の中国人から見ても、酒好きが多く見えたのだろうか。面白いな。
 とりあえずは、卑弥呼の時代でも我々は酒を飲んでいたことが知れる。
 この酒がどういう酒であったかについては記述がない。そしてこれは歴史書のことであり、この時をもって日本の酒の始まりということではない。

 日本の史書で、現在に伝わるもので最も古いものはご存知「古事記」と「日本書紀」である。この成立は、教科書的には古事記が712年、日本書紀が720年とされる。僕はこれに異説も持っているが(もしも古事記が偽書でなかったなら1)、とりあえず成立は7~8世紀であることは間違いないだろう。
 古事記と日本書紀は、成立は魏志倭人伝よりも後だが、内容的には倭人伝よりも古くさかのぼって記述される。神武天皇が生まれたのが紀元前711年であり、それ以前の神話の時代となると、どこまで年代が遡れるのかわからない。
 神話は神話だが、その神話時代にも酒のことは多く出てくる。
 その神話の中で最初に出てくる酒の話は、あのスサノオのヤマタノオロチ退治である。
 これは、よく知られている話であるが一応書くと、高天原を追放された素戔嗚尊スサノオノミコトは、出雲国に降り立つ。そこで、泣いている櫛名田比売クシナダヒメと、その両親である足名椎命アシナヅチノミコト手名椎命テナヅチノミコトに出逢う。聞けば、年に一度八岐大蛇ヤマタノオロチという化け物がやってきて、娘を食べてしまうのだという。既に7人の娘は餌食となり、末娘のクシナダヒメももうすぐ食べられてしまうという。
 スサノオはヤマタノオロチ退治に立ち上がり、親のアシナヅチ、テナヅチに酒を用意させ、八つの樽に満たし、やってきたヤマタノオロチがその酒を呑んで酔っ払ったところをスサノオが退治した、という話。このあとオロチの尾から草薙剣(三種の神器のひとつ)が出てきて、スサノオとクシナダヒメは結婚してめでたしめでたし、なのだが、ここでヤマタノオロチを酔っ払わせた酒が、日本史上での酒の初出である。

 この酒は、どういう酒だったのかについて、古事記では「八鹽(塩)折酒」、日本書紀では「八醞酒」と記す。やしおりのさけ、と訓ずることが多い。
 この八塩折酒について、本居宣長が「八回酒で酒を重醸した」と解した。酒を水代わりにして酒を醸しさらにそれを繰り返してヤマタノオロチも酔っ払うアルコール分の高い濃厚な酒を造ったのであろうと。
 本居宣長の「古事記伝」というのは古事記研究のバイブルみたいなものであり、その解釈論は現在においても生きている。本居宣長に異を唱えることは生半可なことでは出来ない。したがい、現在も解釈本を見れば、八塩折酒は重醸であると書かれていることが多い。八度、手塩にかけて造った酒であると。定説となっている。
 しかしこの説に対して柳生氏は、明確に誤りであるとする。酒造業からの視点は、鋭い。
 そもそもヤマタノオロチが襲ってくる火急の場で8回も醸造を繰り返してられるか、という問題もあるのだが、さらに根本的な問題として、酒は重ねて醸してもアルコール分は高くならない、という事実があるようだ。
 本居宣長は古事記伝において「酎は三重の酒なり」という焼酎(蒸留酒)の製法を引用して、水の代わりに酒を用いて酒を醸し、それを八回繰り返したのだ、と説明する。しかし、醸造酒と蒸留酒では当然のことながら異なる。
 実は、水の代わりに酒を用いて醸しても、糖醗酵は起すが酒精醗酵は起さないものらしい。酒の中では乳酸菌が育たず、乳酸菌がなければ雑菌が増え、糖分をアルコールに変える酵母菌が育たなくなる。したがって、酒精醗酵は酒を水代わりに使った仕込みでは起こりえないものらしい。しかし糖醗酵だけは起すため、(揮発分は別として)アルコール分は変わらずに甘さが増した酒となる。味醂や白酒は本来このようにして甘く造る。
 つまり八回繰り返したところで、どんどん甘くなるだけで強い酒にはならないということである。なるほど。
 さらに、この神代の時代に焼酎はまだ存在していない。醸造酒を蒸留してアルコール分を抽出する方法が日本にもたらされたのは、せいぜい16世紀ではないかと言われる。
 したがって八塩折酒を重醸酒であるとする本居説は「醗酵学上あり得ない」と柳生氏はされる。「それが素人の悲しさというもの」と書かれていて面白い。
 では、八塩折酒とはどういう酒なのか。
 書紀の「八醞酒」がどういうものか。「醞」という字について、僕の手持ちの漢和辞典では「酒」「かもす」という意味しか載っていないが、延喜式巻四十「造酒司」に何種もの酒の原材料や醸造法の記載があり、その中の「雑給酒料」に
右雑給酒は十日に起して醸造、旬を経て醞となる。四度を限る。
との文言がある。10日間で醸すとは早い。ために、「頓酒」とも呼ばれ、速醸造の酒である。醞は「わささ(早酒)」とも読む。
 したがい延喜式から時代は大きく遡るが、漢文である日本書紀において、醞は速醸の意味で使われたのだろう。時間をかける重醸ではあるまい。もしかしたら「八醞」とは、8日間を示すのかもしれない。
 次に、古事記における「八塩折酒」とは何か。これは、よくわからない。古事記だから、おそらく漢字の意味よりも読み先行だったろう。「やしおおり」「やしおり」でそう間違いではあるまいが、意味はよくわからない。重醸からの連想か「やしぼり」と訓ずる場合もあるようだが、それはどうなのだろうか。

 その言葉の意味はともかくとして、八塩折酒について。
 古事記は、どんな酒かについては全然語ってくれない。須佐之男スサノオノミコトが「酒を造って、8つに分けて置け」と言うだけ。
告其足名椎手名椎 汝等 釀八鹽折之酒 亦作廻垣 於其垣作八門 毎門結八佐受岐 毎其佐受岐置酒船而 毎船盛其八鹽折酒而待
 頑張って読んでも、どんな酒かはわかりませんなあ。
 日本書紀も、似たようなものである。酒を醸して棚を八面設け、それぞれに一つ酒槽を置いた、くらいしか書かれていない。
 但し、書紀というのは「一書曰」という注釈がやたら多い。書紀が編まれるのに先行して様々に伝えられてきた歴史書があったからだろう。そこには本文以外の情報がある。
 こういうのもある。一書曰く。「素戔鳴尊乃計釀毒酒以飮之」と。毒の酒ですか。日本の酒の初出が毒入り酒とは穏やかではないが、酒にトリカブトでも入れたならスサノオが斬らずとも死んだだろうしなあ。酔わせて寝させる目的なら毒などいらないし。眠り薬なんてこの神代にあるとは思えないし。解釈が難しい。悪酔いする酒、毒のようによく酔う酒、と考えるのがいいのか。
 毒酒は措いて、柳生氏は別の「一書曰」に注目される。
素戔鳴尊乃教之曰 汝可以衆菓釀酒八甕 吾當爲汝殺蛇
 汝、衆菓を以て酒八甕を醸むべし。この「衆菓」、「もろもろのこのみ」または「あまたのこのみ」と訓じるが、酒の材料を示していると考えていいだろう。この酒は、たくさんの菓をつかって醸された。菓とは、果物の意である。
 つまり八塩折酒は「果実酒」だ。これには驚いた。スサノオはヤマタノオロチにワインを飲ませたのか。

