ここまで神話時代の日本の酒の変遷についていろいろ書いてきた。その続きとなるのだが、以降は、日本の酒が麹で醸した酒となる過程について、古事記と日本書紀を読みつつ書いていく。内容は、ほぼ僕の覚書みたいなものなので、申し訳ない。
本来この話は、ある鬱陶しいおっさんがきっかけなのである。酒場で遭ってしまうそのおっさんは、国粋主義者でワインなど毛唐の酒は飲む気がしない、などど乱暴なことを言いつつ、日本人は縄文の心を忘れておる、嘆かわしいことだなどと言い出す。そして酔っ払いは同意を求めるので困る。閉口しつつふと、日本書紀初出の酒はワインではなかったか、と論じていた書籍があったのを思い出し、もう一度本を読みなおそうかと思ったのが始まり。
そして神話の深みにはまり、おっさんのことなどどうでも良くなってここに至る。
閑話休題。
ニニギが日向国に降臨し、コノハナサクヤと結婚して海幸彦・山幸彦を産み、山幸彦の孫が日向の高千穂を出でて東征し、大和を平らげて神武天皇となる。そして、神話の時代は終わり、ここからは史実扱いになる。
史実といっても不可思議な記述が多いこの上代だが、この神武天皇が打ち立てた大和朝廷が、僕の考え方だと弥生人政権ということになる。そういう短絡的な見方はお叱りを受けるもとだが、あくまで私見。
ここからは、酒の記述はいくつも出てくるので全ては挙げられないが、代表的なものを。
第十代崇神天皇の世。天皇は、高橋邑の活日 を、三輪大神宮の掌酒官とした、という記述がある。
活日は、神酒を天皇に献じて歌を奉げた。
まず「大物主の醸(か)みし酒」とよまれる。かみし酒とは噛みし酒みたいだな。原文は「於朋望能農之能 介瀰之瀰枳」となっているので「かみし」で間違いはない。まだ口噛み酒かな?
しかし崇神天皇といえば実質大和朝廷の初代とも言われる天皇。そのご時世にこの解釈は難しい。賀茂真淵のみならず、この酒を口噛みと解釈している学者もいないだろう。僕だってそう思いたい(イクヒさんって多分おっさんなのだろうし)。しかし、口噛み酒だった可能性もゼロではないかも。
イクヒさんは今も杜氏の元祖と祀られているが、イクヒさんは「大物主が造ったのだ」と謙遜している。果たして大物主とは誰か。
これが、難しいのである。
酒と関係ないので端折るが、大物主は奈良の大神神社(三輪大神宮)の祭神で、祟り神1号と言ってもいい。崇神天皇の時世、疫病その他で祟り、天皇が困って大物主に聞けば、大物主は「わしの子孫を探して祭祀させよ」と告げ、そのとおりにしたらおさまったという。
で、大物主の正体だが、どうも大国主命と同形らしい(もしくはその分身)。まずは国つ神であり、さすれば「大物主の醸みし酒」とはやっぱり口噛み酒か、とも思えてしまう。どうなのだろうか。
話が少し横道でしかも神話に戻るが、大国主命が国造りをしたときの有能なパートナーに、少彦名 神がいる。スクナヒコナは書紀によれば医薬とまじないの神であり人々を災厄から救った。今風に言えばスクナヒコナは技術者だったとも言えるが、ある日常世国へ帰ってしまう。
古事記では、スクナヒコナが帰って途方にくれたオオクニヌシに「ワシの魂を祭れば国造りはOKだ」と言い、三輪山に祀られたのが大物主であるという。書紀ではオオクニヌシの幸魂・奇魂が大物主であるという。よくわからない。いずれにせよこの国は、オオクニヌシとスクナヒコナ(と大物主)が精魂込めて造りあげた。しかしその国(葦原中国 )は、天つ神に譲らされた。
