凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

僕の旅 鹿児島県2

2009年04月29日 | 都道府県見て歩き
 鹿児島県は広い。沖縄本島に接する与論島までが鹿児島県。ところが奄美には僕は残念ながら行った事がない。つい沖縄まで行ってしまうためであるが、今後機会は訪れるだろうか。機会と言えば喜界島もあるな(オヤヂ)。
 鹿児島の島々で足を踏み入れたことがあるのは、種子島と屋久島だけである。
 ちょっと旅行記風に書いてみたい。

 ある長い休みの前日の夕方。僕は妻を乗せ、鹿児島に向けて車を走らせた。夜行バスでも一夜で到着するのだから行けないことはないだろう。しかしなかなかにこれは疲れる。今では無理だろう。1000kmくらいあるからなぁ。ほとんど休まず走り続けて朝の屋久島行きフェリー出航にギリギリ間に合う。出航と同時に泥のように眠る。
 屋久島には一度行ってみたかった。若い頃からそう思っていたのだが、機会を逸するうちに世界遺産登録、さらに「もののけ姫」の公開によってかなりメジャーな旅先となり、一度は躊躇したのだが、ここで行っておかないとさらに開発が進み後悔するのではと思い、重い腰を上げたのだ。今から8年くらい前になる。
 フェリーは約4時間で屋久島宮之浦港に入港。曇り空だが、ひと月に35日雨が降ると言われる屋久島では上等だろう。結局この旅では、5日間屋久島に滞在して雨は1日(正確には半日)だけだった。運がいいと言うべきだろう。
 手始めに屋久杉に逢いに行こうと、ヤクスギランドへ。屋久島では樹齢千年以上の天然杉だけを屋久杉と呼び、それ以下は「小杉」である。なんとも豪勢な。ヤクスギランドとはまた遊園地みたいな名称だが、山深い森の中にある大木密集地に歩きやすいように遊歩道を設置した場所である。車を走らせ、標高約1000mまで上る。
 指定園内に入る前に、もう巨木が姿を現す。紀元杉。推定3000歳だ。でかい。そして雄雄しい。高さは20m程か。太い幹の上部には他の植物が着生して、木の上にひとつの庭園があるようだ。バベルの塔か、ラピュタを彷彿とさせる。
 歩き出す。千年杉、仏陀杉、母子杉、天柱杉と屋久杉の中でも巨大なものには名前が付けられている。いずれも原始の風景の中に神々しく聳え立つ。僕は言葉を失っていった。
 車ではるばるやって来ているので、夜はパーキングキャンプとなる。これは正解だった。
 屋久島は、基本的には登山がメインとなる。宿に泊まれば、朝5時に出発して登山口までバスかタクシー。これは大変だ。車で寝起きすれば、登山口に泊まって夜明けと共に行動が可能。非常に有効だった。
 夜は漁港や町の魚屋、スーパーでとれたての魚を購入する。包丁も俎板も持参してきているので、魚をおろし刺身で。名高い首折れ鯖も地元では廉価だ。飛び魚は小骨が多く難渋したが、これも新鮮で美味い。カメノテは味噌汁にする。酒は、屋久島の芋焼酎「三岳」。これを屋久島の天然水で割る。屋久島の水は、山の中の小川や湧き水はほぼ飲料可能。美味い。至福という言葉はこういう場面で使用するのではないか。