 次回に続く。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寿司屋で酒を呑む その参

2013年04月07日 | 酒についての話
 前回の続き。

 結局、酒というのは気分よく呑めるかどうか、なのである。いい気分で呑ませてくれる酒場が、すなわちいい酒場であると僕は思っている。
 魚介及び寿司の微妙な味なんて、本当はよくわからない。自分の舌にそれほど才能もないし経験も積ませていない。100円均一の回転寿司だってうまいうまいと食べている。こちらは名取は閖上産の赤貝です、いつもと違うでしょう?などと言われても、いつものと並べて出してくれないとわからない。並べられてもわからないかもしれぬ。
 だから、僕の思ういい寿司屋さんとは、ネタの鮮度がいいとか産地に拘りを持っているとかでは、ない。職人さんの腕も確かに重要かもしれないが、それよりも、職人さんが短髪で清潔感があるとか(握る人に不潔感があったらイヤだ)、おしぼりの汚れを気にしてこまめに取り替えてくれるとか、前回書いたようにゲタを置いたり刺身を別皿でちゃんと出す店のことである。そういうのが、酒呑みの気分を向上させる。
 この店は、入ったときにまず職人さんがこちらを向いて笑顔で「いらっしゃいませ」と迎えてくれた。常連度がおそらく高いであろう小さな町の寿司屋であり、一見であることはすぐわかる。その一見の客をちゃんともてなそうという気持ちが見えた。
 僕は酒を注文するときに「お燗してください」と言った。そのときに店側は「熱くしましょうか、それとも…」という反応をした。こういうのは居酒屋でもあまり聞かれない。「熱燗いっちょ~」などと勝手に通されたりするのが大半(こっちはお燗と言っただけで熱燗とは言っていない)。燗の温度まで気にしてくれるのはうれしい。こうなると、酒の種類なんかどうでもよくなる。普通酒であっても美味いに違いない。
 また、タコの造り。このタコがどこ産のものかは知らないし、抜群に旨いものかどうかもわからない。もしかしたら少し水っぽかったかもしれない。けれども、きれいに盛り付けられ、あしらいもケンがしっかりと立っている。僕は刺身のあしらいまでたいてい残さず食べてしまうが、ケンの大根はしっかり水切りされていて気持ちがいい。
 タコも、酒のつまみにいいように造られている。心持ち厚めでしかもぶつ切りではない、歯ごたえを生かす造り。板場をのぞいていると、職人さんはタコの握りを注文されると、切り口を波型にして、さらに刃打ちをして歯切れがいいように仕上げて握っていた。つまみと握りでタコの切り方をちゃんと変えている。当たり前のことかもしれないが、そういう気遣いのない店もあるのだ。
 僕は気分がよくなって、酒をもう一本頼んだ。

 さて、この店には基本的にメニューはなかった。季節によって、また仕入れ状況によって品書きが変わるのが寿司屋であり、固定メニューを出しにくいのはわかる。
 だが、最初は気づかなかったのだがふと見ると、ホワイトボードに手書きの品書きがあった。そこには、一人前でいくら、といったことが書かれていて、松・竹・梅となっている。並・上・特上でないのも好感が持てる。
 そして、一品料理も。茶碗蒸し、潮汁、あら味噌汁と書かれている。値段もちゃんと明記してあった。
 これは、困惑する。
 僕はここまで、「寿司ネタをつまみに酒を呑むのが寿司屋で酒を呑む本流」であると書いてきた。一品料理は寿司屋の本業ではなく、若い頃に気取って煮魚を注文したことを大いに反省している。しかし茶碗蒸しは好きなんだよなぁ。しかも、品書きにあるんだよなー。
 僕は誘惑に負けて(?)、茶碗蒸しを注文してしまった。
 寿司屋の昼のランチでは、よく椀物がいっしょについてきたりする。おそらくこの店も昼はそうしているのだろう。このくらいは、寿司屋の許容範囲だろう(本音は茶碗蒸しがメニューにあって嬉しい)。
 ちなみに、僕にとって潮汁は酒のアテになりうる。というか、吸い物で酒を飲むのが実は好き。外ではなかなかしにくいが、家ではハマグリの吸い物などで延々酒を呑んだりする。蕎麦屋で「抜き」で呑むのも同様だろう。しかし味噌汁は僕には酒のアテになりにくい。どうしてかな。好みとしか言いようがない。茶碗蒸しは大好物なので(末期の一品にしたいくらい)、万能である。茶碗蒸しで酒も呑むし、メシのオカズにだってする。結婚したての頃、茶碗蒸しでご飯を食べてる男をはじめて見た、と女房は言い、僕をヘンタイ扱いした。

 茶碗蒸しは出来上がるまで時間がかかる。こういうのは席に着くと同時に注文すべきものだが、品書きの発見が遅れてしまったのでしょうがない。出来上がるまで酒を呑んで待つことになる。サクっと呑んで寿司に移行、がマナーであるのはわかっているので、申し訳ない。
 そうしているうちにタコの刺身は食べ終わった。酒は二本目に入っている。つけ台におかれたガリも口直しについつい食べていると、すぐに補充してくれる。こういうのも気持ちがいい。
 つまみはタコだけで終わろうと思っていたのだが、つい興に乗ってアジを頼んだ。ガラスケースにはサバもあって、どちらを切ってもらおうか迷ったのだがアジにした。さすれば、
 「たたきにしましょうか? それとも刺身で?」
 刺身にしてもらった。たたきも旨いのだけれど。
 しばらくして、出てきた。またきれいに盛ってある。アジの色つやもいい。
 もちろん新しい皿だが、醤油皿も取り替えてくれた。アジには下し生姜も添えられている以上当然なのかもしれないが、こういうところがちゃんとしている店はもう間違いないような気がした。
 アジを生姜とともに口に運ぶ。奥歯でギュっと噛みしめるほどの身の締り。これは刺身で正解だったか。また、鼻に抜ける香りがいい。酒がすすむ。
 そんなことをしているうちに、茶碗蒸しが運ばれてきた。
 寿司屋で出されるものは、例外はあるが握りも含めほぼ冷製である。だから燗酒や熱いお茶でバランスをとっているとも言えるが、こういう温かい料理を挟むのもまた嬉しい。
 茶碗蒸しは、言うまでもなく出汁を贅沢に用いていて、上品な仕上がりで本当にうまい。具は小海老、白身魚、百合根、銀杏、椎茸、三つ葉。鶏肉など入っていないのはさすが寿司屋の茶碗蒸しというべきか。匙で食べているのだが、その匙をなかなか置くことが出来ない。
 僕はもう一本酒を追加せざるを得なかった。

 ここまで、突き出しのイクラ、タコとアジの刺身、茶碗蒸し、酒三本。店に入る前に生ビールも中ジョッキで飲んでいる。酔い加減も、ちょうどいい(いや、ちょっと過ごしていたかも)。
 さあ寿司にしよう。
 多人数のお客さんがさっき帰ったのもまたいいタイミングである。注文して待たされるのは、しょうがないけど好ましくはない。今なら職人さんは手が空いている。
 「握ってください」
 そう言うと、板場から手が伸びてガリをまた新しく盛ってくれた。前に散らかっていた空いた皿などは全て一度片付けられ、醤油皿が寿司用のものに。今まで刺身は四角い深めの醤油皿だったが今度は浅めの丸い皿。こういうのは当たり前のことかもしれないが、ちゃんとやってくれない店も多いのである。さらにおしぼりも取り替えてくれた。寿司は手でつまむから、ということだろう。そして、
 「何しましょう!」
 の声がかかる。この瞬間、好きだなあ。ようし食べるぞ。