スクナヒコナに戻るが、この神は同時に、酒の神でもあったらしい。
この時より何世代か後で、そのことがわかる。書紀によれば、応神天皇が敦賀から帰った際に、おかあさんの神功皇后が宴会をした。その宴会のときの歌。
現在、三輪にある大神神社は主祭神が大物主大神、配神にオオクニヌシとスクナヒコナがいて、醸造の神となっている。
このテクノクラートとも言えるスクナヒコナが、日本に麹造りの酒を伝えたのであろうと推察する説もある(太田水穂氏「日本酒の起源」)。なるほどそうかもしれない。さすれば、その技術をイクヒさんが受け継いでいたのだろう。ならば、口噛み酒ではなく麹の酒であった可能性が高い。わざわざイクヒさんを召して造らせたのであり、技術を要した酒だったのだろう。口噛み酒にあまり技術は必要ないから。
しかし実情は、よくわからないなぁ。
崇神天皇のときは、酒はなんだかうやうやしく奉げられた感じもするので、生産量はそれほどでもなかったのかもしれない。これは、口噛みだったから大量に造れなかったのか、それとも米が酒に回せるほど余剰がなかったのか(材料不足)、あるいは、イクヒさんのような酒造りの技術者が不足していたのか。それもよくわからない。
その後は、徐々に大量生産が可能になったようで、宴会の記述もある。前述の神功皇后と応神天皇の宴会の他にも、日本武尊 が熊襲の首長の梟帥 を討つ際には、宴会で酔っ払っているところを狙っている。
熊襲と大和の対立はずっと続いていて、ヤマトタケルの以前にも景行天皇は征伐を試みているが、このやり方がえげつない。
熊襲八十梟帥の娘、市乾鹿文 は「容既端正 心且雄武」とされていた。その美人の娘を何と天皇が籠絡するのだ。天皇は偽の寵愛を重ね、イチフカヤを手の内とする。彼女は一計を案じ、父親に酒をたっぷり飲ませて寝させ、その間に弓の弦を切る。あとは、天皇の兵が来て終り。天皇を愛して父を裏切ってしまったイチフカヤもまた天皇の命令で殺される。ヤマトタケルもそうだが、どうも大和のやり方は卑怯だ。戦前はどんなふうに教えていたんだろう。
それはともかく、熊襲梟帥を酔わせた酒はかなり強い酒だと言われている。九州方面の男はたいてい酒に強いが、それを酔い潰す酒であるからして。原文は「以多設醇酒 令飮己父 乃醉而寐之」で、醇酒と表現される。「からき」と訓ずる場合も。醇と書けば濃厚なイメージがあるが、やはり度数も高かったのだろう。これは、麹酒でしかありえない。
応神天皇は酒が好きだったのか、前述の宴会の他にもいくつか酒の記述が残る。吉野へ行幸の時には国樔人 が来て、醴酒 を献じている。
この国樔人とは、かつて神武天皇が東征の折、熊野から吉野に入った時に出あった「国栖 人」と同じ人たちだろう。彼らは国つ神だった。
その醴酒だが、国樔人はこのように歌っている。
日本書紀には国樔人の生活の様子が描写されている。どうも非農耕民らしい。木の実を採集し、また蛙を獲って食べるなどしている様子は、山間の村で古い縄文の様式を守っている様子が伺える。稲も焼畑の陸稲だったか。そうなれば、やはり僕も口噛み酒ではなかったかと思う。現在の醴酒を知らねば、果実酒説に一票だったかもしれないが。
醴酒は延喜式の造酒司にも記されている。それは麹を用いている。ただし何百年も後の都でのことで、この国樔人が醸した醴酒と同じであったかは難しい。
