吉田拓郎が6月にベストアルバム「Another Side Of Takuro 25」をリリースした。
そもそも拓郎は2022年、76歳で引退したはずである。ライブも卒業。リリースもアルバム「ah-面白かった」を最後とする。メディアもTVは「LOVELOVEあいしてるスペシャル」で終わり。そして年内12月まで続けたラジオのレギュラー番組を、僕はいとおしむように聴いていた。
拓郎の引退をもちろん完全に信用していたわけではない。過去、何度もそれに類したことを言っていたが音楽活動は続けていたし、元来気まぐれな人でもある。しかし70歳代も後半となり、今回の宣言は信憑性があった。
拓郎は、その後特番でラジオに復帰、そして今もぽつぽつとラジオ出演をしている。それでいい。またラジオ内では、ラジオに特化した企画アルバム制作の話をしている。それもいい。マイペースでやってください。元気であればいいのだ。
さて、アルバム「Another Side Of Takuro 25」はどうしようか。
拓郎のベストアルバムというものは、過去に誇張ではなく何十枚もリリースされている。僕は基本的にベストアルバムというのは音源的にダブるので買わないし、そもそもここで書いたように、引越及び老後の準備のために所持する過去音源を、断腸の思いでことごとく処分した。拓郎のアルバムは、もう一枚も手元に残っていない。そして、形ある音源は今後入手しないとかたく誓った。
しかしながら、このアルバムは前作ベストである 「From T」のように avexではなく、何とフォーライフからの発売。拓郎が自ら過去曲を徹底的に聴き直し、25+1(ボーナストラック)曲を選び出した。そのライナーノーツだけは、読みたい。
「Another Side Of Takuro 25」というタイトルは無論ボブディランの「Another Side Of Bob Dylan」のオマージュだろうが、そのアナザーサイドという言葉に意思を感じる
このアルバムには、例えば「人生を語らず」「流星」「結婚しようよ」「旅の宿」「夏休み」「落陽」など、拓郎ベストといえば、の曲はあまり入っていない。ヒット曲、人気のある曲、人口に膾炙したうたを集めようという意識は低いような気がする。
僕は拓郎の中では「大阪行きは何番ホーム」といううたが私的ベストで、20年前このブログを立ち上げたとき最初に採り上げた。このシングルでも何でもないうたが、25曲の中に入っている。嬉しい。他にも「この歌をある人に」等、自分でベストアルバムを組むならこれだな、という曲がいくつも入っている。嬉しい。そしてそれらの曲を拓郎がどう思っているのかは、知りたい。
冒頭の一曲は「どうしてこんなに悲しいんだろう」だった。
エレックレコード時代のアルバム「人間なんて(1971年)」所収。拓郎はかつてラジオで、ゲストの竹内まりやに「ご自分のうたの中で一番好きな曲は何ですか?」と問いかけられた時に「"どうしてこんなに悲しいんだろう"が好きですね」と即答していたのが印象に残る。自分でもかなり思い入れの強いうたであることは確かで、それを一曲目にしているところからも、拓郎の本気度がみえる。僕ももちろん大好きなうたである。
なので、発売後しばらく逡巡していた。
そんな頃、夜に僕の携帯が鳴った。母親からだった。
母親が僕に電話をしてくることは、まずない。認知症が深度を増してからは、必ず僕からかけている。何かあったのか。僕は少し緊張して、通話ボタンを押した。
「もしもし、どないしたん?」
「いや別になんちゅうことはないんやけど、ちょっと声が聞きとうなってなあ」
拍子抜けしたが、特に用事はない様子。少し他愛もない話をして、おやすみと電話を切った。
ここ何年かは、月に一度は実家へ行くようにしている。しかしその月はどうにも立て込んでしまっていくことが出来なかった。ごめんな。しかし電話をしてくるとは、珍しいこともあるもんだ。明日は雨が降るんじゃないかな。でも声は元気だったし、特に心配はいらないかな。
そんなことを妻と話していた。
その3日後、母は死んだ。
夕刻、兄から「お母さんの呼吸が止まったらしい」と電話が入った。僕は何もかもおっぽり出して高速道路に車を乗り入れた。
運転しながら、いろいろ考えていた。
呼吸が止まったとは、婉曲表現だろう。それはつまり、死んだということだ。仮に病院で蘇生したとしても、脳に血がいってないだろう。あくまで無理やりの延命措置、くらいが関の山。
母には、心臓に持病がある。何度カテーテル施術をしたことか。逝くなら心臓だと当然思っていた。後から聞いたことだが、その日母は週2回のデイサービスにあたっていて、朝は普通に送迎車に乗って出かけたという。施設でも元気で過ごしていたが、帰りの車中で動かなくなった。同乗の職員さんがその場の路上でAED処置、さらに救急車が到着して緊急搬送、という流れらしい。
救急病院へ到着すると、父と兄、妹が憔悴しきった顔で待合室に座っていた。どうやら、駄目らしい。天を仰いだ。