 よく、寿司を食べる順番について薀蓄のネタになるが、本当にどうでもいい。脂の強いものは後にしろという意見が多いが、まずトロを食べろ、という銀座の名店もある。だいたい、ガリを合間に食べお茶を飲めば口中はリフレッシュするだろう。あたしゃ好きに食べさせてもらう。
 まずは、エビ。小ぶりなのでそんなに高くないだろうという読み。僕は甲殻類が大好きでエビには目がない。エビは、やはり踊りより茹でたのが好み。予想通り旨い。
 次に、さっきつまみで食べるのを見送ったサバ。一応〆てあるのだが、シメサバまでゆかずかなり生状態。これ旨かったね。
 職人さんは完全に僕の前に立って、次は何が来るのかと待っている。僕も、出されたらすぐにつまんで食べる。これ、一人でないとこうはいかないのね。二貫で出されるので、一貫食べたら次の注文をする。それがスピードアップに繋がる。
 次ににヒラメ。脂がのっている。旨い。
 次にシャコ。ケースに見たときから食べようと決めていた。これは煮ツメを塗って供されるが、ゲタに直接置くのではなく小皿に乗せて出された。ツメが垂れるから、ということだろう。こういう気遣いも、当たり前なのかもしれないがちゃんとしている。このちゃんとしているところが嬉しい。ますます旨くなる。
 次に、マグロの赤身で鉄火巻きを。巻きすを使ったものも、ひとつは必ず注文する。海苔の香りがいい。パリっとしている間に急いで食べる。
 で、ついにアナゴ。握りを食べるときのクライマックスだと僕は思っている。軽く炙って握ってくれる。煮ツメを塗って、シャコと同様別皿で。口に入れるとほんのり温かく、はらりと溶けていく。あーホントにアナゴは旨いよね。カウンターで寿司を食べる醍醐味がこれ。
 最後に玉子を。さっき茶碗蒸し食べたのにまだ食うか、てなもんだが好きなものはしょうがない。寿司屋の玉子は、旨いよねー。

 ああ旨かった。もっと食べたいとも思ったがこれくらいにしといてやるか。
 熱いお茶を飲みながら、旨かったです、と伝える。にっこりと笑って「ありがとうございます」と。この店、また来たいな。何とか機会を作って。 
 勘定は、煮魚を食べて青くなった店の半額以下。満足です。寿司屋で呑んで食べるなら、こんな感じが理想。
 寿司屋で呑む話、終り。
 
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寿司屋で酒を呑む その弐

2013年03月30日 | 酒についての話
 さて、前回の続きで、とある寿司屋に入った話。

 と言いつつ、まだ入らないのである。ホテルの部屋の窓から店の構えを見て、もう入ることは決めているのだが、その前にビールを一杯飲みたい。ちょっと疲れて喉が渇いていたということもあり、また公的自分から私的自分へ移り変わる儀式でもある。
 ビールなど寿司屋に入って注文すればいいだろう。まさにその通りなのであるが、僕は寿司屋ではビールを飲みたくない偏狭者だということを既に書いている。
 …なんてゴタクを並べたが、実はホテルフロント横に喫茶軽食コーナーがあって、そこに生ビールサーバーを発見したのだ。寿司屋に生ビールがあるとは限んないもんね。僕はそこでまずゴクゴクと生中を飲み干し、ほろ酔い気分で勇躍寿司屋に出かけた。

 さて、寿司屋ののれんをくぐる。もちろん初めての店であり、ちょっと緊張したりして。
 宮脇俊三氏が、こんなことを書かれていた。大都市では細分化される業種が小さな町では未分化となると。主題はビジネスホテルがラブホテルとして利用されたりもする、というような話だが、「小都市で寿司専門の店を探すのはむずかしい。たいてい鰻屋と天ぷら屋を兼業している。私は鰻が好きだが、あの臭いを嗅ぎながら寿司をつまみたくない。寿司だけの店はないかと探しても、なかなか見当たらない」と書かれているのを読んで笑ったことがある。確かにそうなんだよね。さほど人口が多くない町で、飲食店として寿司だけで成立させるのは難しいだろう。よくのれんには「寿司・割烹」とか書かれていたりする。

 そのまさに小さな町の寿司屋であるが、どうやら寿司専業の店らしい。これは、有難いことである。せっかく勇気を出して寿司屋に入ったのに、居酒屋か何だかかわからない様相ではちょっと残念な気持ちになったりもする。
 酒を呑みやすいのは、実は未分化の店である。居酒屋っぽい寿司屋。一杯やろうとするならば、寿司だけを看板にしている店は、ちょっと身構えるのも確か。しかし、その身構える感じも味わいたい。寿司屋という専門店に入ったという気にさせてくれないと。
 専門店にもいろいろある。焼き鳥屋。おでん屋。串カツ屋。いずれも酒を呑むことを前提としているので、何も身構えることはない。ただ寿司屋は、酒も呑めるだろうけれども、基本的には飲酒抜きでも成立する専門店である。
 同様の形態に、鰻屋、蕎麦屋等が挙げられる。鰻丼を食べる、蕎麦をたぐるついでに、酒も呑ませてもらう店。専門店であるがゆえに、そこで食べられる酒肴はたいていは本業の流用品である。鰻屋であれば白焼きそして肝焼き、う巻き、うざく、香の物くらい。蕎麦屋であれば、焼海苔、鴨焼き、天たね、鰊棒煮などの蕎麦の具。したがいこれらの店で、例えば刺身などの本業と異なるもののメニューがあったとすれば、それはむしろ残念な気持ちになる。せっかく専門店に入ったつもりだったのに、小さな町の未分化店と同じことになってしまうから。
 寿司屋はまさにその本業の流用品が、新鮮な魚介である。酒を呑まずにいられようか。だから、寿司屋で酒を呑むのが好きなのだ。
 無論、こちらもそのつもりで居なくてはいけない。寿司ネタをつまみに酒を呑むのが寿司屋で酒を呑む本流。仮に可能であるとしても、そのブリを照り焼きにしてくれとか鯛のカブト蒸しが食べたいとか言うべきではないのだろう。魚があるんだから煮魚を食わせろなんて言う生意気な若造は阿呆だ。そんなヤツからはうんとふんだくればいい(前回参照)。
 
 さて、カウンターが空いていたので座る。寿司屋に来てカウンター席が空いていなかったら寂しい。寿司屋特有の冷蔵ガラスケースがあり、そこに魚がずらりと並んでいる。その寿司ネタケースの前が特等席のように思うが、僕はちょっとずれた席に座った。そちらのほうが、職人さんの仕事が見やすいから。
 居酒屋で一人で酒を呑むときに僕は本や新聞を読んだりといった行儀悪いことをしてしまったりもするが、寿司屋ではそういうことはしない。職人さんを見ていると退屈しないからだ。その手さばきを見るのもまた酒の肴のひとつである。
 まずは、燗酒を注文。しばらく待つうちに、奥から運ばれてくる。同時に小鉢が置かれた。お通しだろう。のぞいてみるとイクラのおろしあえだった。大葉の緑が鮮やか。これなら、いい。それをちびちびと食べながら徳利を傾けていると、職人さんの手があいて僕に「何か切りましょうか」と言ってきた。