ともあれこの時期(応神天皇時世 3~4世紀)は、様々な醸造法が混在していた時代なのだろう。縄文以来の口噛み酒もあれば、またおそらくは大陸伝来の麹の酒もあった。そして水稲がますます盛んとなり、ある程度酒の量産も可能となって、麹の酒が徐々に席巻し始めたのだろう。しかしその麹の酒とて、幾種類もの造酒法があったことも考えられる。
応神天皇はよほどの酒好きか、それともこの時期に酒が不自由なく出回るようになったのか、酒をのんでは歌を詠んでいる。そのひとつひとつを挙げてはいられないが、古事記に、応神天皇が百済に技術者を要求したことが記してある。このとき「論語」「千字文」を伝えたとされる和邇吉師(王仁)をはじめ鍛冶や機織職人等が海を渡ってきたが、酒職人も渡来したらしい。
ともかく、この百済から渡来したススコリさんが、日本に麹で醸す酒を伝えたのだという有力説がある。
ススコリさんについては鄭大聲氏の論文「須須許理について」があり、それを読むと、朝鮮語で酒はスルと言い、コリ、コルリが「漉す」であるらしい。マッコリのコリですな。つまりスルコリで「酒を漉す人」、まあ酒職人の意だろうとされる。さすればニホが名前でススコリは職名ですな。ススコリ屋さんと言う方が適うか。
で、ススコリ屋のニホさんが日本酒の祖かと言われれば、これも難しい。朝鮮半島は、中国と同じく主として餅麹を用いるが、日本は散麹だからである。バラ麹。
麹と言うのはすなわち、でんぷんを糖化させるカビの培養体のことである。餅麹とは麦などを粉にして水で練って固め、それにカビを繁殖させたもの。固まりなので「餅コウジ」と呼ぶ。中国、朝鮮半島などは、この餅麹で酒を醸す。
対して日本酒は、米を蒸してそれを固まりにせず粒のまま、カビを繁殖させる。
材料の麦等と米、非加熱と加熱、塊と粒、それらが異なることよってカビの種類も違ってくる。同じ米で造る紹興酒、マッコリ、日本酒がここまで異なったものとなっているのは、むろん様々な要因があるが麹が違うことも大きい。
ススコリ屋さんが造ったのは、マッコリのような酒であったかもしれない。朝鮮半島の酒の歴史を知らないと何も言えないことだが。
ススコリ屋さんが日本酒の祖ではないとしたら、誰が日本にバラ麹の酒造りを伝えたのか。やっぱりスクナヒコナか。しかしスクナヒコナも外来神の可能性がある。大陸由来であれば、やはり穀物の粉をレンガの如く固めてカビを生やす餅麹だったかも。イクヒさんはどうやってデンプンを糖化したんだろう。
バラ麹はどこから伝わったのか。それは定かではない。現在の文化人類学では東アジアにおけるバラ麹のルーツを長江下流などに想定されているが、決定的ではないようだ。
或いは、日本独自に発明されたのか。
「播磨国風土記」に以下のような記述がある。御粮 が沾 れて糆 が生じたのでそれで酒を醸した。それが庭酒村という名の由来だ、と記するのだが、ここでカビを用いた酒の話が出てくる。
粮というのは米とみていいだろう。供えた米なので蒸米だったかも。それが湿気てカビた。なのでこれで酒を醸した、と。
これをもって、蒸米に粒のままカビを繁殖させる日本式麹は日本で編み出されたのだ、という説がある。確かにそうかもしれない。
しかし、これでは庭酒村の人が米に生えたカビは酒造りに使える、と知っていただけの話ともとれる。裏返せばこの時代にバラ麹を使った米の醸造法が知られていたことになる。
同じ頃、大隅国風土記では口噛み酒を造っていた。畿内に近い播磨と南九州ではずいぶん様相が異なっていたことはわかる。
風土記は、奈良時代のこと。奈良時代には、大いに酒がのまれていた。正倉院文書に清酒、濁酒、糟、粉酒などの文言がみえる。
