凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも薩摩が琉球に侵攻していなかったら

2006年05月10日 | 歴史「if」
 沖縄を訪れるたびに、この島々の美しさと文化の素晴らしさを思う。何度足を運んでも心が洗われて帰る。島の人々の矜持、ホスピタリティ、そして平和への強い願いをひしひしと感じて、前を向く気持ちになれる。
 この島が、何故犠牲にならなくてはならなかったのか。第二次世界大戦の沖縄焦土作戦。20万人の死者のうち12万人は住民と言われ、掌握出来ていないだけでもっと多いとも言われる。被害は計り知れない。そして今も、一等地は米軍の占領下にある。例の9.11の時は、沖縄にもかなりの緊張が走った。
 もともとこの島は、平和の島であったはずなのに。

 沖縄の歴史は苦難の歴史である。
 日本との関わりで見ていくと、7世紀以降、日本に律令国家が成立した頃、書紀には奄美、信覚しがく球美くみが入貢したとある。信覚は石垣島、球美は久米島のことであろう。日本との関わり合いはこの頃から正史に現われる。白村江以降、遣唐使船が朝鮮経由でなく南方航路をとるようになって、中継地としての役割を果たしたようだが、菅原道真の遣唐使廃止によって日本史書からしばらく消える。
 中国との関わりはもっと深い。沖縄からは、紀元前の燕の古銭、漢代のやじり、銭が出土している。随書に「流求(琉球)国伝」が現われる。この時点では、沖縄が中国寄りなのか日本寄りなのかはよくわからない。
 宋の外国貿易振興政策により、海外交易ネットワークの拠点としての役割を担うようになり、また明の時代には、明朝の海禁政策~朝貢体制の中で、沖縄は特権的地位を占め(一時は進貢回数、貢期の制限がなかった)、10年に一度しか朝貢出来なかった日本や、その他東南アジアの国々が沖縄を通じて中国物資を得るという中継貿易の担い手として隆盛を極めた。
 この頃の沖縄の歴史はあまり浸透しておらず、本土では知る人は少ない。按司(地方豪族)の時代、北山・中山・南山の三山時代、そして尚巴志による統一と琉球王国の形成。固有の歴史がある。護佐丸や阿麻和利、そして第二尚氏の誕生など興味深い流れは歴史好きにはたまらない世界なのだが、端折る。
 「万国津梁の鐘」という文化財が沖縄には残る。

 此二中間湧出之蓬莱島也 以舟楫為万国之津梁 異産至宝充満十方刹 地靈人物遠扇和夏之仁風
 ここは明と日本の間にある蓬莱の島だ。船を漕いで万国の架け橋となり、異国の産物や珍しき宝は国に満ち、優れた人は出でて遠く日本と中国の仁風をあおぐ…。

 なんとも雄大ではないか。世界の架け橋たらんとする気宇壮大な国の息吹が伝わる。統一琉球王国は刀狩を実施し、平和を標榜し外交と貿易でヨーロッパにまでその名を知られるようになった。琉球の黄金時代であったろう。

 ただ、大航海時代のポルトガルなどの進出により、琉球貿易にも衰えが見え始める。国力が弱り沖縄は建て直しを模索し始めるが、そのさなか、日本の薩摩藩が琉球に侵攻するのだ。
 戦国時代、薩摩の島津氏は九州一円を平定する勢いであったが、秀吉に屈し、さらに総無事令によって北進は出来なくなった。かわりに目をつけたのが平和の貿易立国沖縄である。薩摩は南進政策を始める。
 1602年、伊達領に琉球船漂着。家康は途絶えている明との国交回復の仲介となるよう期待して丁重に護送した。
 1604年、島津義久は時の琉球王尚寧に、送還を謝する礼使を送れと催促する。薩摩が礼使を送らせることによって、琉球が薩摩の「付属国」であることを示そうとしたのだ。琉球はそれは認められない。琉球は明の冊封体制下にある独立国なのだ。
 1605年、琉球進貢船が平戸に漂着、帰国させ、松浦氏も礼使を求めた。家康、そして松浦氏と琉球に介入を始めたことで、薩摩に焦りが生じる。しかし明との関係からまだ琉球には手が出せずにいた。
 1606年、薩摩に隠し知行が発覚。つまり年貢の徴収が困難な荒廃状況にある知行地があるということ。当然財政難となる。石高が足りず困った薩摩は、いよいよ標的を琉球に向ける(自国でなんとかしろよ)。
 1607年、日朝国交回復。「唐入り」の後遺症が消え、朝鮮そして中国の動向を警戒せずともよい状況となってきた。
 1609年、ついに薩摩が琉球に侵攻した。武勇をもって知られた薩摩に武器を持たない平和の国琉球では、既に勝敗は明らか。