 酒のつまみには、何を注文すべきか。これは、人それぞれ好みであるので正解はなく、食べたいものを出してもらえばいい。
 僕は、基本的にこのように考える。
 まずは、最初店に入り座った段階で、何を握ってもらうか大まかな作戦を立ててしまう。僕は酒呑みだが、寿司屋はあくまで寿司がメインである。ネタケースを見たり、あるいはつけ場の後ろに品書きが並んでいたりするので、それを頼りにある程度心積もりをする。そうして、寿司として食べたいもの以外の魚介を切ってもらう。カブらせない。ひとそれぞれだが僕は、例えばトロをつまんで酒を呑みさらにトロを握ってもらう、ということはしない。
 寿司屋にある魚介は全て寿司にするために仕入れているわけで、みんな寿司として食べれば旨いはずだが、そこに好みの問題は入ってくる。僕にとっては握るよりつまみとして食べるほうが望ましいネタもある。
 僕のパターンは、歯ごたえが強かったりするものは寿司よりつまみで。柔らかいものが寿司で固いものがアテ。寿司はネタとシャリが食べたときに口中で渾然となる幸せを味わいたいので、コリコリしていつまでも口中に残りシャリが先に嚥下されてしまうようなものは、ネタだけで食べたい。
 具体的には、貝類などはつまみだろう。サザエやツプ貝。アワビも、酒蒸のいかにも柔らかそうなものは握ってもいいが、活けのものは歯ごたえも身上であり、それはつまみとして食べたい(もっともアワビなど怖くて注文しないが)。
 そして、僕は貝で呑むのが大好きなのである。昔北陸に住んでいた頃、寿司屋に行って「バイ貝」があれば必ず切ってもらった。コリっとした感じががたまらん。ワンパターンだがいつも食べていた。
 二枚貝、とくにホタテやハマグリなどは口の中でほどけていくので、握りで食べるのがいい。トリ貝はしっかりとしているが握りも好き。しかしホッキ貝はつまみのほうが好き。もうこれは好みだろうか。
 他には、イカやタコなど。イカもコウイカはやわらかいがヤリやスルメは歯ごたえがいい。その店に応じて。また、活けのカンパチやシマアジ、フクラギなどはしっかりとした歯ごたえのものもあり、酒に合うのでつまみでいただくほうが多い。
 その日は、初めての店でもありまずタコを切ってもらった。

 寿司屋のカウンターは、たいてい二階建て構造になっている。徳利やお通し、箸などを置いているテーブル部分が手前にあり、奥(調理場側)に、一段高くなっている部分がある。これを多くは「つけ台」といい、職人さんが寿司を握って置いてくれる台となっている。
 これは寿司屋が屋台だった時代からの流れをくむもので、伝統のシステムと言っていい。直接寿司を置くので、その部分は板ではなく漆塗りになっていたりもする。客が寿司を取りやすいように傾斜していることもある。
 しかし、僕はこのシステムがあまり好きではない。そういうと寿司通の方に「寿司を語るな」と怒られそうだが、このつけ台というものは、言ってみれば備え付け型の長大な、カウンター全客共用の食器である。そこに寿司を直接置く。
 つけ台は簡単には取り外して洗えないので、営業中は拭くだけである。混雑していると、前の人が食べたガリの残りや煮ツメが垂れたあと、ごはんつぶなどがつけ台に付着している。それをざっと拭いて、次のお客さんどうぞ。拭いたあとがまだ濡れている。不衛生とまでは言わないし僕も潔癖症ではないが、それほど気持ちがいいとも思わない。つけ台の上に大きい切り笹やバランを敷いてくれる店もあるが、それとて好ましい、とまでは言わない。
 ある寿司屋で、つまみに貝を頼んだ。さすればつけ台の上にバランを置いて、その上に職人さんが切った貝を無造作に手づかみで置いた。なんとなしにいい気分はしない。刺身は「造り」とも言い、美しい盛りつけが身上でもある。さらに寿司を頼むと、その同じバランの上にポンと置いた。生の魚を置いて、とても水っぽくなっているところに飯を置く。せめてバランは取り替えてくれないだろうか。確かに酒を呑みながら寿司と刺身を交互に注文したりするお客もいるので、いちいちそんなことはしていられない、と言われるかもしれないが。

 この店は、まずつけ台の上に、さらに台を置いた。それはいわゆる「ゲタ」と呼ばれるもので、小さなまな板に足をつけたようなもの(下駄の鼻緒がないもの、と言ったほうがわかりやすい)。このゲタも「つけ台」と呼ばれることが多い。つまりつけ台の上につけ台を重ねたのだが、これは気分がいい。
 僕が繰り返し行こうと思う寿司屋は、必ずこうしてゲタを置いたり塗りの板を置いたりして、備え付けの場所に直接寿司を置くことをしない。伝統とは異なるかもしれないが、こういう気遣いはうれしい。
 そして、ゲタの上にはガリを置く。まだ握ってくれとは言っていないが、いつでもいいですよ、ということだろう。
 そして、頼んだタコの刺身は、別皿にきれいに盛り付けられて出てきた。そしてつけ台ではなく、前のテーブル部分に置かれる。
 こういうことがちゃんとしていると、それだけで嬉しくなってしまうのである。酒もうまくなってくる。

 続きは次回
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寿司屋で酒を呑む その壱

2013年03月17日 | 酒についての話
 先日、地方都市で夜、寿司屋に入った。

 回転寿司ならともかく、ちゃんとした寿司屋は我々にはやっぱり少し「怖い」気がする。寿司屋は、会計まで値段がわからないところが多い。酒を呑んで調子に乗ってじゃんじゃん食べると、えらい金額を請求されたりする。
 何度も書いていることだが若い頃、いきがって一人で寿司屋に入り、カウンターに座って酒を呑み、そしてつい煮魚が食べたくなって注文した。寿司屋だもの、魚料理は何でもござれだろうと思ったのである。板さんが「カレイでいいですか」と言うのでそれを煮てもらった。さすがにふっくらと煮あがったカレイは絶品だったのだが、その一皿で7000円とられた(とられた、とは申し訳ない言い方だがそのときはまさにそんな感じがした)。別に一尾ではなく切り身だったのになあ。そりゃね、その切り身で寿司が何貫握れるか、ということを考えれば確かに納得もするのだが、煮魚ですよ(たかが、とはもちろん言わないが)。
 酒も呑み寿司も食べたので、合計で13000円。まだ僕は20代前半だった。青くなった。
 懲りた。以来もう寿司屋で生意気に煮魚など絶対に頼まない。
 
 閑話休題。
 その夜はなぜ寿司屋に入ろうかと思ったかといえば、まず宿泊先から近かったから。ホテルはちょっと繁華な場所からは離れていて、部屋の窓から見える飲食店は数軒しかなく、そのうちの一軒だった。もう遠くへ行くのは面倒だった。
 普段は入りにくい寿司屋だが、海に近い地方都市であり、それほどべらぼうな請求はされないだろうという読みもあった。ならば、ちょっとくらい贅沢してもいいだろう。今日は疲れた。
 そういったことが理由となるが、最も大きな動機は、一人だったから、ということ。
 寿司屋で呑むのは、一人に限る。僕はそう思っている。何故かといえば、僕が偏狭な性格だから。それに尽きる。なので気が合わない他人と席を同じくしていると、もう居心地が悪くてしかたなくなるのだ。
 その自分の偏狭な性格について、書く。