「写経司解案」という文書があって、中身は写経生の待遇改善の要求である。その中に「三日に一度酒を呑ませろ」というのがある。
そして、平安時代の延喜式には、14種類の酒が列記されているという。その酒を孫引きさせてもらえば、御井酒、御酒、三種の糟(三淋)、醴(桃の節句の白酒に同じ)、擣糟 頓酒、熟酒、粉酒、汁糟、搗糟、黒貴、白貴。
柳生健吉「酒づくり談義」によれば、それぞれに蒸米、麹、酒造用水の配合歩合、そして醸造操作が異なるという。つまり、14種の酒が造り分けられていたということである。
この時代の辞書である和名抄には、醰酒、醨、醇酒、酎酒、醪、醴の記載があるらしい。
これらの酒の解明は醸造学者らによってかなり進んでいるが、全てが分かったわけではないだろう。
これまでも、日本では様々な方法で米の酒が醸されてきた。コノハナサクヤの天甜酒。スクナヒコナが伝えイクヒさんが醸した酒。クマソのタケルを酔いつぶした醇酒。国樔人の醴酒。ススコリ屋さんが百済から伝えた醸造法。だがそれらが、この奈良、平安時代の酒造方にどれだけ繋がっているのかはわからない。そして、現在の日本酒にその技術の破片が残されているのかどうか。
このあとも、日本酒の醸造法はどんどん発展していく。諸白(精白米)の使用。酛(酒母)を造る技術の向上。火入れによる殺菌。そして現在の醸造法の根幹を成す「三段仕込み」を編み出したこと。現在では、吟醸酒というバケモノみたいな酒も誕生している。
そうなると、なかなか古代の日本酒というものを想像しにくくなる。もしかしたら甘酒や味醂などのほうが近しいのかもしれない。
しかし、連綿と続いてきた歴史というものは紛れもなくある。想像力を逞しく保ちつつ、神話や上代に思いを馳せながら、幾久しく「われ酔ひにけり」と呑もうと思う。古代の酒の話はこのくらいにして。
関連記事:
ヤマタノオロチが呑んだ酒
縄文はワイン?
くちかみ酒
本来この話は、ある鬱陶しいおっさんがきっかけなのである。酒場で遭ってしまうそのおっさんは、国粋主義者でワインなど毛唐の酒は飲む気がしない、などど乱暴なことを言いつつ、日本人は縄文の心を忘れておる、嘆かわしいことだなどと言い出す。そして酔っ払いは同意を求めるので困る。閉口しつつふと、日本書紀初出の酒はワインではなかったか、と論じていた書籍があったのを思い出し、もう一度本を読みなおそうかと思ったのが始まり。
そして神話の深みにはまり、おっさんのことなどどうでも良くなってここに至る。
閑話休題。
ニニギが日向国に降臨し、コノハナサクヤと結婚して海幸彦・山幸彦を産み、山幸彦の孫が日向の高千穂を出でて東征し、大和を平らげて神武天皇となる。そして、神話の時代は終わり、ここからは史実扱いになる。
史実といっても不可思議な記述が多いこの上代だが、この神武天皇が打ち立てた大和朝廷が、僕の考え方だと弥生人政権ということになる。そういう短絡的な見方はお叱りを受けるもとだが、あくまで私見。
ここからは、酒の記述はいくつも出てくるので全ては挙げられないが、代表的なものを。
第十代崇神天皇の世。天皇は、高橋邑の
活日は、神酒を天皇に献じて歌を奉げた。
このなんとも朗々とした歌でいいなーと思うが、いくつかわからないこともある。神酒 は 我が神酒ならず 大和なす大物主 の醸 みし酒幾久 幾久
まず「大物主の醸(か)みし酒」とよまれる。かみし酒とは噛みし酒みたいだな。原文は「於朋望能農之能 介瀰之瀰枳」となっているので「かみし」で間違いはない。まだ口噛み酒かな?