 白谷雲水峡へ行く。ここは、弥生杉などの巨木もあるが、渓谷に存する原生林として名高い。照葉樹や常緑樹が混在し、川と豊富な降水によって苔が繁茂し、全てを緑色に覆いつくす。倒れた杉も、岩も木々も皆深緑色を纏う。5時間程度の山歩きだが、全てが湿った場所であり足元はあまり良くない。
 森に深く分け入ると、その緑がさらに色濃くなる。森が生きているのが分かる。幾重にも植物が重なり合い深い静けさを形成する。ただ森が呼吸する音だけ。こんなところは今まで見たことがない。ふと、来てはいけない場所に来てしまったのではと錯覚する。神秘とか神聖とか、そういう言葉では表現しにくい、人を拒絶するかのような深まり。どう例えればいいのだろう。かつて西表島を縦断したときに見た密林とも違う。ここを知れば、他のどこの森林も乾いて見える。それほどウエットな空間。
 その深い緑のクライマックスは、山小屋を過ぎてさらに上ったところに広がる。分かってはいてもやはり驚く。この光景はいったいなんだろう。視界に入る全てのものが濃い緑色で埋めつくされる。深遠な静寂と美。だがその美しさには畏怖感を伴う。
 妻がいつもの赤いキャップをかぶって森の前にぽつねんと立っている。その赤がこの緑だらけの空間に異様なアクセントとなっている。なんだこの色彩は。圧倒的な緑に襲われる。呑み込まれてしまうのではないか。僕はなんだか徐々に怖くなってきた。しかしこの場を離れがたい。
 この場所は、僕たちが訪れて後、「もののけ姫の森」という立て札が立った。宮崎駿氏が映画のモデルにしたのだという。ただそのネームバリューのために、旅行者はこの場所だけを目指してしまうようになり荒廃を誘発し、結果立て札は外されたと聞く。確かに緑が最も濃い場所ではあるが、ここだけを見て引き返すようでは確かにもったいない森であり、賢明な処置だろう。白谷雲水峡にキャッチフレーズなど必要ない。
 その先の辻峠を経て、太鼓岩と呼ばれる景勝地で素晴らしい眺望を満喫し、楠川歩道を経由して引き返す。

 屋久島の象徴と言えば縄文杉だろう。昭和41年に発見されたこの古大木は、推定7000歳とも言われる。屋久島はそれが全てではないが、やはり見に行かざるを得ない。
 その日は縄文杉への表玄関である荒川登山口で車中泊をしていた。バスの終点であり登山客が居なければ人っ子一人居ない深い山の中。夜は恐ろしいほどの静けさだったが、明け方になれば次から次へと車が到着する。みんな縄文杉を見に行くのだ。当時でもこの人出だったのだが、現在ではその頃の三倍も登山客が訪れ年間10万人にもなると言い、車両乗り入れ規制も行われるとの話。
 せっかく登山口で泊まったのに、ゆっくりと朝食を食べていたら多くの人が先に行ってしまった。僕らもそろそろと歩き出す。往復約22kmであり急がずともいいが日が暮れるまでには戻らねばならない。
 ただ登山と言っても、前半はトロッコ軌道を歩く。かつて屋久杉搬出のための森林軌道で大正時代に施設されたものらしい。軌道はまだ現役であり、線路上を歩く。平坦でStand by me気分であるが、これが約8km続く。その先は軌道を離れて本格登山となる。
 ここからは屋久杉も数多く登場する。翁杉を過ぎしばらく行くと、ウィルソン株に到着する。周囲14mという巨大な切株。
 これは、秀吉の命によって伐採されたという。方広寺建立のためと言われる。その方広寺は何年も経たぬ間に倒壊し焼失したが、切株は今も残っている。内部は空洞化し、祠がある。水が湧いているため中で寝転がるわけにはいかないが、10人くらいなら余裕で寝られる広さに見える。トトロでも大丈夫だろう。
 登山道は整備され、歩くのに苦にはならない。標高を増す毎に、大いなる屋久杉たちが目前に出現する。大王杉が姿を現した。縄文杉発見以前は屋久島最大の杉とされていたかつてのシンボル。その名の通りの威容。仰ぎ見るととてつもなく大きい。
 そして、クライマックスとしての縄文杉の下へ到着。
 この巨木についてはもう言い尽くされているのでそれ以上の言葉を見つけ出せないが、とにかく圧倒的だ。また形がいい。25mもの高さを誇っているのだが、それに負けないほど幹が太いため、いかにもどっしりとしている。他の杉よりも木肌がゴツゴツとしてすらりとしてはいないため、いかにも老木の貫禄がある。なんと言うか、人格を感じさせる。ここは屋久島最大の観光スポットであるためぽつねんと一人で見ることなど叶わないが、一人きりで対峙すれば言葉を発してくれそうな錯覚に陥るだろう。
 心ゆくまで拝謁し、山を降りる。
 
 合間合間に屋久島を観光してまわる。
 屋久島は、一島全てが世界遺産というわけではない。島内のおよそ20%の森林がそのように指定されている。西部林道は、その中で唯一世界遺産の範囲が海岸線まで伸びている場所である。ここはその名の通り林道であり、道も狭く観光バスなどはやってこない。なので、ヤクシカやヤクザルがどんどん下りてくる。ヘタにスピードなど出せない。ゆっくりと動物と戯れながら行く(と言ってもちょっかいを出しては生態系が壊れるので眺めるだけだが)。このあたりは実に峻険な地形で、屋久島の最大の特徴である植生の垂直分布が色濃い場所なのだが、学者ではないのでよくわからない。ただ、ここにはガジュマルなどの亜熱帯植物もいる。沖縄みたいだ。山の中はあれほど杉が勢力を持っていたのに、ここから見上げれば屋久島の特色でもある照葉樹林が繁茂する。垂直分布とはこういうことか。
 いくつか大きな滝もある。大川の滝は実に巨大である。また、千尋の滝の迫力は凄い。あちこち滝は見てきたがこれはその中でも白眉と言っていいだろう。
 フルーツガーデンに寄って果物を食べたり、漁村を歩いたり、栗生浜(どうバカは知ってますね)で遊んだり、楽しいことは山ほどある。また温泉もあちこちに湧く。楠川温泉、大浦温泉、尾之間温泉。日替わりで堪能する。泉質は尾之間が好ましかったが、最も好きだったのは湯泊温泉である。海岸にある露天風呂で、オープンすぎて女性にはどうかと思うが、ぬるめでいつまでも入っていられる。開放感は抜群だ。海岸にある露天風呂は平内海中温泉の方が高名だが、干潮の前後2時間しか入浴できない。潮が満ちれば海中に没してしまう。僕が入ったときには、逃げ遅れた魚たちが茹だっていた。

 そうして疲れをとりながら山歩きを続けていたのだが、妻がとうとうギブアップしてしまった。実はこの時妻はちょっとした病気に罹ってしまっていて体力が続かなかったのだが、それは後に分かった事で、この時はただ疲れが溜まったとしか思わなかった。いかんともし難いので僕は半日だけ自由時間を設定し、一人で登山を敢行した。
 本来、屋久島最高峰(つまり九州最高峰)である宮之浦岳に登るつもりだったのだが、それは丸一日を要してしまうため、目的を屋久島第三峰の黒味岳に切り替えた。これなら、急げば5時間くらいで制覇出来る(これは当時の僕の体力が勝っていたのでこの時間。今なら8時間くらいかかるかも)。
 例によって登山口で泊り、夜明けと共に歩き出す。まだ誰も登山道には居ない。迷わないようにだけ気をつけて駆け足で飛ぶように登る。空気が澄み渡り呼吸が心地いい。
 しばらくすると山小屋が見えてくる。ようやく人の姿があった。誰も居ない山道は多少怖い。この小屋近くに、淀川という清流がある。何故淀川という名称なのか解せない程に美しい川だ。あちこちで川を見たけれども、間違いなく僕の中では美しさ1位。まるで絵のようだ、と書いてしまえば陳腐に過ぎるが、この澄み切った清さをなかなかに表現するのは難しい。もちろん直接すくって喉を潤す。美味い。
 しばらく淡々と山道を歩くと、急に視界が広がる。小花之江河だ。ここは日本最南端の高層湿原である。湿原好きの僕を十分満足させるに足る山上の庭園。少し歩くともうひとつの湿原である花之江河に到着する。
 ここは登山道の分岐点であり、混雑とまではいかずとも他の登山口から来るハイカー達も増えてきた。皆一様に最高峰である宮之浦岳を目指すのだろう。僕もその人々に紛れて登山道を行く。が、しばらくすると黒味岳分岐が。ここで折れるのはどうやら僕だけのようである。一人敢然と登りだす。
 ここからは黙々と登るのみであるが、高山のため木々も姿が減り剥き出しの岩が多くなる。足場はさほど悪くないものの十分な注意が必要となる。堕ちても誰も助けてはくれないだろう。後続のハイカーは居ないようであるし。
 傾斜が厳しくなり、植物も見えなくなった頃、山頂に着いた。標高1831m。山頂は巨大な岩の塊だった。居るのは僕一人。遥か下に先ほど通った花之江河が箱庭のように見える。振り向けば宮之浦岳の威容。口永良部島まで見える。晴れてはいないが霧もなく恵まれた。山頂に一人というのは始めての経験である。天上天下唯我独尊という言葉が何故か浮かぶ。満喫して下山する。
 満足して屋久島を後にする。この後は種子島へと渡る。