 寿司屋は、とりもなおさず寿司を食べるために存在している。なのに、そこで酒を呑むとは何事か、とおっしゃるむきもあろうかと思う。山本益博氏は確か「僕はすし屋ではおすしだけを食べる」と言われていたような。それは確かに正論かもしれない。だが、寿司屋には間違いなく上質で旨い魚介が並んでいるはず。だから、その旨い魚で酒が呑みたいと思う呑ん兵衛の気持ちは、ある程度理解はしていただけるのではないか。もちろん、寿司屋だから寿司を食べずに出てくるなんてことは、ない。
 その旨い魚介にあわせる酒は、まず清酒だろうと僕は思う。
 これは好みの問題であって、また生牡蠣とシャブリ論争みたいになりかねないが、少なくとも僕はそう思っている。
 だから、店側も「やっぱり日本酒だろう」と思っていてくれていればありがたい。そういう店のほうが、居心地がいい。
 実際に、ワインセラーを持っている寿司屋に入ってしまったことがある。まあね、ワインを充実させている店であっても、自分がワインを飲まなければいいだけの話であって関係ないのだが、その店ではほとんどの人がワインを飲んでいた。そういう中で、断固として日本酒を呑んでいると、どうも居心地が悪い。ワインを飲んでる人もいる、程度ならばいいのだが。
 ここからが僕のさらに偏狭な部分だが、僕は寿司屋ではビールさえ嫌である。僕は酒と肴の相性の好みについては偏りがあり、ビールに合うアテというものは限られている。アツアツの串カツや唐揚げをガブリとやり、口の中が火傷しそうになったところへビールをくいっと、というのはたまらなく好きだが、刺身のような冷製の料理で冷たいビールを飲むのは好ましくない。そして、フライやギョーザの置いてある寿司屋もまた、好ましくない。
 山口瞳氏のエッセイの中に、ビールというものを置かない、一切飲ませないふぐ料理屋の話が出てくる。ふぐには日本酒に限る、という店の持論かららしい。僕も同様に考えているので拍手したい思いでいるが、そこまで出来るのはよっぽどの老舗で予約必須の店でしかありえないだろう。ふらりと入れる店で「うちはビールはございません」なんて言われたら「何言ってやがるべらぼうめ」になってしまう。
 僕も、別に寿司屋にビールやワインやウイスキーを置くな、とまではもちろん思っていない。ワインを看板にしてまずワインリストを持ってくるような前記の店には閉口するが、別に離れた席に飲んでいる人がいたって問題はない。むしろ、日本酒に「こだわり」を持った寿司屋もそんなに好ましいとは思っていない。全国の隠れた旨い酒、なんてのが呑みたければ銘酒居酒屋に行くし、吟醸酒の香りは生きのいい魚には合わないと思っている。なにより、寿司屋に入れば間違いなく僕は燗酒が呑みたいと思っているのであり、ガラス張りの冷蔵庫から出してグラスに注がれる酒は求めていない。
 だから、店が吟味した清酒を一銘柄だけ置いている店、というのが最も望ましい。そして、気を遣っていい按配に燗をつけてくれる店。寿司屋の酒のつまみの王道は間違いなく刺身だが、それに対するのはやはり燗酒。僕の「腹内温度一定の法則」が発動するから。

 だから、寿司屋には一人でゆきたい。連れ立っていくと、勢いがつくから必ず以下のようになる。
 「ああお疲れお疲れ。まずはやっぱりビールだろ? おにーさーんビールちょうだい。おお来た来た。さあぐーっといってくれよ。うーんやっぱり寿司屋じゃグラスが小さいな。もう一杯いけよ。ねー、何かつまみを切ってよ。トロがいいなやっぱりトロが。寿司屋はマグロだろう。さあじゃんじゃん飲もう」
 僕は間違ってもトロでビールなど飲みたくはない。トロなどはつまみとして出されるのも嫌で、寿司にしてシャリといっしょに食べてこそその実力を発揮するものだと思っている。百歩ゆずってつまみとして食べるなら、やっぱり燗酒を所望したい。トロなんて高価なものじゃないですか。だったら、自分が最も良いと思える方法で食べたいもの。だがむろん、あなたが「トロとビールの相性は最高」だと考えているなら別に止めはしません。どうぞご自由に。
 以上のようなことを酒席で言えば白けてしまう。気まずくなる。僕だって大人だ、空気くらいは読めるので、しょうがなくビールを飲む。楽しくないですな。だから、連れ立って寿司屋に行くのは嫌なんだ。

 もうひとつ、重要な問題がある。僕は、寿司で酒を呑むのが好きではないのだ。
 これについては昔「飯で酒が呑めるのか?」なんて記事を書いたことがある。その内容と重なるが、あくまで酒肴は酒肴、寿司は寿司。今もそれは変わらない。
 寿司屋に行けば寿司を食う。これはしごく当然のことである。だが寿司屋で酒を呑む場合は、あくまで最初に酒肴として刺身などのつまみで一杯やって、その後に寿司を食べたい。寿司を食べつつ酒を呑む、という方式はとりたくない。宴会というものはたいてい、まず酒をたらふく呑み、最後にごはんもの、また麺などで「シメ」にするでしょう。それを寿司屋でも踏襲したい、というだけのこと。
 だが、世間ではむしろ寿司をつまみつつ酒を呑む、という方式が主流のようだ。どこかのグルメ本で、いかに酒にあわせて旨い寿司にするか心を砕く、なんて職人さんの話を読んだこともある。提供する側もそういう考えがあるらしい。高級寿司屋でおまかせにすると、寿司と酒肴が交互に出てくるという事例を、これもグルメ本で読んだことがある。
 だから、余計に「酒肴は酒肴、寿司は寿司」とは主張しにくい。
 酒を頼んだら職人さんが「どうしましょうか?何か切りましょうか?」とだけ言ってくれれば嬉しい。わかってるねー。しかし「切りましょうか? それとも握りましょうか?」であれば、「握ってくれ」と僕より先に言う人がいる。しまった先を越された! そういう経験が以前あって、その相手は気の置けない人だったから素直に僕は尋ねた。「飯で酒を呑むのかよ?」と。
 さすれば、「寿司屋で寿司を食べずに何かつまんで酒ばっかり呑んでる客は嫌われるぞ」と言う。そうなのかい? 確かにグダグダと酒ばかり呑んでる長っ尻の客は好ましくはないだろうが、サクっと呑んで寿司に移行するなら別に問題ないのでは、とも思う。それに、そんなに寿司屋の都合ばかり考えなくてもいいんじゃないのかい。マナーは大切だが、客の都合だって少しは加味してもいいだろう。客なんだから。

 さらに「寿司で酒を呑むのが大好き」という人もいる。それはそれでかまわないが、こういう人と同席してしまったら困ることもある。
 上記記事で「握りを頬張ったら即座にビールを飲めという上司」のことを書いたが、こういうのは我が身の不幸として捉えるよりしょうがない。だが、これは決して特殊例ではない。
 友人達何人かとで、昼食に寿司屋に入ったことがある。あくまで昼食であり、テーブル席に座ってそれぞれ一人前づつ注文した。桶に盛り合わせられた寿司が各々の前に並んだ。僕らは談笑しながらそれを食べていた。
 当然、お茶を飲んでいる。ところが一人が「やっぱり寿司食べたらビール飲みたいな。一本だけならいいだろう」と注文した。一本だけでも、全員の前にグラスが配膳される。
 僕はビールなど飲む気はさらさらなくて寿司を味わって食べていた。ところが、その友人が「お前も飲めよ」と僕の前のグラスにビールを注いできたのだ。しかも、乱暴な男でドボドボとついだから、泡がたちまち盛り上がってテーブルに溢れた。僕は、その溢れるさまを何も手を下さず見ていた。
 「何でこぼれる前に一口飲んでくれないんだよっ!」とその友人は言う。僕だってそうしたかった。しかし僕はウニの軍艦巻きを口に入れたところだった。旨い。さすがは北のウニは一味違う。たまらん(言い忘れたが場所は北海道は積丹半島である)。その口中にビールを流し込めというのか。とんでもない話だ。だいたいワシはビールを飲ませろとは一言も言っていないぞ。百歩譲っても、お前がビールを乱暴に注ぐからこうなったんじゃないか。
 まあね、こんなことで別に険悪な雰囲気になったりはしませんよ。「ウニが口の中に居て幸せだったんでビールをそこに入れたくなかったんだよ」と笑いながら答えて、すまんすまんとテーブルを拭きましたがな。しかし「寿司を食べるとビールが飲みたくなる」という御仁は、いっぱいいるのだ。油断できない。