しかし崇神天皇といえば実質大和朝廷の初代とも言われる天皇。そのご時世にこの解釈は難しい。賀茂真淵のみならず、この酒を口噛みと解釈している学者もいないだろう。僕だってそう思いたい(イクヒさんって多分おっさんなのだろうし)。しかし、口噛み酒だった可能性もゼロではないかも。
イクヒさんは今も杜氏の元祖と祀られているが、イクヒさんは「大物主が造ったのだ」と謙遜している。果たして大物主とは誰か。
これが、難しいのである。
酒と関係ないので端折るが、大物主は奈良の大神神社(三輪大神宮)の祭神で、祟り神1号と言ってもいい。崇神天皇の時世、疫病その他で祟り、天皇が困って大物主に聞けば、大物主は「わしの子孫を探して祭祀させよ」と告げ、そのとおりにしたらおさまったという。
で、大物主の正体だが、どうも大国主命と同形らしい(もしくはその分身)。まずは国つ神であり、さすれば「大物主の醸みし酒」とはやっぱり口噛み酒か、とも思えてしまう。どうなのだろうか。
話が少し横道でしかも神話に戻るが、大国主命が国造りをしたときの有能なパートナーに、
古事記では、スクナヒコナが帰って途方にくれたオオクニヌシに「ワシの魂を祭れば国造りはOKだ」と言い、三輪山に祀られたのが大物主であるという。書紀ではオオクニヌシの幸魂・奇魂が大物主であるという。よくわからない。いずれにせよこの国は、オオクニヌシとスクナヒコナ(と大物主)が精魂込めて造りあげた。しかしその国(
スクナヒコナに戻るが、この神は同時に、酒の神でもあったらしい。
この時より何世代か後で、そのことがわかる。書紀によれば、応神天皇が敦賀から帰った際に、おかあさんの神功皇后が宴会をした。その宴会のときの歌。
此の神酒は 我が神酒ならず先のイクヒさんの歌と対応している。ここで、少名御神が薬の神であり、同時に酒の神であったことがわかる。薬=酒だったのかも。薬 の神 常世に在ます 石立たす少名御神 の 豊寿き 寿き廻へし 神寿き 寿きくるほし 献り来し御酒ぞ 余さず飲せ ささ
現在、三輪にある大神神社は主祭神が大物主大神、配神にオオクニヌシとスクナヒコナがいて、醸造の神となっている。
このテクノクラートとも言えるスクナヒコナが、日本に麹造りの酒を伝えたのであろうと推察する説もある(太田水穂氏「日本酒の起源」)。なるほどそうかもしれない。さすれば、その技術をイクヒさんが受け継いでいたのだろう。ならば、口噛み酒ではなく麹の酒であった可能性が高い。わざわざイクヒさんを召して造らせたのであり、技術を要した酒だったのだろう。口噛み酒にあまり技術は必要ないから。
しかし実情は、よくわからないなぁ。
崇神天皇のときは、酒はなんだかうやうやしく奉げられた感じもするので、生産量はそれほどでもなかったのかもしれない。これは、口噛みだったから大量に造れなかったのか、それとも米が酒に回せるほど余剰がなかったのか(材料不足)、あるいは、イクヒさんのような酒造りの技術者が不足していたのか。それもよくわからない。
その後は、徐々に大量生産が可能になったようで、宴会の記述もある。前述の神功皇后と応神天皇の宴会の他にも、
熊襲と大和の対立はずっと続いていて、ヤマトタケルの以前にも景行天皇は征伐を試みているが、このやり方がえげつない。
熊襲八十梟帥の娘、
それはともかく、熊襲梟帥を酔わせた酒はかなり強い酒だと言われている。九州方面の男はたいてい酒に強いが、それを酔い潰す酒であるからして。原文は「以多設醇酒 令飮己父 乃醉而寐之」で、醇酒と表現される。「からき」と訓ずる場合も。醇と書けば濃厚なイメージがあるが、やはり度数も高かったのだろう。これは、麹酒でしかありえない。
応神天皇は酒が好きだったのか、前述の宴会の他にもいくつか酒の記述が残る。吉野へ行幸の時には
この国樔人とは、かつて神武天皇が東征の折、熊野から吉野に入った時に出あった「
その醴酒だが、国樔人はこのように歌っている。