 このあたりの歴史は、かつて大河ドラマ「琉球の風」で一部放映されたが、あまり視聴率がよくなかったと聞く(谷村御大の主題歌なのに)。沖縄以外の地域では身近でなかったためだろう。
 こうして薩摩は琉球王国を実質的に支配下におく訳だが、ほとんど無抵抗の琉球を制圧した薩摩に、僕はあまりいい感情を持たない。明の軍事庇護下にあって軍隊を放棄していた琉球は日米安保下で憲法九条を持つ日本を連想させる。なので日本も軍隊を、という声も聞こえてきそうだが、この場合は明らかに薩摩が悪い。隠し知行を自分で処理できずに他所で充当するとは卑怯かと…(あまり言うと薩摩ファンが怒鳴ってきそうだが、やはりこういうやり方は肯定出来ない)。
 薩摩は、喜界、大島、徳之島、沖永良部、与論を占領し直轄地として(今だにこれらの島々は鹿児島県だ 怒)、沖縄本島以南を琉球王府領とした。これはつまりカムフラージュである。琉球を形式上冊封体制の独立国として明との交易の窓口として、薩摩は隠れて旨みを吸い取ろうとするコンタンである。ずるい。そしてその琉球王国には重税を課し、徹底して搾り取った。この搾り取った税による財力が明治維新の原動力となったわけであるから、明治維新の薩摩藩の活躍も少しは割り引いて考えたくなる僕なのである。もしも万国津梁の琉球王国が無ければ、薩摩藩は明治維新の主役たり得なかった可能性もあるのだ。

 このあと、薩摩藩は明治政府の主役となり、琉球に二度目の苦難を与える。それはもちろん「琉球処分」である。
 長くなったので次回に続く。少し極端に書いていることもあり異論はおっしゃっていただいて結構です。骨子は間違っていないと思いますが。


コメント (4)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 古酒(くーす)の深遠なる世界 | トップ | もしも…番外編 沖縄の歴史そ... »

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
琉球の風 (jasmintea)
2006-05-12 21:37:51
琉球の風、すごく面白かったです。

あの年は琉球の風と炎立つの2本だてで琉球の風が半年、炎立つの経清編が4ヶ月清衡編が3ヶ月秀衡・泰衡編が2ヶ月で変則的でしたが

今までの大河にはない斬新な作りで無知で何も知らなかった沖縄と陸奥の歴史を教えてもらいました。



確かに、薩摩の維新回天の原動力は琉球の経済力&龍馬ですよね♪



でも明治維新以降の琉球の歴史は太平洋戦争の時しか知りません。

凛太郎さんblogで勉強させて頂きますヨロシク
返信する
でも沖縄テーマじゃ半年しかやらないのね (凛太郎)
2006-05-12 23:37:28
僕は大河ドラマを「草燃える」以来見なくなっていましたが、「琉球の風」は無理してVTRを録ってでも見ました。尚寧王や謝名親方がどう扱われているかが気になったからでしたが。沖縄の歴史ファンとして、納得出来たかと言えばちょっと首を傾げざるを得ませんでしたが、少しでもこのドラマで知ってほしいことが多かったので小異はよしとせざるを得ないでしょう。



続きをアップしますが、勉強になるような内容じゃないのですね(汗)。ちょっと感情が入ってしまいまして。いかんのぉ。
返信する
琉球民国 (ロキュータス)
2011-12-07 19:51:19
琉球民国 首都 首里
返信する
>ロキュータスさん (凛太郎)
2011-12-08 05:17:16
ちょっと意味が分かりかねます…。
返信する

コメントを投稿

歴史「if」」カテゴリの最新記事