 昼食ですらこれだから、酒を前提とする夜に、寿司屋に連れ立っては入りたくないのである。それが世間的に見て偏狭な性格であるということは、もうわかっているが。
 で、先日一人で寿司屋に入ったのだが、話がそこまでいかなかった。次回
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

角打ち・酒屋呑み

2013年02月09日 | 酒についての話
 前回の続き。
 僕は京都生まれで、あちこちに引越しを繰り返してきたものの今はまたしばらく関西に住んでいる。そういう状況下において「角打ち」という言葉は全然聞いたことがなかった。知ったのは、近年である。
 どうも九州や関東において「酒屋でのむ」ことをそういうらしい。最近、この言葉は便利なので全国区になりつつあると思われる。
 なにゆえ「角打ち」というのかは全く知らない。こういう時代だから検索すれば正答を得られるかなとも思ったが、諸説あるらしく決定打はない。しかし「北九州角打ち文化研究会」という団体があるようで(いかにも遊びを遊びと知っている大人が集まっている感じがしますな)、そのHP内の角打ち(かくうち)とはを読めば、辞典の「酒を升にはいったまま飲むこと」という定義を引用しておられる。枡は角ばっているのでそこからかもしれないな。「打つ」とはなんだろうか。もしかしたら地方独特の言い回しか、明治以前の言葉であるかもしれない。古語かなー。
 こんなことも書かれている。
関西では、酒屋で飲むのは、「立ち呑み」、立ち飲み屋で飲むのは「立ち飲み」らしい。東北では、「もっきり」とも。
 関西では言葉が未分化であるようだ。呑むと飲むの書き分けは後付けだろうと思われる。この未分化の理由は、少しわかるような気もしている(後述)。「もっきり」は知ってる。つげ義春の「もっきり屋の少女」という佳作は僕も持っている。おそらく「盛りきり一杯」からきた言葉だろうと確か推測されていたっけ。

 さて、角打ちの定義である。これも前記「角文研」さまに教えていただくことにする。
「ところで、酒屋は酒を販売するところであり、飲ませるところではない。飲ませるところは飲み屋であって酒屋ではない。」 
「酒屋は酒を売るのが商売であるから、酒を買ってくれる人はお客である。しかし、そこで立ち飲みし始めた人はお客ではないはずだ。飲んでいる人にサービスをする必要はないし、サービスすれば違法である。」
 なるほど、こう言っていただくとはっきりしてくる。
 あくまで、酒屋なのである。酒屋で酒を買って、通常は持ち帰って呑むのだが、その場で「勝手に」呑んじゃうのが「角打ち」だ。
 酒屋は飲食店ではない。上記引用で「違法」というのはそういうことだろう。酒を燗したり水割りにしたり、さらにはつまみを出したりするには飲食店免許が必要となってくる。保健所から食品衛生法に基づく営業許可を得て、さらに食品衛生責任者の資格を持つ従業員が必要となる。そういう準備がもちろんない普通の酒屋では、酒を呑みに来る客に対して一切のサービスは出来ない。テーブルや椅子なども、飲食店のサービスのうちだろう。なので、立ってのむしかない。テーブルは、せいぜいレジカウンターということに。
 つまみの類は、酒屋で珍味、乾き物や缶詰などを売っている場合があるので、それをその場で食べることは可能だが、あくまで売っているものを勝手に食べているのであって、店側が調理して提供しているのではない。
 酒をコップに入れて供することすら、厳密に言えば問題があるのではないか。仮に酒樽を置いて量り売りをしていたとしても、店側が食器を提供することになり、洗浄がしっかり出来ているか保健所の監察が入らねばならない事態にならないとも限らない。
 だから角打ちは、安い。当然だろう。全て店で売っている小売価格ですむのだから。

 さて、角打ちは、酒屋があって、そこの人に「ここでのんじゃってもいいかな?」と聞いて「いいとも!」と言ってくれさえすればそれで成立する。その店を「角打ち可能店」にするのも、店の方とのむ人の意思だけで決まる、ということになる。
 もちろん、断られるほうが多いのではないかと思われる。店の中でのまれたら営業妨害だと考えられるむきもあろう。それだけに「いいとも!」と言ってくれる店は呑み助にとっては有難く、呑ん兵衛があちこちから集まってきてしまうかもしれない。
 角打ちの名店などは、そういうふうな過程で生じてくるのだろう。
 だが、そういう角打ちが出来る酒屋って、本当に今もたくさんあるのだろうか。
 
 角打ちのルーツは、江戸時代にさかのぼると考えられる。太田和彦氏は著作「超・居酒屋入門」において「居酒屋は江戸時代、酒屋の店頭で立ち飲みさせたのがはじまりと言われる」と書かれている。
流通用小売り瓶のない当時は酒も醤油も量り売りで、客は容器を持って買いに行った。(中略)大都市江戸は地方からの出稼ぎ労働者であふれ、彼らは一日の手間賃をもらうとまず酒屋に行き一杯となった。徳利も何もないからその場で、量った枡で飲む。これが居酒屋のはじまりだ。
 なるほど。居酒屋のはじまりの説明だが、これはそのまま角打ちのはじまりの説明でもある。枡で呑むところなどまさに角打ちと言える。
 だが、太田氏は続ける。「やがて、煮〆やおでんを置く『煮売り屋』となり、酒と一緒に安直に小腹を満たす所となった」と。つまり酒屋が居酒屋になっていく過程だが、これは必然ではないか。江戸時代には飲食店免許など関係ないが、角打ちが評判となればそれは居酒屋へと発展していくのも摂理と言える。
 大阪で広く立ちのみ処を展開している「赤垣屋(HP)」。全国初の立ち呑み店であることを謳っているが、その沿革を見れば、最初は酒屋から始まったことが記してある。その酒屋時代に酒を店頭で呑ませてくれていたとしたらそれは角打ちだが、居酒屋へと発展となれば、その時点で赤垣屋はもう角打ちの店ではなくなったことになる。
 ここから先は、推測。
 関西に「角打ち」に該当する言葉がなく、「立ち飲み」「立ち呑み」などと無理に分類していることについて角文研さまの言を引いて前述したが、もしかしたら関西では、酒屋でのませる店は、サービス精神旺盛な土地柄ゆえにどんどん居酒屋に衣替えして、純粋な「角打ち」は早期から少なくなっていったのではないだろうか。なので「酒屋呑み」に該当する言葉が生じる間がなかったのではないか。なんせ、全国に先駆けて立ちのみ屋が酒屋から発展して生まれた場所柄なのである。
 関西には、酒屋の立ちのみは多い。僕が知る中でも、神戸元町のA松酒店、十三のI中酒店、梅田のU田酒店、京橋のO室酒店などいずれも名店だが、これらの店は酒販店ではあるものの厳密に言えば角打ちではない。立ちのみ居酒屋である。僕の分類によればその形態は「通常飲食店由来型」となる。酒屋がルーツなのはよくわかっているのだが、店の形態は既に居酒屋である。
 U田酒店を例にとれば、ここはもちろん現在でも酒販店である。酒の小売もちゃんとやっている。だが、酒のつまみとしていろいろ料理したものも出してくれる。これは飲食店も兼ねていないとできない。もちろん缶詰や乾きものなど調理不要の角打ちらしいメニューもあるが、おでんもぐつぐつ煮えている。コンビーフにマヨネーズをつけると+30円となったり、焼酎ロックを頼むと氷代は別料金となったりで極めて角打ちっぽいのだが、決定的なのは店頭で缶ビールを買い持ち帰るのと、店内でその缶ビールを飲むのとでは若干ながら値段が違うのである。本当にほんの少しだが店内でのむと高くなる。これは、飲食店であるからなのだ。