樫の木の臼に貯めたこの醴酒については、果実酒説や甘酒説などさまざま言われているが、上田誠之助氏は、口噛み酒ではなかったかとされる(「日本酒の起源」)。実は現在でも奈良県国樔村(現吉野町)では祭りで何と醴酒を造っているという。作り方は、水に浸したもち米を臼で砕いて布ごし、残りかすの粉砕、裏ごしを繰り返して「しとぎ」をつくり、それに清酒と砂糖を加えて温めるとか。当然1700年前と今では同じ作り方ではないだろうが(当時は清酒も砂糖もない)、その「しとぎ」の様子から口噛み酒を想定されている。樫 の生 に横臼 を作り 横臼に 醸める大御酒 うまらに 聞こし持ち食 せ まろが父
日本書紀には国樔人の生活の様子が描写されている。どうも非農耕民らしい。木の実を採集し、また蛙を獲って食べるなどしている様子は、山間の村で古い縄文の様式を守っている様子が伺える。稲も焼畑の陸稲だったか。そうなれば、やはり僕も口噛み酒ではなかったかと思う。現在の醴酒を知らねば、果実酒説に一票だったかもしれないが。
醴酒は延喜式の造酒司にも記されている。それは麹を用いている。ただし何百年も後の都でのことで、この国樔人が醸した醴酒と同じであったかは難しい。
ともあれこの時期(応神天皇時世 3~4世紀)は、様々な醸造法が混在していた時代なのだろう。縄文以来の口噛み酒もあれば、またおそらくは大陸伝来の麹の酒もあった。そして水稲がますます盛んとなり、ある程度酒の量産も可能となって、麹の酒が徐々に席巻し始めたのだろう。しかしその麹の酒とて、幾種類もの造酒法があったことも考えられる。
応神天皇はよほどの酒好きか、それともこの時期に酒が不自由なく出回るようになったのか、酒をのんでは歌を詠んでいる。そのひとつひとつを挙げてはいられないが、古事記に、応神天皇が百済に技術者を要求したことが記してある。このとき「論語」「千字文」を伝えたとされる和邇吉師(王仁)をはじめ鍛冶や機織職人等が海を渡ってきたが、酒職人も渡来したらしい。
及知醸酒人 名本名はニホさんで、またの名をススコリと名乗ったらしい。このススコリさんの醸した酒が旨く、応神天皇はまた歌を詠んでいる。仁番 亦名須須許理 等 参渡来也 故 是須須許理 醸大御酒以献
須須許理が 醸みし御酒に 我酔ひにけり ことなススコリさんの酒で俺は酔っ払っちゃったよ、というなんとも大らかな歌である。ことなぐし、えぐしというのがわかりにくいが、くしは薬であり=酒のこと。ことなは、事無し、心配いらぬ天下泰平、みたいな感じか。えぐしのえは笑だろうか。楽しそうな酒だなー。酒 ゑ酒 われ酔ひにけり
ともかく、この百済から渡来したススコリさんが、日本に麹で醸す酒を伝えたのだという有力説がある。
ススコリさんについては鄭大聲氏の論文「須須許理について」があり、それを読むと、朝鮮語で酒はスルと言い、コリ、コルリが「漉す」であるらしい。マッコリのコリですな。つまりスルコリで「酒を漉す人」、まあ酒職人の意だろうとされる。さすればニホが名前でススコリは職名ですな。ススコリ屋さんと言う方が適うか。
で、ススコリ屋のニホさんが日本酒の祖かと言われれば、これも難しい。朝鮮半島は、中国と同じく主として餅麹を用いるが、日本は散麹だからである。バラ麹。
麹と言うのはすなわち、でんぷんを糖化させるカビの培養体のことである。餅麹とは麦などを粉にして水で練って固め、それにカビを繁殖させたもの。固まりなので「餅コウジ」と呼ぶ。中国、朝鮮半島などは、この餅麹で酒を醸す。
対して日本酒は、米を蒸してそれを固まりにせず粒のまま、カビを繁殖させる。
材料の麦等と米、非加熱と加熱、塊と粒、それらが異なることよってカビの種類も違ってくる。同じ米で造る紹興酒、マッコリ、日本酒がここまで異なったものとなっているのは、むろん様々な要因があるが麹が違うことも大きい。
ススコリ屋さんが造ったのは、マッコリのような酒であったかもしれない。朝鮮半島の酒の歴史を知らないと何も言えないことだが。
