凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも…番外編 沖縄の歴史その後

2006年05月12日 | 歴史「if」
 前回からの続き。

 明治維新の成立後、1871年廃藩置県を実施した日本政府は、琉球を鹿児島県の管轄下に置く。中国と日本のグレーゾーンに存在するとは言え、琉球は独立国であるはずなのに。
 1872年、日本政府は琉球王国を一方的に廃止して琉球藩を設置した。これは琉球に了解なしの抜き打ちであった。日本政府は維新慶賀の派遣使節を琉球に要求した。琉球はかつての「江戸上がり」と言われた琉球の江戸幕府への使節と同様に理解し上表文を作成したが、これを鹿児島県権典事右松五助が添削、「琉球国中山王尚泰」を「琉球尚泰」に、その他の親方うえーかたなどの位階名なども省いた。そして王府にその意図を知らせず、琉球を勝手に日本政府直轄とした。ひどい話である。
 清はこの日本に反発、琉球の領有権を主張した。日本は琉球領有の正当化のため、1874年に台湾出兵を行ない、琉球を日本の領土であるとした。1875年、薩摩出身の大久保利通は琉球の独立などお構いなしにどんどんと既成事実を積み重ねていく。やったことは、中国への進貢禁止、冊封受け入れ差し止め(外交権停止)、日本軍駐留、日本の国内法による一元的内国化(司法権接収)である。軍事力を背景とした植民地化政策である。大久保主導で進められたこれらの政策は根本が薩摩の侵攻となんら変わることがない。
 1879年、西南戦争も終結した日本政府はついに「琉球処分」を断行する。「統合」ではなく「処分」なのである。政府は軍隊並びに警官を派遣して琉球藩の廃止を宣言し、鹿児島県に編入(後に沖縄県を設置)した。王府の首里城からの退去、藩主(琉球国王)の上京、土地人民の引渡し(版籍奉還ということ)を強行する。こうして、ついに琉球王国は滅亡した。

 ここまでくれば「薩摩が」などと言うつもりは僕にはもちろんない。日本政府がやったことである。薩摩が隠し知行などから南進して琉球に侵攻しなかったら、とは考えるが(歴史の分岐点ではあったが)、ここに至って日本は万国津梁の平和の国、琉球王国を滅ぼしたのだ。
 しかしながら、それでも沖縄が日本の一部となったことで幸せが訪れるのなら、独立国の矜持は別として、終りよければ全てよしとも言える。しかし全然終りが良くないので「ひどいこと」なのである。
 日本政府は沖縄を「植民地」としか捉えていなかった。清国がこのことに反発し領有権問題を提示した際、日本は石垣島や西表島などの先島諸島を割譲して収めようとしている。日本の沖縄への認識はその程度のものだったのだ。これは結局合意に至らず日清戦争まで発展してしまったが。
 また、日本は沖縄に対し、急激な変革は反発もあると考え「旧慣温存策」をとり徐々に日本化する方針で臨んだが、そのために旧来の人頭税(薩摩支配以来の過酷な税)が残ったり、また逆に1889年に施行された衆議院議員選挙の選挙権は与えられなかった。なんということか。また、皇民化政策として「標準語励行運動」が行われ、方言札(標準語奨励のため学校で行われた罰。沖縄方言を禁じ、方言を使うと、次の違反者が出るまでみせしめの札を首から吊るすことを命じられた)というものまであった。朝鮮や台湾を併合した際に日本語を強要したのと同じ文化破壊行為である。

 このように沖縄は日本に振り回される歴史を歩まざるを得なかった。その極めつけは、あの沖縄戦である。
 ここまで来ると政治論のようにもなるし反発も予想されるので筆が鈍る。お前に何がわかるとも言われるだろう。がしかし…。
 1945年4月1日、アメリカ軍本島上陸。ただし日本軍は強い反撃をしなかった。米軍は西海岸から2日で東海岸へ。本島は分断し20日程で北部制圧。このような簡単な上陸には意図があったと言われる。米軍を本島に引き入れて戦いを長期化させ、本土攻撃を遅らせ、米軍の犠牲をより多くして本土決戦を有利に進めるための作戦であると。事実なら沖縄は捨て石にされたのだ。
 その結果、住民を巻き込んだ壮絶な地上戦が展開される。5月に首里占領。しかし壊滅状態の日本軍はまだ降伏せず南部摩文仁に司令部を移動。多くの住民が避難していた南部にわざわざ軍が移動し、結果軍人を上回る住民の犠牲(4人に1人とも3人に1人とも言われる)を生んだのだ。日本軍による避難民の壕からの追い出しや食糧強奪、また沖縄方言が聞き取れないことからのスパイ容疑などで住民虐殺がおこなわれたとも言われる。簡単に書いてしまっているが、これほど悲惨で非道なことはない。

 沖縄の苦難はまだ続く。戦争終結後も沖縄は米軍の占領下に置かれた。サンフランシスコ講和条約が締結されて後も、米軍の沖縄占領は続いた。日本はかつて、清国と揉めた際に先島諸島を割譲しようとしたが、今回も日本は沖縄を犠牲にして平和条約を結んだ。沖縄は朝鮮戦争、そしてベトナム戦争の最前線として危険に晒され続けた。その沖縄の米軍基地は「銃剣とブルドーザー」によって強制接収された私有地が多くを占める。農地を取り上げられた人々は生きる糧を失った。

 1972年、沖縄の日本返還がなされたが、米軍基地はそのまま残されてしまった。
 沖縄の面積は日本の1/170しかない。その中に日本全体の7割の米軍基地がある。日本本土の米軍基地は旧日本軍が所有していた土地が中心だが、沖縄は私有地が多い。土地を奪われた人たちがまだまだ多い。土地を収容されているということは、産業発展の妨げ、都市開発の遅れになっていることは明らかである。失業率の高さもここに由来している。そして空域制限、水域制限もなされている。あの低空で飛ぶ旅客機を見ると、様々な足枷がまだまだ強いことに気がつく。

 まず理解から始めなくてはいけないだろう。かつて平和と礼節の国だった沖縄が、今も戦争に振り回されている。なんでこんなことになったんだ?
 「沖縄独立論」が論議されて久しい。沖縄はかつてもちろん独立国であり、琉球処分(独立を奪われた日)から日本時代、占領時代にも常に声が上がる繰り返され続けた話である。現在も、居酒屋の酔談から出版まで連綿と議論が続く。独立した場合の経済や外交シュミレーションを考察している人もいる。
 こんな議論には口を挟める道理もないし、感情論を完全に理解するのは無理だろう。ただ、現状理解だけはしておきたいと思う。現在の基地依存経済は決して望んでそうなったものではないこと。コザ暴動や少女レイプ事件、ヘリ墜落は氷山の一角であること。

 未だにifの結論は出ないままである。

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2 コメント

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Unknown (eba)
2006-05-18 20:25:41
2回ともおもしろく拝読しました。ぼくの専門は近世北方史で、アイヌも絡んできます。蝦夷地と琉球はよく比較されますので、琉球王国史の本も何冊か読んだことがあります。



近代の先島諸島の分割案ですが、それは歴史的に見てあそこは琉球王国の版図では元々なかったからではないでしょうか。



尚氏が統一すると、先島諸島は琉球王国の属領的地位になっていますよね、朝貢みたいなことをしていたと思います。だけど1500年、石垣島の擦司オヤケオカハチが琉球への朝貢を拒否したので、ときの尚真王は「征討軍」を派兵しました。同じ先島諸島の宮古島は琉球への統合を望んでいたので、琉球軍に味方してオヤケオカハチと戦って討ち取り、これで先島諸島は「琉球」となったのです。でも与那国島では半独立の状態がしばらく続いたようです。



薩摩が琉球に進攻した後、琉球は薩摩の支配下におかれましたけど、尚氏は先島諸島に過酷な人頭税を課し、それを薩摩藩の税に充てたようです。最近では、薩摩だけではなく、これで尚氏も潤っていたという研究があるようです。先島では子どもを処分した遺稿があります。



先島は琉球王国に対して怨みを抱いているでしょう。

大河ドラマでも、「琉球の役人」の啓泰が、森光子扮するイソバに捉えられ「琉球の奴らにどんなひどい目にあわされたか」と言われて「自分達は薩摩と同じことをしてきたのか」と悩む話がありましたね。

 でも今日の沖縄県の範囲が、みんな「琉球」と認識されているというのは、問題だと感じます。



 歴史をみていると正に「弱肉強食」だなと思います。

 
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>ebaさん (凛太郎)
2006-05-19 11:29:38
ありがとうございますm(_ _;)m

この記事においては、ちょっと極端に書いています。最終的に書きたいことに繋げるため、先島のことは素通りしています。本当はおっしゃるとおりなんですけれどもね。

かつて、先島を僕もずいぶん歩きました。過酷な搾取の足跡。クブラバリ、トゥング田、人頭税の石。今でもオヤケアカハチは英雄であり、そういった面からも尚氏琉球に対する感情が現在に至るまで連綿と続いているのを感じます。

今記事ではそこを書き出すと止まらないために省いたのですが、もしかしたらあまりに一面的な見方ではないかと批判を受けるのではと思っていました。やっぱり…(汗)。

琉球を「平和の国」と強調しましたが、もちろん三山時代のこと、尚巴志による統一、尚真時代の侵攻の歴史があります。ただ、そこで歴史が止まっていればという思いもないではありません。弱肉強食は歴史の流れかもしれませんが、そういう循環を断ち切る方向に向かうのが理想であり、それが現在の政治の考え方にも繋がるのではないかと思えます。

しかしとりあえず意図的に省いた部分があるのは間違いありません。このebaさんのコメントをもって、補足とさせていただければと思います。ごめんなさい。



さて…。

いろいろなことがありますが、先島の分割案については、やはり日本政府の思惑ではなかったかと僕は思っています。「その程度にしか見ていなかった」のではないかと。

また遡りますが、僕がいつも思うのは、オヤケアカハチの時の宮古島の対応です。これも「if」を考えてみたい欲求にかられます。この時の宮古島は、清原光頼だったのか安倍富忠だったのか。そんなことをぼんやりと考えます。



話が飛んで申し訳ないのですが、近世北方史というのはシャクシャインくらいの時代からなのでしょうか? 僕は沖縄のウタキやグスクを歩くのも好きですが、チャシにも惹かれます。ただチャシはわかりにくいのですけれどもね(汗)。

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