 僕は今関西に住んでいるが、この地で純粋な「角打ち」を経験したことはない。
 もちろん探せば、そういう「店頭でのませてくれる酒販店」はあるのだろう。だが、機会がない。酒屋で酒を買うときに「ここでのませてくれますか?」と確かめることもなかなかしないし(フィールドワーク精神が欠如しているな^^;)、それにも増してまず、酒屋に行くことが少なくなった。
 酒は、量販店やスーパーで買ってくる。そっちのほうが安いから。
 例えばこういうことはある。妻といっしょにスーパーへ行く。惣菜売り場で、出来立ての焼き鳥を見てつい「ああうまそうだ」と思い購入する。アツアツだ。しかしそこで気がつく。これを持って帰って家でアテにするころには冷めてしまう。レンジでチンしても当然味は落ちる。いいや、もうここで食べようよ。幸いスーパーの片隅に休憩できるスペースがある。ここでスーパー製の弁当を買って食べている人もいて、冷水器まで完備してあり紙コップもある。じゃビールを買って、小宴会といこうじゃないか。なーに、人目など気にならないよ。
 これ、角打ちと言えるだろうか。違うよねやっぱり。
 駅のキオスクでビールやカップ酒を買う。その場でぐーっとのむ。これもやっぱり違うよね。 

 もうひとつ大きなことは、酒屋そのものが減少しているのではないかということ。
 前述したように、僕だって酒は主として量販店やスーパーで買ってしまうフトドキモノである。酒屋に行くときは、地酒や珍しい酒が欲しいときくらい。それも、機会は少ない。消費者がこれでは、町の酒屋さんは苦しかろう。誠に申し訳ない。
 昔、よく行っていた酒屋さんがあったが、代替わりでコンビニに衣替えしてしまった。酒を売るには酒販免許が必要なため、こういう例が多いとも聞く。
 コンビニで角打ちが出来るだろうか。酒は揃っていて、アテも数多く売っていておでんまでグツグツ煮えている。飲食スペースを設けている所もあり実に環境がいいが、見ると「店内飲酒禁止」の文字が。そりゃそうだよな。コンビニの店内で酔っ払いにたむろされたら困るだろう。それに、風情もないし。
 僕は前回、前々回と立ちのみについてクドクド書き、立ちのみを四形態に分類した。それは①「通常飲食店由来型」②「屋台露店由来型」③「海外由来型」であり④「角打ち」で終わるのだが、①などは隆盛を極めているのに④「角打ち」はどうも消えゆく運命であるのかもしれない。これは僕のような消費者が悪いのであって、残念だ、などとひとごとのようには言えない。

 さて、僕は今住んでいる関西では純粋な角打ちの経験がない、と書いたが、それは関西での話であって、全く未経験であるわけではない。もっとも、今にして思えば、の話なのだが。
 関西に再び移り住む前は、とある地方都市にいた。忙しくしていた。
 ストレスがたまることも多く、酒ばかり呑んでいた。当時はまだ独身だった。酒場で呑むことが多かったのだが、家でも呑んだ。
 最寄のバス停から自宅の途中に酒屋があった。そこで、帰り道によく酒を買った。今から20年以上前の話。
 あるとき。やっぱりいつもの酒屋に寄ったのだが、もうすぐにその場でのみたくなってしまった。そういう精神状態だった。
 店のおかみさんに言った。
 「ビールください。ああ袋に入れなくていいです。すぐここで飲むから」
 「そうですか。じゃ、あっちでどうぞ」
 え?
 僕は店舗を出てすぐ路上で飲むつもりだったのだが、指されたのはレジ横の扉。開け放たれたその扉の先には、スペースがあった。倉庫兼配達用車駐車場みたいな広い場所で、もちろん冷暖房があるような所ではなかったが屋外ではない。
 なんとそこには、先客がいた。ビールケースに座ってカップ酒を呑んでいるおっさんが二人いる。
 左様か。こういうことを黙認しているのか。
 僕も座って、ビールを飲んだ。さらに調子にのって、また店舗に戻って酒を買いさらに呑んだ。
 これは、今にして思えばつまり「角打ち」と言っていいのではないか。もちろん当時はそんな言葉も知らなかったし、酒屋で呑む文化というものがあるのも知らなかった。もっとも「立ちのみ」ではなかったが。
 このぼんやりとした空気感は、なんだか妙に落ち着いた。尖った神経へのクールダウンの要素があった。
 この店が実際に「角打ち店」であることがわかったのは、次回訪問時だった。
 前に来たときに先客のおっさんが何かを食べていた。サキイカだったか。店にそういうものも置いてあるので、それを購入していたのだろう。そんな話をレジのおかみさんにしたら、何でも買って食べてくれていいと言う。そりゃ向うも商売だから買って欲しいだろうが、レジ横につま楊枝を常備していることを教えてくれた。なるほど。つまりそういうことだった。これは酒屋呑みのためのサービスなのだ。そういうことを、前提としていた。
 僕は焼き鳥缶(ホテイ製)を手に取った。そして酒のつまみとした。
 これはもう完全に「角打ち」ではないのか。(繰り返すが当時はそんな言葉も文化も知らない)
 
 その酒屋にはその後何度も行ったが、もちろん酒を買って帰るのが主で、その場で呑んだのは結局4、5回くらいだっただろうか。そうこうしているうちに所帯をもち、まっすぐうちに帰るようになった。酒は、妻が用意してくれている。
 そうして酒屋呑みのことも忘れて行かないうちに数年経ち、その酒屋はリニューアルした。ディスカウントショップになったようで、倉庫兼駐車場兼角打ち場だったあのスペースも無くして店舗を広くした。レジにはバイトの若い人がいる。もう「ここでのませてくれ」と言ってもダメだろうな。
 時を同じくして、僕は転勤した。その後のことは知らない。