ススコリ屋さんが日本酒の祖ではないとしたら、誰が日本にバラ麹の酒造りを伝えたのか。やっぱりスクナヒコナか。しかしスクナヒコナも外来神の可能性がある。大陸由来であれば、やはり穀物の粉をレンガの如く固めてカビを生やす餅麹だったかも。イクヒさんはどうやってデンプンを糖化したんだろう。
バラ麹はどこから伝わったのか。それは定かではない。現在の文化人類学では東アジアにおけるバラ麹のルーツを長江下流などに想定されているが、決定的ではないようだ。
或いは、日本独自に発明されたのか。
「播磨国風土記」に以下のような記述がある。
庭音村 本名庭酒 大神御粮沾而生糆 即令醸酒 以献庭酒而宴之 故曰庭酒村 今人云庭音村播磨国宍禾郡にある庭音村の地名由来譚である。大神(播磨国宍粟郡の伊和神社。祭神は大巳貴命)に献じた
粮というのは米とみていいだろう。供えた米なので蒸米だったかも。それが湿気てカビた。なのでこれで酒を醸した、と。
これをもって、蒸米に粒のままカビを繁殖させる日本式麹は日本で編み出されたのだ、という説がある。確かにそうかもしれない。
しかし、これでは庭酒村の人が米に生えたカビは酒造りに使える、と知っていただけの話ともとれる。裏返せばこの時代にバラ麹を使った米の醸造法が知られていたことになる。
同じ頃、大隅国風土記では口噛み酒を造っていた。畿内に近い播磨と南九州ではずいぶん様相が異なっていたことはわかる。
風土記は、奈良時代のこと。奈良時代には、大いに酒がのまれていた。正倉院文書に清酒、濁酒、糟、粉酒などの文言がみえる。
「写経司解案」という文書があって、中身は写経生の待遇改善の要求である。その中に「三日に一度酒を呑ませろ」というのがある。
そして、平安時代の延喜式には、14種類の酒が列記されているという。その酒を孫引きさせてもらえば、御井酒、御酒、三種の糟(三淋)、醴(桃の節句の白酒に同じ)、擣糟 頓酒、熟酒、粉酒、汁糟、搗糟、黒貴、白貴。
柳生健吉「酒づくり談義」によれば、それぞれに蒸米、麹、酒造用水の配合歩合、そして醸造操作が異なるという。つまり、14種の酒が造り分けられていたということである。
この時代の辞書である和名抄には、醰酒、醨、醇酒、酎酒、醪、醴の記載があるらしい。
これらの酒の解明は醸造学者らによってかなり進んでいるが、全てが分かったわけではないだろう。
これまでも、日本では様々な方法で米の酒が醸されてきた。コノハナサクヤの天甜酒。スクナヒコナが伝えイクヒさんが醸した酒。クマソのタケルを酔いつぶした醇酒。国樔人の醴酒。ススコリ屋さんが百済から伝えた醸造法。だがそれらが、この奈良、平安時代の酒造方にどれだけ繋がっているのかはわからない。そして、現在の日本酒にその技術の破片が残されているのかどうか。
このあとも、日本酒の醸造法はどんどん発展していく。諸白(精白米)の使用。酛(酒母)を造る技術の向上。火入れによる殺菌。そして現在の醸造法の根幹を成す「三段仕込み」を編み出したこと。現在では、吟醸酒というバケモノみたいな酒も誕生している。
そうなると、なかなか古代の日本酒というものを想像しにくくなる。もしかしたら甘酒や味醂などのほうが近しいのかもしれない。
しかし、連綿と続いてきた歴史というものは紛れもなくある。想像力を逞しく保ちつつ、神話や上代に思いを馳せながら、幾久しく「われ酔ひにけり」と呑もうと思う。古代の酒の話はこのくらいにして。
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くちかみ酒
こんなにかわいいコメントが僕のブログにつくことはまず無いので(笑)、最初はいたずらかと思ってしまいました。誠に申し訳ない。m(_ _;)m
またどうぞよろしくお願いします。
浪漫に浸りながら、美酒に酔いたいです。
草薙剣はスサノオからヤマトタケルへと渡ったわけですが、どちらも戦法として「酔ったところをやっつける」作戦をとりますな。美酒に酔うのにも注意が必要…てな話は無粋ですね(汗)。