 種子島では、うって変わって観光旅行風に行く。
 もちろん種子島には千座の岩屋や馬立の岩屋などの景勝地、マングローブやアコウの大木、坂井の大ソテツなど、宝満神社、たねがしま赤米館と見所には事欠かない。車であるのをいいことに貪欲に観て回ったのだが、この島の目玉はやはり鉄砲と宇宙センターである。
 種子島と言えば鉄砲。鉄砲と言えば種子島。日本の戦国時代の様相を劇的に変え、織田信長、豊臣秀吉に天下を取らしめた当時の最先端の武器。その最新兵器が日本に最初に伝来したのがここ種子島と言われている。言われている、と書いたのは、もしかしたらもう少し以前にも鉄砲が日本に入ってきていた可能性があるからだが、史上ではここが最初であり、大量生産のきっかけとなったのは間違いないだろう。
 その伝来地とされる島の南端門倉岬に立つ。ここに中国のジャンク船が漂着し(漂着ではなくしっかりとした訪問であったかもしれないのだが)、そこに乗り合わせていた三人のポルトガル人が鉄砲を日本に伝えた、ということになっている。
 ところで、南蛮人など日本人にとってはほぼ接触の無かった時代、会話も出来るはずがない。この場の接触は、このあたりの主宰だった西村織部丞と、船に乗り合わせていた明の儒生との間で、筆談でなされた。織部丞に漢文の素養があったということも当時の種子島の民度の高さを伺わせるが、一方の、一般には通訳として解される明の儒生、名を五峰とされるが、この五峰は、「王直」のことだとする説が有力である。
 歴史好きであれば王直という名にピンとこられる方もあると思うが、もしも王直であったとすれば、これは漂着などではなく明確に鉄砲を売り込みに来たのではないかとも想像したりして。
 王直は、いわゆる「倭寇」の大頭目として知られる。倭寇は日本人が海賊化した者と一般には認識されているが、この頃は密貿易者の総称となっており何も日本人ばかりではない。王直は当時の大貿易商であり、長崎の福江島(五島列島)にも屋敷を持っていた。僕も五島に行った際にその屋敷跡を訪ねた事がある。
 海岸へ下りてみる。おそらくこのあたりに船が着き、西村織部と五峰(王直かもしれない)が、砂浜に杖で文字を書いて会話をしたと思うと感慨が深い。僕も流木を拾って砂に「鉄炮如雷光」などと書いては悦に入っていたが、隣で妻はやはり死んだ魚のような目をしている。興味無いかなぁ。
 船は西之表に曳航され、鉄砲が領主の種子島時尭に渡る。そこからこの二挺の鉄砲を複製せんがための研究が始まり、火薬の調合に苦労し、当時日本に無かったネジという螺旋のカラクリを会得するために刀鍛冶八板金兵衛が娘若狭を南蛮人に差し出すという悲劇も伝承として伝わる。
 僕たちも島一番の街である西之表に行き、種子島開発総合センター(鉄砲館)をまず訪れて勉強し、種子島氏墓地、赤尾木城跡、鍛冶屋集落跡、八板金兵衛屋敷跡、若狭の墓などを訪れた。種子島時尭の銅像が立っている。この第14代島主は鉄砲伝来の時にまだ16歳だったと言う。二挺の鉄砲を購入するのに二千両払ったと伝えられる。豪儀と言うか足元を見られたと言うか。ただこの二千両で日本の歴史が変わったことも確かである。というのも、時尭はケチ臭い人物ではなく、その苦労して複製したノウハウを簡単に外部に伝えた。したがって直ぐに紀州の根来衆や堺の商人がこれを学び、近江の国友鍛冶も翌年には生産を始めている。これがもっと隠蔽体質のある大名に伝えられたとしたらどうなったか。また、薩摩島津氏が鉄砲を完全独占していればどうなったか。ifの想像は尽きない。
 
 さて鉄砲はそのくらいとして、種子島宇宙センターへと向かう。日本最大の宇宙開発基地だ。
 ロケットの打ち上げは地球の自転速度をも利用するため赤道に近いほど有利とされる。建設計画時は、日本で最も赤道に近い沖縄や小笠原がまだ日本に返還されておらず、種子島に設置された由。広大な施設のため、車を走らせあちこちの発射場を見て回った。また宇宙科学技術館という施設があり、様々な模型や展示物で日本のロケット開発並びに宇宙について楽しく学習が出来る。
 僕はここに一つの目的があった。
 僕の祖父は模型技師だった。その事は以前にも書いたことがあったが(→広島県の旅)、ここにも祖父が作ったジオラマがあるはずである。しかも、そのジオラマの製作現場を僕は見ている。小学校に上がるか上がらないかくらいの頃、父に連れられて祖父の勤める会社に見学に行った。祖父はその頃定年間近で、おそらく孫に職人としての姿を見せたかったのではないか。
 祖父は、宇宙基地全景の縮尺模型を作っていた。盛り上がった基盤に緑色の粉を撒いて接着させ巧みに山を造形している。

 「何をふりかけてんのん?」
 「これはオガクズを緑色に染めたもんだ」

 そんな会話の記憶が僕の片隅にある。じいさんも死んでずいぶん経った。
 そのじいさんの作品を見るのを楽しみにしていたのだが、施設をずいぶんくまなく見てもそれらしきものが無い。僕は訊ねてみた。宇宙センター全景の模型があると思うのですが…。
 すると、何年か前に外され今は無いとのこと。そうか。確かに30数年前のもので、基地も開発がさらに進み古くなってしまったのだろうな。ぐずぐずせずもっと早くに来れば良かった。じいさんすまん。見損ねてしまったよ。

 そして、心残りはあるものの、充実した屋久島・種子島の旅を僕は終えた。

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2 コメント

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旅のあじわい (アラレ)
2009-05-01 19:29:20
旅に憧れながらも日常に追われている毎日。
凛太郎さんのブログでいつも一緒に旅に出ている気分になります。
屋久島の圧倒的な自然に畏怖する気持ちは普段の生活では感じることの出来ない感覚。
豊さって大画面の液晶テレビでブルーレイDVDで屋久島を観ることではなく自分の足で歩き感じることなんですよね。
大型連休と世間で騒ぐけれど…本当の豊さに触れる人は何人いるんだろう。
凛太郎さんは相方さんと今年はどんな風に吹かれますか?
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>アラレさん (凛太郎)
2009-05-06 17:46:06
僕がやっていることが客観的に見て豊かなことなのかどうかはよく分かりませんけれどもね。自己満足かもしれませんし。ホテルや温泉宿に泊まってゆっくり、もしていませんし豪華食事を味わっているわけでもない。車で寝てメシを自分で作ってるわけですから貧乏旅行の範疇です。なので、価値観が同一でないと賛同は難しいですねー(笑)。
ただ、大画面のTVもいいですけれども(ああいう映像は時として現物よりも美しく撮る。メディアの性能向上と映像技術、撮影者の粘りがなせるワザでしょうねぇ)、五感となれば現地には敵わないのは確かです。それに、現地はどんな大画面よりも大きい(360度ですからね 笑)。
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