 立ちのみの話、おわり。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

立ちのみの四形態

2013年02月02日 | 酒についての話
 関西、とくに大阪には串カツ専門店が多い。「ソース二度漬け厳禁!」のフレーズはもう全国区だろう。
 その何割かは、形態としては「立ちのみ」に入る。椅子のない店。
 下町に多いのだが、都市部にももちろんある。例に出して申し訳ないが、梅田の「松葉・地下店(食べログ)」。各種路線の乗り換え場所であり百貨店への入り口もあり、梅田地下街で最も人通りの多い場所にある。僕も揚げ物の匂いに誘われついビールを飲みにフラフラと立ち寄ってしまう。
 この店の形態をちょっと覗いてみて欲しい。通常の店舗との違いに気づかれると思う。
 ここには、まず店に入る扉がない。
 それどころか、客はほぼ通路上に立っている。それでいいのか悪いのかは知らないけれども、少なくとも店の敷地と公共の場所である通路との境目は、ない。わずかに暖簾が店の存在を主張しているだけである。
 小規模な立ちのみ店舗には、こういうところがいくつもある。店への入り口(扉)がない。道路と店の床が繋がり一体化している。
 これは何も関西に限ったことではない。「立ちのみ」とくくると分かりにくいかもしれないが、例えば駅ホームの立ち食いそばの店を思い出せばわかる。あれは、どこまでが店舗の敷地なのか。よくわからないまま、ホームに立って蕎麦を食っている。
 前回、通常飲食店由来型の立ちのみについて書いたが、こういう店はどうもそれらとはジャンルが違うようだ。決定的なのは、扉の有無。
 例に出した「松葉地下店」などは、地下なのでまだいい。路上にある店は、夏は開放感はあるが冷房など効かず、冬は寒い。よって、透明ビニールシートで覆ったりする。そこまでするなら壁と扉を設ければいいのにと思ってしまうが、頑固にバリアフリーを貫いている。
 これは、結論から言ってしまうとルーツが違うからなのではないか。これらの店の形態は、「屋台・露店」由来ではないのだろうか。そう推測してみる。

 屋台という店舗の形式は、古い。世界のことは知らないが、日本においては江戸時代からあったとも言われる。ことに江戸では、流入人口も多く独身男がやたら居たことから、手軽に食事が出来るファストフード感覚で隆盛した。
 屋台のwikipediaを見ると、「江戸後期の天ぷら屋台」の再現画像がある。これは、松葉地下店の形態に酷似してはいないか。この時代、酒を出していたかどうかまでは知らないが、天ぷらをただ揚げるだけの店としてこの屋台は機能し、客はテイクアウトするだけではなく、この屋台に群がるようにして揚げたてを食っていたに違いない。もちろん椅子などない。立ち食いであろう。
 その後屋台の形式もかわり、博多に代表されるように座る場所を完備した様相になってきたが、江戸時代のこの形式は例えば縁日の夜店や、競馬競輪場内によくある露店、ホームのそば屋、そして立ち食い、立ちのみの店の中に残った。そう考えてもいいような気もする。

 もっとも、バリアフリーの店はみな屋台由来である、などと言っているのではない。串カツの松葉地下店だって最初は屋台だったわけではないだろう。あくまで「形態」を受け継いでいるだけ。遺伝子なのだろうか。現在では、開け放つことによって客が気軽に入りやすいからそうしているだけとも見てとれる。
 しかし、ここからは僕の主観だが、開け放っている屋台露店由来の店のほうがなんだか入りにくいような気もしてしまうのは不思議だ。常連度が高く見えるからなのかもしれない。そして、店独自のルールがありそうなのも屋台露店由来店のほうである。キャッシュオンデリバリーとかね。通常飲食店由来の店は、ただ普通の店に椅子がないだけだからむしろ入りやすいように思えてしまう。注文もメニューが完備しているのは通常飲食店由来店のほうであるし、ウェイター、ウェイトレスさんが居たりする場合もあるから。
 もっとも、勇気を出して客になってしまえばどちらも変わらない。
 
 さて、立ちのみの形態において「通常飲食店由来型」「屋台露店由来型」と見てきたが、次に考えられるのは海外にルーツを持つ形態である。
 欧米には、立ちのみの歴史がある。例えばイギリスのパブ。フランスのカフェ。イタリアのバール。アメリカのスタンドバー。そういう店舗形式が、明治の文明開化、大正デモクラシー、また戦後進駐軍などとともに日本に入ってきたのでは、と考えてみる。日本ではみんなひっくるめて「バー」という場合が多い。
 そもそもカウンターという形式が海外由来だろう。対応する日本語が思い当たらない。わずかに寿司屋に「つけ台」という言葉があるが、あれは寿司をのせる台のことだろうと思われる。
 立ちのみの方が座ってのむよりも廉価の設定、というのも、昔から欧米ではなされてきたこと。
 玉村豊男氏の「パリ旅の雑学ノート」によれば、「カフェで飲みものや食べものをとる場合、カウンターで立ったままとるのと、サルやテラスの座席にすわってとるのとでは料金が異なるのだ(中略)カウンターで立ち飲みすれば四フランのコップ一杯の生ビールが、座席にすわって飲めば六フランという具合。」なるほどね。明快である。
 海外の立ちのみにもいろいろある。パブのように庶民がダーツに興じながらわいわいビールをのむ雰囲気、アメリカの西部劇に出てくるような荒野のガンマンたちが集いバーボンのストレートをくいっとやってすぐさま出て行くような砂塵舞う雰囲気、また同じアメリカでも禁酒法以前のマンハッタンやマティーニなどを編み出したカクテルバーの雰囲気、それぞれ、日本に採り入れられているように思う。
 店により個性があるのが当然だが、基本的には洋酒をのむ場所である、というのは共通認識としてあるだろう。あまり食に色を出していない場合も多い。例外はあって、パテの異常に旨いショットバーを僕は一軒知っているが、あくまで酒をのむ場所である、酒場であるという共通項はある。カウンターの向うに居るのは基本的にコックさんではなく、酒の専門家であるバーテンダーさん。

 昔は、こういうショットバーやカクテルバーのような店は結構入りづらかったものである。「大人の居場所」であり、若造が来てはいけない場所のように思えて。
 若い者が行く場所としてビリヤードが置いてあるプールバーやダーツバーなどがあったが、僕は不調法でそういうものが不得手であり、こちらも行きづらかった。
 カクテルが出てくるようなバーは、一軒だけ知っていた。最初は人につれていってもらって、その後一人で足を運ぶようになった。ひとりの優しいバーテンダーさんが居たことが大きい。酒については博覧強記の人だったが、それ以外は寡黙で、ただし聞けば何でも教えてくれた。ここで学んだことは多い。ただし、そこはスタンドの店ではなく、止まり木がちゃんとあった。それをいいことに、長居してしまったこともある。
 このようにバーは何も立ちのみに限らず座席があることのほうがむしろ多いかもしれないが、このバーの席のことを「止まり木」という言葉で表していることが、バーは基本的にはスタンドであるものという感じを出している。大抵は椅子としては脚が長いスツールで、座れば僕などは足が浮いてしまう。立ち疲れた時にちょっと休む意味をこめて「止まり木」と命名されているのであり、本来カウンターに対しては立つものなのだ。だからカウンターは立って丁度いい高さに設定され、それに対応して座る場合の椅子の脚は長くなっているのだろうと思われる。

 この歳になってみればバーに入りづらいことなど全くなく、一見であろうと図々しく入り込む。酒場にルールなどなにもないとは思うが、たとえスツールが置いてあっても前述したように基本は「立ってのむ」場所だから、長居はしないようにしている。
 もっとも、長居したところでやることもない。カクテルやオンザロックは生ものであり鮮度が大切だということくらいは僕だってわかっている。なので早めに飲み干す。のんでしまえば、お代りをしない限り間が持たない。別に女性を口説くわけでもなし(汗)。

 さて、立ちのみの四形態という題だった。主としてルーツから「通常飲食店由来型」「屋台露店由来型」「海外由来型」としてきた。もうひとつは当然ながら「角打ち」である。しかし長くなったので、それは次回
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする