凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

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僕の旅 宮崎県

2009年01月02日 | 都道府県見て歩き
 宮崎。今は名物知事のおかげでブレイクしているが、かつては新婚旅行のメッカとして知られていた。まだ外貨規制もあった昭和30年代、海外旅行など高嶺の花であり、沖縄も占領下にあり、宮崎は誰もが行くことが可能な「南国」だった。島津貴子さんが新婚旅行で訪れたことが追い風となり、ロイヤルな雰囲気も獲得した。ことに日南海岸は、鵜戸神宮、青島、堀切峠と景勝地が続き、フェニックスなど亜熱帯植物が繁茂する楽園。冬でも暖かい。そんなイメージが人々の足を向けさせていた。その希少価値は海外旅行に出やすくなった時代を迎えて少し陰りを見せたかもしれないが、僕が初めて宮崎を訪れた四半世紀ほど前にはまだ生きていたと言ってもいい。
 晴れわたる美しの国、宮崎。僕もそれを楽しみにしていた。だが、僕が最初に宮崎に足を踏み入れた時は、台風が直撃するさなかだった。

 あいも変わらず自転車旅行の話だが、この時の旅行は台風に悩まされていた。九州を反時計回りに走っていた僕は、鹿児島県内にもう一週間も居た。もちろん一箇所に留まっていたわけではなく、最南端の大隈半島佐多岬や、指宿や桜島など転々としていたわけなのだけれども、台風のせいで停滞も余儀なくされていた。自転車は雨風には弱いのだ。
 台風情報はあちこちで確認していたつもりだったのだけれど、野宿などもしているため少し天気予報を見損ねていた。二つほど大きな台風が通過し、それを鹿児島でやりすごした僕は、もう大丈夫だろうと宮崎に向けてペダルを踏んだ。実はその時の台風は三連続して日本を襲い、残されたもうひとつが刻々と近づいていたのを僕は全く知らずにいた。
 鹿児島の垂水、鹿屋と走るうちにどんどん雲行きが怪しくなり、風が強く吹き出した。そこで止めればいいものを、何故か僕は意地になって走り続けた。志布志に差し掛かる頃には風雨が強くなり、徐々に前方確認が出来なくなるほどに。合羽など役に立たず全身びっしょり。身の危険を感じるほどだったが、なんだかここまで酷いとヤケクソになってしまい(若かった)、コノヤロウ根性で駆け抜けた。そして宮崎の県境へたどり着いたのだが、雨でカメラが出せず(当時県境の標識は記念に必ず撮影していた)往生したことが記憶にある。当初予定では都井岬へ行き(「岬めぐり」の舞台と言われていた)野生の馬と戯れようと思っていたのだがそれどころではない。そのまま串間を過ぎて、日南海岸YHに逃げ込んだ。
 僕は翌日、さすがに体調を崩してしまいまた停滞。このことが、九州一周で大分県をすっ飛ばす原因となってしまった(→大分の旅)。何もすることのない昼、高校野球中継を見ていた。PL学園が東海大山形と対戦し、PLが29点も取り圧勝、最後には投手・清原まで飛び出した伝説の試合を観戦した。なのでこの日が1985年8月14日であると正確に記することが出来る。
 
 宮崎と関係ない話ばかりで恐縮だが、その翌日に走った、晴れ渡った日南海岸はさすがに美しかった。もちろん鵜戸神宮や青島、鬼の洗濯板等の景勝地を堪能し、サボテン公園で、当時旅行者の間で日本三大アイスクリームのひとつと言われていたサボテンアイスクリームを食べた(あとふたつは北海道弟子屈の硫黄アイスと信州安曇野のわさびアイス)。味の感想は書かなくてもいいだろう。
 この日投宿した宮崎市内のYHで、当時飲酒禁止の施設だったのに同宿のヤローどもとこっそり宿を抜け出し、怪しげな酒を買い込んで、別部屋の女の子たちも巻き込んで開いた宴会もまた忘れられぬ楽しい思い出なのだが、それもまた宮崎と関係ある話ではない。

 もちろんその後も宮崎には数度訪れている。呑み食いの話でも書こう。
 今は名物知事のおかげで宮崎の名産品は全国規模で知られている。なんでもマンゴーがすごい人気なのだそうな。昔は知られていたのは日向夏くらいだったような。
 これも20年くらい前の話になってしまうのだが、宮崎の街へ再びやってきたときに、地鶏の炭火焼を食べてみようと思った。某食通本で読んだことがきっかけだったのだが(森須滋郎さんの本だったと思うのだが記憶が…)、写真が載せられている書籍ではなかったために、鶏の腿の炙り焼きだろうと単純に思っていた。ところが、カウンターで調理を見ていると、鶏肉を一口大かもう少し小さく切り分けたものを直火で盛大に燃やしているではないか。あれには驚いた。「燃やす」とは過激な言い方だがそうとしか見えない。炎が大きい。そして炭化したかのように真っ黒になった鶏の欠片の山を「おまちどうさま」と供された。なんだこれは。
 しかし口に運ぶとこれがいける。鶏はさすがに地鶏であって歯応えが強烈であり、真っ黒焦げかと思われたものの中はちょうどいい火の通し具合になっている。さすがに煙臭は強いが、簡易燻し鶏のようにも思えた。鶏の力に自信がないと出来ない調理法だろう。ブロイラーでやれば食べられたものではないに違いない。そしてこれは実に焼酎に合う。
 ところで宮崎の焼酎の代表と言えば、そば焼酎だとずっと思っていた。類型的に、大分は麦、熊本は米、鹿児島は芋と言うように。ただ、歴史が長いのは宮崎においては芋らしい。「雲海」のイメージが強すぎるのか。
 鶏に戻るが、宮崎で鶏と言えばチキン南蛮だろう。鶏を揚げたものを甘酢にくぐらせタルタルソースで食べるこの料理は宮崎発祥であり、今やファミレスや社員食堂にも登場する。全国区と言える。美味い。
 そのうちに「冷や汁」も全国区になるかもしれない。味噌を焼き、出し汁でのばして白身魚を焼いてほぐし入れ、シソやキュウリなどの薬味を入れて冷やし、麦飯にかけて食べるこの郷土料理はたまらない。夏には我が家でも時々やる。
 宮崎はうどんも美味い。郷土料理は他にもたくさんある。僕がまだ未食で今一番食べたいのは肉巻おにぎりだ。これ、美味そうなんですよね。次に宮崎に行けば必ず食べるぞ。

 宮崎はまた、歴史の国でもある。例えば飫肥。堀割に鯉が泳ぐ実に美しい城下町である。この地を治めた伊東氏は、あの伊豆の藤原南家流伊東氏である。例の「曾我兄弟の仇討ち」で知られる工藤祐経の嫡男祐時が、この地の地頭職を賜ったのが始まりであり、また後、足利時代に伊東祐持が実際に下向して来て、その後日向伊東氏となり土着。島津氏との抗争を経て、江戸時代には所領安堵され飫肥藩として続いた。そしてこの一族からはあの伊東マンショが出ている。面白い。こういう目で飫肥を歩くと実に感慨深いが、町では小村寿太郎の出身地としての方がクローズアップされているようだった。
 さて、ここには名物「飫肥天」がある。簡単に言えばさつま揚げの一種なのだが、豆腐を混ぜ込んだ実に柔らかい仕上がりで、食べると甘い。黒砂糖が入っているらしい。僕は練り物大好き人間なので、揚げたてを幾つも頬張った。ふんわりとして美味い。これも焼酎だ。

 話がずれた。宮崎は歴史が古い。西都原古墳群などを見ると相当の歴史の古さを感じるが、そもそも日向国というのは、天孫降臨の地であるのだ。日本で最も古い歴史が息づく。
 前述の日南海岸だって、海彦山彦神話と関わる。山彦が豊玉姫と帰ってきたのは青島だ。どこにでも神話が転がっている。そして、その根本であるニニギノミコトがアマテラスの指令によって葦原中国を治めるべく天から降り立ったその場所は、高千穂の峰である。これは日向国とされている。
 ところが、宮崎には高千穂という場所が二つあるのだ。だから話はややこしい。どっちが本当の天孫降臨の場所だよ、と詮索などするだけ野暮というものではあるが。何よりどちらも素晴らしい場所であるのだから。
 ひとつの高千穂は、渓谷である。県北部に存する。
 この地は、まことに神さびた場所だ。中でも高千穂峡は僕が説明するまでもない高名な場所だろう。断崖の間を流れる清水。真名井の滝。差し込む光が織りなす聖なる幻想的空間。誰しも神を感じるだろう。僕の妻は、この地を日本一美しい風景であると断言して譲らない。
 近くには、アマテラスが岩戸に隠れて世界に暗黒が満ちたとき、八百万の神が善後策を相談したと言われる天安河原がある。そもそもこれは高天原の話であって何故地上にそのような場所が、とつい思ってしまうがそんなことは措いてしまおう。ここもまた神々しさを感じる場所なのだから。そして何と、天岩戸もこの地に現存するのである。これは天岩戸神社の御神体であり、みだりに拝観は出来ないが社務所に申し込めば拝謁させてくれる。
 高千穂神社では毎夜、お神楽が催される。そして神話が生き続ける。

 もうひとつの高千穂は、県南部にある。鹿児島との県境、霧島連峰に存する高千穂峰である。標高1574m。ある夏、僕と女房はこの山に登った。
 これは、何も天孫降臨の場所を一目見てみたい、と思ったわけではない。坂本龍馬はんの足跡を辿ろうとしたのだ。龍馬はんは寺田屋襲撃事件のあとお龍さんと夫婦になり、日本最初の新婚旅行と言われる旅の途中、この高千穂峰に登り、山頂に突き刺さる天の逆鉾を引っこ抜いたという逸話がある。その鉾を見てみたい。
 ルートはいくつかあるが、僕たちは最も易しい鹿児島側から登った。霧島神宮の傍、ビジターセンターのある高千穂河原の駐車場で一泊(Pキャンです)、夜明けとともに歩き出した。
 登山口は晴れているのである。だが、遥か見渡す山にはどうもガスがかかり、山頂は見えない。やっぱり「霧」島なのだな。しかしせっかく来たのに止めるわけにもいかない。トボトボと歩いていると、古宮址(かつての霧島神宮跡地)から登山道に入る頃にはもう視界が悪くなってきた。
 登山道は悪路である。火山なのだものしょうがないと言えるが、赤茶けた火山礫がゴロゴロで砂塵が積もり非常に足場が悪い。しかもどんどん霧が深くなる。これは遭難するかもしれんぞ、とビビりながら、慎重に歩いた。斜面は急になり、火山のせいで木が全然生えていないのでどこが登山道か分からなくなった。危険だ。しかし、引き返す道も既に霧の中。むしろ登った方が良いと判断して(良い子は真似してはいけないよ)、ガレ場を這いずるように前進した。夜明けと共に出てきているので他に登山客の姿は無い。
 不安一杯で登ること一時間半くらいだろうか。なんとか山頂に到着した。
 そこには、龍馬はんが乙女姉さんに手紙で図解して見せた逆鉾がにょっきりと立っていた。おおお。これだこれ。誰も回りに人が居ないので、僕も龍馬はんにならって引っこ抜いてみようかとも一瞬考えたが思いとどまった(当たり前です御神体なんだぞ龍馬はんが不敬なのだ)。しかし、感慨はある。ここまで来ましたぜ。
 しかし、この山は火山のため裸山である。夏ではあるが、吹きっ晒しでどんどん身体が冷えてきた。ヤバい。早く下山した方がいい。
 そこへ、別の登山者がやってこられた。実に軽装で、髭が印象的な、まるで仙人のような風貌の方だった。聞けば、毎日登っておられるという(!)。なるほどここは霊峰なのだな。
 山小屋の鍵をお持ちだったので、入れていただいた。ストーブで身体を温める。生き返る心地だ。妻は仙人さんに、貴方が神に見えます、と言っている。僕も同感。
 そうこうしているうちに登山客も増えてきた。まだ霧は晴れないが、僕らも旅行者、先があるので失礼することにして、来た道を降り始めた。ガレ場は足が滑るが、もちろん降りる方が楽。ただ、登りの時より風が強い。僕らは慎重に、落石をせぬよう歩を選んでいた。
 すると、一陣の風とともに急に霧が晴れ、視界が開けた。見ると、僕らが歩いているのは巨大なアリ地獄の縁なのだった。つまり火山口、御鉢だ。デカい。そして振り向き逆方向を見れば、霧島連山が一望ではないか。
 その風景を、何と表現すればいいのだろう。少なくとも日本では今まで見たことのない風景。岩壁連なる北アルプスとも、富士山とも、北海道の旭岳とも違う。樹木の確認できない荒涼とした山々は、日本の山というよりむしろ、日本どころか月とか火星とかを連想した方が近いような気もした。そしてこの雄大さも、また未経験である。天地創造の混沌というのは、もしかしたらこういう光景ではないのか。 
 そこに至って僕は思いついた。そうか、天孫降臨の地なんだ、と。そりゃ神話も伝わるはずだよ。この雄大な風景を目前にすれば。
 霧の晴れ間は僅かな時間しか保たなかった。感動で泣きそうになっている妻を後ろに、また荒れた登山道を僕らは降り始めた。

 
 

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