母は検査(という名目の検死か)が続けられていたのだが、僕の到着後、医者からの説明があり、死亡が確認された。
そうか。おかん。死んじゃったか。
不思議なことだが、あの電話は、何か予感めいたことがあったのか。
経験のある方なら共感していただけるかもしれないが、まだ実感が伴っていないからだろうか、急に悲しみは襲ってこない。それよりも、忙しい。
既に夜も深い時間になっているのだが、やらねばならないことが積載している。
母の遺体には兄が付く。様々な手続きや葬儀の手配等がある。老いた父は家に戻らせ、妹が付き添う。僕はと言えば、まず警察の相手をしなくてはいけなかった。
母は、道端で死んだということ。なので警察が動き出す。深夜にご苦労様なことだが、調書を作成せねばならないらしい。僕の姓名年齢現住所職業から始まり、こまごまとした質問が続く。保険金の有無を聞かれたときには流石に頭にきたが、しょうがないので淡々と答える。どんな薬を服用していたかなんて、全部掌握してないよ。
さらに現場検証に行くという。形式主義が本当に嫌だ。だいたい死亡現場なんて僕はちらりと聞いただけだし、立ちあってもいない。しかし連れていかれる。向うも書類を作らないと帰れないのだ。
解放された頃には、日付がかわっていた。
そのまま、葬儀場へと向かう。母は霊安室に既に運び込まれていて、横たわっている。その隣で、兄が山ほどの書類と対峙している。
葬儀場の担当の方と打合わせ。こんなド深夜にご苦労様なことである。
両親は既に、葬儀社と契約している。「死んでから子供に迷惑かけたくない」が母の口癖で、もう葬儀代は払い込んであるという。「これで、あんたらには一銭もかからんようになっとるからな。心配せんでええで(笑)」と常々言っていた。
しかし、だ。両親がそのように葬儀社と契約をしたのは、20数年前だ。両親は長命した。その間に時代も社会情勢も変わっている。
「積み立て頂いている金額では、祭壇を作るのにも足りません」
葬儀社が示すパック料金のような見積書には、その金額+100万円くらいで提示されていた。
「祭壇は要りません」と僕は言った。兄は驚いたような顔で僕を見る。
しかし、母は昔から言っていた。葬式なんか形式ばっかりでみんなで話す時間もあらへん。あんなんいややわほんまに。もっとなんかわいわいやって送り出してくれんのがええわ。
坊さんもなしでええんやないの、と僕は提案した。一応家に宗派はあるが、どこかの檀家というわけでもない。いや正確にはかつてはそれに該当する寺はあったが、引っ越しして寺との付き合いも絶えて久しい。読経って今の時代必要か? 無宗教で良いのではないか。
香典も受け付けないことにしよう。さすれば香典返しもしなくていい。どうせ参列者はごくわずか。母の兄弟含め親戚くらいだ。母の個人的知り合い関係はほぼ居ない。長命すれば自然とそうなる。みんな物故者か、動けない人ばかりだ。さらに、僕も含め子供の関係者には「密葬」であると伝え、もう呼ばないようにしよう。不義理にはなるが、母を知らない人に来てもらってもしょうがない。
そうやってリストラしていったら、徐々に母が積み立てた金額に近づいていった。これでいいんじゃないか。母も賛同しているように思った。
「供花だけは必要です。故人は花が好きだったので飾ってあげたい」
そうして夜中の3時頃に葬儀社との打ち合わせが終わった。日付がかわって今日が仮通夜。明日が本通夜で、葬儀は明後日になる。そこで僕は一度家に帰ることにした。
家に帰ったころには、空が徐々に白々としてきていた。妻が突っ伏して寝ている。すまんな。ちゃんと寝てくれと言ったのに。
僕も寝なくては持たないのだが、脳が興奮している。そういえば昨日は晩御飯も食べていない。しかし全く食欲はなく、身体に悪いがウイスキーを流し込み布団に入った。
昼頃に再び葬儀場に向かう。兄と交代し引き続き様々なこと。人が一人死ぬだけで実に忙しい。
「その忙しさから人はいっとき悲しさを忘れるのだ」たいていの人はそういう。だが、僕はこの時、なんだか腹立ちさえおぼえていた。最も忙しい原因であるはずの葬儀というイベントを最大限簡略化してこれなのだ。現場検証に始まり、行政その他はどうしてこんなに書類を欲しがるのか。
湯灌の時間が来た。
湯灌に立ちあうつもりはなかった。死後硬直している遺体を動かすと強引に骨を軋ませる音も聞こえるというし、母も老いた裸体を見せたくないだろう。
しかし「立ち会って下さい」と言われた。そういう湯灌は昔の話だという。
納棺師が来られた。昔は別室の湯舟に入れてほぐすと聞いていたが、今は霊安室に簡易プールのようなものが持ち込まれ、そこで体を洗う。基本的には死衣装のまま湯に入れられ、まるで寝たきり病人が行水をするかのようだ。前をはだける時はタオルで目隠しをし、髪を洗い着替えて死化粧が施される。おくりびとのプロの仕事をまざまざと見た。すごいな。ありがとうございます。
お棺に入った母は、まるで生けるが如く血色がいい。本当に寝ているだけに見える。遺体を見る機会などそうそうは無いが、かつて祖父母の葬儀の際、遺体は一日経つと既に「死骸」だった。見るから冷たく固まって鋭角的ですらあった。母は、やわらかい顔で揺すれば起きそうだ。エンバーミング技術の進歩なのか。なので、ここに至っても実感がわかなぃ。
通夜は最も小さな部屋にした。それでも、祭壇もないためガランとしている。祭壇の場所には遺影と花だけ。お棺は部屋の真ん中に置き、蓋は閉めないことにした。今も生きていた時と変わらない姿であり、これで閉めたら母も寂しかろう。
通夜は、全くのプライベートにした。父と子供とその配偶者、孫だけ。従って平服である。寿司桶をいくつか出前してもらい、母を囲んで座り、意識的に母の思い出話、笑い話をして周りで飲み食いをした。
葬式当日。親戚も来るため、喪服に着替えて様々な手配をする。
この日は、強い雨が降った。
晴れ女だった母。何故か大切な日には必ず晴れた。やはり晴れ女などというのは非科学的な迷信でしかない。自らの葬式はえらい雨じゃないか。だがその雨が「そうか、晴れ女のおかんはもういないのか」ということをまた想起させる。気持ちが揺れる。
葬儀と言っても、坊さんを呼ばなかったため儀式めいたことは何もない。母の周りに椅子を並べ、茶話会とした。父に一応挨拶をせよと言うと、母との馴れ初めの話から始めた。初めて聞く話も多い。また様々な思い出話。笑い声も出た。誰も泣く人などいない。
これでよかったのだな。
後から聞くと、いい葬式だったと皆口々に言ってくれた。僕も、明るく笑い上戸だった母に相応しい時間だったと思った。
出棺。火葬場へと向かう。
雨に煙る街。霊柩車を追走する。ワイパーは最大回転だ。そして、こんな町中にあるのか、と驚くような場所に斎場が存在していた。
斎場で、雰囲気が一転してしまう。重々しくない葬儀のあとだけに、静謐な空気が漂う。電話で伝えてはあったが、現地の職員さんも、坊さんもいない一行に戸惑っている様子がうかがえる。
「最期のお別れの時間でございます」
こういうの、正直キツいな。死という現実から逃げていたつもりはないけれども、荼毘に付す、つまり母の寝ている棺桶が炉に吸い込まれていく瞬間というのは、去来するものが多すぎる。とうとういっちゃうのか。
息を引き取る瞬間に立ち会っていれば、今更こんな気持ちにはならなかったのかもしれない。ただ死んだ後も生けるが如き母とずっと対面しつづけたことで、気持ちの整理をする時間が確保できないままになっていたのか。
当然ながら、骨あげまでしばらく時間がある。待合のソファーで親戚の雑談に入っていたのだが、なんだか居心地が悪くなって、電話をするフリをして外に出た。
ぼんやりと歩いて斎場の裏手に出た。外は小雨になっている。墓地がある。その石塔の林立する中に、ひとり佇んだ。
ここまで、漠然とした寂寥感は確かにあったが、強い悲しみというものは自らに襲い掛かってはこなかった。それは、なかなか実感というものがわかない人間の生理や、忙しさに紛れたこと、死に立ちあわずちゃんとした別れをせずに至ってしまったことなど様々な要因はあるにせよ、基本的には感受性の摩耗だと自己分析していた。
学生の頃、突然母親が死んだ友人の、その死を知らせる瞬間に同席していたことがある。その時友人は即座に号泣した。普段冷静な男だった彼の慟哭を呆然として見ていた。僕も若ければそうだったかもしれない。だが今の僕は人生経験も積み、母も90歳を超えてやはり覚悟もあった。脳内シミュレーションが完了していたとも思える。さらに、若い頃と比べ感情の振れ幅というものは明らかに減少している自覚はあった。
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり
斎藤茂吉が「遠田のかはづ天に聞ゆる」をはじめとする連作「死にたまふ母」を詠んだのは30歳そこそこのとき。「我が寂しさは極まれにけり」と叫ぶ心情にはなかなかなれないと思っていた。
茂吉の息子である北杜夫は、その茂吉の死に直面した時にやはり慟哭している。
兄である斎藤茂太から電話で「ゲシュトルベン(死亡)」と聞いたとき、
突如として涙がこみあげ、声がどうしようもなく震えるのを私は抑えることができなかった。それは唐突な、自分でも思いがけない感情の激動だった。
と、短編「死」で描写している。「ひっきりなしに涙がこみあげてきた」と。北杜夫はそのときまだ20歳代だった。
北杜夫はまた、母である斎藤輝子さんの死についても短編「ついの宿り」で描写しているが、そのときは死に直面した時も、葬式の時も「一滴の涙もこぼさなかった」と書いている。その時輝子女史は89歳。北さんも今の僕の歳に近い。北杜夫が突如とした悲しみに襲われるのは、葬式より幾日か後に、輝子さんのスーツケースを見た時だった。やはり、時間差がある。
北杜夫に感受性の摩耗があったとはさすがに思えないが、そういうものなのだろうと思っていた。